中条町郷土研究会誌    第24号

おくやまのしょう

「塩の津」の比定地は塩津

伊藤 國夫

 はじめに

 「塩津潟」の由来になっている「塩の津」の比定地が現在も明確にされていない。このことは、中条町にとって大きな損失であり、非常に悲しいことである。

 私は、中条町に三つの幻があると思う。一つ目の幻は、塩津潟である。二つ目の幻は、塩の津である。三つ目の幻は、都岐沙羅柵である。

 一つ目の幻は、平成十年に幻でなくなった。塩津潟がみごとに復活した。二つ目の幻である「塩の津の比定地」について論述する。

 「塩津」が比定地である根拠

 塩津潟の潟名の由来ともなっている「塩の津」のあった湊の比定地が、明確にされないまま現在に至っている。

 私は「塩の津」という湊は,現在の中条町大字塩津周辺が比定地であると考えている。「大字塩津」が比定地であるという根拠を、次に列記する。

 第一は、胎内川の支流である柴橋川が、塩津潟に注ぎこんでいる地域が「塩津」という集落が存在していること。黒川の塩谷・塩澤で産出した「塩」を送り出すには地理的にみて適していること。第二は、正保二年越後絵図(新潟県文化財指定)の中に、「新潟より船着」と記述してある周辺が、現在の中条町大字塩津に当たること。第三は、現在の塩津・弥彦岡・築地・中倉の各集落を結んだ地域に「大字塩津」という地盤が、広い範囲にわたって現存していること。第四は、塩津潟の北辺の大字塩津の地盤の近くに、湊につきものの倉を表す「郷倉」という地名が残っていること。第五は、塩津潟の東辺に船戸川が注ぎこみ、船戸や小船戸という船付き場の地名が現存すること。塩の津・船戸・小船戸等、船付き場が広く栄えていたものと思われる。第六に、「塩津館」が存在していたこと。中条町遺跡詳細分布調査報告書(1980年)の中に、塩津館の位置が明記してある。この塩津館と塩津が一致している地域にあること。第七は、塩津潟の東辺に一籠山(大塚山)が存在していること。この一籠山は、中条町や加治川村で国や新潟県の支援を受けて発掘した古墳時代のものと、密接にかかわっているものと考えられる。大和朝廷の造営した渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵との関連が一層深まり、河川舟運の要衝地に当たること等が、主な根拠である。

 このような七つの論拠から、「塩の津」の比定地は、「大字塩津」周辺であると確信している。

 「塩の津」の「の」が省略されて「塩津」になったものであろう。この「塩津」という地名は、1277年の高井道円譲状案(中条町文化財)に登場している事実から、「塩の津」という比定地であることを、なお一層強めている。

 「塩」を送り出した津(湊)があったということから「塩津潟」という潟名の由来が、一段と明確になってくる。

 塩津潟が復活した平成10年

 塩津潟は、平成10年になってから、名実共に復活した記念すべき年である。そのことが分かるいくつかの事例を列記する。

 第一は、中条町郷土読本「ふるさと中条」が、平成10年9月に発行されたことである。この読本は、中条町教育委員会が発行し、各小学校に配布したものである。この「ふるさと中条」の中には、「塩津潟」がはっきりと記述してある。子供たちはこの教材を活用して、郷土の歴史を正しく学んでいるのである。第二は、新発田市の「藩政資料展」を平成10年10月から11月にかけて開催した。新発田市教育委員会の主催である。会場内の古絵図の説明や藩政資料展示解説等には、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と表記してあった。この事実は、非常に大きな進歩である。第三は、まちだより「なかじょう」の11月号(No.680)の中では、塩津潟(紫雲寺潟)として記述してある。第一と第三の事例は、中条町が「塩津潟」と宣言した最初の公文書である。第四は、中条町立中条中学校「いきいきスクールスッテプアップ事業」の一つとして講演会が実施された。平成10年11月のことである。演題は、「塩の道は阿賀北地方が本場」である。全校生徒600人の講演では、「塩津潟」で説明した。中条町の歴史について、母校での講演の機会を与えられたものである。私の講演は、中条町・加治川村・豊浦町等で行ない、今回で6回目である。第五は、各市町村の遺跡発掘の現地説明会の資料は、「塩津潟」の記述が多くなってきている。新潟県埋蔵文化財関係の資料は「塩津潟」を認識してきたことを物語るものである。

 このように、新潟県や各市町村の公文書に「塩津潟」と明記され、呼称されるようになったのは、平成10年からである。歴史上、画期的なできごとである。

 「塩津潟」と呼ばれ、記述されるようになったのは、1645年の越後絵図から計算すれば、353年ぶりの復活である。1277年の高井道円譲状案から計算すれば、721年ぶりの復活である。平成10年は、「塩津潟」に復活した特記すべき年になったのである。

 郷土の歴史が見直され、深められたことは、塩津潟を長年研究してきた者にとっては、本当に嬉しいことである。塩津潟と改訂した理由が、明確であること。そのことを論証する古絵図や古文書が、多数明示できることから当然のことである。新潟県民は、その事実を正確にそして早急に認識すべきである。先人が営んだ郷土の歴史を正しく学ぶべきである。

 塩津潟が復活した理由

 「塩津潟」が正式な潟名に復活した理由を、次に列記する。

 第一は、塩津潟を調査している研究者が、古絵図や古文書を多数収集し、論証として提示したこと。第二は、研究者と各市町村・国・県の行政との連携が密接になってきたこと。第三は、研究者と各大学との連携が強力になってきたこと。第四は、各市町村同士の横の連携が強化されてきたこと。第五は、各市町村長が、「塩津潟」を正式潟名であるという明確な態度を明らかにしたこと。第六は、塩津潟に関係する市町村の住民が正しく認識してきたこと。第七は、塩津潟に訂正する手順・手続きが分かってきたこと。第八は、同じ潟を塩津潟と紫雲寺潟と二つの名称で呼ぶ不自然さに気付いてきたこと。第九は、塩を送り出したという先人の営みを大切にしようという気運が高まってきたこと。第十は、お福伝説を正しく理解するようになってきたこと。第十一は、文部省、新潟県、各市町村の関係者が、改訂作業を一貫して開始したこと。第一二は、新聞社や放送局等のマスメディアが、積極的に報道したこと等があげられる。

おわりに

「塩津潟」が、平成10年に関係各位の努力により復活した。新潟県の歴史上、画期的な進展である。この事実によって、今だに幻になっている「塩の津」の比定地は早い段階で確定し認知されるものと思っている。しかし、黙っていては、いつまでもそのままである。塩津が塩の津であると確定するには、中条町の町民と行政の研究者が一致協力して、働きかけていかなければ達成できないことである。郷土の歴史を見直し、さらに深めていく努力が不可欠である。

 三つ目の幻である都岐沙羅柵については、私のホームページ「塩津潟の由来」が大活躍している。12月段階で、約千回のアクセスを数えている。インターネットの機能であるため、全国的な範囲で関係者の関心を集めている。ホームページのアカントは、「塩の津」である。

http://www.inet-shibata.or.jp/~shionotsu】是非ご覧願いたい。

 三つ目の幻である「都岐沙羅柵」は、全国的に話題が広がっていることから、近いうちに比定地が確定できるものと考えている。

 私は、一研究者として中条町の「幻」が、早く解決することを心より願っている。

塩津潟の排水場所

塩津潟の村の様子