(15.5.28)

○議事日程 第3号
平成15年3月12日(水曜日) 午前10時開議
第 1 会議録署名議員の指名
第 2 一般質問


一 般 質 問 通 告 書

平成15年3月定例会(15.3.12)

順番
質問通告議員
通 告 項 目

長谷川 晃

1 紫雲寺潟か塩津潟なのかについて
2 産業会館跡地の暫定利用について

○議長(牛腸 栄) 次に、長谷川晃君。

〔29番 長谷川 晃議員登壇〕

○29番(長谷川 晃議員) おはようございます。通告に従って一般質問をさせていただきます。
 まず初めに、教育長にお尋ねいたします。歴史事実、紫雲寺潟か塩津潟なのかの確認についてであります。先般建築士会支部の総会における講習会で学んだ紫雲寺町や中条町、加治川村にわたって存在した通称紫雲寺潟が実は塩津潟であることについて確認いたしたく質問する次第です。講師は、塩津潟研究家の方でありました。その先生の研究によれば歴史的事実として江戸幕府が各藩に命じて作成した正保2年、1645年の絵図、元禄13年、1700年の絵図、いずれも新発田市及び新潟県の文化財に指定されておりますものには、塩津潟と明記されており、黒川村に塩沢、塩谷という集落が今でも存在し、古くはこの塩沢、塩谷より山から山塩を取り出し、この潟端から積み出して水路を経由し、会津など各方面に運び出されたがゆえに塩の津であり、塩の港、すなわち塩津のある潟から塩津潟と命名されたものと推察されておりました。塩津潟が干拓されたのは享保12年から19年にかけて行われ、そのとき享保6年、1721年の干拓絵図には紫雲寺潟と記載され、潟の開発にかかわる書類等は紫雲寺潟と記載されてあるそうです。しかし、紫雲寺潟の命名についての歴史的事実はなく、ションヅ潟のなまった発音からションが紫雲に化け、ツがヅになまって塩津潟がションヅ潟と発音されて、紫雲寺の文字に変化したものとの解釈が妥当との話がありました。
 歴史的事実の塩津潟は、先生の研究からいち早く黒川村では、胎内川沿岸土地改良区50周年記念誌に紫雲寺潟を塩津潟に名称を変更し、さまざまな歴史的事実を表現する公文書はすべて塩津潟と改められたとお聞きしました。また、中条町でも小学校の教科書で使われる郷土読本「ふるさと中条」で同様に変更され、過渡的措置として「塩津潟(紫雲寺潟)」と表現されているとされたそうです。新潟県でも歴史的事実として歴史博物館で塩津潟に改め、常設展示録にはそのように記述され、新潟県地質図説明書の中でも「古塩津(古紫雲寺)潟」と記載されています。この塩津潟干拓は新発田藩が行い、現在はすべて美田と化し、日東道の高速道路がその中央に位置しており、その面影を残しています。学校の教育現場で、この地域に育った子供たちが過去のことについて学んでいることが、一部の子供たちは塩津潟と認識し、ある子供たちは紫雲寺潟と認識されることはいかがなものかと感ずる次第です。事実は一つであり、どちらかに統一されるべきものであり、歴史的事実による塩津潟に統一されるべきものであると思うのであります。このことについて、今後の教育行政に混乱を来さないようにしていただきたいと考えます。教育長のご見解をお示しいただきたいと思います。

○教育長(臼井茂夫) 長谷川議員のご質問にお答えいたします。
 紫雲寺潟の名称につきましては、ご案内のとおり江戸時代前期は塩津潟と表記されておりました。干拓事業が始まった江戸時代中期の享保年間以降、藩の公式文書などで紫雲寺潟と表記され、今日に至っております。歴史的事実によって塩津潟に統一されるべきであるというご意見でございますが、県の見解では塩津潟と紫雲寺潟の二つの事実があり、一つに統一されるべきものではない、塩津潟の名称に統一した方がよいという考え方に対しては、歴史研究の方法として容認できるものではないとなっており、大多数の歴史関係者の支持を得ているものであります。したがいまして、江戸時代前期以前の表記で用いる場合は塩津潟と、それ以降の場合は紫雲寺潟とするのが一般的であると認識しております。
 以上、お答えといたします。

○議長(牛腸 栄) 長谷川晃君。

○29番(長谷川 晃議員) 大変ご答弁ありがとうございました。まず最初に、紫雲寺潟と塩津潟の件について教育長に再質問いたします。
 現実に今どちらが正しいというよりも両方歴史的にあったことは事実ですので、否定するもんではありませんが、やはり子供たちが紫雲寺潟だけで認識するというのはいかがなものかという面があると思います。現実に中条町のこちらにあるわけですが、「ふるさと中条」の中に「塩津潟(紫雲寺潟の干拓に尽くした竹前権兵衛、小八郎)」という部分がありまして、その中で括弧書きできちんと両方明記されております。そんな形から、やはり紫雲寺潟だけで教育するということでなく、過去に塩津潟という歴史事実もあったわけですので、やはりこのような形で表記されるべきものというふうに考えます。なお、県の資料にも括弧書きで古いという、古塩津あるいは古紫雲寺というふうに明記されております。現実にこちらに県の資料があるわけですが、それらについてもそのような表記がされております。どちらが正しいというよりもできることなら私の希望とすれば塩津潟がいいんじゃないかなというふうには思うんですが、皆さんがこのような両方括弧書きであらわしているという事実がありますので、そのような形でやはり教育現場に持っていくべきだろうというふうに考えます。その辺お尋ねいたします。

○教育長(臼井茂夫) 長谷川議員にお答え申し上げます。
 この研究されている方から私にもいろいろと講演会の内容であるとか、いろんな研究の資料を送っていただいて、非常に関心を持っているわけでございます。また、いろいろの塩津潟についてのあるいは塩の道についての研究については一応の評価をしているわけでございますが、学校の教育の中で子供たちにどのように教えるかという問題につきましては、先ほどお答え申し上げましたように県の文書課に問い合わせてみましても二つの事実がある。歴史上の江戸時代の前期の場合と、あるいはまた後期以降の場合と名前が二つあることは事実であると。新発田市の場合では、この「私たちの新発田」という副読本を昨年度以来、子供たちに全員持たせているわけでありまして、新発田市はご案内のとおり歴史的には加治川の水害が非常に多く発生しまして、水との闘いの歴史というのは、これはもう否めない事実であって、それを子供たちにしっかり教えていくという関連の中で、その図録に紫雲寺潟というのが出てくるわけです。やはり議員のおっしゃるとおり紫雲寺町では紫雲寺潟ということで、中条や黒川では両方のことを明記してあるということから、歴史的な事実としてこういうふうな竹前兄弟のこともございましたし、また竹前兄弟の私財を投じてのこの干拓の事業に献身されたことに対することから、紫雲寺というお寺が建てられたことも聞いておりますが、いろんないきさつがあったと思います。そんなことで、その歴史の事実についてはやはり私どもどういうふうに教えていくか。加治川の水域との関係から、去年出たばかりですので、それらについて歴史の事実は、またどういうふうに教えるかについては検討してみたい、こういうふうに考えております。

○議長(牛腸 栄) 長谷川晃君。

○29番(長谷川 晃議員) それでは、今ほどの教育長からのご答弁で、これから検討していくという話ですが、やはりこの地域で育つ子供たちが同じ認識で学ぶべきだろうというふうに思いますので、これから市町村合併もございます。そんな形で教育行政も一本化されていくものというふうに思いますが、そんな中で広域的な意味合いも込めてよその教育委員会とも連携を図りながらやはり塩津潟、紫雲寺潟、両方の事実があったということだけは認識させておいた方がいいというふうに思いますので、ぜひ検討をお願いしたいというふうに思います。ご要望にとどめておきます。