− 塩の津・塩津潟の復活 (No.1)−
塩津潟が定着したきた理由「塩津潟」のことを、紫雲寺潟(塩津潟)と( )内に記述したりしているのが現状である。私は、このような(塩津潟)と記述したり、「塩津潟とも言う」という表現は、歴史的に見て 真違いであると考えている。ウソが通用してはいけない。 真実であることが、判明したら正しい内容に訂正すべきである その意味において「塩津潟」だけで世の中に理解され、且つ通用するようになってほしいと考えている。 「塩津潟」が定着してきた理由がいくつかあるが、紙面の都合で省略する。(1)「塩津潟」に関する講演が頻繁@「塩津潟の由来について」 (H6.09.14)->VIDEO 講師 片野徳蔵氏(黒川村元教育長) 主催 外ヶ輪小学校4学年 会場 新発田市生涯学習センター A 「塩津潟と新発田について」 (H6.09.19) 講師 高橋礼弥氏(元新発田市立図書館長) 主催 外ヶ輪小学校4学年 会場 新発田市生涯学習センター B 「塩津潟の変遷」 (H7.03.04) 講師 伊藤國夫 (新発田市立外ヶ輪小学校教諭) 主催 中条町教育委員会生涯学習課 会場 中条町中央公民館 C 「蘇る塩津潟」 (H7.06.24) 講師 伊藤國夫 (新発田市立外ヶ輪小学校教諭) 主催 加治川村郷土史友の会 会場 加治川村「さくら館」 D 「豊浦町と塩津潟のつながり」 (H7.10.26) 講師 伊藤國夫 (新発田市立外ヶ輪小学校教諭) 主催 豊浦町教育委員会生涯学習課 会場 豊浦町中央公民館 E 「蘇れ!都岐沙羅柵」 (H8.03.09) 講師 伊藤國夫 (新発田市立外ヶ輪小学校教諭) 主催 中条町教育委員会生涯学習課 会場 中条町中央公民館 F 「塩の津・塩津潟の復活」 (H8.11.20) 講師 伊藤國夫 (新発田市立外ヶ輪小学校教諭) 主催 中条町教育委員会生涯学習課 会場 中条町中央公民館
このように、平成6年9月から平成8年11月までの短期間に合わせて7回もの講演会が 実施されている。その上に「塩津潟」に直接関係する新発田市・中条町・加治川村・豊浦町と、 各市町村の教育委員会生涯学習課が積極的に取り上げてている。 このことは、特に注目に値することである。 G「塩の津は阿賀北地方が本場」(H10.11.11) 講師 伊藤國夫
H「塩の津・塩津潟の復活」(H11.3.10) 講師 伊藤國夫
I「塩津潟と都岐沙羅柵のロマン」(H12.12.21) 講師 伊藤國夫
各講演のVIDEOはこちら
(2)「塩津潟」が文芸・文集に登場各市町村の文集や文芸に、「塩津潟」に関する内容が多く見られるようになってきている。
@ 文集くろかわ 第13号 「塩にかかわるロマン」 片野徳蔵氏 − 塩谷・塩沢・塩津の由来 − A 中条町郷土機関誌”おくやまのしょう” 第20号 「越国の塩の道」 伊藤國夫 「塩に関わる地名由来」 片野徳蔵氏 − 塩津潟と塩谷・塩沢について − B 郷土誌 第4集 「近世編」 「古川村庄屋 三浦庄衛について」 加治川村文化財調査審議会 C 学級文集「いちょう」 「塩津潟を調べて」 外ヶ輪小学校4年2組 D 私たちの郷土 中条・黒川 「3・4年社会科資料集」 北蒲原郡北部社会科副読本編集委員会 E 研究集録 第43集 「黒川の”塩”の産出についての考察」 伊藤國夫 F 文芸なかじょう 第21号 「史に名高き月さらの」 佐藤悌吉氏 G 文芸しばた 第22号 「正保二年越後絵図の思い出」 伊藤國夫 H やさしい郷土史 「黒川村発展のあゆみ」 片野徳蔵氏 I 文芸しばた 第23号 「新発田藩による塩津潟の干拓」 伊藤國夫このように、各市町村の文芸や文集や専門誌の中に「塩津潟」に関する執筆や 著書が多くなってきている
(3)「越後絵図」が新潟県の有形文化財に指定
新潟日報によれば、「正保越後国絵図は、元禄年間に新発田藩が作成した、現存する国絵図では最古のもの。 本絵図は、高田・長岡・新発田・村上の各藩が作成したが後に新発田藩が写した。 写しであるにもかかわらず正確に合図されているところに当時の地図作成技術の進歩を知ることができる。」と絵図の写真入りで報道している。 また、「正保越後絵図」のことを新潟県教育月報(県教育庁発行)にも詳しく紹介されてある。 この絵図は制作年代の古さ、絵図の大きさ、当時の地形や地名の正確さ、描写技術の高さなどから 歴史的価値の高いものである。(縦5メートル、横10メートル) この越後絵図の中に「塩津潟」と明記しているのである。これは、徳川幕府の三代将軍家光が 幕命によって制作させたものである。由緒ある絵図である。 私が、この越後絵図と最初に出会ったのは、小学5年生の時、文化の日の新発田市立図書館でのことである その時に「塩津潟」という潟名をみつけたのである。その時以来、「塩津潟」について調べ続けて 今日に至っているが、「塩津潟」を立証する資料としては、非常に大きな資料である。 幕府は、地名や地形については何度も質問をしたり、訂正させたりして完成させたもので、当時としては 本当に正確な国絵図である。この国絵図を所有している新発田市は言うに及ばず、新潟県の歴史を新しく 解明するのに、大きな資料となることは間違いのないところである。 正保越後絵図が新潟県の有形文化財に指定されたのは、非常に遅きに期した感はいなめないところであるが それにしても、文化財に指定されたことは、関係者の一人として心より喜んでいるものである。 この絵図による当時の真実を解明する諸活動が、今後益々活発にされることであろう。 国の重要文化財の指定を受けるのは、時間の問題であろうと考えいる。
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