つわものどもが夢の跡 (^_^;)



赤谷鉱山と赤谷線
  

赤谷温泉 ←とは



  蒜場山や焼峰山へ登る途中に赤谷鉱山の跡が残っているのを見かけます。
  最盛期には沢山の人達が、この周辺に働いていたと思うのですが現在は藪の
  中に一部残骸が残って居る程度で、それらは忘れ去られようとしていてます。
 
(掲載されてる写真の一部は新発田市図書館、昔の新発田写真集より)
※地図上の 
A〜G をそれぞれクリックしてください。


東赤谷と現在の治水ダムの間を走っていた蒸気機関車1080号(日鉄鉱山鉄道)

現在は京都の梅小路鉄道博物館に展示されている。




    ※赤谷鉱山について(市図書館の郷土資料より)
 明治24年(1891年)その当時の総理大臣松方正義氏は、これからの近代国家をつくるには鉄が
 必要なことを説き、議会に製鉄所の建設を提案した。赤谷も鉄山として開発する計画 に入る。しかし
 議会は調査不十分ということで総理大臣の提案は否決された。

 それでも政府はあきらめず、東大の野呂景義教授に命じて赤谷鉱山の調査をさせた。この調査は明治
 26年から2年間で数回行われ、量や採掘方法ともに有望であることが確かめられた。

 伊藤内閣のとき官営の製鉄所を作ることが決まり、明治30年に九州の八幡製鉄所が作られ鉄も大切な
 資源として本格的に開発されることになった。

 しかし資源はあっても、それを運搬しなければならない。赤谷線はその点全く不便で鉄は出てもかえり
 見られなかった。

 1914年に第一次世界大戦が起き、日本の輸出はうなぎのぼりになった。 とくに鉱業も好景気になり赤谷
 鉱山はクローズアップされ、赤谷運鉱線の計画が実現された。 そして八幡製鉄所がその工事に着手した。

 土盛り作業、架橋、砂利しき、枕木のとりつけなど、活気あふれる工事の様子を見た住民は「文化の波
 がおしよせるぞ、くらしがよくなるぞ」と胸をおどらせたと」その頃の語録は伝えていた。

 この工事費は百五十六万八千円でそのころの金としては決して安いものではなかった。しかしこのように
 してできた赤谷運鉱線は、鉱山関係者以外は利用することができなかった。 そこで地元の新発田町、
 五十公野村、米倉村、川東村の町長や村長、議会で住民のために旅客や貨物も取扱うようにお願い
 したが八幡製鉄所は耳をかさなかった。

 第一次世界大戦が終わり世界大戦の好景気から不況になり八幡製鉄所も赤谷鉱山の仕事を中止しな
 ければならなくなった。完成したばかりの赤谷運鉱泉は大正12年無用の物となる。夏草の中に赤く錆び
 て放置された鉄道は「赤さび線」と呼ばれた。

 このようなときに羽越線が新津から秋田まで開通し、鉄道大臣が視察に来たとき地元の代議士や赤谷
 村長らが陳情した。 その結果、赤谷線鉄道は無償で八幡製鉄所から鉄道省にうつされた。

 大正14年5月27日鉄道技術官は赤谷線を調査。 以降6ヶ月にわたり地盤を固めたり停車場(五十公野
、米倉、赤谷)を作ったりして復旧をして大正14年11月20日、赤谷線が開通した。 その後赤谷線は東赤谷
 駅まで延長され全長18.9kmとなる。

 赤谷地区で日鉄鉱業株式会社赤谷鉱業所が出来たのは昭和14年(1939年)戦時中、軍の要望もあり
 赤鉄鉱や銅鉱を掘り年間10万トンの生産高があり、多いときで四〜五百人の鉱員が働いていたといわれ
 ている。

 赤谷の奥に日本ソーダー株式会社飯豊鉱業所があったが昭和42年閉山 となり飯豊小学校も同時閉校と
 なった。

 昭和52年採算が合わずに日鉄鉱業は閉山となる。
 昭和59年3月31日 利用者も少ない赤字線なので国鉄は廃線とした。

 数年前、東赤谷にタンカルの工場があったが閉鎖して現在は更地になっている。
 
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    ※赤谷線(赤谷運行線)について
  赤谷線は全線が新発田市内を通る鉄道で、鉱石運搬用のものでした。
  所有者は八幡製鉄所で大正6年に計画され、7年に測量、8年から工事にかかり5年後に完成した。
  大正14年11月20日(1925年) 赤谷駅まで開通
  昭和16年6月1日(1941年)  東赤谷駅まで 
  昭和59年3月31日(1984年) 赤谷線廃止