中条町郷土研究誌 第25号 奥山の荘  

「塩津潟」のうつりかわり                伊藤 國夫
               

 塩津潟は、最近古絵図に見られる古来からの潟名で記述され呼称されることが多くなってきた。これは塩津潟に関係する各市町村をはじめ、いろいろな公共機関が、正式潟名である。このことは、地方からの文化発進の時代背景がある。塩津潟にとっては、大きなうつりかわりを物語っている。塩津潟をいくつかの観点から、そのうつりかわりを振り返ってみる。

塩津潟の呼び方
 塩津潟は、古くから呼ばれ親しまれてきた潟名である。その証拠は、左記の古絵図等が明確に立証している。
 康平絵図(1060年)、高井道円時茂譲状案(1277年)、越後絵図(1645年)、越後国絵図(1700年)、日本輿地図(1756年)等十数点が現存している。古文書や古絵図に登場している由緒ある塩津潟なのである。
 しかし、1730年頃からの新田開発の文章に紫雲寺潟と記述されるようになる。塩津潟が紫雲寺潟に変わった理由を、大木金平氏や池田雨工氏が解明しようとしたがその理由が見あたらなかったという。
私もいろいろな書物で調べてみたが、「紫雲寺潟は、塩津潟の転」とか、「しょんづ」が「しうんじ」になまったものだとか、「しょんづ」をよい意味の紫雲寺になおした、という説明しかない。
 なぜ、塩津潟が紫雲寺潟に変わったのか、今だに明確になっていないのが現状である。誰が、いつ、何の目的で変えたのか、学問的に解明されていない。私が調べた古絵図の多くは、前述したように「塩津潟」と明記されている。
最近では、再び「塩津潟」と記述され、呼称されるようになってきた。
 古絵図の多くは、「塩津潟」、「しうつ」、「シホツ」と記述してあるものが多い。これらの歴史上の資料を読み取ると、「しおづ潟」ではなく、「しおつ潟」が正しい呼称であると考えている。現在は塩津潟(しおづがた)と言っているが、「津」は「つ」と読み最初の記述のように「しおつ潟」にもどして言うべきであると考えている。

塩津潟の大きさ
 塩津潟と陸地とのうつりかわりは、時代によって面積の大きさが変わっている。大和朝廷が越国に三つの城柵を創置した645年から658年の頃は、日本書紀の記述によれば、河川舟運の要衝地である。
渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵は、大船団とかかわっている。当時の塩津潟周辺は、水面がかなり大きかったものと思う。そのことを裏付ける康平絵図(1060年)や寛治絵図(1089年)によれば、 どが海とつながっている様子が分かる。
 しかし、日本海沿岸高速道路の施行に伴い、古代からの遺跡が数多く発掘された。例えば、中条町の船戸川崎遺跡や中倉遺跡。
加治川村の砂山中道下遺跡や中野土手付遺跡。紫雲寺町の住吉遺跡等々の発掘による検証によって、塩津潟の大きさのうつりかわりが明確になってきた。
 塩津潟の大きさの変化は、津波による砂丘地の変化、地震による土地の隆起や陥没や液状化現象、洪水による土砂の流出や土砂の自然客土等の影響を受けている。
このことは、加治川村の青田遺跡の現地説明会(平成11年11月7日)で明らかである。

塩津潟の水深
 塩津潟の水深のうつりかわりは、青田遺跡の縄文人の村落跡から、当時は浅かったものと思われる。面積もかなり小さかったことが想定される。
 しかし、康平絵図や寛治絵図からは相当に水深があったと考えるのが妥当である。その根拠は、7・17水害(昭和41年7月7日)や、8・28水害(昭和42年8月28日)によって、塩津潟が再現された。
阿賀北地方は、海に流れ出る河口が荒川河口と阿賀野川と信濃川が合流した河口の二ヶ所しかなかった事実から考えると、かなり深かったものと思われる。
「芦沼」の映画に記録されているような土地の様子が塩津潟にもあった。このことから、塩津潟が時代によって浅くなったり深くなったりして、水深を変えてきたことが分かってきた。
古絵図の多くは、塩津潟の大きさや水深を、その時代その時代にうつりかわってきたことを、私たちに教えている。

塩津潟の行政区
 塩津潟の行政区は、めまぐるしく変わり大きな歴史を刻みながら今日に至っている。古くは東大寺の寺領という時代を経過している。
江戸時代には、幕府の天領・新発田藩・黒川藩・村上藩・三日市藩等々が、それぞれにかかわってきた。
近世では、堀切村・旧金塚村・旧築地村・中条町・加治川村・紫雲寺町等にかかわってきた。

塩津潟の交通
 塩津潟の交通手段は、船から自動車にうつりかっわてきた。日本海沿岸高速道路の施行によって、北蒲原郡中条町大字塩津と東京が直結される日が近い。
自動車という文明の利器が、首都東京をはじめ、全国の高速道路と連結できる。日増しに生活が便利になる高速道路が、塩津潟の中央にその姿を表してきた。
 しかし、時代を江戸時代までさかのぼれば、幕命によって完成した正保二年越後絵図や元禄十三年越後国蒲原郡岩船郡絵図からも分かるように、大きな潟であった。 塩津潟は、加治川や胎内川等の影響を受けながら、荒川湊と新潟湊を河川船運で結んでいた。現在の自動車の前は、「船」が交通手段の中心であった。さらに歴史をさかのぼれば、大和朝廷の時代は、蝦夷征討に「船」を使用している。
塩津潟は、交通手段の面からも大きくうつりかわっている。
 古絵図によれば、現在の中条町大字塩津付近に「新潟より船着」という記述がある。古代や中世においても、塩津付近は、河川舟運の要衝地であった。
いみじくも、日本海沿岸高速道路が、中条町大字塩津まで施行されている。この塩津という地に、二つのことが一致していることに何か不可思議な因縁を私は感じている。
昔も今も交通の面で登場してきた塩津が興味深い。

塩津潟周辺の村落
 塩津潟に関連をもちながら生活してきた人々の村落が日本海沿岸高速道路の施行に伴い、具体的に明らかになってきた。
道路工事に先だって、新潟市・豊栄市・聖籠町・新発田市・紫雲寺町・加治川村・中条町で、古代からの数多くの遺跡が発掘調査されている。
その結果、生活根拠地である村落の位置や規模や生活様式等々が、次々と解明されてきた。
 現在生活している村落と比べてみると、昔から続いている村落。移転して今はない村落。以前はなかったが今ある村落等がある。
時代によってうつりかわってきたことを、村落の位置や規模によって、現代人の私たちに正しく伝え始めている。

塩津潟の新田開発
 塩津潟を新田にするための努力は、新発田藩・黒川藩・三日市藩・村上藩等が、それぞれに取り組んできた事実がある。
幕府は、言うに及ばず努力を続けてきた。塩津潟が新田開発により、湿田ながらも耕地に変った。
 先人がニ〜三世紀頃から今日に至るまで永年の努力によって乾田化した大事業である。先人が大自然と共存するためありとあらゆる手だてを講じて今日の蒲原平野がある。
塩津潟の新田開発もその一つである。例えば、胎内川や加治川や阿賀野川の海への人工の川づくり。境川の瀬替えや〆切。落堀川等の拡幅。用排水路の整備。耕地整理や圃場整備。暗きょ排水。加治川や胎内川の砂防エンテやダムの建設。排水機の設置等々。現在に至るまで大変な努力と工夫が続けられてきたわけである。

塩津潟でとれた食料
 塩津潟であった頃の食料は、鯉などの魚類や貝類、ヒシの実やクワイやじゅんさいなどの植物性の食べ物類、カモなどの渡り鳥の数々が、現在の福島潟のように豊富に得られたことだろう。
 新田開発により、しかも湿田から乾田化する努力の継続により、風味のよい良質のお米が大量に収穫できる美田にかわってきた。
食料として得ることができる種類は時代とともにうつりかわってきた。

おわりに
 塩津潟のうつりかわりについての認識は、新潟県民の意識の中に広まり深まってきている。平成11年度は、講演会や発表会が相ついで実施された。
例えば、「塩の津の比定地は塩津」と題して中条町中央公民館で、平成11年5月22日に行われた。
「総合的な学習の中に郷土の歴史学習を取り入れる一考察」〜塩津潟の新田開発の歩み〜と題して、新発田市と北蒲原郡の先生方を対象に中条小学校で平成11年10月2日に行われた。同じ主題で新潟県の先生方を対象に、長岡市立東中学校で平成11年11月12日に行われた。
 小学校及び中学校の先生方が、郷土の歴史素材を教材化しようという気運が高まり、積極的に取り組み始めている。
また、中条町と黒川村の3・4年生用の社会科副読本の編集作業が進んでいるが、郷土の歴史を正しく学ぼうという方向で、少しずつ前進している。
 「塩津潟と新発田藩」と題して新発田市文化会館で、平成11年12月16日に行われた。中条町・加治川村・豊浦町に次いで新発田市でも「塩津潟」についての講演会が実施された。
今回の新発田市の講演は、計11回目の講演会である。
 講演会と同時に広く活用されているのが、「塩津潟の由来」というホームページである。平成11年11月上旬までで1022回のアクセス数があり、多くの人々に開放され役立っている。
特に、小学生や中学生に多く開かれるようになってきており、郷土の学習の教材として利用され始めている。
 要するに、小林存氏が『懸内地名新考』(上巻)の中で既に昭和25年7月に論述している。
その著書の中で「紫雲寺潟はもともと塩津潟えお言った。所謂北塩(地方生産の塩)搬出の津頭だったのである。それが近古目下の北蒲原郡紫雲寺町大字紫雲寺に同名の一寺が出来、それに因んで集落名をもつ潟の名をも改めた。」と述べている。
この事実が、古絵図等の多数の発見と考察によって、再認識されてきたわけである。

 参考文献
○ふるさと中条(中条町郷土読本)
○胎内川沿岸土地改良区史
○新発田市藩政資料展資料
○郷土史概論
○国立公文書館所蔵の古絵図
○明治大学所蔵の古絵図
○新発田市所蔵の古絵図
○新潟であるために・十章(農林水産省北陸農政局)
○住吉遺跡現地説明会資料(県埋蔵文化財調査事業団)
○青田遺跡現地説明会資料(県埋蔵文化財調査事業団)
○懸内地名新考 上巻  小林 存
○日本歴史之研究    吉田 東伍
○越後古代史の研究   池田 雨工

    中条町郷土研究誌 第22号 奥山の荘