「胎内川の恵み」 胎内川沿岸土地改良区 50周年記念事業

胎内川の利用 今と昔


(1) 川舟のいきき

現在の胎内川は、舟のいききなどとても考えられませんが、昔は舟で人や物資を輸送していました。

1645年、江戸幕府3代将軍徳川家光が作成を命じた「正保二年越後絵図」で立証できるように、河川舟運の事実が明らかになってきました。

 

正保二年(1645年)の越後絵図(新発田市所蔵)新発田市の文化財新潟県の文化財平成8年指定

 

 

 

 

 

舟の運行は、荒川河口の荒川湊―胎内川―塩津潟―加治川―島見前潟―阿賀野川河口の新潟湊となっています。

 

 

元禄13年(1700)の越後国蒲原郡岩船郡絵図
(新発田市所蔵)

 

 

 

 

 

江戸幕府5代将軍徳川綱吉が作成を命じた元禄13年越後国蒲原郡岩船郡絵図からも、胎内川から日本海に出る舟による運行があったことが分かります。

この2編の国絵図によると、胎内川は塩津潟に注ぎ、また胎内川の支流である柴橋川も塩津潟に流れこんでいます。

塩津潟の名前の由来は、黒川の塩沢・塩谷でとれた塩を、塩の津という港から送り出されていたので、塩津潟と呼ばれるようになったと言われています。

現在も、塩津という集落が中条町にあるし、塩沢という集落は黒川村にあります。
昔は、船で塩やお米などを運んでいました。

塩津潟の周辺には、船着き場の地名が多く残っています。例えば、塩津、船戸、小舟戸、戸野港などがあります。

胎内川から舟で日本海に物資を運ぶルートは、荒川の河口にある荒川の河口にある荒川港と塩津潟を通り、加治川・島見前潟・阿賀野川から信濃川の河口にある新潟港へ出る2つのルートです。

今のように整備された道路や自動車がなかった昔は、舟が人や物資を運ぶ大切な交通の手段でした。

 

 

塩津潟(紫雲寺潟)は新田開発されてからは、舟の運行はできなくなりました。

今は、自動車が通るりっぱな道路が作られています。また、塩津潟のあった中央を高速道路の「日本海沿岸東北自動車道」が平成14年に開通します。

高速道路「日本海沿岸東北自動車道」の工事に伴い、塩津潟周辺の遺跡の調査が行われました。船戸川崎遺跡、蔵の坪遺跡、中倉遺跡、青田遺跡、住吉遺跡等、中条町・加治川村・紫雲寺町・で発掘されました。その結果、昔の様子を知ることができる貴重な遺物がたくさん出土しました。

 

「津」と書かれた土器(中条町蔵の坪遺跡)
(新潟県教育委員会提供)

出土した丸木舟(加治川村青田遺跡)

 

例えば、中条町の蔵の坪遺跡からは、「津」と書かれた墨書土器が出土しました。(平成12年11月)この出土によって津とは、港を表すことからこの周辺には港があったことが、分かってきました。

また、加治川村の青田遺跡からは、大きな「丸木舟」と舟をこぐ「櫂」が出土しました。(平成13年11月)

これらの土器や舟の貴重な遺物が出土したことにより、昔から塩津潟も「舟」が運行していたと思われます。

 

津川町麒麟橋〔明治後期〕
(津川町小野戸の舟着き場で、係留用の杭が岩をくりぬいて立てられている)

 

塩津潟干拓前は、塩津潟からも津川港等へ川舟がいききしていたことが子の写真からも想像されます。

 

 

塩津潟は、日本與地図(1756年)によれば、現在の黒川村・中条町・加治川村・新発田市に関連のもっているとても大きな潟でした。

また胎内川・船戸川・今泉川・大井川・加治川・新発田川などは、日本海に直接流れ出ていないことが分かります。
塩津潟は、雨が降るたびに周辺の田や畑は水害にあい、毎年、洪水には困っていました。

 

 

(2)塩津潟(紫雲寺潟)の干拓と竹前小八郎

竹前権兵衛・小八郎は、信濃国高井郡米子村(今の長野県須坂市)出身でした。

江戸幕府は、竹前兄の干拓計画を1727年に許可しました。この兄弟は、翌1728年に塩津潟の水を切り落とす落堀川の掘割りに着手しました。

1729年に小八郎が、病気になり死亡しました。その後、兄の権兵衛がこの工事を続けました。1732年に権兵衛は、幕府から干し上がった土地500町歩を与えられました。

幕府は干拓地の残り1,500町歩は、新発田領内のお金持ちにゆづりわたしました。

このあとの工事は、権兵衛に代わって幕府がやり続けました。

1734年に用水路や排水路や道路などができました。

1735年に、幕府の検地を受けてかつて広い塩津潟は、新しい土地に生まれかわりました。

このころの記録では、42の村ができ、1674町歩(ha)の田畑ができあがりました。

お米は、約2,550トン(t)もとれるようになりました。

塩津潟の干拓につくした竹前権兵衛は、1749年に71歳でその一生をとじました。

 

塩津潟(紫雲寺潟)干拓後の村のようす(1730年頃)「ふるさと中条」より

落堀川(掘切川)の現在のようす
(日本海から上流方面を望む)

塩津潟 干拓の年表

1651年 村上藩は胎内川と塩津潟を結び、舟を通す堀川を掘る。

1721年 新発田藩は長者堀跡を明削する。

1728年 竹島小八郎が塩津潟開発に着手する。

     新発田藩は塩津潟に流入する境川の締め切りに着手する。

1729年 竹島小八郎が死亡する。兄の権兵衛が開発を継続する。

     幕府は塩津潟を新発田藩の預かりとする。

1730年 新発田藩は阿賀野川を松ヶ崎浜へ分流する。

1732年 幕府は塩津潟干拓地を全部没収し、竹前権兵衛に500町歩を与える。

     その後、塩津潟の新田開発は、新発田藩の町人などによって続ける。

1733年 幕府は今泉川の瀬替に着手する。

1734年 塩津潟の干拓工事が終わる。

1735年 幕府は新発田藩に塩津潟新田のそう検地を命令する。

 

(上)塩津潟が干拓され、稲穂がたわわに実っている乾田化した水田です。

 

・水田の用水・排水の体験学習

  塩津潟が水田に開発された後の、農業用水・排水の様子や、胎内川沿岸土地改良区の仕事について学習している。

 

 

 

 

土地改良区の布川参事から

説明を聞く竹島小学校4年生(平成11年)