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「月さら」に光が当る

伊藤 國夫

 

 旧築地村の村歌に「〜史に名高かき月さらの〜」という歌詞があります。この村歌の作詞者は、芳賀矢一博士です。芳賀博士は、新潟県と深く縁のある方です。
 中条町山王の佐藤様と深いつながりがあると言います。佐藤悌吉氏は、文芸なかじょう第21号で「史に名高かき月さら」で紹介しています。

 私は、「都岐沙羅柵」が「月さら」として現在に継承されているものと思います。私は「都岐沙羅柵」の比定地がいろいろあることを承知の上で、塩津潟の北辺にあたる築地周辺であると提唱したものです。

 私が、「都岐沙羅柵」を調べ始めたのは、「塩津潟」を立証するための古絵図や古文書を探している時からです。
芳賀博士がなぜ旧築地村の村歌に「史に名高かき月さら〜」という歌詞を盛り込んだのかを解明するために、上京しました。
芳賀博士は、東京大学の教授をしておりました。後に、国学院大学の学長を歴任しておられる方です。そのために、東京大学と国学院大学を何度か訪ねてきました。各大学の教授や助手の方々からご支援やご協力を得ることができました。

 また、芳賀博士の二人の娘さんにも合うことができました。二人の娘さんは、東京と静岡に住んでおられましたが、二人からとても親切にしていただきました。

 心よく協力してくれました。静岡県川奈市に住んでおられた娘さんからは、私宛てにダンボール一箱の芳賀博士に関する資料が送られてきました。
ダンボールの中身は、私が東京大学で見た資料と同じもののコピーが多く入っていました。その貴重な資料は、私が保管しているよりも、月さらと関係の深い中条町に寄贈した方がより効果的であると考え、佐藤悌吉氏に相談しました。
その結果、中条町町史編さん室に保管せれています。

 私は、「月さら」の比定地が築地周辺であるという確信をもって研究し続けたのは、斉藤元新潟県立図書館長が、「築地周辺である。」と、常々言っていたということを知っていたからです。
斉藤元新潟県立図書館長が、どういう根拠から「築地に都岐沙羅柵があった。」と結論付けたのか、今後研究してみる必要があります。
ご存知の方がおられましたら、この文芸なかじょうの紙上で紹介していただけないものでしょうか。

 中条町に「幻の都岐沙羅」の著者である小野氏が住んでいます。小野氏は、都岐沙羅柵は中条町にあると主張しています。私は、都岐沙羅柵の比定地を論証する古文書を探すべく、国立国会図書館へ数回行ってきました。私は国立国会図書館の中で、その「幻の都岐沙羅」という本に出会っています。本当に不思議な出会いでした。東京をはじめ全国の都岐沙羅柵の研究者に、貴重な資料を提供していたことを知ったのは、相当前のことでした。

 「月さら」に、世の中の光が当ってきました。都岐沙羅柵と旧築地村、現中条町との因果関係は、古くから深いものがありました。
最近は、「都岐沙羅」が大きなスポットライトに照され、浮かび上がってきました。

 例えば、小野氏の「幻の都岐沙羅」。佐藤悌吉氏の「史に名高き月さら」(文芸なかじょう第21号)。阿部敏男氏の「都岐沙羅考」。小生の「月さら」(文芸なかじょう第25号)。木村尚志氏の「都岐沙羅を読んで」(おくやまのしょう第25号)小生のホームページである「塩津潟の由来」を読んだ東京都の大山元氏は、私のEメールに都岐沙羅について送ってきています。新潟日報は、平成11年7月22日付の新聞で、阿部比羅夫とゆかりのある新発田市の「古四王神社祭」と岩船広域事務組合の里創プランの一環として、同圏域の愛称として「都岐沙羅」を紹介していました。

 新潟日報は、平成11年10月31日付で「都岐沙羅柵、三城柵の一つ古代史に光を」を掲載しました。これは小生の論文ですが、読まれた方も多いと思います。また、新潟県社会教育中条支部総会の時に、「甦れ!都岐沙羅柵」と題して、小生が講演しました。平成8年3月9日のことでした。

 新潟県の渟足柵・磐船柵・都岐沙羅柵の三つの城柵は、斉明天皇とのかかわりがあります。新潟日報は「斉明天皇とその石造物」について、平成12年2月23日付と平成12年5月25日付で報道していました。

 NHKの教育セミナー(平成12年5月4日)で「斉明天皇とその石造物」について放映していました。
酒船石にみる天皇の宮殿=両槻宮(フタツキノミヤ)について、日本書紀の記述を立証していました。

 新潟日報は、「古代の笹神 健児が泊まり勤務」として笹神村の発久遺跡の重要性を報道していました。平成12年5月23日付で新潟大学の小林昌二教授は、「発久遺跡が兵庫であれば、沼垂柵の関連遺跡とみることができ、沼垂城が延暦年間まで機能し、活動していたことが示唆される。」と話していました。発久遺跡の木簡出土は、「沼垂城」の木簡に次いで、斉明天皇とのかかわりが立証されたことになります。

 このように、斉明天皇の業績が数々報道されたことにより、月さら=都岐沙羅柵が急浮上し、光が当ってきました。

 都岐沙羅柵については、日本書紀の斉明4年7月4日の条に「都岐沙羅造に位二階、判官に一階、渟足柵造大伴君稲積に小乙下を授ける。」という記述があります。
新潟県史の六頁にも、そのことが記載されています。この記述から、越国に三つの城柵があったことは明白です。私は、この事実を「和名類聚抄」で立証することができました。和名類聚抄の五一九頁上段右から三行目に「渟足石船二柵之間斉明4年紀有都岐沙羅柵」と明記されています。私は、この記述を発見した時は、本当に興奮したことをよく覚えています。詳細については、新潟日報(平成11年10月31日付)に掲載されています。

 私は、発久遺跡の木簡と沼垂城の二つの木簡が発見されたことにより、「都岐沙羅柵」を立証する出土品が発見されるものと考えています。
それも、そう遠くない時期と考えています。その理由は、新潟県笹神村の発久遺跡の木簡と、奈良県の明香村の亀形石の巨大石敷き広場の発見が相次いでいるからです。

 大和朝廷の中央政権と、新潟県の渟足柵・磐船柵・都岐沙羅柵の三城柵が、密接な関連がある事実を、再認識する時代になってきました。