中条町郷土研究会誌 第二十六号 
   おくやまのしょう

都岐沙羅柵を月さらに求めて
 
                            伊藤 國夫 

 

 「都岐沙羅柵」について、各方面で最近活発に論じられるようになってきた。 このことは、古代のロマンを追求する意味で大変大切なことである。 私は,思いつきや先入観で論文を書いている訳ではない。 私の書いた論文に対して、木村尚志氏から公開質問が出された。 読者に誤解を与える表現があるという指摘を受けたので、補足説明を列記する。

 

 1、古代の城柵 

 「柵」とは、本来堅木を編んだ垣を柵という。 この種の施設は、古代の邸宅や寺院や城などに見られる。一般に柵跡と名づけられる場合は、古代東北の城柵跡が対象とされている。

 「日本書紀」には、文化3年(647)の条に渟足柵を造り、柵戸を置く。 同4年(648)の条に蝦夷に備えるため、磐舟柵を治め、越と信濃の民を運び柵戸を置く。 斉明4年(658)の条に、都岐沙羅柵造に位二階、判官に一階、渟足柵造大伴君稲積に小乙下を授けるとある。

 大和朝廷は古代東北地方に最初に城柵を造営した7世紀頃は、本格的な防衛施設であったと考えるのが妥当である。しかしながら、越国における対応は同化政策をも合わせて取り入れたものであろう。 大和朝廷が律令国家の支配拡大及び蝦夷経営のために、城柵を造営し続けている。 徳丹城は弘仁5年(814)に造営しているので渟足柵の647年から計算して167年間も経過している。 このように東北地方の古代城柵は、7世紀から9世紀にかけて造営したものである。

 西日本のそれが砦としての機能が大きかったのに対し東北地方のものは、行政的な色彩が強いものになっていった。 特に後半のものは、築地を巡らし、政庁的な内郭瓦葺の建物群などから長期の支配体制整備を目指したものと考えられる。

 

 2、古代地図にみる越国

 大和朝廷が造営した3つの城柵、即ち渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の所在地を論ずる場合は、当時の越国の地形を考慮することは当然のことである。 私はそのことを立証するために古絵図を探索し続けてきた。古絵図を探索した場所は、国立公文書館・東京大学・国立国会図書館・各県立図書館等々で、数多くの古絵図を自分の目で見てきた。 その結果からの論文である。

 

 3、越国の三城柵の所在地

 新潟県における渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵が、それぞれ所在地が明確になっている訳ではない。 渟足柵は、新潟市沼垂付近。磐舟柵は、村上市岩船町付近というのが一般的な定説である。 都岐沙羅柵は不詳というのが現況である。

 私は、正保2年越後絵図や元禄13年越後絵図に置きかえて説明した時に、渟足柵は信濃川と阿賀野川の河口付近。 磐舟柵は、荒川や岩船潟の河口付近であると考えている。 その根拠の第一は、新潟県の古代の地形を表した古絵図と、新潟県が作成したコンピューターグラフィックスの地図とを見比べて考察しても、そう大きな違いがなかったからである。 第二に、斉明5年(659)阿部臣、船師180艘を率いて蝦夷を討つ。 斉明6年(660)に、阿部臣船師200艘を率い、粛慎国を討つという記述から、船と密接に関連をもっていたからである。 第三に、阿部臣を祀る「古四王神社」のある場所から考えたものである。

 

 4、和名類聚抄による立証

 和名類聚抄(京都大学文学部編)の中に、「渟足石船二柵之間斉明4年紀有都岐沙羅柵」と明記されてある。 この事実は、和名類聚抄の519頁上段右から3行目に明記してある。よくご覧いただきたい。 この記述の内容については、私の講演の折に何度か講話したので、既にご存知の方々が多い。 「月さらに光が当る」と題して、文芸なかじょう第27号に寄稿してあるので、そちらも参照してほしい。

 

 5、都岐沙羅柵の造営年月

 渟足柵を造り(647年)、磐舟柵を治め(648年)とあるのに対し、都岐沙羅柵は、都岐沙羅柵造に位二階判官に一階を授けるとなっている。 設置されたという表現が誤解を与えているようなので、日本書紀に見られる「初見年月」と訂正する。

 

 6、都岐沙羅は潟や柵戸

 都岐沙羅をツキサラではなく、トキサラと読んだ時には、柵戸や潟。潟に突き出た岬という意味があるという。 私の論文には、「参考文献」を記述してある。それは、読者が更に追求する時に参考にしてほしいからである。

 私が「トキサラ」という考え方を引用したのは、森浩一氏の著書から引用したものである。 私が多くの参考文献を調べた結果から、森浩一氏だけでなく、まだ数人の著書の中に「トキサラ」を読んでいる。 都岐沙羅柵を調べている者であれば、何度か出合っている「トキサラ」である。

 

 7、事実に基づいた論拠の展開

 私は、先入観や思いつきで論をすすめたのではないが、表現が適切でなく誤解され易い点があるようなので、補足説明や訂正をする。

 (1)「阿部比羅夫の本拠地があった」という表現が誤解をまねくおそれがあるので、「阿部比羅夫を祀る古四王神社がある。」と訂正する。

 (2)「本格的な防衛施設である」という表現は、大和朝廷が蝦夷経営の施設として造営したものである。 その機能は、砦としての機能や行政的な機能を兼ね備えていたものと考えられる。 律令国家の支配拡大をする時の中心的な施設であるという考え方をしている。

 (3)「防衛施設のラインが一直線である」という表現は大和朝廷が7世紀から9世紀にかけて造営した城柵の位置を確認すれば、明らかに判明することである。 都岐沙羅柵が渟足磐舟二柵の間に有るというのであるから、ほぼ一直線上にあることが分かる。 この傾向は、胆沢城(802年)・志波城(803年)・徳丹城(814年)などのように、色麻柵の付近や多賀城の付近にも見られる基本的な防衛ラインである。 私のこのような考え方は、他の学者にも見られる視点である。 「日本の城柵」を調べてみればすぐに分かる傾向である。

 (4)「都岐沙羅柵が重要であったという表現の根拠は「都岐沙羅柵造に位二階、判官に一階、渟足柵造大伴君稲積に小乙下を授ける。」という記述がある。 このことは、磐舟柵造のことが記述されていないことが、とかく問題にされるが、都岐沙羅柵の重要性を物語るものと私は考えている。 その後磐舟柵は、698年と700年に修理されていることが記述されている。 最前線にある磐舟柵を、二柵の間にある都岐沙羅柵がバックアップし、それぞれに連携していたものと考えるのが妥当である。 その、意味において、都岐沙羅柵は重要であったと考えている。

 大和朝廷は、最前線の柵よりも後年に造営した柵が都に近い位置に造営していることは、都岐沙羅柵だけではない。 他に志波城と徳丹城などにも見られることである。

 (5)「低標高の海岸に近い平地に築かれている」という内容は、越国の3つの城柵にあてはまる。 城柵の所在地は、山城か平地の城かの観点でみれば、平地に築かれているものが多い。 この傾向は、後半に造営された城柵を見れば、高い山に築かれたものが少ないことが分かる。 例えば、多賀城や胆沢城を見ればほぼ平地にあることが分かる。

 以上のように、私の先入観だけで論文を書いたものでないことを理解していただきたい。

 

 8、「伊夜日子神社」との関連は、あると考えている。弥彦神社の御祭神は、越後開拓という大きな使命を帯びていたのである。 越国の古絵図を見ると、現在の弥彦の場所に「伊夜日子」と記述してある。 弥彦のことを伊夜日子と記述してある。 越国の一の宮で弥彦(伊夜日子)の付近に、八幡林遺跡跡等があり、中央との関連が強いものと私は考えている。 中条町の「塩津」という大字の中に、「伊夜日子神社」という神社が現存する。 この神社の付近が「都岐沙羅柵」があった所在地であると考えている。その根拠の第一は、伊夜日子(弥彦)と同名の「伊夜日子神社」が中条町に現存すること。 第二に、万葉集の歌との関連があったからである。第三に、伊夜日子神社の近くに古墳と見られる「大塚山」が存在するからである。 第四に、笹神村の発久遺跡の木簡出土があげられる。 「健児」に関する木簡について、新潟大学の小林昌二教授は「発久遺跡が兵庫であれば、沼垂城が延暦年間まで機能し、活動していたことが示唆される。」と述べていることなどから、なんらかの関連があったものと考えている。

 

 9、「史に名高き月さらの〜」については、現在も調査中である。 東京大学・国学院大学の関係者や、芳賀家の関係者や、旧築地村の佐藤村長宅等で調査を継続している。 旧築地村の村歌については、国文学者の芳賀矢一博士が作詞した扁額が、中条町に現存する。 この由来については、現中条町町議会議長の佐藤氏が文芸なかじょう第21号で詳細に記述している。 芳賀博士は父親の勤務の関係で新潟市に住んでいたことがあり、大畑小学校(現新潟小学校に統合)を卒業している方である。 芳賀博士が、どういう理由で旧築地村の村歌の歌詞に「月さら」という語句を取り入れたのか、近いうちに判明するものと思っている。

旧築地村の村歌(芳賀矢一博士作詞)

 元新潟県立図書館長の斉藤秀平氏は、「月さらは築地村にあった。」というのが持論である。 その根拠についても調査中である。  

 都岐沙羅と月さらと築地という言葉のひびきが、非常によく似ていることである。 「史に名高き月さらの、昔すえたる磯を、固め固めて、年々に」という歌詞が、築地というイメージと合致するのである。

 高速道路の日沿道工事に伴って、発久遺跡の木簡出土のように「都岐沙羅柵」に関する木簡が出土することを心ひそかに期待している。 私には、木簡が出土するような気がしてならないのである。  

 

 10、「蝦夷」や「蝦夷征討」という表現については、私も木村氏の考えに同感である。  大和朝廷が越国に来る以前から、先に住んでいた人々がいた訳である。 「蝦夷征討」という言葉のかわりに「北方経営」とか「律令国家の拡大」というような語句が、一日も早く一般化してほしいものである。 木村氏の努力に期待したい。

 新潟県史の中の記述に、「北越の蝦夷99人、東陸奥の蝦夷95人饗し」等という記述が数カ所ある。 このことは、先に住んでいた人々と融和政策がとられていたことが、十分に考えられる。

 いずれにせよ、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の所在地が確定している訳ではない。 城柵の所在地が、多くの研究者の成果を結集して、一日も早く結論のでることを切望している。

 最近、新潟日報の紙面で「都岐沙羅柵」とか「つきさら」という言葉や文字を、目にすることが多くなってきた。 これらの記事は、「岩船地域ニュースにいがた里創プラン」の愛称であることが分かった。 里創プランの事務局とも連絡し確認してある内容である。

 また、新潟県総務部とも、前述の「愛称」であるという見解は確認済みである。 「岩船地域で進めている里創プランにおいて圏域の愛称として使用」という返事を頂載している。 愛称として使用している訳であるが、新潟県民に「都岐沙羅柵」について、着目させたはたらきは大きいものがある。 啓発の効果は、あったものと思っている。

 私は、「日本の城柵」について調査した結果は,越国に渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三つの城柵が、造営されたことは間違いのないことと思っている。 そのことから、都岐沙羅柵は、磐舟柵の別名でないことは明白である。

 現在、幻になっている「都岐沙羅柵」が、少しずつではあるがその実態を表現してきていることは、本当に嬉しいことである。 今こそ学者と行政の協力のもと、「都岐沙羅柵」を幻から現実のものにしたいものと念願しとる一人である。


参考文献
おやひこさま物語   大森 利憲