『都岐沙羅柵』の論議を!

                    伊藤 國夫

 「都岐沙羅柵」については、多くの学者や研究者が諸説を発表している。最近は、諸説が、出揃った感がある。
 研究者の多くは、他人の学説を良く理解しており、自説との相違を明確にしてきている。また、地域おこしの里創プランの愛称として「都岐沙羅」が、既成事実として使用されていたりしているのが現状である。
 私は、以前から「都岐沙羅柵」について、『シンポジウム』か『フォーラム』の開催を提唱してきた。しかし、今だに開催されていない。各市町村の教育委員会主催の議論では、議題が大き過ぎる。
 大和朝廷が、新潟県に設置した「城柵」のことなので、新潟県教育委員会主催の『都岐沙羅柵についてのシンポジウム』が、適当であると思っている。
 新潟県には、「渟足柵」と「磐舟柵」と「都岐沙羅柵」の三城柵があると考えている。渟足柵(沼垂)は、新潟市付近である。磐舟柵(岩船)は、村上市付近である。都岐沙羅柵は、諸説がある。例えば、中条町付近や新発田市付近や津川町付近等々、いろいろな説がある。
 このように、新潟県内の城柵の比定地は、県内の各市町村と関連が深いのである。
 特に、「都岐沙羅柵」の比定地については、いろいろな学説で現在も論争している。
 例えば、中条町の乙説や築地説や苔実説。新発田市の大友説。山形県の鼠ヶ関説や出羽説。秋田県の象潟説。新潟県の津川説等々が、上げられている。
以上のように、城柵の比定地が新潟県や山形県や秋田県等、広範囲にわたっていること。城柵を研究している大学が、東北大学や新潟大学や同志社大学等々、研究者が多く、論文を発表していること等から、新潟県教育委員会主催か新潟大学主催の『都岐沙羅柵のシンポジウム』か『フォーラム』の開催を、再度提案するものである。 私は、新潟県の河川舟運の視点から、信濃川や阿賀野川等の大小の河川と、福島潟や塩津潟や岩船潟等の連携を取り上げた『塩津潟は塩の道』を、平成十五年八月に
出版した。
 この著書の中に、「よみがえれ!都岐沙羅柵」を記述した。第七章である。二九九頁から三六〇頁に及んでいる。
 項目は、一、都岐沙羅柵が語ること。二、都岐沙羅柵の比定地は中条町築地。三、都岐沙羅柵の諸説である。
 新潟県を、古代からの地形や地勢や、大和朝廷との関わりによる政治や経済の様子等に触れたかったのである。
 また、私は平成六年に、インターネットによるホームページ『塩津潟の由来』を解説した。このホームページの中には、『都岐沙羅柵』(月さら)についての記述がある。例えば、第一に、塩津潟と都岐沙羅柵のロマンである。これは、平成一二年一二月に、新発田郷土史会での講演の内容である。第二に、都岐沙羅柵を月さらに求めて。第三に、塩津潟と都岐沙羅柵のロマン。第四に、築地と都岐沙羅柵のロマン。第五に、都岐沙羅柵と塩津潟。第六に、墨書土器”津”が物語るもの。第七に、塩津潟が新発田市に与える価値。第八に、塩津潟と新発田藩。第九に、新潟・沼垂の古環境と歴史像。第十に、塩津潟と新発田藩。第十一に、甦れ!都岐沙羅柵。第十二に、斉明天皇と古四王神社。第十三に、都岐沙羅柵は築地が比定地。第十四に、三城柵の一つ古代史に光を。第十五に、斉明天皇と都岐沙羅柵(月さら)柵造営の考察等々が掲載されている。
 このように、平成六年以来都岐沙羅柵については、その都度関連する内容を掲載してきたのである。これらの記述の内容は、都岐沙羅柵の比定地の根拠や都岐沙羅柵についての調査活動の様子や、他の学説の紹介等が含まれているものである。現在は、七九〇七回アクセス数である。大変多く利用されている。
 新潟県民は、「塩津潟は塩の道」等の著書や「塩津潟の由来」のホームページ等によって、「都岐沙羅柵」について啓発され、認識を新たにしていると考えている。
 新潟県民の認識をさらに深め且つ広めていくためには、シンポジウムかフォーラムが有効な手立てである。早急な実施を、強く望んでいる。
 里創プランの愛称として「都岐沙羅」を使用しているグループがあるが、準公的に使用している傾向が見られるので、改訂したらどうであろうか。
 この点に関しては、新潟県庁の総務部が再検討をしているものと思われる。また、新潟県新潟土木事務所や新発田土木事務所や村上土木事務所も、「都岐沙羅」の名称については再考するものと思う。さらには、新潟県新潟地域振興事務所や新発田地域振興事務所や村上地域振興事務所も、「都岐沙羅」の愛称については当然再考するものと信じてる。
 その理由は、「都岐沙羅柵」は新潟県全体の歴史に深く関わっている歴史的事象であるからである。現に、『沼垂城』という木簡が出土している。「渟足柵」の存在が立証されているのである。このことは、非常に大きな成果である。
 「沼垂城」と同様に、「磐舟柵」や「都岐沙羅柵」の木簡も、近日中に必ず出土するものと考えている。実際に、文部科学省の指定研究を受けて、新潟大学を中心にして大々的に研究が推進されている。この指定研究は、既に中間報告会を実施しているので、研究結果が明確になる期日が近いと思っている。
 里創プランの愛称「都岐沙羅」を改称するには、よい期待がきていると思われる。その理由は、平成十六年四月から新潟県の地域振興事務所の地域振興課が、地域振興局に格上げするとのことである。このことは、中条町で開催された「知事とふるさとを考える集い」で、平山征夫新潟県知事が答弁した内容である。 また、現在進められている市町村合併の期日が、迫っているからである。合併によって、諸事情が新しくなることが予想されるからである。
 これら三つの現象、即ち新潟県内の城柵の比定地の研究や地域振興局の格上げや市町村の合併等の諸事項によって、「都岐沙羅柵」の確かな比定地が確認されつつある。これらの作業は、新潟県の段階という大きな組織で推進されるべき内容であると考えている。
 日本の城柵についての研究は、各大学でも実施されているのである。例えば、東北大学や東北歴史博物館や国立歴史民俗博物館等でも研究が進んでいる。
 「都岐沙羅柵」の比定地を断定するには、遺構が発見されたり、遺物が発掘されることが最良の手がかりとなる。また、「都岐沙羅柵」という木簡が、発掘されるかである。しかし、現在では「沼垂城」の木簡しか出土していない。「磐舟柵」と「都岐沙羅柵」を立証できる物件が、出現することを期待しているのである。
 日本の城柵についての研究は、多くの方々が研究結果を発表している。例えば、斉藤秀平氏(新潟県立図書館長)芳賀矢一氏(元国学院大学)、大木金平氏、池田雨工氏、大沼浩氏(鶴岡高等専門学校)、小野まつえ氏、森浩一氏(元同志社大学)小林昌二氏(新潟大学)、岡田茂弘氏(東北歴史博物館)、吉田金彦氏(元独協大学)等。
 この他に、城柵遺蹟を発掘した各県及び各市町村の教育委員会の関係者や担当者等々、沢山の研究者が研究を継続しているのである。
 これら多くの研究論文を参考にしながら、研究の論議をしていくことも一方法である。私は、その段階にきているものと考えている。
 また、「言語学」から解明していくことも一つの方法である。さらには、古文書や古絵図等から解明できる。新潟大学が実施しているような、地層をボーリングによって検証していく方法もある。「日本書記」や「続日本紀」等から読み解く方法もある。宮内庁の古文書を、調査することも考えられる。史料に見える古代城柵を、総合的に考察する方法もある。渟足柵の六四七年から、秋田の造営の八七八年の二三一年間に二七城柵が数えられる。これらの城柵の造営された年代や位置や規模や形態等を、考察することも重要な解決方法である。
 大和朝廷の城柵は、新潟県や山形県や秋田県や宮城県や岩手県に造営されている。特に、新潟県の古代城柵は渟足柵(六四七年に造営)、磐舟柵(六四八年に造営)都岐沙羅柵(六五八年に初見)は早い段階のものである。
 新潟県民は、大和朝廷の城柵についてもっと関心を持って取り組むことを切望している。特に、中条町民は、「都岐沙羅柵」についてもっと強い関心を持つべきである。それは、中条説があるからである。中条説の中でも乙説・築地説・苔実説と、三つの候補地が、浮上しているからである。