新潟日報 平成17年7月15日掲載



塩津小学校へようこそ

塩津小学校はこんなところにあるよ

平田市塩津町101-2   0853-66-0186

平田市の地図

平田市

塩津漁港
塩津漁港の写真
美保漁港(唯浦)
美保漁港(唯浦)の写真

唯浦の義勇の碑

「こら大変だ。大出し(冬に起こる強い季節風)だ。早くなんとかせにゃ。」
 塩津の人々は色を失って叫んだが、残っているものは老人、子どもばかり。そのうちに、風は疾風となり、波は逆巻き、海上は泡立ち、土地の人が「潮巻き」と呼ぶ大嵐となった。
 大正元年(1912)およそ十時ごろのことである。この日の朝は、低気圧はたれこめていたが海は青く澄んでいた。塩津港からは二十六隻の漁船が、夜明けとともに出漁していた。
 海の急変におどろいた塩津の人は、半鐘を打ち鳴らし助けを求めて唯浦(美保町)に走った。そのうち、十五隻が、かろうじて帰ってきた。二・三人乗りの小さな漁船十一隻は、櫓は流され、浸水はひどく生死のあいだをさまよっていた。 急を聞いた唯浦の区民は、救助船四隻を仕立てて出動した。近くの釜浦からも一隻、塩津からも先に帰ったもののうち二隻が再び救助に向かった。
 午後一時半頃、七隻の救助船は、五隻の遭難船と沈没状態の一隻に乗っていた二人を連れ帰った。別に二隻が自力で三津浦に避難した。塩津、唯浦の浜には生気がよみがえった。
 しかし、なお三隻が行方不明である。塩津から唯浦へ「今一度頼みます。」と救助を依頼する使いが走った。唯浦の青年たちは、さきほどの救助で疲労しきっていた。しかも、昼食さえまだ食べていなかった。だが、けなげにも「よろしい。出かけましょう。」と、十五人の青年は快く応じ、午後二時四十分、逆巻く怒涛の中へ突き進んでいった。さらに、午後三時過ぎ、唯浦と塩津から一隻ずつが出発した。しかし、この二隻が小伊津沖にさしかかった三時半頃、風は急に西風となった。この時、先発の船がはるか向こうで海岸に向けて進んでいるもを認めた。おそらく坂浦港へ避難するのだろうと思い、捜索を中止して小伊津港に避難した。
 このころ、行方不明の三隻の中の二隻が、自力で海岸にたどりついた。残すところ、二人乗りの舟一隻となった。しかし、この一隻と先発船の十五名は夕方になっても消息がわからず、二重遭難の心配が強まった。もしや、恵曇港に避難したのではと問い合わせたところ、「フネキタラズ」の返電がきた。唯浦、塩津の区民とその家族は悲嘆にかきくれた。二十八日の朝、幾分海はおだやかになった。正午頃、恵曇から電報が入った。それは、「フネアリ、ヒトナシ」と。やがて、救助船の船具や舵が漂着したという連絡があり、十五青年の殉難は確実になった。
 これらの青年は、すべて唯浦の青年部会員で、最年少は佐藤由太郎さん(数え十六歳)であった。この遭難の前日二十六日の夜、彼等は塩津小学校の教員であった和泉林市郎さん(当時三十三歳)から犠牲の精神について学んだばかりであった。
 やがて、この話は全国に伝えられ、救済募金運動も起こり、大正四年には、唯浦浜にある天狗岩に『義勇』と刻まれた顕彰碑がつくられた。一方昭和十五年四月「師範学校修身教科書」にこの話が取り上げられた。
 和泉翁は、「自分が教えたばかりに、こんな悲惨な結果を招いた。」と、胸を痛めておられたと聞く。翁は、教育一筋に生命をかけられた誇り高い教育家であった。昭和四十四年三月二日、翁は九十三歳でなくなられたが、その精神は、『義勇』の二字とともに永遠に残っているのである。

ふるさと情報18号(平成2年5月号)から

義勇の碑の写真
塩津小学校に保存されている遺品の写真
義勇の碑
塩津小学校に保管されている遺品