平成16年 6月 定例会 紫雲寺町議会会議録 平成16年6月15日開会 ◇ 丸 山 亨 君 先般ある機会で研修会に出席をいたしました。途中勉強会で講師より講演をいただきました。題名は、「塩津潟と都岐沙羅の柵の歴史的価値」でありました。先生は歴史研究家として幅広くご活躍をしている方で、大変勉強になり、機会があったらまたいろいろとお話を聞きたいものと、実はそう思っております。その中で、黒川村には塩沢塩谷という集落が今でも存在をし、古くはこの塩沢塩谷より山塩を取り出し、阿賀野川ルート、黒川、中条、塩津潟、加治川、新発田、聖籠、新潟、津川、そして会津ラインを船で運ぶいわゆる塩の道であります。山から塩がとれる、これら紫雲寺の子供たち果たして知っているのであろうかとも思っているところであります。 平成15年の3月、新発田市議会定例会議の一般質問で、歴史的事実、紫雲寺潟か、塩津潟なのか、確認についての一般質問が行われました。江戸幕府が各藩に命じて作成した1645年の絵図、元禄13年、1700年の絵図、いずれも県の文化財に指定をされているものの中には、塩津潟と明記はされてありますが、紫雲寺潟とは何一つもないということであります。これを一つに統一されるべきとの質問であります。これに対して新発田市の教育長の答弁は、「県の見解では、塩津潟と紫雲寺潟の二つの事実があり、一つに統一されるべきものではない。塩津潟という名称に統一した方がよいという考え方に対しては、歴史研究の方法として容認できるものではない」と答えております。私も全くそのとおりだと思っております。なぜなら私たちが紫雲寺というまちを語るとき、紫雲寺潟なくして紫雲寺は語られないからであります。潟干拓250周年の記念をして、町民参加の干拓史劇「風雪のみずうみ」を初め、町民にとって紫雲寺潟は今日まで生きてきた過程の一つと確信をいたしてもおります。時には干拓魂を誇りに思い、苦しいときは干拓根性で乗り切ってまいりました。町民憲章の一つにこうあります。「先人の偉業をたたえ、仕事に励み」とあります。これこそが紫雲寺潟、紫雲寺町の原本ではなかろうかと、そう私は思っております。 そこで質問でありますが、これらを通して町当局はどのような考え方を持っているのか、そしてまた子供たちにどのような教え方を今後していくのか、その二つをお聞かせを願いたいと思います。 以上であります。よろしくお願いをいたします。 ○議長(井浦純一君) お答えいただきます。 〔町長 鬼嶋正之君登壇〕 紫雲寺潟なのか、塩津潟なのかということについて、最近新発田市議会とか中条町議会等々でも取り上げているということは、今お話のあった講師先生があちこちで講演をされておられることの一つの波及ではないかというふうに思っております。潟の名前を今この時点で統一することについては、余り意味のないことだと私自身はそう思っています。塩津潟は現に紫雲寺潟の干拓以前についてはそのように表記をされて、地図上にも明確にあったわけでありますので、その時代を語るときは塩津潟と表記すべき、また表現すべきでありましょうし、江戸の中期、享保年間から今日、特に干拓以降については紫雲寺潟と呼ぶのが妥当だというふうにその学界においても定説になっているところでありますので、我々もそのように語ってつないでいくべきだというふうに思っていると 今この歴史的な大転換期にあって、我が町としてどういうふうにとらえ、そして子供たちにどうつないでいくかということについては、今議員申されるとおり、我々の一つの基盤として最も大事な根底に据えて、またこれを誇りとしてこのフロンティアスピリッツをしっかりつないでいくという方向での確かな流れをつくっていくことが大事だというふうに思っているところであります。そういう意味で、先ほど比企議員が提案されたこともなおさら重要性を増してくるわけでありますので、そういうふうに今後しっかりと子供たちに伝えて、紫雲寺町のアイデンティティーとして育てていければ大変ありがたいことだと、こう思っているところであります。紫雲寺町にとっては干拓は町の発展の基となった大事業で、町の教育委員会でも各小学校と連携して潟学習を行っており、継続的にプログラム充実のために調査研究を行っております。片や水との戦いを学び、先人たちの |