例会報告 平成17年3月8日

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[ ニコニコBOX ]
高橋正明 会員
伊藤先生、今日はありがとうございます。たくさんの資料の展示、そして「塩津潟は塩の道」の本もご寄付いただきありがとうございます。

[ 卓話 ]
塩津潟教育研究所 所長 伊藤國夫 様
塩津潟、都岐沙羅柵を長いこと研究してきました。歴史というのは、やはり私達が生きていくのに大変大事だなと思っていますので、本にしたり講演したり、ホームページを開いたりしています。1,645年徳川家光が作らせた絵図に塩津潟と書いてあります。この潟が今、幻になっています。5代将軍綱吉が作らせた1,700年代の地図にも塩津潟と書いてあります。この二つが文化財に書いてある通りに言わない。紫雲寺潟と言います。それを何とかしたい。文化財の通り、塩津潟がいいといいと言っています。新発田市の年式では約10年前ほど遅れています。それは何でかと言うと、政治家がやらないのです。市職員が全然ダメで何度言っても聞かないのです。教育現場の校長、教頭が有識者だという事で歴史を市職員や政治家に言えばいいんだけど、これもほとんど新発田市の場合しません。だから塩津潟と言うと市民は分からない人が多いです。紫雲寺潟でいいと言うのです。大変困った事です。こんな大きな潟が歴史上、幻になっているんです。この絵図を正確に伝えたいというのが私の願いです。中条町の文化財三浦家の財産分与の公文書に塩津が出ています。中条の船戸から約1200年前の津の墨書土器が出土しました。船戸・小舟戸・戸野港・塩津と港に関する地名が今でも残っています。そうすると立派な港があった事は分かりました。1,726年に竹前さんたちが幕府に塩津潟を紫雲寺潟と変えてお願い書を出しています。新発田の言い分は、竹前さんたちが紫雲寺潟とだしたから紫雲寺潟でいいと、ここから紫雲寺潟になってしまいます。理論的にここまでは完全に幕府も認めた潟の名前があるのに、そんな処に塩津潟なんかあるわけないという感じで取り合ってくれません。竹前さんたちは大金を使って干拓をやりましたが、1,732年に金が尽きて止めています。最終的に仕上げたのは、新発田藩・新発田市民でした。新発田の殿様は、竹前さんが来る前から、初代から新田開発には大変な力を入れていました。この新田開発の殿様の業績を子供い伝えたり、市民に伝えたりしたらどうかと言うんですけど、いいんですと言うんです。だから副読本も全然できておりません。新発田の場合、伝えなくていいんです。お城なんかばっかり作るのは上手だけど、中身がほとんどこんな感じでないのです。お城が良いのできたんだから、中身を煮詰めたらと言うんですけどこういう歴史的な事実をほとんど言いません。福島潟と塩津潟は、加治川によってつながれた兄弟潟です。豊栄市はすごく力を入れてやっていますが、合併すると新潟市になります。鳥屋野潟、福島潟、佐潟と塩津潟と福島潟と加治川の歴史、荒川からずっと新潟まで舟が通っていたので、この舟のことをもう少し歴史的に教えたらどうかと思います。新発田市としては、新発田藩の事もあるのでこれからずっと塩津潟と言った方がいいと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。