2003年1月27日
2002−2003年度 新発田ロータリークラブ
「塩津潟と新発田藩」
塩津潟研究家 伊藤 國夫 様
ご紹介頂きました伊藤でございます。新発田の市民権を得て30年になります。
「新発田のことを、新発田の子供に、新発田の人が教えてやって欲しい」というのが私の願いですがなかなか新発田のほうはエンジンがかからないのでお話に参りました。
「塩津潟と新発田藩」ということで話しますが新発田の人は「塩津潟」というと「紫雲寺潟」でしょうと言われる。塩津潟を一番早く干拓したのは新発田藩です。古絵図においても紫雲寺潟ではなく塩津潟であることが立証されます。新発田はもう紫雲寺潟から卒業してもいいのではないでしょうか・・・・・・以下レジュメ
「塩津潟と新発田藩」
1 はじめに
・新発田藩の地域史の見直しと訂正
→ 地域おこしに活用
・新発田藩の治水事業と新田開発
→ 農業の振興
・新潟県の歴史の見直しと訂正
→ 学問の探求
・新潟県の新田開発の先駆藩
→ 食料の増産
2 新発田の三つの幻
【古絵図が語る歴史の真実は強い】
(1)塩津潟
(紫雲寺潟と言わなくともよくなってきた)
(2)塩の津
(「津」の墨書土器の出土・・・中条町蔵ノ坪遺跡)
(3)都岐沙羅柵(古四王神社) → 防人との関連
3 古絵図における塩津潟の立証
(1)天保2年〔西暦1645年〕「越後絵図」
→徳川幕府の命令
(2)元禄13年〔西暦1700年〕「越後國蒲原郡岩船郡絵図」
→徳川幕府の命令
(3)宝暦6年〔西暦1756年〕「越後興地図」
(4)この他多数
4 新発田藩と塩津潟
(1)越後絵図の所蔵
〔新発田市文化財・新潟県の文化財〕
(2)越後國蒲原郡岩船郡絵図の所蔵
〔新発田市文化財〕
(3)新発田藩の治水事業と新田開発
・川の瀬がえ
・川の締め切り
・川の放水路
(4)塩津潟の河川舟運及び日東道
(平成14年10月開通)
(5)その他 → 「ふるさと会館」の展示内容の再検討
「塩津潟記念公園」(仮称)の造成計画の作成中
→中条町・黒川村の取組
「塩津潟記念資料館」(仮称)の新設計画の作成中
→中条町・黒川村の取組
5 社会科・総合的な学習の副読本編集の続出
(1)中条町 − 「ふるさと中条」
→ 平成10年
(2)黒川村・中条町 −「わたしたちの郷土 中条・黒川」
→平成12年
(3)新発田市 − 「副読本の改定」
→平成13年
(4)黒川村・中条町 − 「胎内川の恵み」
→平成14年
(5)その他
6 新発田ロータリークラブ会員様への協力要請
(1)新発田市民への啓蒙と実践
(2)各事業所の工夫と努力
7 塩津潟が正式名で呼ばれるようになった理由
(1)「塩津潟」の研究が、学者の関心が高まってきた。
(2)学者と行政の連携が強まった。
(3)「塩津潟」の研究者が、各大学関係者と連携ができた。
(4)各市町村の横の連携が頻繁になってきた。
(5)各市町村が「塩津潟」を正式潟名であると明確な態度を取ってきた。
(6)関係する地域住民が再認識を強めてきた。
(7)福島潟の「お福伝説」が正しく理解されてきた。
(8)竹前氏たちが、幕府への干拓願いを新発田藩を抜きに進めたことが判明した。
(9)「塩津潟」を「紫雲寺潟」と呼んでいる不自然さに気付いてきた。
(10)「塩津潟」の正式潟名に訂正する手順。手続きが分かってきた。
(11)「塩津潟」を正式潟名に訂正しようとする意識が行政側に出てきた。
(12)新聞やテレビなどのマスコミが多く取り上げてくれた。
(13)新発田市民の意識が高まってきた。
等々
8 塩津潟が定着してきた理由
・古絵図による立証
・古文書による立証
・研究者の努力 |
学校の副読本として児童生徒に活用 |
9 「塩津潟」を教材にした学習の実践例
(1)新発田市立住吉小学校の事例
(2)新発田市立外ヶ輪小学校の事例
(3)新発田市立車野小学校の事例
(4)中条町立中条中学校の事例
(5)中条町立竹島小学校の事例
(6)新発田市立東豊小学校の事例 |
新潟県教育研究会で発表
「総合的な学習の中に歴史学習を取入れる一考察」
〜塩津潟の新田開発の歩み〜 |
10 越国の「塩の道」
(1)荒川ライン (2)60里越ライン
(3)80里越ライン(4)阿賀野川ライン
(5)糸魚川ライン(6)その他
11 越国の「塩の道」と各市町村の地域おこしの実態 → 私大きな夢
・黒川村→中条町→加治川村→新発田市→聖籠町→新潟市→津川町→福島県等へ
・新発田市は・・・・・・・・・?
12 新発田市が正確な地域史を伝承していくための課題
・郷土史の歴史を正しく学ぶ努力
→郷土史の素材を教材化して副読本に編修
・新発田市民に発信する手立て
→公報「しばた」・新発田市史の追加等
・新潟県民に発信する手立て
→「一村一価値づくり」等との協賛行事等
13 都岐沙羅柵の比定地の確認
・旧築地村の村歌 − 芳賀矢一博士の作詞
・新発田市五十公野の古四王神社
14 おわりに
・日本国民に発信する手立て
→大学教授の協力・インターネットの活用等
・他市町村と連携する手立て
→新潟市、津川町、他県の各市町村との交流
等 |