− 塩の津・塩津潟の復活 (No.2)−
(4)新発田の歴史資料展の実施
新潟県の有形文化財に指定された「正保越後絵図」が 新発田市生涯学習センターで一般公開された。(
新発田の歴史資料展 正保越後絵図と新発田藩領の世界として) |
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新潟日報は、「江戸期越後の姿 一目で」と、 平成8年10月23日付けで報道している。 |
新発田市「正保絵図」公開へ
縦5.4メートル:横10メートル 国内最大、色も鮮明『新発田市は、今から350年前の越後の地形、村名などを正確に記録した「正保越後絵図」(新発田市立図書館所蔵)を一般公開した。
# 縦5.4メートル:横10メートルサイズは現存する国絵図では、国内最大といわれ歴史ファンの感心を集めた
正保越後絵図は、正保元年(1645年)に江戸幕府が全国の大名に命じて作らせた国絵図のひとつ。
高田、長岡、新発田、村上の各藩が作った詳細な下絵をもとに同2年に高田藩が完成させた。
幕府に提出した原本を新発田藩が許可を得て模写した。原本は江戸城の火災で消失したが、新発田藩は
この写しを保存し、明治に入って市に寄付した。痛みを防ぐため、公開されたのは、戦後1、2度だけで
県の有形文化財に指定された(平成9年3月) 絵図は張り合わせた和紙に緑、青、黄などの絵の具で山地、河川、湖沼、村名と石高、一里塚を詳細に記入
色や文字は今も鮮明で絵師が相当の時間をかけ、丹念に仕上げたとみられる。
絵図では、信濃川、阿賀野川が河口部で合流していた様子や塩津潟、島見潟、鎌倉潟、鐙潟など、
大小の潟が新潟平野のかなりの部分をしめていたことがある。
同図書館の川瀬勝一郎館長は、『越後の国絵図としては最古で、内容も正確な第一級の歴史資料。
郷土の成り立ちを知る手がかりにしてほしい』と話している。(写真入りで新潟日報掲載)
この越後国絵図には、大きくはっきりと「塩津潟」と明記されている事実を、参観者の多くは
自分の目で確認したところである。
外ヶ輪小学校の6年生は、この「新発田の歴史資料展」を全員参観し、正保越後絵図を見て
「塩津潟」を確認している。4年生の時に「塩津潟の由来について」を片野徳蔵氏からお話を聞いている
学習のまとめに、「塩津潟新聞」を作成した子供たちである。 歴史的にみて非常に価値の高い絵図に記載してある内容を、かってに変更して解釈することは、
学問上殆ど無理なことであろうと考えている。
たとえば、「塩津潟」と記述してあるのに、紫雲寺潟と読ませているのは、不正解である。
大変な誤解をしている。その意味において、紫雲寺潟ではなく真実である「塩津潟」であると、
一刻も早く、新潟県史を訂正すべきであると考えている。 「塩津潟」に限らず、新潟県の歴史の解明に、この「正保越後絵図」は、第一級の歴史資料と
なることを、強く強く願っているものである。
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