日時 平成16年2月29日(日曜)午前10時〜午後4時
会場 新潟市万代市民会館ホール

第4回シンポジウム地域と地域史研究の未来を語る
渟足柵探求の4ヵ年

主催 研究調査チーム(研究代表者 小林昌二)
共催 新潟市・新潟氏東地区公民館・沼垂の今昔を語る会・新潟大学人文学部


渟足・磐舟柵の研究序説

小林昌二(新潟大学人文学部)

一 はじめに

二 科研報告シンポジウム「 渟足柵はどこか」2001〜2003より
 1 渟足柵の位置と規模、その未発見の問題性
 2 内水面でもつながる渟足・磐舟両柵の計画性
 3 「沼垂城」木簡と旧沼垂王瀬地下の旧表土年代
 4 王瀬地区の稲作水田地層の発見
 5 蒲原津の位置を現在地に比定

三 渟足・磐舟・都岐沙羅柵等の痕跡はなぜ発見できないか
 1 存続が疑われていた渟足柵
 2 阿賀、信濃両大河河口変遷と越後「古代古図」への誤解
 3 「四度沼垂町割絵図」とボーリング調査による旧沼垂での探求
 4 「四度沼垂町割絵図」(第1図)の分析と明治44年地形図

渟足柵の遺構や遺物類などの痕跡がなかなか発見できない理由は、やはりこうした深い埋没や流失・水没によると言わざるを得ない。磐舟柵・都岐沙羅柵も同類と推定している。

四 文献史的に見た新たな渟足・磐舟柵論
 1 対外関係と柵設置前史の軽視
 2 柵設置に先行する高志深江国造支配と蝦夷勢力
 3 渟足・磐舟柵は1年違いの兄弟の柵
 4 孝徳朝難波宮の造宮記事などとの対比

五 むすび