《○《 中条町  『日曜町議会』 》○》  平成16年3月7日(日)

 

 【】富樫誠議員の『都岐沙羅柵について』一般質問【】

 「都岐沙羅柵について」、教育長にお尋ねします。「都岐沙羅柵」は、大和朝廷時代に造られた城柵の一つで、現在の築地地区にあったとされています。最近の専門家の調査によれば、この「都岐沙羅柵」というのわ、渟足柵と磐舟柵の間の中条町築地付近にあったことが、明らかになったようであります。しかし、私がこの「都岐沙羅柵」を始めて知ったのは、日東道の推進会議を三産業文化会館で開かれた時に、村上の方が「都岐沙羅パートナーズ」が発表した時です。それまでは、「都岐沙羅柵」が、中条町の歴史のページを刻んだと言うことは、知りませんでした。中条町が、この史実とどう向き合おうとしているのかを、伺います。中条町か、この史実ときちんと
向き合おうとしているのであれば、対外的にもはっきりと発信していくべきであると考えます。「都岐沙羅柵」を、中条町民に認識してもらうことが重要であると考えます。吉田教育長のお考えをお尋ねします。


 【】吉田和夫教育長の答弁【】

 「都岐沙羅柵」は、日本書記に記載され、蝦夷の戦いに備え、新潟県内に渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三つの城柵が、造られたと言う説があります。磐舟柵は、村上市岩船・渟足柵は、新潟市沼垂・都岐沙羅柵は、中条町築地付近と考えています。しかし、多くの学者があるいは歴史研究の皆様が、様々な説を唱えておりますが、町の歴史との関わりのありますことから、今後あらゆる学者の研究の推移を見守りつつ、調査をしてまいりたいと思います。


 【】富樫誠議員【】

 「都岐沙羅柵」については、私は中条のことだとは思っていなかったものですから、よその地区の方が調査して結論がだせるものと思います。塩津潟が紫雲寺潟か見たいなことになることを懸念している訳です。「都岐沙羅柵」のことをきちんと調査され、そしてまた、対外的にも今こうであるというアナウンスをして頂きたいと思います。

 《 備考 》

中条町の町議会で、「都岐沙羅柵」が最初に質疑・応答がなされた記念すべき町議会です。中条町の当局が、『都岐沙羅柵』を中条町築地に有ったと言うことを、言明した貴重な吉田教育長の答弁です。この『都岐沙羅柵』という城柵名が、公式な会議録として永久に残ります。このことが、中城町の歴史に大きな効力を発揮すると思います。また、中条町の地域おこしや地域づくりに、多大な貢献をすると確信しています。