文芸なかじょう 創刊30周年記念号(第30号)  発行日 平成15年11月

塩津潟が新発田市議会に上程された

伊藤 國夫


  「塩津潟」が、新発田市議会で一般質問されたのは平成15年3月12日でした。新発田市に対して質問したのは、
長谷川晃議員でした。とても勇気のある、質問だったと思います。
 新発田市は、いままで「紫雲寺潟」だけで呼称し、記述してきました。しかし、中条町や黒川村では、「塩津潟」と呼称し、記述するようになってきたことを受けて、はっきりした態度を取る必要に迫られてきました。
 長谷川晃議員は「紫雲寺潟か塩津潟なのか」について一般質問しました。それに対して、臼井茂夫教育長は、「紫雲寺潟の名称につきましては、ご案内のとおり江戸時代前期は塩津潟と表記され、今日に至っております。(中略・詳細については、”塩津潟の由来”のホームページを参照してください。)」
 長谷川晃議員は、さらに再質問をしてます。「現実に今どちらが正しいかというよりも両方歴史的にあったことは事実ですので、否定するものではありませんが、やはり子供たちが紫雲寺潟だけで認識するというのはいかがなものかという面があると思います。現実に中条町の”ふるさと中条”の中に「塩津潟(紫雲寺潟)の干拓に尽くした竹前権兵衛・小八郎)」という部分がありまして、その中で括弧書きできちんと両方明記されています。現実にこちらに県の資料があるわけですが、それらについてもそのような表記がされております。どちらが正しいというよりもできることなら、私の希望とすれが塩津潟がいいんじゃないかなというふうに思うんですが、皆さんがこのような両方括弧書きであらわしているという事実がありますので、そのような形でやはり教育現場に持っていくべきだろうというふうに考えます。(中略)」
 このような質疑と応答が、「しばた市議会だより」に、平成15年4月30日に掲載されました。この第67号には、「歴史事実、紫雲寺潟なのか塩津潟なのか」という見出しで、新発田市民に知らされました。
 小見出しは、「紫雲寺潟と塩津潟の2つの事実」でした。
 新発田市民にこのような気運が高まってきた理由には、次のようなことが考えられます。第一に、新潟県から出版される公文書に「塩津潟」と記述されるか、「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述されるようになってきたことです。このことは、新潟県立歴史博物館の展示や展示録にも「塩津潟」になってきました。
 第二に、新発田市における私の講演が、立て続けに3回実施されたことです。1回目は、敬和学園大学で「塩津潟と新発田市」(平成15年1月27日)。2回目は、新発田ロータリークラブで「塩津潟と新発田藩」(平成15年1月27日)。3回目は、新潟県建築士会で「新発田藩と塩津潟」(平成15年2月21日)に行われました。
 このように、新発田市民に連続して講演会が開催されたことも、大きな要因になったと思います。特に長谷川議員は、建築士会の主催者でした。「塩津」と言う地名は、「塩」にかかわる大変由緒ある地名です。「塩」を送り出した「津」、則ち港があったことに由来しています。
 日本国内で「塩津」という地名は、私が知っている所では、4ヶ所あります。
 例えば、1つ目は新潟県の中条町にあります。2つ目は、島根県平田市塩津町にあります。3つ目は、愛知県蒲郡市竹谷町にあります。4つ目は、滋賀県西浅井町に塩津中と塩津浜があります。
 これらの「塩津」という地名は、いずれも「塩」と深くかかわりのある地名です。
 愛知県蒲郡市竹谷町には、蒲郡市立塩津小学校と塩津中学校が存在します。島根県平田市塩津町にも、塩津小学校が存在しています。滋賀県西浅井町には、塩津街道があり、地域住民から親しまれています。新潟県中条町の塩津も、他県のように後世にきちんと伝承していきたいものです。
 「塩津潟は塩の道」という本が、8月に出版されます。塩津潟が、新潟県民をはじめ日本国民に、本格的に再認識されてきました。

(新発田市緑町)