塩津潟の「津」を想起
伊藤 國夫
「塩津潟」を着想起させる土器や木簡が出土した。また、「塩津潟」を見直して立証する新潟県の活動が相次いでいる。 塩津潟に関する最近の急速な進展ぶりを列記する。
第一は、「津」の文字が書かれた墨書土器が出土した。 新潟日報は、「古代越後の川港」−中条・蔵ノ坪遺跡−(平成12年11月1日付)と報道した。 港や船着き場を意味する「津」の文字が墨で底に書かれた土器が出土した。 県内では初めて発見されたものである。この遺跡は、塩津潟に通じる川のほとりにあったと考えられる。 奈良時代や平安時代にかけての中条町船戸の蔵ノ坪遺跡からである。 国司への米を舟で運搬したことを立証する「木簡」が出土している。 木簡を付けられた米は、小目への給与として外から「塩津潟」を利用して、船で運ばれたものと考えられる。 国司には、四つの職名がある。守・介・掾・目である。 新潟県埋蔵文化財調査事業団の説明によると、県内では三島郡和島村「下ノ西遺跡」で掾の木簡が出土している。 掾が同地方にいた可能性があるという。このことから、国府のある頚城地方に守の国司がおり、他地方に下位の国司を配置して越後国を分割統治していた可能性があるという。 越後国の古代の歴史ロマンが拡がってくる。同事業団では、「内水面運輸の一端を古代越後の支配体制が明らかになる貴重なもの」と説明している。
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「津」と書かれた墨書土器 |
中条町船戸・蔵ノ坪遺跡(H12.11.3) |
「塩津潟」には、胎内川・加治川・柴橋川・船戸川等々の水が流入しており、河川舟運の要衝地であったと考えられる。 このことは、私が新潟日報のミニックで既に報道済み(平成11年度)である。 その証拠は、蔵ノ坪遺跡の周辺に「塩津」「船戸」「小船戸」等の港に由来する地名が現存していることからも、容易に立証できる。
「塩の津」のある塩津潟の東側一体は、河川舟運の要衝地であったことが立証できた。 墨書土器の「津」という文字が、明確に物語っている。「津」の文字の出土は非常に高く評価できる土器である。 木簡の出土も、非常に貴重な資料である。中条町の古代の様子を知るための大切な文化財である。
第二は、新潟県立歴史博物館の開館である。平成12年8月にオープンした同博物館は、「近世の新潟」と題して「正保越後国絵図」を、大きく拡大して展示している。 江戸幕府の命令により作成された当時の「越後国」が、非常によく分かる。 正確に理解することができる。国絵図としての正確せは、一級の資料である。 この国絵図は平成8年3月に、新潟県の文化財指定を受けた由緒である国絵図である。 この国絵図には、「塩津潟」と明記してある。この国絵図を見た人達は、異口同音に「塩津潟なんだねえー。」と言っていたし、また驚いてもいた。 県立歴史博物館に、「越後絵図」が展示されたことは、新潟県の歴史教育に大きく貢献することは明らかなことである。
第三は、新潟県歴史博物館の「常設展示禄」の中に、「塩津潟(紫雲寺潟)」という記述が数箇所ある。このことは、非常に大きな出来事である。新潟県の公文書に「塩津潟(紫雲寺潟)」と、表記されるまでに進展してきたことになる。 従前であれば、紫雲寺潟だけの表記であった。それが、西暦2000年のミレニアムの年に、「塩津潟」と明記できるようになったことは、記念すべき年になったのである。 郷土史家が、力を合わせて郷土の歴史を見直した結果の大きな成果である。「真実は強い」という学問の力強さを感じている。「塩津潟」が、約266年ぶりに深い眠りから目覚め、平成12年度にみごとによみがえってきた訳である。 新潟県民が、堂々と「塩津潟」と呼べる時代がやってきた。
第四に、新潟県地質図改訂委員会(新潟県)が出版(平成12年3月31日発行)した「新潟県地質図説明書」の中に「古塩津潟(古紫雲寺潟)」という記述に変わってきた。 この記述は、同説明書の中に数回記述されている。 新潟県からの公共の出版物の中に「塩津潟」が明記された訳である。非常に大きな進歩である。 前述の新潟県立歴史博物館の展示と展示録の記述と相まって、「塩津潟」が新潟県下にデビューした記念すべき出来事である。 また、記念すべき年である。中条町にとっては、朗報であり、大きなプレゼントとなった。
第五に、中条町図書館の蔵書の中に「町のあゆみ」がある。この本の中では、正保二年越後絵図を引用して「塩津潟」のことが記述してある。 「塩津潟」だけで記述してある中条町の歴史書に、私はとても感心した。当時の「町のあゆみ」の編集委員の皆さんの卓抜した先見性と中条町当局の高い識見を、読み取ることができた。 この事実を、中条町だより等で中条町民に啓発していく努力が必要であると痛感した。 中条町のことは、中条町の人々が努力しなければ進展は望べくもない。
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丸木船(青田遺跡出土) |
H12.11.23 |
第六は、塩津潟の中央に位置する「青田遺跡」の発掘がある。高速道路の日沿道工事に伴い、発掘が相次いでいる。 発掘するたびに貴重な遺物が、続々と発見されている。 新潟県内初出土の「縄文丸木舟」が出土した。青田遺跡現地説明会(平成12年11月23日)では、みごとな「丸木舟」を拝見することができた。 大勢の参観者は、今から約2500年前の集落跡と、そこの住民が使用した「丸木舟」を見て、感激の声をあげていた。 当時は、水辺で「舟」を利用し、生活した事実が立証された。川か潟が存在していた事実が、現代の私たちに伝承してくれた。この「丸木舟」の出土によって「塩津潟」の成立年月を再考してみる価値は充分にある。
第七は、「村松浜郷土史」の発行である。平成12年3月の発行である。 村松浜郷土史愛好会の皆さんは、正保二年越後絵図を活用しながら、蒲原平野の様子を記述していた。 「塩津潟」の存在は、はっきりと認識することができた。中条町の郷土史の発行物を、是非一読してほしい。 郷土の歴史を知って、21世紀への対応をじっくりと考える時代にきていると思う。
第八は、小学校・中学校・高等学校の郷土史の教材化が進んでいる。 社会科や総合的な学習の時間に活用する「副読本」の製作が相次いでいる。中条町や豊栄市は既に完成している。 児童生徒は現に使用して学習を進めている。新発田市をはじめ各市町村の教育委員会は、副読本の改訂や復刻版の作業に取り組んでいる。 中でも中条町の「ふるさと中条」の内容は、とても素晴らしく画期的な教材である。 中条町町議会は、増冊のための予算化を検討しているという。 各学校では、自分たちの郷土の歴史を、各市町村の「郷土読本」を活用しながら、郷土の方々から教えてもらう学習活動に取り組み始めている。
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(中条町郷土読本より) |
第九は、各市町村の議会が、正保二年越後絵図の内容について取り上げている。 例えば、新発田市議会は、平成8年頃に取り上げている。 中条町の議会は、平成12年に取り上げている。このように、行政側も郷土の歴史の見直しに積極的に取り組み始めている。 この動向は、各市町村の見直しや増加版としての活動に発展してきている。 中条町や聖籠町等では、発行が真近いのではないだろうか。また、他の市町村でも、相次いで取り組み始めている。 この結果、「塩津潟」が一斉によみがえってくる日が近い。このことは、学者の強力な連携の賜物である。
第十に、「塩津潟の由来」のホームページのリンクが多くなってきている。新潟県内のコミュニティーの目的を幅広く情報を発信するという気運が非常に高まってきている。 「塩津潟の由来」は、各方面の情報発信と密接にリンクされており、多くの人々に広く活用されている。 平成12年1月現在1405回のアクセス数を数え、それぞれに利用されている。 「塩津潟」の内容を充実させるため年々増加しており、頁数もかなりの数に達している。
第十一に、各種の古絵図の復刻版が計画されている。当時の越後国絵図の復刻版が手軽に入手できるようになる訳である。 当時の地形や地名が、自分の目で直接確認できるようになってきた。それも手ごろな値段で購入できることは、大変喜ばしいことである。 以上のように、ここ一年間で大変な勢いで「塩津潟」が取り上げられ、新潟県民に正確に認識されてきた。 私は「おくやまのしょう第25号」で「塩津潟のうつりかわり」と題して記述したばかりである。 しかしながら「塩津潟」に関する情報が、ものすごいスピードで進展してきているので、再度筆をとった次第である。
行政サイドや学校サイドの各方面の方々は、この進展状況を的確に把握し、迅速にかつ正確に対応することを期待している。
先人の業績を「温故知新」することによって、現代の郷土の発展に寄与できる「文化の伝承と地域おこし」に役立てたいと考えている。
おやひこさま物語 | 大森 利憲 |
ふるさと中条 | 中条教育委員会 |
新潟県立歴史博物館 | 常設展示禄 |
新潟県立歴史博物館 | |
新潟日報 | 新潟日報 |
町のあゆみ | 中条町総務課 |
青田遺跡現地説明資料 | 新潟県埋蔵文化財調査事業団 |