席替えに見る子どもたちの「本音」と「建前」


子どもたちは席替えが好きだ。
本当に好きだ。
日常生活における重要なイベントの一つなのだ。
「今日は席替えをします」
と宣言すると教室は無条件で盛り上がる。
自分の席の周辺のメンバーが変わると、人間関係にも変化が生じる。
人間関係が変に固定化することで生じる弊害を考え、教室にもダイナミズムが必要なのだと考えると、ひと月に一回は席替えをやりたいところだ。

高学年ならば、子どもたちに問う。
「何のために席替えをするのですか。席替えをするとどんないいことがあるのですか」
判で押したように、こんなふうに答える。
「いろんな人と近くになって、いろんな人たちと仲よくなるから」
「いろんな人の知らなかった所を知ることができる」
そうですね。
大変結構です。
高学年でなければ、こういういいことがあるんだよ、と教師が教えてあげればいいのである。

子どもたちは、何がいいのかちゃんとわかっているのである。
しかし、それはあくまで「建前」であって、「本音」は違う場合もある。
自分と仲良しの子と近くになりたいのである。

その証拠に
「では、席替えの方法ですが、さっき言ったことを考えるとくじ引きということになりますね」
と言うと、子どもたちが納得せずに
「えぇ〜っ!」
「やだぁ〜!」
などと言う場合がある。
そういう時は、先刻確認したことと矛盾することを理解させ、席替えはしない。
自分と仲良しの子たちとだけつるんでいて、授業中におしゃべりはするし、仲間はずれはするし、グループの結束を強めて他の子たちと交わらずに排除することもあるからである。
ここまで説明してくじ引きに反対する子は、まずいない。
もしいたら、それは純然たる「わがまま」である。
こうして席替えの方法はくじ引きに決定となる。

いろいろなくじ引きがあるが、私は黒板に座席表の枠を描き、子どもたちにネームプレートを一枚引いてもらうことにしている。
引いたネームプレートを自分の席に貼る。
「席替えの結果、自分の席に来る人を選ぶ」形になる。
これが何の準備もいらず最も簡単にできて、責任の所在が不明確な(=偶然性が高い)方法である。
もしも自分のネームプレートを引いたら、自分は席を替わらないことになり、周囲のメンバーが変わるだけになる。
それも運命なのだ。

この時、自分の席の周辺のメンバーを見て
「え〜やだぁ〜」
とか
「最悪〜」
などとのたまう子がいるが、即座に起立させて、その真意を問う。
それがどれほど失礼で人権を無視した言葉なのかを、短く、しかし厳しく言い聞かせ(場合によっては周囲の子に「どう思いますか?」と振る)、泣くほど後悔させることもある。

全員の席が決まったら、とりあえずその席に座ってみる。
視力や身長座高の点から自己申告してもらい、微調整して最終決定する。
時間は長くても1時間の半分。
月に一回のイベントには十分だ。
その代わり、欠席者がいない日にしかやらない。
全員がくじ引きに参加できる状況でなければ不公平になるからである。

新採用の頃、他の先生に教えてもらった席替えのやり方で、こんなのがあった。

1:班の数を決める。
2:班長になってほしい人を投票させて、上位から必要な人数を班長とする。
3:班長と担任は、他の児童とは別の場所で、自分の班に誰を入れるかを選ぶ。

当時、一回だけやってみたが、すぐに止めた。

・班も班長もいらない。
グループが必要ならその場で担任が決めればよいし、班長なんて大した仕事もないのに責任だけを押し付けられるから不要。
プリントを集めるなら「グループで集めて持って来なさい」で誰かが必ずやってくれるし(その程度のことを誰もやらなかったら子どもが育っていない証拠)、グループを代表して発表するなら順番に全員にやらせればいい。(教育の機会均等だ)

・選ぶ基準が曖昧。
所詮は子どもによる子どもの人気投票である。
実力投票ではない。

・子どもの序列化を招く。
大抵は同じ子が選ばれる。
子どもの序列を固定化するようなシステムは百害あって一利なし。

誰が考え出したのかは知らないが、このシステムで人間関係が良好になるのだろうか?
というか、このやり方を何の疑いもなしにやっている教師(結構いるらしい)を、私は教師として・・・というより人として・・・信用できないのだが、いかがだろうか?

2007.04.28 記