第三回にいがた湖沼フォーラム

潟と文化を語る

平成17年2月27日

にいがた湖沼フォーラム実行委員会

第3回 にいがた湖沼フォーラム
【潟と文化を語る】
平成17年2月27日
塩津潟教育研究所
所長 伊藤 國夫 

[塩津潟をしのび、文化の継承と復元を試みる]

1 私の提言
(1)塩津潟の復元をする。→紫雲寺潟を塩津潟に戻し、新潟県内の「塩の道」を継承する。
(2)都岐沙羅柵の比定地を中条町に復元する。→中条町や新発田市の地域おこしに活用する。
(3)信濃川を改名する。→新潟平野と統一して新潟川に改名する。

2 新潟県内の「幻」を文化の伝承まで高める(今回は、次の4点を取り上げる)
(1)塩津潟→紫雲寺潟にいつ変わったか?
(2)塩の津→塩を送り出した津はどこか?
(3)都岐沙羅柵→渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵はどこか?
(4)信濃川→妻有川はいつ信濃川に変わったか?

3 『塩津潟は塩の道』は、上記の課題解決の提言(初版はH15.8.20、二版はH16.8.9に発行)
(1)塩津潟の文化の伝承
  『塩津潟は塩の道』を、県及び各市町村の活性化に役立てる⇒「塩の道」の文化の復元
  @新潟県の『夢事業』の中の一つ「街道物語」歴史事実を継承する。→「塩の道」・「金の道」
  《新潟県内の塩の道》⇒『塩津潟は塩の道』の76〜77ページ
   ☆ 下越地方は、新潟市が中心になって地域おこしをする
   ☆ 中越地方は、長岡市が中心になって地域おこしをする
   ☆ 上越地方は、糸魚川市が中心になって地域おこしをする(先進都市である)
  ○ 新潟⇔豊栄⇔新発田⇔加治川⇔中条⇔黒川(塩谷・塩澤)⇔「塩津潟の由来」
  ○ 新潟⇔津川⇔会津    <鳥井峠・束松峠>
  ○ 寺泊⇔叶津⇔塩澤・川口 <八十里峠>
  ○ 新潟⇔六日町⇔沼田・渋川<三国峠>
  ○ 岩船⇔小国⇔米沢    <板谷峠・二井宿峠>
  ○ 柏崎⇔小千谷⇔只見   <六十里越>
  ○ 糸魚川⇔大町⇔松本   <三坂峠>
(2)新潟県内の「塩送り」文化の伝承⇒「塩」に関わった先人の生業
  @製塩に関わった人々         A塩を運んだ人々
  B製塩に必要な薪を調達した人々    C塩蔵を所有管理した人々
  D荷造りに関わった人々  など
(3)河川舟運による物資の交流⇒内水面交通の重要性
  ○川⇒・阿賀野川・信濃川・加治川・胎内川・荒川 など
  ○潟⇒・岩船潟・塩津潟・島見前潟・福島潟・鳥屋野潟・佐潟 など
  《河川舟運の例》
  ◎岩船湊⇔荒川⇔胎内川⇔塩津潟⇔加治川⇔島見前潟・福島潟⇔阿賀野川⇔信濃川⇔新潟湊
  ◎新潟⇔阿賀野川⇔津川⇔会津
  ◎新潟⇔阿賀野川⇔能代川⇔村松
  ◎新潟⇔信濃川⇔長岡⇔小千谷⇔川口
(4)塩津潟の復活を提言
  @河川舟運(内水面交通)による「塩」の物流を伝承する
  Aその歴史事実から、塩津潟を復活させる
   ☆黒川の塩谷・塩澤⇔胎内川⇔中条の塩津⇔塩津潟⇔加治川⇔島見前潟・福島潟⇔阿賀野川⇔新潟湊
   ☆黒川の塩谷・塩澤⇔胎内川⇔荒川⇔岩船湊
   ☆新潟湊⇔阿賀野川⇔津川⇔会津
(5)塩津潟の呼称がいろいろ⇔新潟県・各市町村によって記述や呼称が違っているのはおかしい
  @塩津潟         A塩津潟(紫雲寺潟)
  B紫雲寺潟(塩津潟)    C紫雲寺潟
  ※ 最近は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)と記述し、呼称することが多くなってきた。
  《 塩津潟や都岐沙羅柵が見られる主な年代 》
  600年代 大和朝廷が越国(新潟県)に城柵を設置する⇒内水面交通が考えられる
  ○渟足柵(647年) ○磐舟柵(648年)  ○都岐沙羅柵(658年)⇒日本書記に記述
  700年代 『津』の墨書土器が、中条町大字船戸の「蔵の坪遺跡」から出土する
  1060年 『康平絵図』に、「塩津潟」が見られる
  1277年 『高井道円時茂譲状案』に、「しうつ=塩津」が存在する⇒中条町文化財
  1645年 『越後絵図』に、「塩津潟」が存在する⇒新潟県・新発田市文化財
    ◆江戸幕府3代将軍徳川家光の命令により製作する
  1700年 『越後国北蒲原郡岩船郡絵図』に、「塩津潟」が存在する⇒新発田市文化財
    ◆江戸幕府5代将軍徳川綱吉の命令により製作する
  1710年代 新発田藩が。「塩津潟」を新田開発する⇒この頃は塩津潟と呼称
  1726年  竹前氏が「塩津潟」の干拓を江戸幕府に願い出る→この願い書に「紫雲寺潟」と記述する⇒干拓の事業名が『紫雲寺潟干拓」と理解する
  1728年  竹前氏が、「塩津潟」の干拓を始める
  1732年  竹前氏たちの干拓事業が中断する
    ※この干拓事業以後は、本来の潟名である「塩津潟」に戻すと良い
    ※「紫雲寺潟」は、一般的に使用されていたが、地元の人々が「塩津潟」と呼んでいた程度
  1994年 『塩津潟の由来』というホームページを伊藤が開設する
        新発田市立外ヶ輪小学校で「塩津潟」の学習を本格的に実践する
        「塩津潟」という郷土菓子が誕生する⇒中条町
        紫雲寺潟(塩津潟)という記述が、少しずつ見られるようになってきた
  1995年 「都岐沙羅柵=月さら」の郷土菓子が誕生する⇒中条町
  1998年9月 中条町郷土読本『ふるさと中条』に「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述された⇒中条町教育委員会発行
  2000年3月 中条町議会で「塩津潟」の存在を確認する
          中条町は、「塩津潟」を公式に使用していることを町民に知らせる
          『新潟県地質図解明書』に、「古塩津潟(古紫雲寺潟)」と記述する⇒新潟県商工労働部
          新発田市議会が、「塩津潟」を正式に認知する⇒『新発田市議会だより』で、市民に知らせる
  2000年8月 新潟歴史博物館、『越後絵図』を展示し、「塩津潟」を説明する
          『常設展示録』には、「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述する
  2002年3月 『胎内川の恵み』は、「塩津潟」と記述する⇒胎内川沿岸土地改良区発行
  2003年8月 『塩津潟は塩の道』の初版を出版する(伊藤國夫著)⇒「塩津潟」と記述する
  2004年6月 『胎内川流域のわが郷土を』を出版する(片野徳蔵氏著)⇒「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述する(黒川村元教育長)
  2004年6月 紫雲寺町議会は、「塩津潟」の存在を確認し、『紫雲寺町町議会だより』で町民に知らせる
  2004年8月 「都岐沙羅柵」を更に加筆し、『塩津潟は塩の道』の二版を出版する(伊藤國夫著)
  2004年9月 「塩の津」という郷土菓子が誕生する⇒中条町(津の墨書土器の出土を記念して)
  2005年2月 『塩津潟をしのび、文化の継承と復元を試みる』⇒伊藤國夫(新潟湖沼フォーラム)

4 塩津潟の文化の伝承
 (1)黒川村に、製塩がおこなわれていたこと⇒塩谷・塩澤
 (2)中条町に、塩の津があったこと⇒塩津・船戸・小舟戸・戸野港等が周辺に存在すること
 (3)河川と潟は、河川舟運(内水面交通)が行われていたこと
 (4)古絵図により、当時の地形や地名を確認すること
 (5)塩津潟周辺に、縄文時代や古墳時代の遺跡が沢山存在すること
 (6)塩津潟周辺に、大和朝廷の城柵の一つ「都岐沙羅柵」があったと考えられること
 (7)塩津潟は、地域住民に、いろいろな恩恵を与えていたこと
    @ 衣 → すげかさ・防寒具 など
    A 食 → 鯉等の魚介類、菱等の植物類、渡り鳥 など
    B 住 → 壷等の屋根材、雪囲いのよしず など
 (8)古絵図や古文書等の歴史史料を伝えること

5 塩津潟の文化の伝承方法
 (1)教育用資料や副読本を活用する
   ○新潟県立歴史博物館の常設展示録  ○新潟県地質図解明書  ○ふるさと中条
   ○胎内川の恵み  ○胎内川流域のわが郷土  ○わたしたちの中条・黒川
   ○塩津潟は塩の道(初版・二版)  など
 (2)副読本を編集する」⇒合併による新発田市や新潟市  など
 (3)博物館や資料館等を見学する⇒新潟県立歴史博物館・新潟市立歴史博物館・江上館  など
 (4)歴史学者が、講演会を実施する
 (5)『塩津潟の由来』のホームページを活用する【http://www.inet-shibata.or.jp/~shionotsu/】
 (6)郷土菓子を創作する⇒「塩津潟」「月さら=都岐沙羅柵」「塩の津」  など
 (7)各市町村のイベント @井上久作の塩止め事件の演劇⇒新発田市
              A塩の道ウォークラリー⇒新発田市  など

6 塩津潟の復元を試みる
 (1)教育現場で、副読本等を活用する     (2)生涯学習課等の講演会を実施する
 (3)新発田市や新潟市の副読本を編集する   (4)新潟県全体が、塩津潟を共通認識する
 (5)康平絵図や越後絵図を復刻する⇒新発田市のS印刷所で進行中
 (6)「塩津潟記念公園」を造成する⇒中条町・黒川村の甫場整備と連動している
 (7)「塩津潟記念資料館」を建設する⇒同 上

7 都岐沙羅柵の文化の伝承
  『都岐沙羅柵』については、拙書『塩津潟は塩の道』の第七章「よみがえれ!都岐沙羅柵」に記述してある。299から383ページである。
 (1)都岐沙羅柵が語ること    (2)都岐沙羅柵の比定地は、中条町築地
 (3)都岐沙羅柵の諸説      (4)初版版の塩津潟と都岐沙羅柵
  ※ 「都岐沙羅柵」の比定地が、中条町であると提唱している人
    ◎ 芳賀 矢一氏⇒国学院大学学長       ◎ 斎藤 秀平氏⇒元新潟県立図書館長
    ◎ 小野まつえ氏⇒『幻の都岐沙羅柵』の著者  ◎ 伊藤 國夫 ⇒塩津潟教育研究所

8 都岐沙羅柵の復元を試みる
 (1)新潟県に、三つの城柵があることを確認する
 (2)三るの城作は、河川舟運(内水面交通)と関連する
 (3)阿倍比羅夫と古四王神社との関連を解明する
 (4)旧築地村の村歌「史に名高き月さらの〜」は、芳賀矢一氏が作詞であることを理解する
 (5)郷土菓子「月さら=都岐沙羅柵」を創作する
 (6)「都岐沙羅柵」に関する、シンポジウムを開催する

9 新潟県・新潟市に「新潟川」の提言
  新潟市は、平成の大合併で田園型政令指定都市が誕生する。私は、この大合併を機会に「信濃川」を「新潟川」に改名することを提言したい。
  改名すると良い理由を、次に列記する。
 (1)信濃川は、長野県側は千曲川である。新潟県側は、妻有川と呼称した時代がある。妻有川はいつ消えたか?信濃川は、いつどういう理由で決定したか?
 (2)長野県は、現在「信濃県」と県名を変更を検討している。
 (3)都市名は、川の名前と同一のものが多い。⇒石狩川、富士川、阿賀野川  など
 (4)越後平野は、新潟平野と記述し呼称することが多くなってきた。
 (5)信濃川〜新潟平野より、新潟川〜新潟平野の方が柳都『新潟市』に似合っている。
 (6)川の名前を変えた事例がある。⇒堀切川を落堀川に変更する(堀切村にあった堀切川)
 (7)川の改名運動に発展した事例がある。⇒四万十川  など
  ※『水辺の文化都市』を全面に打ち出し、人間らしい豊かな生活を構築するのであれば、新潟県人の主体的な決断で「新潟川」と改名する勇気を持ってもよいと思っている。

10 新潟県の歴史の見直し
  新潟県内の『塩の道』の一つとして重要な役割を果たしてきた「塩津潟」が、約270年間も幻になっていた。
  私は、この「塩津潟」を現代に復活・復元して、先人が長年営んできた『塩の道の文化』を、後世に伝承する活動を長年実施してきた。
  私は【ソルト・ロード】の文化の継承を、強く願い、『塩津潟は塩の道』の英文のダイジェスト版を近日中に発行する。
  高等学校や大学や社会教育で、広く活用されることを期待している。



本田 清 会長



篠田 昭 新潟市長

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