塩津潟の由来について

黒川村の塩谷・塩澤で湧出した「塩」を塩の津から送り出した港があることから「塩津潟」となったことは「郷土史概論」の中で大木金平先生が論述しておられる。(詳細については省略) 
塩にかかわるロマン
− 塩沢・塩谷・塩津の由来 − 
 

塩津潟(紫雲寺潟)があった昔、中条町の塩津は、黒川村の塩沢・塩谷から産出した塩の移出港であったことから、塩の津(港)すなわち塩津と言った。また塩谷と塩沢から塩が出たので、塩のつく地名になった。 
 

昔の内陸水路と塩・ローソクの交易 

新潟県史に「塩津潟は奥山庄とこれと南接する加地庄に広がっていた潟湖で、当時は荒川河口から胎内川、塩津潟、阿賀野川、沼垂湊、蒲原の津の内陸水路を経て新潟湊に通じていた。」、「新発田藩でも領域海岸で製塩が行われ会津藩から送ってくるローソクの代わりに、塩を送ることが定例であった。」とのことが、載っている。 

また、元徳三年(1331年)の三浦和田氏文書(奥山庄 黒川茂実の代)に塩谷、塩沢の田畑山野の領地のことが記されており、両村の地名が約700年前の昔においてもはっきりと記録されている。 
 

塩津潟と水運 
正保二年(1645年)の「越後絵図」と元禄十三年(1700年)の「越後国蒲原郡岩船郡絵図」には、塩津潟と記載されており、胎内川は荒川河口に注ぎ、塩津潟、加治川、阿賀野川へと水路がつながり水運が盛んであったことがこの絵図でよくわかる。昭和25年小林存著「県内地名新考」にも、「紫雲寺潟はもともと塩津潟と云った。塩津は北塩(西の瀬戸内塩に対し地方生産の塩・地塩のこと。)の搬入港であった。塩のつく地名は各地で一番多い。」と。 
 

塩沢に土塩あり 
文化十三年(1816年)草間文積の書いた「越後輿地全図」(黒川村文化財)には、「塩沢...この処土塩あり。...塩谷...この辺りの地中油でる。館村...この川端(胎内川)にも地中油出る。蔵王山...蔵王ゴンゲン奥の院」と記されている。 
塩津潟は、既に落堀川の発掘によって潟の水が日本海に切り落とされ、信濃高井郡米子村(今の長野県須坂市)出身の竹前権兵衛と小八郎兄弟によって干拓が行われているので、この絵図にはない。 

塩谷と塩沢に塩の出る所あり 
黒川の大平多司馬氏の書いた「郷土史草稿」によれば、「塩谷の山奥に塩の湧出するところあり。 
夏晴天の際至りて醸すると塩の多く湧くことあり。故に村名とす。」と書かれている。 

片野徳蔵氏著(塩沢・塩谷・塩津の由来)より、抜粋
  
片野徳蔵氏
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