シンポジウム・私の提案
  「新潟県人よ、教育で元気を出そう」X

 期日:平成16年5月26日
 会場:ウェルシティ新潟

 コーディネーター
    小林 弘さん(当協会 理事)

 シンポジスト
    @鈴木スミ子さん・湯沢町・町教育委員
    A小日向 孝さん・長岡市・樹医博士・環境カウンセラー(環境省、農水省指定)
    B伊藤 國夫さん・新発田市・塩津潟教育研究所長
    C若杉  透さん・新潟市・潟Aルビレックス新潟・育成部長

 小林: 続いて、伊藤さん、追加の発言をお願いします。

教育現場での実践こそ大切

 伊藤: 一番の柱は、教師の柔軟な指導内容・指導方法を開発し、学校教育を元気づける教育環境を推進することです。
 塩津潟については、マスコミが非常によく取り上げてくれます。FM新発田、BSN、新潟日報。雑誌も非常に積極的です。講演でも、社会教育関係では何度も呼ばれました。ああいう姿勢が学校サイドにあったら、と思います。私がこういう話をするのは、新潟市で初めてなのです。ようやく新潟まで来ました。
 あるところから出る文書では「紫雲寺潟」で、他方から出る文書は「塩津潟」では「なんだ、これ」ということになります。見解が統一されるよう、これからも塩津潟の存在を訴え続けたいと考えています。


塩津潟と紫雲寺潟、都岐沙羅

 質問: 新発田の伊藤さんにお聞きします。塩津潟と都岐沙羅の話があったのですけれども、地名などは歴史的に変わってくる場合があるのではないでしょうか。本来の名前に戻すことが大事だとは思うのですが、紫雲寺と言っているから間違っているという言い方はどうでしょうか。
 それから都岐沙羅の問題です。私は、村上ですが、都岐沙羅については正直言うと若干疑問があったのです。都岐沙羅というのは、岩船の柵とはちょっと違うのではないかと思ったのです。都岐沙羅と岩船の柵は場所が違うのではないか。ところが、その方の説明では、日本書記のどこかに書いてあるそうなのです。今では、だいぶ慣れてきたのを今さら「おまえたちが俺たちのものを横取りしたから、名前変えろ」というのはどうでしょうか。この辺がちょっと疑問でありました。本当のことを知るということが大事だということは賛成しますし、そうであるべきだと思います。ただ、若干疑問な点があった場合には、やはり根拠を示さないといけないのではないか。都岐沙羅のことについては、ちょっと根拠が薄いのではないかと思いました。

 伊藤: 塩津潟は、最初「そんな潟はない」と言われていました。ところが、江戸幕府が認めている正保の絵図(一六四五年)でも元禄の絵図(一七〇〇年)でもちゃんと塩津潟と書いてあるのです。
 紫雲寺潟については、竹前小八郎が一七二六年に江戸幕府に開発願書を出した時に紫雲寺潟と称したのが最初なのです。取りかかったのが一七二八年で、終わったのが四年後の一七三二年です。この事実を子どもたちや郷土の人にしっかり伝えたいと私は考えています。
 都岐沙羅については諸説があるが、私は中条町築地付近であると思っています。これについては、旧築地村の村歌の一節に「史(ふみ)に名高き月さらの」と、あります。