平成16年4月1日

各   位

塩津潟教育研究所 所長 伊藤國夫

都岐沙羅柵(月さら)と中条町との関わりの主張について

初春の候、貴職におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
ところで、都岐沙羅柵(月さら)と中条町との関わりは、歴史的に見て古いものがあります。具体的な事例としては、旧築地村村歌があります。当村歌の二番の歌詞に「史に名高き月さらの 昔すえたる礎を 固め固め年々に」があります。
しかし、村上・岩船地区のNPOは、「都岐沙羅パートナーズ」と称して里創プランの名称として使用しています。その根拠理由は、磐舟柵と都岐沙羅柵が同一のものと誤解しているからです。関係者の方から、磐舟柵の別名が都岐沙羅柵であるという話が聞かれます。また、都岐沙羅(つきさら)と言う語感と響きが良いと言う理由があるようです。
ところが、このたび文部科学省の研究指定を受けた研究結果の発表会が、新潟市万代市民会館で開催されました。平成16年2月29日(日)です。この資料集『第4回シンポジュウム「渟足柵探求の4カ年」』に、都岐沙羅柵のことが記述してあります。研究者は、新潟大学人文学部の小林昌二教授等です。研究主題は、「渟足・磐舟柵の研究序説」です。小林教授は、資料集37ページに「渟足・磐舟・都岐沙羅柵等の痕跡はなぜ発見できないか」という項目の中で、新潟県の城柵には三城柵があることを認識しています。また、39ページに「渟足柵の遺構や遺物類などの痕跡がなかなか発見できない理由は、やはりこうした深い埋没や流失・水没によると言わざるを得ない。磐舟柵、都岐沙羅柵も同類と推定している。」と、三城柵が存在することを論述しています。
この資料集は、公的な研究誌として都岐沙羅柵を明確に記述しています。また、三城柵が存在していたことを明確に論述しています。
この最新の研究結果から、中条町は「都岐沙羅柵は中条町築地に存在していたこと」を、各方面に発信することが大切であると考えます。その理由は、『塩津潟』が「紫雲寺潟」と言われ続けてきたことに似ているからです。村上・岩船地区のNPOが、「都岐沙羅パートナーズ」と言っていることを黙認しているのに等しいからです。
中条町が、『都岐沙羅柵は中条町築地に存在していた』と、全国に発信した方が良い理由として、次のことが上げられます。

1 文部科学省の研究指定を受けた「研究資料集」が刊行されたこと。(平成16年2月刊行)
2 芳賀矢一博士が、旧築地村の村歌の中に都岐沙羅柵(月さら)を取り入れていること。
3 斎藤修平元新潟県立図書館長が、都岐沙羅柵は中条町築地にあると発表していること。
4 伊藤國夫が、著書「塩津潟は塩の道」の中で都岐沙羅柵について論述していること。
5 日日新聞(新潟日報の前身)は、大正15年に都岐沙羅柵について掲載していること。
6 倭名類聚抄に「渟足柵・磐舟柵二柵の間に都岐沙羅柵が有る」と記述してあること。
7 中条町の児童生徒は、副読本「胎内川の恵み」や資料「塩津潟は塩の道」等で、都岐沙羅柵について既に学習を継続していること。教育の現場で、支障をきたしていること。
8 新潟県から出版される印刷物が、学問的に定説のない学説を取り上げて全県下に配布していることは、許されないこと。
9 村上・岩船地区の市町村合併が近いので、「都岐沙羅パートナーズ」を改名し易いこと。
10 各地区の地域振興課が、平成16年4月から地域振興局に格上げするので、改名し易いこと。
11 阿賀北地方の「地域づくり」は、各市町村が取り組み易くすること。村上地区が、都岐沙゛羅を使用することによって、中条地区の地域づくりに支障をきたしていること。
12 一籠山の古墳が、塩津潟に存在し、その周囲から古墳時代の遺物が出土していること。
13 一籠山の近くに伊夜日子神社(弥彦岡)が存在し、古墳時代に関連するものがあること。
14 新発田市五十公野に、阿倍比羅夫を祀る古四王神社が存在すること。
15 加治川村に、防人の伝説があること。   
16 中条郷土菓子『塩津潟三兄弟(塩津潟・月さら・塩の津)』が生産販売されていること。など

 以上のような諸々の理由から、新潟県庁内の関係する部署や村上地区のNPO等に対して、『都岐沙羅柵は中条町である』ということを発信し、関係する部署から再検討してもらうような対策を講ずることを提言します。
先日、中条町議会は、『日曜町議会』を開き、「都岐沙羅柵」について富樫議員が一般質問で取り上げました。それに対して、吉田教育長が答弁しました。中条町は、渟足柵は新潟市沼垂・磐舟柵は、村上市岩船・都岐沙羅柵は、中条町築地付近との回答でした。中条町には、「都岐沙羅柵」について深い歴史的な関わりの経緯があります。例えば、旧築地村の村歌に《月さら》が歌詞として歌いこまれています。また、教育の現場では、そのことについての教育活動が、副読本等を通して実践されているわけです。中条町は、今後地域おこしや地域づくりに、「都岐沙羅柵」を積極的に活用していくものと思います。その意味で、平成16年3月7日の「日曜町議会」は、非常に画期的なそして活発な議会であったと受け止めています。

《『都岐沙羅柵』について記述してある参考資料》
〇 「渟足柵探求の4カ年」   (平成16年2月刊行 )  小林昌二(新潟大学)
〇 「塩津潟は塩の道」     (平成15年8月刊行)  伊藤國夫(塩津潟教育研究所長)
〇 「胎内川の恵み」      (平成14年5月刊行)  胎内川沿岸土地改良区
〇 「倭名類聚抄」       (昭和41年9月刊行)   京都大学文学部
〇 「文芸なかじょう第21号」  (平成6年11月刊行) 中条文芸愛好会
〇 「旧築地村村歌」     (大正13 年春)  芳賀矢一(元國學院大學長)
〇 「おくやまのしょう第26号」 (平成12年3月刊行)   中条町郷土研究会
〇 「文芸しばた第27号」    (平成13年10月刊行) 新発田市公民館
〇 「 塩津潟の由来」     (平成6年9月開設)    伊藤國夫ホームページ など
《 都岐沙羅柵は中条町であると唱えている人々 》
〇 斎藤修平氏 〇 芳賀矢一氏 〇 伊藤國夫氏
〇 多くの学者は、新潟県に三城柵説〔渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵〕を唱えている。 など 

上記の内容を参考にして、各部署への再検討を依頼する文章を早急に作成し、発送されることをご提案申し上げます。
また、中条町議会記録等で、「中条町に都岐沙羅柵が存在すること」を、公式記録に残しておくことが重要であると考えます。中条町当局と中条町民の工夫と努力に期待しています。このことは、中条町だけでなく、新発田市も古四王神社の関連で密接な関係があります。  敬具