つきさらのき

 都岐沙羅柵は中条町に存在

                  伊藤 國夫

 『都岐沙羅柵』とは、大和朝廷が新潟県に造営した城柵の一つである。新潟県には、三つの城柵が設置された。渟足柵は六四七年、磐舟柵は六四八年、都岐沙羅柵は六五八年に、それぞれ『日本書記』に登場してくる城柵である。

 「都岐沙羅柵」は、日本書記等に記述されることが少なかった。そのために、「都岐沙羅柵」を研究している学者が少なく、研究論文も、極めて少ない。

 しかし、新潟県には「都岐沙羅柵」と古くから関連している町がある。それが、中条町である。その根拠の第一は、旧築地村の村歌である。現在は中条町に合併しているが、旧築地村の村歌に「都岐沙羅柵(月さら)」のことが歌い込まれている。「史に名高き月さらの、昔すえたる磯を、固め固めて年々に、栄にこそ行け築地村」と、歌い続けてきた歴史的事実がある。

 作詞者は、芳賀矢一博士である。芳賀氏は東京大学の教授を経て、国学院大学の学長を務めた方である。また、芳賀氏は天皇陛下等にご講義をなさったり、文部省唱歌の作成にあたり選定委員長をなさった方でもある。

 旧築地村の村民は「都岐沙羅柵」と関わって生活してきた。芳賀氏と築地村の関わりについては、佐藤悌

 吉中条町議会元議長が、文芸なかじょう第二十一号(平成六年十一月)に寄稿している。

 佐藤家は、芳賀氏に作詞を依頼した当時の村長の家である。だから、現在の中条町民にとっては、関わりの深い切っても切れない「都岐沙羅柵」である。

 旧築地村の四校統合による「新築地小学校の校歌」は、国学院大学の宮崎荘平氏に依頼し、「都岐沙羅柵(月さら)」の歴史事実を、歌詞の中に取り入れてある。だから、現在の中条町立築地小学校の児童と保護者たちは、旧築地村歌の「史に名高き月さら・・」という歴史的事実を大切にして学習を継続しているのである。このことは、中条町の小学校や中学校の児童生徒用の副読本や教育用資料に明記され、学習に使用されているのである。

 第二は、斎藤秀平元新潟県立図書館長は、「都岐沙羅柵は中条町である」という論文を、新潟日報の前身の新聞に掲載している。この論文を、是非読んでいただきたい。

 第三は、伊藤國夫である。小生は、「塩津潟」は現在の中条町大字塩津に存在していたことを立証する研究をライフワークにしてきた。その研究経過の中で、「塩津潟」と「都岐沙羅柵」が、非常に深い関係を持っていることに気が付いた。「紫雲寺潟」から「塩津潟」に復活させる研究と平行して、「都岐沙羅柵」についても調査を継続してきた。その研究結果が、『塩津潟の由来』というホームページである。平成六年に開設した。それに続いて、著書『塩津潟は塩の道』を平成十五年八月に出版した。「都岐沙羅柵」については、『塩津潟の由来』の「都岐沙羅柵(月さら)」の項目の中に収録してある。十数項目の関連記事が、読み取ることが出来る。『塩津潟は塩の道』では、第七章に「よみがえれ!都岐沙羅柵」がある。二九九ページから三六〇ページに及び記述してある。その中に、

『都岐沙羅柵の比定地は中条町築地』という主題で、中条郷土誌「おくやまのしょう」第二十号(平成七年三月)に掲載している。

 第四に、中条町の菓子店『西屋』さんが、郷土菓子を発表している。「塩津潟」は、平成六年に販売を開始している。「月さら」は平成七年、「塩の津」は平成十五年に、それぞれ新商品を製造販売している。特に「月さら」は、話題提供から早急に取り掛かった西屋さんの深い郷土愛に対する強い意気込みを感ずる。

 第五に、小林昌二新潟大学教授が中心になって「渟足柵の探求」に、四年間取り組んできた。文部科学省の研究指定を受け、他大学の研究者と調査チームを編成して研究したものである。その結果が、平成十六年二月に新潟市で発表された。研究結果は、『渟足柵探求の四カ年』の資料集にまとめられている。前近代の潟湖河川交通と遺蹟立地の地域史的研究がまとめられている。この内容については、第四回シンポジウムで『地域と地域史研究の未来を語る』で、毎年新潟市万

代市民会館ホールで実施されてきた。

 私は今年度の講演だけで七回実施し、その殆どは、『塩津潟』と『都岐沙羅柵』に関する内容である。講演の主催者は、都岐沙羅柵を語る会・敬和学園大学・三楽大学・JA北越後・新潟県社会教育協会・新発田市生涯学習協会・中俵歴史を語る会等である。この他に、専門誌や機関誌に、数多くの論文を発表しいる。

 最近では、『八十里越の塩の道』を五回シリーズで新聞に連載中である。また、美術画報という全国版に「加治川桜の復活」という新発田市展に出品した写真と著者『塩津潟は塩の道』が紹介された。これにも、「都岐沙羅柵」のことが記述されている。

 私が、「都岐沙羅柵」のことについて文芸しばたに寄稿した理由は、大和朝廷軍の阿部比羅夫を祀る『古四王神社』が、新発田市五十公野に現存するからである。講演が多かったり、『塩津潟の由来』のアクセス数が八八二五回(H十六.六現在)と急増している理由は、「都岐沙羅柵」に対する関心が非常に高まっているからだと思う。新発田市民の皆さんにも、是非関心を持っていただきたいと考えている。