中条町郷土研究誌 第22号 奥山の荘   

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都岐沙羅柵は中条町築地が比定地        伊藤 國夫

はじめに
 大和政権は、北陸・東北地方に古代城柵を7〜9世紀にかけて設置している。律令国家が支配の拡大および蝦夷経営のために設置したものである。西日本の城柵は、砦としての機能性が高いのである。それに対し東北地方の城柵は、行政的な色彩が強いのが特徴である。古代東北地方の城柵数は、約二十数ヶ所ほど考えられる。それは、日本書紀・続日本紀・日本紀略・日本後紀三代実録等に見ることができる。これらの城柵の多くは築地を巡らし、政庁的な内郭・瓦葺の建物郡などから長期の支配体制整備を目指したものと言える。国家による建郡の先駆ともなったものである。越国の城柵は日本書紀に見られ、大化3年(647)条に渟足柵を造り、同4年(648)条に磐舟柵を治り蝦夷にそなえたとある。その十年後の斉明4年(658)に都岐沙羅柵が造られている。今回特に取り上げて論述するのは、658年に造られた「都岐沙羅柵」の比定地について考察したいのである。私は、「都岐沙羅柵」は新潟県北蒲原郡中条町築地付近が、比定地であると推定している。中条町築地の塩津潟の北辺に実在していたというのは、次に列記する論拠があるからである。
 
  1. 築地が比定地であるという積極的な論拠
  2. 和名類聚抄に記載が見られること

  3.  「越国の塩の道」(おくやまのしょう第二十号)で論述済みであるが、和名類聚抄(京都大学編)の中に、「渟足石船二柵之間に斉明4年紀都岐沙羅有る」と明記してある。このことは、新潟県北蒲原郡中条町に存在していたことを証明するのに、非常に有力な記述であり、論証としては第一級の資料である。和名類聚抄は、歴史的な資料としての価値の高いことを考慮に入れるべきである。都岐沙羅柵は、三番目に造られている事実に着目し「二柵の間に有る」と考えるのが妥当である。
  4. 阿部比羅夫の本拠地があったこと

  5.  越国の守である阿部比羅夫に関連する古四王神社が、塩津潟の南辺の新発田市五十公野にあることである。比羅夫の蝦夷征討の進軍は、斉明朝の4年(658)から同6年(660)の3年間に、十一ヶ所にわたっている。わずか3年間のうちに11回と積極的に辺境政策が行われている。比羅夫は、大船団を率いて日本海側の蝦夷討伐を行っている。磐舟柵が設置されてからわずか十年間という間に、山形県の酒田付近や秋田県の象潟付近まで、城柵の造営を北上させることができたとは到底考えたれないことである。その理由は、阿賀北地方に以前から住んでいた人々が、抵抗するここなく大和政権の蝦夷討伐政策に、簡単に服従したことは考えられないからである。相当強固に抵抗したものと思われる。例えば、「渟足柵を造り、柵戸を置く。」(647)「蝦夷に備えるため磐舟柵を治め、越と信濃の民を選び柵戸を置く。」(648)「難波朝において北越の蝦夷99人、東陸奥の蝦夷95人を饗し、柵養蝦夷9人、津刈蝦夷6人に冠各二階を授ける。」(655)「阿部臣船師180艘率い蝦夷を討つ。」(658)「都岐沙羅柵造に暗二階、判官に一階、渟足柵造大伴君稲積に小乙下を授ける。」(658)「越国守阿部引田臣比羅夫、粛慎を討つ。」(658)「陸奥と越の蝦夷を饗す。」(659)「阿部臣、船師180艘率い蝦夷を討つ。」(659)「陸奥と越の国司に位二階、郡領と主政に各一階を授ける。」(659)「阿部臣、船師200艘率い、粛慎を討つ。」(660)等々、蝦夷を饗すとか、蝦夷を討つとか、位二階授けるという記載が多い。これらの事実から、大和政権に抵抗した様子がうかがえるし、都岐沙羅柵が120kmも磐舟柵が、697年と700年に2回も修理を命令していることから見ても、相当強固に抵抗したことが想定することができるからである。
  6. 本格的な防衛施設であること

  7.  渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の機能は、越国に設置した初期の時期であることから、本格的な防衛施設であると考えるべきである。この三つの城柵が、協力的な連携プレーを発揮するためには、ほどよい距離内に設置することが、柵本来の機能を増加させることになることは明らかである。
  8. 防衛施設のラインが一直線であること

  9.  大和政権の城柵は、基本的に防衛施設は一直線上にあり、多人数を動員して築造し、多人数が防備につくという方法である。古代の城柵は、50〜60km前後の範囲に三つの城柵を設置するという特徴がある。蝦夷に備えるためや蝦夷征討のためには、渟足柵−岐沙羅柵−磐舟柵と一直線上に配置した方が、攻守両面からも有利な布陣である。東北地方に設置したその後の城柵の配置を考察すれば、三連続に配置されていることがよく分かる。例えば、多賀城−玉造柵−色麻柵。桃生城−伊治城−覚鰲城。胆沢城−志波城−徳丹城等に見られる大きな特徴である。
  10. 都岐沙羅柵が重要であったこと

  11.  大和政権は、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の順に、城柵を設置している。大和政権のその後の城柵の設置方法を研究してみると、先に造った城柵より南下した位置に前に造った柵より規模の大きい立派な城柵を造っているようである。多賀城の場合もそうであるという研究が、最近報道されている。私は、都岐沙羅柵は、磐舟柵よりも規模が大きく、機能的にも重要な役割りを果たしていたものと考えている。その根拠はいくつかある。一つ目は、「斉明4年7月4日、都岐沙羅柵造に位二階、判官に一階、渟足柵造大伴君稲積に小乙下を授ける。」とある。この事実は、都岐沙羅柵に柵造と判官が置かれているということである。渟足柵は、柵造しか記載されていないことと、磐舟柵のことが記載されていないことからも、十分理解することができる。二つ目は、磐舟柵は、698年と700年に二度も修理している事実である。このことから都岐沙羅柵が、他の二つよりも優位の立場にあったものと考えている。 
  12. 低標高の海岸に近い平地であること

  13.  渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵は、立地上いずれも低い標高で海岸に近い平地に設置したと考えるのが妥当である。なぜならば、渟足柵と磐舟柵が、どちらも河口付近の海岸に近い平地に設置している。だから三番目に造られた都岐沙羅柵も、海岸に近い水上交通の要衝地である平地に設置することが有効であると推論できるからである。標高70m前後の丘陵地や河川を遡った内陸部に営まれたものでないことは、180艘や200艘の船師を率いている蝦夷征伐軍の大船団のことを考慮すれば、自明の理である。
  14. 塩津潟は水上交通の要衝地であること

  15.  越国に設置した三つの城柵は、いずれも水上交通の要衝地に設置したと考えるべきである。渟足柵は、信濃川や阿賀野川の河口付近に位置している。磐舟柵は、荒川や磐舟潟の河口付近に位置している。三番目に設置した都岐沙羅柵は、胎内川と塩津潟の付近に設置したものと考えられるからである。
     都岐沙羅柵が、塩津潟の北辺にあたる築地にあったとすれば、日本海に出るには渟足柵や磐舟柵を経由して容易に出ることが可能であるからである。7世紀頃の塩津潟の水深は、7〜8m位あったものと思われる。近世の塩津潟の水深は、数度の津波や地震の影響を受けて、少しずつ土砂の堆積や大地の隆起、河川から運搬され自然客土による堆積等によって、水深が浅くなったものと想定できる。塩津潟の北辺に位置する中条町築地は、比羅夫の大船団を集結したり、繋留したりできる非常に有利な立地条件である。塩津潟が、一段と現実性のある非常によい潟港であることが分かる。
  16. 伊夜日子神社が塩津にあること

  17.  築地の近くに広い範囲にわたって「塩津」という大字が存在することである。塩津潟の北辺に、伊夜日子神社が祀ってある。この神社は、越後一の宮の弥彦神社との関連があり、歴史的にも由緒のある神社である。
  18. 「築地」という地名が存在すること

  19.  新潟県北蒲原郡中条町に「築地」という地名が現存することである。それも、中条町と合併するまでは、築地村として存在していたことである。桑原滋郎氏は、柵木について丸太材と角材とがあることを明らかにし、その高さが門や櫓の柱に匹敵するほどのものでないことから築地の基礎地業とみなすべきであると述べている。この築地(ツキジ)と築地(ツイジ)は、一致しているのである。築地と築地の整合性に、私は着目している。
  20. 「トキサラ」は柵戸や潟を意味していること

  21.  都岐沙羅を「ツキサラ」ではなく、「トキサラ」と読むと柵戸や潟の意味になると、森浩一氏は著書「古代日本海域の謎」の中で論述している。この論述を取り入れて考察すれば、新潟県北蒲原郡中条町築地の塩津潟の北辺に都岐沙羅柵が存在したことは、十分に推定できるし理解もできるのである。
     また、「トキサラ」は、アイヌ語で潟に突き出た岬という意味になるという。潟に突き出た岬という意味に解釈すれば、塩津潟の塩の津があったと思われる場所が最適地である。その場所とは、正保2年越後絵図(平成8年3月新潟県文化財指定)で説明すれば、築地と東川内の間に突き出た大塚と西川内の地域がそれに当たる。さらに、築地(ツキヂ)のツキが「ツキサラ」のツキと考えるとなお一層整合性が増してくる。
  22. 旧築地村の村歌に「月さら」の歌詞があること

  23.  北蒲原郡の旧築地村の村歌に「史に名高き月さらの〜」という歌詞があることである。この歌詞は、芳賀矢一東京大学教授が作詞したものである。国文学者の芳賀氏は父親が新潟県の公僕であった関係から、子供の頃新潟市に住んでいる。大畑小学校(現新潟市立新潟小学校と統合)を卒業している経歴の人である。旧築地村の村歌の由来については、佐藤悌吉氏が「文芸なかじょう」の第二十一号に掲載している。月さらの歌詞が都岐沙羅のことであると推論するものである。
  24. 渟足柵の以南には考えられないこと

  25.  都岐沙羅柵が、渟足柵の以南に設置したとは考えにくいのである。その理由は、和名類聚抄の「二柵の間に有る」という記載の内容と反するからである。648年に磐舟柵を設置し、蝦夷征討の北上政策の足場を固めた十年後に、渟足柵よりも信濃国に近い地域に都岐沙羅柵を造営する利点が殆どないからである。大和政権は、出羽柵や737年に加賀・色麻・玉造・牧鹿・新田の各柵を造営し、約二世紀をかけて蝦夷征討の政策を継続しているのである。
  26. 信濃国との連携を重視していたこと

  27.  大和政権の東国支配は、信濃国との密接な関連をもっている。斉明天皇6年(660)の是歳条に「科野国言さく・・・」と編纂されている。このことは、越国が、信濃国と磐舟柵以南が限界だったものと考えている。
  28. 都岐沙羅柵が中条町だという説があること

  29.  「幻の都岐沙羅」の著者である小野まつえ氏は、中条町の苔ノ実付近ではないかという説である。苔実は、越後絵図で説明すると、築地より少し南下した塩津潟の中央部に位置する地域である。
     都岐沙羅柵をいろいろな公共機関で、調査を続けて今日に至っている。国立国会図書館で、「幻の都岐沙羅」の本に遭遇したのも何かの因縁であろう。
  30. 城柵研究者が中条町を訪問していること

  31.  都岐沙羅柵に関する論文を読んでいると、新潟県北蒲原郡中条町を訪問している学者が多くいることが分かってきた。渟足柵と磐舟柵の間に、都岐沙羅柵に該当する比定地はないものかと、現地を実際に自分の目で観察している学者が多いことである。
  32. 都岐沙羅柵の遺構出土の可能性があること

  33.  以上のように多種多様な視点から考察した結果、都岐沙羅柵は新潟県北蒲原郡中条町築地付近にあるというのが私の結論である。築地周辺の塩津潟の中から、都岐沙羅柵の柵木等の遺構が出土するものと確信している。あらゆる視点から考察すると、塩津潟が一番整合性が高いからである。塩津潟の潟跡であるため、木片が腐らずに保存されるだけの地下水位が高いことも幸いしている。
 都岐沙羅柵の比定地に関する研究結果は、新潟県社会教育協会中条支部総会時に「蘇れ!都岐沙羅柵〜塩津潟とのかかわりにおいて〜」と題して、記念講演(平成8年3月9日)の中で一部発表した内容である。塩津潟の存在についての研究は、一応の成果をあげることができた。各市町村の講演が5回。専門紙への投稿。新聞の教育欄の掲載。広報しばたでの紹介。FM放送アガットでの紹介。インターネットのホームページの開設等々、新潟県の歴史の見直しが実施されてきている。
「都岐沙羅柵」の諸説の再考察
 今までに提唱されていた「都岐沙羅柵」の諸説について、再考察をしてみたいのである。諸説について一つ一つの整合性の検証をしてみることによって、中条町築地の比定地がいかに優位性があるかを考察したいのである。
  1. 磐舟柵の別名説

  2.  城柵として当時の史書に明記してかるものは、「渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵と合わせて三ヶ所とする。」ということが通説である。故に、磐舟柵の別名が都岐沙羅柵と解釈するのは、早合点である。都岐沙羅柵は、三番目に造られた柵名である。
  3. 中条町乙説

  4.  新潟県北蒲原郡中条町乙の地名が、渟足柵と磐舟柵の間にあり一要害に位置しており、その名も城柵に縁があるので、都岐沙羅柵の比定地ではないかという説である。しかし、私は前述したように180艘とか200艘という大船団を繋留するだけの港を保持していない等の立地条件から、都岐沙羅柵の比定地ではないと考えている。むしろそれよりも少し南下した塩津潟の北辺にあたる築地周辺が、都岐沙羅柵があった地域と考える方がより自然で具体的な比定地である。乙は、磐舟柵と都岐沙羅柵の間にあたるので、乙(柵戸)と考えた方が妥当である。大和政権は、大林太良氏の説によれば、港市国家と密接な関連があるというのである。特に、古墳のある潟を目指す船のことが説明してある。例えば、新潟県相川町の片辺潟(馬場遺跡)。富山県の十二町潟や放生津潟(朝日長山古墳)等がある。その傾向を越国にあてはめて考えれば、都岐沙羅柵と塩津潟が一層結びつきが深くなる。なぜならば、塩津潟の東辺に「大塚山古墳」が存在するからである。大塚山古墳は、築地−中倉−塩津−東川内−西川内を結んだ塩津潟の中に位置しているからである。都岐沙羅柵が、築地付近の塩津潟の潟港との関連性が一層深まるのである。
  5. 鼠ヶ関説

  6.  鼠ヶ関には、多くの柵戸が住居を構えて住むだけの土地が広くないことが問題点である。城柵内の柵戸数は、渟足柵が100戸。磐舟柵は150戸。都岐沙羅柵は150戸位と推定されている。城柵内には、多くの住居が存在し、この内部には兵士兵舎も営まれている。また、城柵の中には兵士だけのものか疑われる例もある。このことから、船師180艘とか200艘という大船団の兵士が生活するに必要な兵舎や、十分な食料や兵器等の供達ができる地域が絶対に必要な条件となる。これらのことを考慮すれば都岐沙羅柵が、磐舟柵よりも北の鼠ヶ関にあたるという説はあり得ないことになる。鼠ヶ関は、多くの学者が否定しているのが通例である。蝦夷征討の間、坂東をはじめとする諸国には、兵士、兵器、軍粮(糒)、塩(地元産)、柵戸などの徴発が繰り返されたのである。この事は、東国の蝦夷征討負担を調べれば分かることである。聖籠町史に、城柵に兵を送ったことが記載してあることは、注目に値する。
  7. 新発田市大友説

  8.  都岐沙羅柵が、新発田市の大友付近ではないかという説は、地理的な条件からみてみも不可能であると思う。次に論述する津川説と同じだからである。
  9. 東蒲原郡津川説

  10.  津川説は、磐舟柵と渟足柵からあまりにも離れ過ぎていることである。「渟足磐舟三柵の間に有る」という和名類聚抄の記載から、大きくそれる位置になるからである。特に、当時の防衛施設は一直線上に造るという大和政権の基本的な方針から大きく違っているからである。さらに、蝦夷征討であるのだから北を目指すことが当面の課題であるからである。
  11. 山形県の出羽説

  12.  都岐沙羅柵が、磐舟柵より北の出羽国に設置できることは、私は考えていない。その根拠の一つ目は、出羽国が越後国から分離して出羽国になったのが712年のことである。越後国に新たに出羽郡を建てたのが708年である。都岐沙羅柵が造られたのが、658年のことであるから、出羽国になった年代とは54年間、出羽郡がたてられてから50年間という時代差が、あまりにもあり過ぎるからである。特に、出羽柵が造られたのが709年のことを、どのように理解したらよいのだろうか。新潟県北部海岸沿いから山形県にかけての地域は、城柵造営→柵戸移住→建郡という過程を経て、完全な律令国家の領域すなわち支配国となるのである。この過程を得る時間的な要因を考えた場合に、都岐沙羅柵が磐舟柵よりも以北に設置できることは、不可能である。むしろ私が主張しているように、渟足柵と磐舟柵の間に設置したと考える方がより整合性が高いと考えている。磐舟柵(648)を造ってからわずか10年間で、大和政権の支配圏が120kmも北上できたことは、考えにくいことである。その理由は、斉明6年に唐と新羅の連合郡に滅ぼされた百済の復興運動を支援するために、救援軍を百済に派遣している。斉明朝は、この対外的な関係の急迫によって、蝦夷征討はかなり困難な状況にあったものと思われるからである。その上に、前述したように蝦夷の抵抗はかなり強いものだったと想定できるからである。
  13. 秋田県の象潟説

  14.  秋田城が設置されたのが733年であるから、都岐沙羅柵の658年との年代差は、75年間になる。大変な違いである。山形県酒田市の城輪柵をとびこして、磐舟柵から一気に160kmも北上した象潟に都岐沙羅柵を設置できることは、殆ど考えられないことである。山形県の城輪柵に最も近い秋田県仙北郡仙北町の払田柵は雄勝城とも考えられているが、758年の設置であるから都岐沙羅柵の658年の設置と比べてみても、100年間の時代が経過していることを見のがしてはいけないことである。出羽柵(709)は、城輪柵(山形県酒田市)をあてる説もあるが、もしこれが都岐沙羅柵としても磐舟柵から100kmも離れてしまうことになる。50km前後の範囲の位置に三つの城柵を一直線上に防衛施設を設置するという基本的な布陣が適用されなくなってしまうことになる。さらに、城輪柵や払田柵には、大船団が集結できるよい港がないことである。都岐沙羅柵は、以上のような根拠から山形県や秋田県に設置できないことが推察できるのである。
おわりに
 私が「都岐沙羅柵」について調べ始めた動機は、塩津潟を調べている過程の中で、阿部比羅夫の船師による蝦夷征討と関連する内容であることに気が付いた時からである。
 塩津潟についての研究は、一応の成果をあげることができた。新潟県および県内の各市町村の歴史の見直しが始まったことである。その原動力になったのは、各市町村の5回にわたる講演および広報誌による紹介。新聞紙上に数回掲載。インタ-ネットのホ−ムペ−ジの開設(http://www.inet-shibata.or.jp/^shionotsu)等によって、広範囲に認識されてきている。
 「都岐沙羅柵」の比定地が、新潟県北蒲原郡中条町築地であることが全国に広がり、国民から早く認識されることを願っている。「都岐沙羅柵」の研究を、郷土の歴史家がもっと研究し、多方面の場で発表することを期待している。
参考文献
○家の研究(高橋崇) ○新潟県史
○古代東北と柵戸(高橋崇) 〇長野県史
○古代日本海城の謎T・U(森浩一) ○大日本地名辞典
○新古代東北史(新野直吉) ○日本地名大辞典
○和名類聚抄(京都大学) 〇新潟県の地名
○古代の城柵跡について(斉藤忠) ○各市町村史
○考古学と古代日本(森浩一) ○幻の都岐沙羅
○海をこえる交流(大林太良) ○越後絵図
○東北地方における城柵の外郭線の構造(桑原滋郎)  

中条町郷土研究誌 第24号 奥山の荘

中条町郷土研究誌 第25号 奥山の荘  


 

BSNラジオでの紹介の録音です。

BSNラジオ ミュージックポスト お父さんガンバレ「塩津潟は塩の道」
BSNラジオ ミュージックポスト なんだかんだ一直線
 

  

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