著書 「塩津潟は塩の道」 (P300〜P310)より

第七章 よみがえれ!都岐沙羅柵

1 都岐沙羅柵が語ること

 斉明四年七月四日(日本書紀二十六)に、授都岐沙羅柵造闕名、位二階、判官位一階、授ニ渟足柵 造大伴君稲積小乙下、と記してある。もう少し詳しく記述すると、次のようになる。
                   
  都岐沙羅(つきさら)の柵造名(きのみやっこな)を闕(もら)せり。には位二階(ふたしな)授く。判官(まつりごとひと)には位一階。渟足(ぬたり)の柵造大伴君稲積(きのみやっこおおとものきみいなつみ)には小乙下授く。この記録の中に出てくる「都岐沙羅の柵造」のことなのである。このことから斉明天皇は、越後国(新潟県)に三つの城柵を設置したと考えられている。磐舟柵・渟足柵・都岐沙羅柵の三つである。新潟県史には「六四七(大化三)年に、渟足柵を造り柵戸を置く。六四八(大化四)年に、蝦夷に備えるため、磐舟柵を治め、越と信濃の民を選び柵戸を置く。六五八(斉明四)年に、阿部臣、船師一八〇艘を率い蝦夷を討つ。(四月)都岐沙羅柵造に位二階、判官に一階、渟足柵造大伴君稲積に小乙下を授ける」と記述してある。このように、当時の城柵の史書には、磐舟柵と渟足柵の二柵と、都岐沙羅柵を合わせて、三つの城柵があったとする説が一般的である。
  この「都岐沙羅柵」が、どこに造られたのかが、問題になっているのである。現在ある説は、大きく分けると三つになる。新潟県説・山形県説・秋田県説である。新潟県説の中にも、いくつかある。岩船(磐舟柵の別名であるという説)・乙・築地・苔実・大友・津川などがあげられる。渟足柵は、新潟市に沼垂という地名があるし、沼垂城という木簡も出土しているので、大体新潟であろうと思われている。磐舟柵は、岩船という地名が残っているし、近くに岩船神社もあるので、大体その付近であろうと思われている。
  問題は、都岐沙羅柵の比定地である。都岐沙羅柵は、前述したように、研究者によって説がいろいろと分かれるのである。最近は、新聞やテレビ・ラジオでよく聞かれるようになった「都岐沙羅」である。また、研究者の中でも、専門誌に自分の説を論ずることがとても多くなってきている。幻になっている都岐沙羅柵を追究しようという気運は、大変結構なことである。
  私は、都岐沙羅柵は中条町築地付近であると考えているのである。塩津潟の北辺にあたる地域だと考えている。もう少し詳しく述べると、塩津・中倉・築地・弥彦岡・を結んだ地域にあったと思っている。その根拠には、次の理由があげられる。
  第一に、和名類聚抄の足羽の項に「渟足石船二柵之間一斉明四年紀有二都岐沙羅柵一其地末レ詳」との記述があるからである。この内容からすると、都岐沙羅柵は、渟足柵と石船柵の間の土地に造られたことになる。そうなると有力な比定地は、中条町の乙説・築地説・苔実説と、新発田市の大友説が大きく浮上してくる。和名類聚抄の記述は、新潟県に三つの城柵が造られていたことになる。
  第二に、旧築地村(現中条町大字築地)の村歌を作詞した東京大学教授の芳賀矢一氏は、村歌の二番の歌詞に「史に名高き 月さらの」ということばを織り込んでいる。月さらのは、言うに及ばず都岐沙羅柵のことである。芳賀教授は、国学院大学の学長をした国文学者である。その博士が、根拠もなく歌詞の中に「史に名高き 月さらの」という言葉を入れるとは、とても考えられないからである。
  次の文は、「史に名高き 月さらの」と題して、佐藤悌吉氏が文芸なかじょう第二十一号(H6・11)に掲載したものである。佐藤氏は、先祖が築地村の村長をしていた時代に、芳賀矢一博士に村歌を依頼したというお方である。

   史に名高き 月さらの
                              佐 藤 悌 吉

 ”史(ふみ)に名高き 月さらの”これは築地村村歌の一節である。
  実は近年、この村歌を巡って大勢の方々から、直接ヌいは間接に沢山の御教示や御示唆を頂く機会があった。
  初めにお断りしておくが、私はまだ”月さら”について、これまで全く勉強していないし、調査もしていない。したがって自分の意見らしいものもまだ持ち合わせていないし、その事を書くつもりもない。
  私はここでは、折角与えられたスペースの中で、村歌にかかわりを持った人々を、忘却の彼方から呼び戻し、冒頭の一節に深いこだわりと情熱を持って素晴らしい研究を続けておられる方々には、この際深く感謝を申し上げる機会にしたい。
  築地村当時、公民館長は佐藤善美先生と云う方であった。
  ヌる日先生は、事務室で私とお茶を飲みながら、何のお話からか忘れたが、
  「築地は昔、月さらの里と呼ばれていたようですネ・・・」
とおっしゃった事がある。その時何故”月さら”が築地となったのか、二人が勝手な想像をしながらお茶の時間を楽しんだ事は云うまでもない。
  私と”月さら”の出合いはこれが最初であり、その後何も根拠を知らぬまま、村歌の中で述べられている”史に名高き 月さらの”を鵜飲みにして、意識の上では確信した如く近年まで過ごして来たのである。
  平成三年の暮か四年の始め頃だったかと記憶するが、小野まつえ先生から突然大変な労作を寄贈して頂いた。
  「幻の都岐沙羅」である。拝読して、息の長い、多様な調査方法と、確かな考証の成果に深い感銘を受けたが、それ以上に都岐沙羅を追究される、あくことなき情熱に圧倒される思いであった。そして又同時に、都岐沙羅の柵は未だ比定されておらず、諸説がある事も始めて知った。
  ところで返り見れば、先生から御本を頂戴してから三年近く過ぎようとしているが、まだ正式にお礼の御挨拶に参上していない。汗顔の極みである。
  さてこの辺で、村歌にかかわった人々に少し触れておきたい。
  作詞は著名な国文学者芳賀矢一東大教授となっている。この事については、高橋亀司郎氏より頂いた、大正七年六月十九日付新潟新聞記事に大意、「村歌は築地村で起稿し、それを芳賀博士に高訂をお願いしていたところ、今回出来て返送されて来た」とあるが、その高訂はほとんど作詞に近いものであったと私は理解したい。
  芳賀博士は、慶応三年五月十四日福井県栄町に生まれ、昭和二年二月六日東京大塚のご自宅でお亡くなりになったが、幼時ご父君の転勤に伴われ、八歳から十二歳の春まで、新潟市内の小学校で過ごされた人である。
  生年六十一歳であった。
  作曲はどなたか私はまだ知らない。これから出来る限り訪ね当て、後世に伝えたいと思う。唱い方は山王の水沢乕作氏がよくご存知で録音させて頂いた。貴重な資料として大切にしたい。
  村歌が立派な額として、築地村役場の議場であった三十畳ほどの奥座敷に掲げられていたのは、多分昭和十三年の春からと思われる。その後昭和三十年代後半に築地村文化センターが完成し、その二階和室が議場になると、額もそこへ移されたが、現在は町の健康文化センター三階に、出土品等の文化財と共に保管されている。
  額の書は、名筆家で知られた池辺安雄氏のもので、昭和戌寅紀元佳節(十三年二月)と記されている。
  この方の略歴は
    大正十三年 海軍主計大佐
    昭和四年  同少将
    昭和九年  同中将
    昭和二十年 死去される。
  池辺中将は、荒川町坂町の遠山医院、院長遠山 晃先生の母方の祖父に当たる方である。晃先生の祖父遠山衡平先生は、私の祖父龍太郎とは従兄弟であり、その上衡平先生ご幼少の頃から第三高等学校入学まで、我が家に入り浸りで山野に遊び、祖父と実の兄弟の如く過ごされたと聞いている。そんな関係から当時村長であった龍太郎が衡平先生を通じて、ご子息秀雄先生の奥様の厳父に揮亳をお願いしたものと思われる。
  伊藤國夫先生には、去年の春以降一方ならぬ御教示を頂いている。ご示唆に富んだお話や、貴重な資料を沢山頂戴し、改めてここで感謝申し上げたい。
  新発田市在住の先生は、塩津にお生まれになり、現在外ヶ輪小学校に勤務して居られる。小柄な先生でいらっしゃるが、お元気そのもので、春先でも朝の五時過ぎに来訪された事が一再ならずあった。お話の中でうかがえる事は、ほとんどの休日を資料収集に当たられ、各地を駆け廻っておられる御様子である。
  先生の御研究は、塩津は中世以前から塩の積み出し港であり、こゝを中継地として、塩がどこからどこへ運ばれたか、つまり昔大変貴重な物産であった塩の道が、生産地から消費地までどんな経路で結ばれており、流通運搬手段はどうであったかを解明する事によって、各時代の政治、文化に与えた影響を知る手がかりにしたい・・・と云う事のようである。
  ついでであるが、築地から高畑までの集落の束にある堀川は、塩津潟(干拓後紫雲寺潟)から胎内川を結ぶ、幅十五間余りの運河として慶安元年前後に開削が始まり、慶安四(一六五一)年に竣工したと伝えられている。水は潟から胎内川へ流れ、胎内川は高畑から直角に北上し荒川と、その河口で合流した。このように塩津潟から堀川−胎内川−荒川河口の塩谷港を結ぶ水路は、いつも二十石船が行き交う賑わいであったと云われている。また堀川の両側の堤は、塩津潟へ向かう船を綱で引く通路でもあった。この遺構は、昭和二十年頃まで原形らしいものをとどめていたが、現在はわずかに一部残っているに過ぎない。堀川は、享保十三(一七二八)年落堀川の竣工により、水は落堀川に向かって逆流し、水量もわずか川底の一部を流れるだけになり、運河の機能を失って、干拓新田の用水路としての役割を負う事となった。
余談はさておき、都岐沙羅の柵については、先生の御調査の過程でどうしても突き当たる課題であり、「これは諸説があるけれど、地元の人が都岐沙羅は築地である・・・と、強く主張すべきでないでしょうか」と、いつも激励を頂いている。
  私が、”月さら”にこだわり出したのは、それからである。

 

2 都岐沙羅柵の比定地は中条町築地

 「塩津潟と都岐沙羅柵との関連」と題して、おくやまのしょう第二十号(H7・3・31)に掲載されたものである。

   塩津潟と都岐沙羅柵との関連

 斉明天皇は、都岐沙羅柵を六五八年に設置している。それ以前に渟足柵を、六四七年に設置している。また、六四八年に『蝦夷に備えるため、磐舟柵を治め、越と信濃の民を選び棚戸を置く』(新潟県史)としている。
  しかしながら、都岐沙羅柵の場所は不明である。誠に残念なことである。
  私は、幻の都岐沙羅柵のあった場所を特定すべく証拠となる古文書を、前々から捜していた。それが、今年の八月に「倭名類聚抄」(京都大学文学部編)の中から、発見することができた。
  『渟足石船二柵之間、斉明四年紀有 都岐沙羅柵』と、記述してあったのである。
  このことは、都岐沙羅柵が、津川にあったものではない。石船柵の別名でもない。ましてや石船柵の北にあるなどという諸説は成立しないことになる。
  大和朝廷による古代越地方の勢力伸長過程において、内陸水上交通の重要な拠点としての塩津潟が、非常に重要な役割を果たしていたことが分かる。
  信濃川・阿賀野川を利用した渟足柵。荒川を利用した磐舟柵。胎内川・加治川を利用した都岐沙羅柵。
  これら三つの城柵が、塩津潟と非常に強い関係をもって、先人によって営まれていたことは間違いのないところであろう。
  旧築地村の村歌(芳賀矢一東京大学教授作詞)の二番に、『史に名高き月さらの・・』という言葉があるという。
  山王の佐藤悌吉さんのご先祖様の村長時代に作ったものだと、佐藤悌吉さんや水沢乕作さんが語ってくれた。
  『六五八年、阿部臣、船師一八〇艘を率いて蝦夷を討つ。六六〇年、阿部臣、船師二〇〇艘を率い、粛愼国を討つ』(新潟県史)とある。これらの大船団を繋留し、維持管理できるのは、塩津潟が最適であろうと考えている。
  和銅二(七〇九)年ころから、蝦夷との戦いが激しくなっている。それらに伴って、塩や糒など生活のために必要な物資を多量に調達しなければならなくなるのは当然のことである。実際に塩や米を集めている。
  大和朝廷が創置した各城柵を造り、柵戸を置くことによって、越国の塩の道が、柵戸の行動とともに同時進行していったことは、疑いのない事実であろう。
  私が考えるには、黒川の塩を送り出した塩の津と都岐沙羅柵のあった場所は、同じ場所にあったものと考えている。それは、塩津潟の北辺に当たる塩津・新館・築地・高橋を囲んだ地域ではないかと想定している。
  今回の高速道路の工事の際に、何か裏付けとなる物的証拠が出土するのではないかと、大いに期待している一人である。

  おわりに

 越後国の塩の道は、胎内川・塩の津・塩津潟・阿賀野川・信濃川・荒川等の河川を主に利用して送り出していたのである。越後国の中でも特に、阿賀北地方の塩の道は、塩の流通の本拠地と言って過言ではないであろう。
  その意味において、古代における黒川の塩の生産と、塩の津があった塩津潟の存在価値が、非常に大きかったことは言をまたないところである。

「意義深かった日本丸寄港」は、新潟日報”窓”(H8・8・7)に掲載されたものである。

 意義深かった「日本丸」寄港

 帆船「日本丸」が、岩船港に記念寄港したことは、とても意義深かったと喜んでいる。大和朝廷の越国の城柵(さく)を研究している者にとっては本当にうれしい寄港である。
  私が「日本丸」寄港に感激した理由は二つある。一つは、運輸省の航海練習船が寄港したことである。大和朝廷は、六四七年に「渟足柵(ぬたりのき)」を造っている。次いで、六四八年に「磐舟柵(いわふねのき)」を造っている。
  大和朝廷の大船団が、磐舟柵に係留されている様子を想像している。「磐舟柵」の記念碑は岩船港の東側に建立されてある。近くに岩船神社がある。由緒ある岩船港に、日本丸が寄港したことに感動している。一三四八年前の当時の磐舟を思い起こしている。
  二つ目の理由は、日本丸が帆船であることである。帆を張ったときの気品ある姿があまりにも華麗であるからである。海洋国である日本にふさわしい”海の貴婦人”に感激した。岩船神社の高台から見た、ライトアップされた日本丸は、純白の勇姿を岩船港に浮かべていた。
  岩船は、大和朝廷という中央政権と密接に関係を保っていた事実がある。その岩船港が、今後とも政治・経済・文化の面でも大いに中央と連携を保ちながら発展していくことを期待している一人である。日本丸の岩船港への寄港を機に、運輸省のほかの練習船である北斗丸、大成丸、銀河丸、青雲丸、海王丸も寄港することを願っている。

 「都岐沙羅柵は中条町築地が比定地」これは、おくやまのしょう第二十三号(H10・3・31)に掲載されたものである。