中条町議会
平成12年 第1回定例会
中条町議会会議録
平成12年3月 7日 開会
平成12年3月22日 閉会
一般質問
3番 富樫 誠君
(富樫様の質問)
中条町の小学校の社会科で使われている郷土読本「ふるさと中条」、これは町教育委員会で出しておられる本でありますが、この中に出てくる紫雲寺潟の干拓というところが、平成10年9月改訂の本からは塩津潟(紫雲寺潟)に変更になっていますが、その変更になった経緯についてお伺いいたします。また、中条町がたとえ塩津潟と認識しても、紫雲寺町初め大多数の人は各種イベントやマスコミ報道等から紫雲寺潟と認識しているのだと思うのですが、町として外にむかって何かアクションを起こす気はないのでしょうか。
先般2月20日、町文化会館で行われました日沿道アクセス道からの遺跡発掘調査の報告会の場でも、県の埋蔵文化財調査事業団の認識はまだ紫雲寺潟でありました。今後調査研究が進めば、塩津潟となる可能性も示唆していったのですが、県に対しても町として資料提供やもろもろの働きかけを行い、正しい塩津潟の歴史を町民の前に示すべきだと私は思うのですが、教育長の簡潔な答弁をお願いして、私の質問を終わります。
(教育長の回答)
○教育長 (中倉誠一君) 歴史認識についてご質問がございましたので、お答えいたします。
まず、塩津潟、紫雲寺潟という呼称について文献などに使われてきた歴史をたどってみますと、康平3年、西暦1060年、寛治の絵図では塩津潟、寛治3年、1089年では紫雲寺潟、慶長2年、1597年、それから正保2年、1645年、元禄13年、1700年の国絵図には、いずれも塩津潟と明記され、呼ばれてきた時代をうかがい知ることができます。寛治年間に土地の所有者、伝説では真野長者という伝説もあるようでありますが、それによって紫雲寺というお寺が建立されております。塩津潟の開発が行われたのは、享保12年から19年にかけてでありますが、享保6年、1721年の干拓計画の絵図では紫雲寺潟と記されておりますし、潟開発にかかわる願書、許可証等では全部が紫雲寺潟と呼称されており、紫雲寺潟干拓、開発と言われて、塩津潟干拓とは言われてこなかったと、このような状況であります。正式にいつからどういう根拠で紫雲寺潟としたかという記録はまだ解明されておりませんが、紫雲寺の建立、潟の干拓工事とかかわってきたものと考えられます。
お尋ねの郷土本「ふるさと中条」で、塩津潟(紫雲寺潟)と記述したことについてでありますが、これも歴史の話なのですけれども、建治3年、1277年の中条文書にも地名としてしうつとありまして、塩津を指した記述がございます。しかも、先ほども触れましたとおり潟開発以前の呼称は大方が塩津潟と記述されていたことから、塩津潟といたしたいとする「ふるさと中条」の編集委員会の意向を尊重し、学校現場では潟の呼称を塩津潟と紫雲寺潟とに使われてきたと、そういう歴史もきちんと教えることとして、塩津潟(紫雲寺潟)としたものであります。
また、紫雲寺潟と認識している他町村や県内外の人々が多いことから、町として呼称を塩津潟とするためのイベントや報道など具体的なアクションを起こすべきである、さらには県の埋蔵文化財調査事業団の認識と可能性への示唆に対して、町として資料提供等を積極的に行うべきであるということでありますが、これまでも大勢の歴史研究家がかかわってきましたし、現在も身近に塩津潟研究家もおり、資料の収集、解明などで努力しておられます。潟の呼称を940年前にさかのぼって塩津潟とすることについては、研究家諸氏の今後の成果をまたなければならないように思います。干拓事業以降は潟そのものが現存していないことや、紫雲寺潟という呼称が一般的に使われ定着したことでもあり、今の時点でこれを改めて塩津潟という呼称でで統一するのはどうかと考えます。
ただ、歴史上大切なことは、塩津潟があり、干拓工事にかかわった人々がおり、開発が紫雲寺潟干拓工事として進められ、7年の歳月をかけて完工し、それ以来潟は紫雲寺潟と称されてきたということであります。このように塩津潟、紫雲寺潟と明記された史実を正しく学び理解していくことが一つの歴史認識であろうかと思います。

富樫 誠 様
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