新発田から来ました伊藤です。塩津潟というのは今日の資料のほうにもありますが、高浜さんとト部さんの文章の中に5ヶ所ほど紫雲寺潟と出てきます。今回、青田遺跡の報告のなかにも5ヶ所ほど紫雲寺潟と出てきます。私のところに電話が相当殺到しまして、どうして日報はこういう風に書くのだろう、学者はこういうのだろうと。私にはライフワークが二つありまして、ひとつは内水面交通を考えたときに紫雲寺潟ではなくて塩津潟だというのは、塩の津という由来から塩津潟と言うのだと言われているのですね。芳井先生が示された正保2年の絵図にも塩津潟と書いてあるはずなんです。今まで私がいろいろなところで調べた絵図を見ても十何篇、塩津潟になっておりました。紫雲寺潟と書いてあるのは、紫雲寺の方が持っておられるのと、寛治図だけでした。そのところを考えると、古環境と歴史像という観点からしても、正式な名前で新潟県にアピールしたほうが良いのではないかと思っております。そのことから考えて、阿賀北では塩を作り出した黒川村から中条、加地、新発田を通って新潟を通って会津のほうまで塩を送っているという塩の道を復活させたいということでとりくんでいるわけですが、実際にもう教材になって副読本ができておりますし、中条町ではもう学習を始めているわけなので、あれをご覧になった、または、読んだ方々はどうしてこうなっているのかなあと心配であると思うので、ぜひこの件もこれからご一考してもらいたいと思います。もう一点はですね、今日のレジュメの中にも熊田さんが70ページに書いておられましたが、越後国の城柵といった場合、渟足柵、磐舟柵ともうひとつ都岐沙羅柵を同時に話題にしてほしいわけで、私は越後の城柵には三つあると思うのですが、どうも都岐沙羅柵を中央の学者は書かないし、新潟県の学者もそういうことを言わないし書かないので、私は今日のレジュメを見まして、70ページのところに都岐沙羅柵という文字を
みて非常にうれしかったです。ぜひ城柵のことを論じる際には、新潟県、特に渟足柵、磐舟柵、都岐沙羅柵と3つの城柵を取り上げて、研究していただきたいと思っております。お願いいたします。 |