中条町郷土研究会誌 第27号 「おくやまのしょう」
墨書土器「津」が物語るもの
伊藤 國夫
「津」と書かれた墨書土器が、中条町大字船戸字蔵ノ坪から出土した。蔵ノ坪遺跡からである。
この事実は、大字船戸字蔵ノ坪付近に「津」のつく港があったことを物語るものである。私は、物資を輸送した港があったことを立証することができる遺物の出土であると考えている。そのことを立証する集落名が、塩津・船戸・小舟戸・戸野港等が多数現存している。
また、蔵ノ坪遺跡では、荷札の木管出土や河道の遺構の発掘から、八世紀後半から九世紀後半に営まれた内水面に関わる港があったことが立証された。港関連の倉庫などの建物跡なども発掘されており、河川舟運の要衝地であっとことが一層明確になってきた。
墨書土器「津」が物語るものは、塩津潟の潟名の由来ともなっている「塩の津」津と関連するものと考えることができる。この「津」と書かれた墨書土器が出土したことにより、八世紀後半には既に「津」という地名が存在していたものと考えられる。それが事実だとすると塩津潟の由来ともなった「塩の津」が、1277年よりも以前に存在していたことになる。
「しうつ」という地名は、今までの最古の古文書は高井道円譲状案(1277年=中条町文化財指定)であった。しかし、日沿道の高速道路工事に伴う遺跡発掘によって、「津」の墨書土器が出土した。このことによって「津」の付く地名が、八世紀後半までさかのぼることができた大発見である。しうつに関連すると考えられる「津」の出土は、約500年もさかのぼることになる。
新潟県埋蔵文化財調査事業団は、第八回発掘調査報告会を平成13年2月11日に新潟市ユニゾンプラザで開催した。調査報告は、青田遺跡(縄文時代)、正尺C遺跡・A遺跡(古墳時代)、箕輪遺跡(平安時代)、蔵ノ坪遺跡(平安時代)、奈良崎遺跡(古墳時代)である。併設展示では、「発掘された文字資料」の出土品を観察することができた。
さらに、「出土文字資料から見た古代越後」と題して新潟大学の小林昌二教授が講演した。なお、この報告会の前に、それぞれの遺跡の発掘結果を現地説明会で新潟県民に説明していた。
「津」の墨書土器が、平安時代のものであることが判明した。この事実によって、塩津潟の東側に河川舟運の要衝地があったことが急浮上してきた。
私は、大和朝廷が越国に設置した渟足柵(647年)磐舟柵(648年)、都岐沙羅柵(658年)との関連が、一層深まったものと考えている。
NHKは「その時歴史は動いた」のテレビ番組の中で「そして、日本が生まれた」を平成13年6月27日に放映していた。斉明天皇(皇極天皇と同一人物)の人物像や大和朝廷の「国づくり」の様子に視点を当てていた。私は、大和朝廷の三城柵との関連で番組を観ていた。私は都岐沙羅柵は、塩津潟の中条よりの築地と塩津潟に存在したものと考えている。
その根拠はいくつかある。第一に、当番組は古代最大の対外戦争である「白村江の戦い」との関連で構成されていた。新鮮と百済と唐との国際的な情勢の中で、越国に城柵を三つも設置し、大和朝廷の「国づくり」を取り上げていた。大和朝廷の歴史的な事実は、日本書紀の記述だけではなく、酒船石遺跡の発掘や、飛鳥京苑池遺跡の発掘調査により、画期的な進展を示してきた。また、越国と大和朝廷との関係が、木簡や墨書土器の出土とその解明により、一層明確になってきた。斉明天皇は、661年7月に急死するが、その後斉明天皇の皇子に継承されていく。
藤原京(694年)に遷都するが、倭国から日本に変わった。唐は、703年に「日本」という国号を認めている。これ以後、日本は律令国家として発掘していくことになる。そんな国際情勢の中で、越国の城柵造営が進められてきたわけである。阿賀北地方の発久遺跡や蔵ノ坪遺跡等の発掘調査は、古代越後の様子を鮮明するのに十分な遺物を私たちに提供してくれた。
第二に、「にいがた学のすすめ」で検証することができる。新潟大学あさひまち展示会館オープン記念展で、平成13年12月1日から平成14年3月31日まで展示している。
この企画展示の一つは、「新潟・佐渡−内水面交通の歴史を探る」である。内水面交通と遺跡の立地をめぐる共同研究によって鮮明されつつある近年の成果が展示してある。
また、越後平野砂丘列のボーリング調査によるボーリングコアが展示されている。これから浮かび上がった潟湖形成の新たな知見をはじめ、地震活動による変動の様相、今なお所在が確定していない古代「渟足柵」探求の現状、近年の古代遺跡調査、成果による木簡や墨書土器などから見えてきた豊かな内水面の交通の諸相などが展示してある。
私は、この展示の中で特に関心を示した事は「渟足柵の推測地諸説」である。四つの説が、パネルに説明してある。一つ目は、新潟市山ノ下王瀬・河度地区=郷土史概論の大木金平氏など。二つ目は、新潟市松ヶ崎稲荷祠=大日本地名辞書の吉田東伍氏。三つ目は、新発田市大友地区=大日本地名辞書の吉田東伍氏。四つ目は、北浦原郡豊浦町・北浦原郡笹神村=渟足柵論の木村尚志氏である。
都岐沙羅柵については、説明も展示もなかった。誠に残念なことである。しかし、渟足柵の推測地が、豊浦町・笹神村や新発田市まで北上している。和名類聚抄の記述に見られるように、都岐沙羅柵が渟足柵と磐舟柵の二柵の間に存在すると、中条町の塩津と築地付近にあるとする私の説は有力になってくる。
第三に、「都岐沙羅柵」と書かれた木簡が近い将来に発掘されるものと思う。それは「沼垂城」の木簡か出土しているからである。「磐舟柵」の木簡も出土するものと思っている。新潟県埋蔵文化財調査事業団の今後の努力に期待している。
私は、「都岐沙羅柵」という文字や言葉を、見たり聞いたりすることが多くなってきたことに喜んでいる。最近では、里創プランの愛称に「都岐沙羅」が使用されていたり、推測地についての論文が多くなってきている。大変結構なことである。インターネットで「都岐沙羅=月さら」と検索すると、該当する項目が調べられるまでに発展してきた。新潟県民に「都岐沙羅柵」が、広く認識されてきている。
「都岐沙羅柵」が注目されるようになった原動力は、いくつか考えられる。「沼垂城」の木簡が出土したこと。「津」の墨書土器が出土したこと。「月さら」という郷土の菓子が作られたこと。研究者が長年研究を継続してきたこと。各市町村が地域おこしの目玉として「都岐沙羅柵」を取り上げてきたこと。斉明天皇に関する遺跡発掘が奈良県で実地されたこと。NHK放送局が、斉明天皇に関かわる主題で、全国放送を数回行ったこと。文部科学省は、新潟県の城柵研究に助成金を支援していること。越後平野砂丘別のボーリング調査を実地したこと。旧築地村の村歌に「月さら」の歌詞が使われていたこと等々があげられる。
今後とも多くの研究者が協力して、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵があった場所を一日も早く解明したいものである。中条町生涯学習課が主催し、「都岐沙羅柵サミット」か「月さら推測地のシンポジュウム」を開催することを提案する。公開討論会は、実現できないものであろうか。
|