中条町議会 一般質問(H15.9.19)

○議長(水澤寅一君) 富樫君。
〔7番 富樫 誠君質問席〕
○7番(富樫 誠君)続きまして、「塩津潟は塩の道」発刊についてお尋ねします。この本であります。実は去る8月8日、中条グランドホテルにおきまして開催されました「塩津潟は塩の道」出版記念祝賀会にご案内をいただき、出席してまいったわけであります。著者の塩津潟研究研究所、伊藤國夫先生は、柴橋小学校、中条中学校、私の2年先輩であり、私も地元議員ということで参加させていただきました。そこでいただきましたこの本を見て驚いたわけであります。ちょっと本文を若干紹介させていただきます。
「中条町の定例議会で、塩津潟について一般質問が行われたのが平成12年3月のことである。塩津潟については、議会で質疑応答が公式に実施されたのは中条町が最初である。公式記録に塩津潟が再登場した画期的な出来事である。中条町では平成10年9月に中条町教育委員会が発行した中城町郷土読本「ふるさと中条」で塩津潟(紫雲寺潟)と表記した副読本を編集している。この中条町議会記録によって、中条町では塩津潟と記述し、塩津潟と呼称する根拠ができたわけである」ということでございます。50年の歳月をかけて取り組んだといわれるこの研究の成果が議会という公式の場で論じられ、中条町議会会議録に塩津潟と記述されたことにより、地元中条町にも正式に認められ、塩津潟と呼ぶ根拠ができたとしております。
長年積み重ねた研究が本当に根をおろすということに、行政、議会、また地元の人にきっちと認識していただくことがこれほど重要なのかなということを感じた次第であります。先回は、ふるさと中条の子供の副読本について教育長の見解をお尋ねしたわけでありますけれども、このたびは町長にこの塩津潟研究にたいするご認識を伺いがいたいと思います。
また、今度ほ場整備は塩津地区に入るわけであります。この塩津潟研究成果が地元で実感できる、塩津潟ここにありのテーマパーク的なものをつくる考えがおありかどうか、お伺いいがします。

○議長(水澤寅一君)町長。
〔町長 熊倉信夫君登壇〕
○町長(熊倉寅一君)塩津潟の研究に対する町長の認識についてということのご質問でございます。
平成12年の第1回定例会において、議員からのご質問に対して、教育長から当時の状況をお答えした経緯がございます。このたび伊藤国夫氏が個人的に塩津潟の由来を長い間研究を重ねられ、その成果を発表された偉業に対し敬意を表したいと思います。
今回の氏の研究で、塩の道に関しまして、改めてその重要性を認識いたしました。塩津潟、紫雲寺潟の呼称につきましては、氏の研究内容にもありますように文献などに使われてきた歴史をたどってみますと、まず塩津潟、そして後に潟の干拓事業が行われましたが、それ以降は紫雲寺潟と称されてきたということであります。なお、小学校で使用の郷土読本「ふるさと中条」で、塩津潟、紫雲寺潟と記述したとこについてでありますが、潟開発以前の呼称は大方が塩津潟で記述されていたことから、当時の編集委員では塩津潟としたいとの意見がありましたが、どちらも使われてきたという歴史を考慮し、塩津潟と紫雲寺潟を併記することとした経緯がございます。しかしながら、近年における大勢の歴史研究家の成果や県等が発行してまいりました多くの書籍の記述等を踏まえた上で、近い将来中条町としては塩津潟に名称を統一する方向で対応してまいりたいというふうに考えております。
次に、ほ場整備が塩津地区に入るが、塩津潟ここにありというテーマパークをつくる考え方はというご質問でございますが、平成18年度以降着工とされております柴橋地区の県営ほ場整備事業の用地により、ソウセイ非農用地として、仮称ではございますが、塩津潟記念公園用地として20アールから30アールを取得する計画で地元と調整しているところでございます。施設維持管理等については、今後地元関係者と協議、検討してまいりますので、ご理解をお願いいたします。
以上であります。

○議長(水澤寅一君) 富樫君。
〔7番 富樫 誠君質問席〕
○7番(富樫 誠君)私もこの「塩津潟は塩の道」読ませていただきまして、伊藤先生が10歳のとき新発田市へひとり旅をされたとき、新発田公民館で大きい地図の中に塩津潟という名称の潟があったと、うちへ帰って塩津潟とは何かと問うても、そんなのは知らない、でもあの大きい地図にかかれた塩津潟の印象が忘れられない、これが伊藤先生が塩津潟研究に取り組んだスタートだそうであります。
たまたまでありますが、1週間くらい前、柴橋小学校の6年青木のぞみさんという方が手紙づきで、私に総合学習の中で調べた昔の道というのができました、見てくださいということで、いただきました。ここには、大桜峠を切り開いた鈴木どうきさんという方のことが詳しく載っておりました。この方は、6年の歳月費やし、当時の4,000両、今ですと12億円から20億円と書かれております。これだけの私財を費やして船戸から横岡まで大桜峠を切り開いたのだ、非常に中条にもすばらしい先人がおったのだということであります。たまたま高速道路、アクセス道路が船戸を通り、いろんな面で遺跡発掘等行われたわけでありますが、それらを見ておった子供たちがこうして昔をたどる。私は、当時の伊藤先生とダブるわけであります。こういったことで、ぜひとも地元に眠っている歴史を今後とも行政としても掘り起こし、大事に育てていただきたいということをまずお願い申し上げるわけであります。


富樫 誠 様