シンポジウム・私の提案
  「新潟県人よ、教育で元気を出そう」V

 期日:平成16年5月26日
 会場:ウェルシティ新潟

 コーディネーター
    小林 弘さん(当協会 理事)

 シンポジスト
    @鈴木スミ子さん・湯沢町・町教育委員
    A小日向 孝さん・長岡市・樹医博士・環境カウンセラー(環境省、農水省指定)
    B伊藤 國夫さん・新発田市・塩津潟教育研究所長
    C若杉  透さん・新潟市・潟Aルビレックス新潟・育成部長

 司会: お隣ですが、新発田市からおいでいただきました、塩津潟教育研究所所長をしておられます伊藤國夫さんです。伊藤國夫さんは、塩津潟の研究に五十年の歳月をかけられ、著書『塩津潟は塩の道』を出版されたり、ホームページを開いて啓発をされておられます。また、多くの大学や団体グループで研究の成果を講演されておりますが、その取り組みは生涯学習関係の多くのグループに拡大しております。そこから、元気を出してもらう工夫を提案していただきたいと思います。

 伊藤: 私の提案は「新潟県人よ、教育で元気を出すぞ」です。私の調査によれば、新潟県の学力は長野県の二分の一、大学の進学率も長野の二分の一です。学校教育にも相当問題があるという感じがしたので、柱を二つ、一つは学校教育の元気です。二つ目は、社会教育の元気です。私は教師を四〇年間やりました。そのうち四年間は東京の私立学校でした。私立学校の学習指導の元気さを思い出すと、公立の学習指導というのは本当にスローです。変えるのに時間がかかりすぎて困るという感想です。
 私は、新発田や中条の子どもだけではなく、新潟県の歴史を変えようというチャレンジをしているのです。「塩津潟」を蘇らせることと、「都岐沙羅柵」を蘇らせることです。
 ちょっと皆さんに聞いてみたいのですが、紫雲寺潟を知っている人は手を挙げてください。塩津潟を知っている人は手を挙げてください。はい、いますね。今までたった四年間、せいぜい六年間の紫雲寺潟に変わった潟の名前が、いまだかつて紫雲寺潟で通っているのです。これはなんとかしないといけないと思っています。この五〇年間、中央の図書館、各大学等を駆け回って調べました。紫雲寺潟は、絶対に塩津潟なのだという証拠を一三遍を超えるほど見つけました。
 私のホームページに『塩津潟の由来』を掲載しています。塩津潟の由来を調べると、学校で事実に反したことを教えていることになります。昨年の八月八日に、新潟日報事業社から『塩津潟は塩の道』という書物を出版しました。私の調査によれば、紫雲寺潟の由来は、塩津潟の訛りだというのが一般的な説なのです。塩津潟が紫雲寺潟に変えられたのです。黒川で採れた『塩』を中条町の「塩の津」から送り出したので塩津潟だということです。
 誤ったことを教えたのでは、郷土愛を育てるための学習ではないと考え、私が赴任した小学校などで、自説に基づいた学習活動を行いました。一般の先生方はそうした歴史認識がほとんどないので、「何やっているのか」など、いろいろと抵抗がありました。
 それでも、学校教育の場合は最近になって、総合的な学習、生活科や各教科の発展学習などで郷土に関する学習が取り上げやすくなりました。けれども、実際は、がんじがらめになっていて、思うような活動がとれなかったです。そのため、私は塩津潟の啓発のため、『文芸なかじょう』『文芸しばた』『歴史の専門書』『おくやまのしょう』などに、永年の研究の結果得られた持論をずっと連載してきました。そうした努力の末、ようやく「伊藤先生の論が本当らしい」という意見が出てきました。各市町村の生涯学習グループに発表の機会が与えられたのです。中条町町民大学五回、加治川郷土史会四回、新発田郷土史会四回など、講演会を二〇回以上行ってきました。私は今回、社会教育協会という名前にしびれています。生涯学習というと、小学校も入るし、ご老人も入るのですが、やはり「社会教育協会」の方がいいと思います。いろいろな立場の方々で塩津潟を蘇らせたい、新潟県に定着させたいと思っています。紫雲寺潟ではないことを訴えているのです。
 それからもう一つ。「都岐沙羅柵」を知っている方は、ちょっと手を挙げてください。知らない人がほとんどですね。今、村上・岩船地区で「都岐沙羅パートナーズ」というNPOがあります。けれども私は、「岩船パートナーズにしたらどうですか」と言っています。都岐沙羅柵は塩津潟の北辺、中条町に該当するというのが一般的な論なのです。中条町乙、築地、苔実に都岐沙羅柵があったのではないかという説が有力なのです。そこで「都岐沙羅柵」という名称を村上・岩船から返してもらいたいという活動をしています。塩津潟の場合は、二七〇年たって返してくれました。「どうも伊藤が言っているのは正しい。どこから突っ込んでも真実だ」ということだったからです。
 都岐沙羅柵についても、今、岩船・村上のNPOに返してくれと、県の段階の方々と中条と村上・岩船の方々と話し合いしているのです。近いうちに「都岐沙羅柵」が中条に返ってくるという期待を持っています。
 政治とは多数決原理です、数は力です。しかし、学問は違うはずです。ところが実際は、新潟県の学会で「塩津潟」の復活を申し上げても、つぶされてきました。大学の先生方に言っても、「都合が悪いからまあいいや」となるのです。それで積極的に「塩津潟の由来」の著書を出版したり、CDを出したり、専門の雑誌に論文を発表するなどしてきました。本当なのだ、真実は力だということを訴えてきている訳です。私が非常に強いことを言うものですから「伊藤先生の話はきつい」と言われるのですが、にこにこ笑って言っても誰も聞きません。迫力を持って説明しないとだめなのです。もう、これでもか、これでもかと証拠を出して持論を説明してきました。
 そうした経過を経て「塩津潟」はようやく定着してきました。その結果が「元気を出そう」ということです。たくさんのグループの人々が、それも連続で四年も五年も講演会に私を呼ぶのです。これらは非常に元気を出している証拠だと思います。
 民間でも元気を出しているお店があります。中条町では、そのものずばり「しおつがた」というお菓子ができました。かつて、地元の人々が大和朝廷軍に玄米と塩を送っていたということで、塩を使ったお菓子です。平成六年にできました。
 その後、「都岐沙羅柵(月さら)」と「塩の津」というお菓子が中条町にあります。蔵ノ坪遺蹟で『津』の墨書土器が出土しました。それにちなんで、『塩津潟』の由来である「塩の津」を製作して、三点セットで郷土の方々に味わってもらいたいという、西屋さんの心意気で元気を出しているのです。
 もっと元気を出していますのは、今日も午前中、北蒲原郡町村会の監査委員会で講演をやってきましたが「伊藤先生の言っているのは本当なのだから、話してみてくれないか」というので、力説してきました。
 県の公文章で、新潟県立歴史博物館の展示録が手元にあります。県の段階でも伊藤の言っているのは正しいということで「塩津潟」という記述が掲載されるようになりました。ようやく県の段階でも塩津潟が定着してきたと考えています。
 最近、文部科学省の研究助成を受けて「渟足柵」を研究しました。私が、「塩津潟と都岐沙羅の研究を援助してください」と申請したのですが、「この問題は大きいので、新潟県の教育委員会へ下ろす」と、新潟県教育委員会へ下りてきました。大変大きな調査・研究をやって、今回も四年間で一二億円。新潟大学、秋田大学、大阪外語大学、国立歴史民俗博物館の教授が来て、二月二九日にシンポジウムをやりました。この研究誌にも、新潟県には渟足柵、岩船柵、都岐沙羅柵があるという結果が出ているのです。
 中条・黒川のほとんどの学校で、副読本は全部「塩津潟」に直してあるものを使用しています。移行期なので「紫雲寺潟」をかっこにいれて塩津潟(紫雲寺潟)と記述しています。けれども、次の改訂にはかっこが取れ、「塩津潟」だけになると思います。加治川村は「塩津潟」だけで記述しています。加治川村の「三楽大学」でもお話ししました。
 私は、先ほどの著作、『塩津潟は塩の道』を二,〇〇〇部印刷しました。また、私のホームページのカウンタが、昨年の八月で五,〇〇〇ぐらいでした。関心を持っている人が多い証拠です。著書は二,〇〇〇部がもうほとんどなくなりました。
 昨年の八月、『塩津潟は塩の道』を出版してから以降も四十数項目追加しました。『都岐沙羅柵』についても、かなり付け加えました。今日の午前中の講演もここえ入れ、改訂版を出版します。各種講演会の内容はほとんど伊藤國夫で行っているのです。これくらい元気を出しているのです。「本当のことを言っているようだ」という認識を頂いています。
 タウンミーティングで長岡市の川崎小学校に、当時の遠山文部科学大臣が来て、その時にお話ししたものがこのCDに入っています。平山県知事さんに「なんとかしてくれないか」とお話しした時のやりとりがこのビデオテープに入っています。
 時間がないので止めますが、かなり塩津潟と都岐沙羅柵が定着して元気を出しています。正しいと思うことは、勇気を持ってやったほうがいいのです。自説を曲げず、主張し続ければ、人は認識を変えるのです。学校教育でも同じです。個性豊かな子どもに育てることは、自分が正しいと思ったら言える子どもに育てることだと思うのです。
 私の研究は、大学の先生方のご協力とご支援をいただきましたが、基本的には一人でやってきました。それが結果として、世間の認識を塗り替えてきました。歴史研究が新潟県と各市町村に元気を出しているという実践報告です。終わります。