幻の砦・失われた言語 ( H14.5.17 ) 大沼 浩 鶴岡工業高等専門学校 研究紀要 第36号 別冊(平成13年)
4.八世紀の蝦夷征討は、陸奥で行われた。しかし蝦夷は、時代をさかのぼれば、関東地方や長野県にも住んでいたかもしれない。七世紀には、新潟県以北の原住人であったことは確かである。次に日本海沿岸地域での、蝦夷との接触を、年表に挙げる。
柵は、蝦夷征討あるいはそれに備えるものであった。渟足柵は新潟市、磐舟柵は村上市の辺りと考えられている。出羽柵の位置ははっきりしないが、出羽国を置くにあたって、続日本紀にいう。「其北道蝦狄、遠慿阻険、実縦狂心、屨驚辺境。」斉明六の北征で、阿倍比羅夫は陸奥の蝦夷を自分の船に乗せていたが、これはガイド兼通訳であったかもしれない。巨勢朝臣万呂は、元明和銅二に、陸奥鎮東将軍であった。また佐伯宿禰石湯が、征越後蝦夷将軍であった。設置後の出羽国には、稲作や養蚕が導入され、移民も行われていたが、数年を経ての状況は、巨勢朝臣万呂の言上のようであったろう。蝦夷は、ことばが通じない不服従の意味の狂であり、移民が要請されたのを見ると、狩猟採集の民であったろう。 9.日本書紀の斉明天皇四年(658)の柵造授位の記事は、都岐沙羅柵が史上に現れる唯一の例である。淳足柵や磐舟柵から推定して、都岐沙羅と呼ばれる地点に設営された城柵であろう。この柵には、沼垂、岩船といった遺袮地がなく、位置や都岐沙羅の意味について、次のような諸説がある。 (1)
淳足柵以南説
岩波書店
新日本古典大学大系 日本書紀 (2)は、和名類聚抄に、『「渟足石船二柵之間に斉明四年紀都岐沙羅柵有る。」と明記してある。』という。また「都岐沙羅は、渟足柵・磐舟柵に続いて三番目に造営されている。」という。 10.中条町築地説については、倭名類聚鈔の記事を確かめることができない。これも一種の南下説で、渟足柵が648年、磐舟柵がその翌年に造られたのに、それから十年足らずで、両柵の間、磐舟柵の南に都岐沙羅柵が設営されたことになる。この地には古代の塩津潟が示されていることは、沼耳との関連で注目される。
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