長岡あれこれ情報誌 Vol.42 My-Skip 7月号  2004.07 

八十里越の「塩の道」


【越後の河川舟運による「塩の道」】

江戸幕府初期の河川舟運は、非常に盛んでした。越後国は、阿賀野川や信濃川(妻有川)等の大小の沢山の河川と、鳥屋野川・福島潟・塩津潟等々の多くの潟が存在しています。北は、荒川河口の岩船潟から南は信濃川の上流まで、「舟運」が行われていました。つまり、河港
で結ばれていました。

八十里越の塩の道は、荒川や阿賀野川と同様に、信濃川の舟運と関わっていたものと思います。このことは、五代将軍徳川綱吉の命令による『越後国蒲原郡岩船郡絵図』(1700年)を見ても「河川舟運」の様子は、容易に理解できます。

八十里越の塩の道は、能代川を上り村松藩を経由して、会津への「塩の道」が確認されています。このように、「塩の道」は、内陸水上交通との関わりが古く、そして深いのです。

「徳川家光時代の河川舟運」越後絵図(1645年)

【知事と語るむらおこし・まちづくり】

地域で活躍する人々が、地域の課題について知事とディスカッションを行いました。6月4日に、多くの方が参加のして長岡市中央図書館で開催されました。この会で私は、新潟県『夢事業』の「街道物語」の中に、県内の”塩の道”を取り入れることの大切さを提言してきました。平山征夫県知事さんは、「提言の趣旨にそって検討していきたい」とのお話でした。

上越地方は糸魚川市、中越地方は長岡市、下越地方は新潟市が、それぞれに「塩の道」の中心都市として広域の地域づくりに取組み、教育や文化面でも向上されることを期待しています。

【塩の道の最近の展開】

「塩津潟は塩の道」を昨年の8月に出版して以来、順調に販売されています。また、私のホームページ『塩津潟の由来』は益々充実してきました。都岐沙羅柵等、50数項目追加しました。その内、大学や生涯学習課主催の講演会等が14回を数えます。『塩津潟の由来』のアクセス数は、平成13年5月=1608回、平成14年12月=4265回、平成15年2月=4578回、平成16年2月=7408回、平成16年6月=8555回です。

このように、アクセス数が、急増しています。その理由は、新潟県民が「塩の道」に興味と関心を持ってきたからだと思います。また、都岐沙羅柵に対する新潟県史の見直しに拍車がかかってきたからだと考えています。

「八十里越の塩の道」と題して、3月号から5回にわたって連載してきました。記述に当たっては、長岡市の諸橋様や遠山様、柏崎市の山田様、十日町市の星名様等のご協力によるものでした。本当にありがとうございました。

「塩の道は」、塩を受け取った側の長野県や群馬県や福島県等の隣接県との文化の交流があります。新潟県の人々と、これら隣接県の人々との協力によって、地域づくりや地域おこしを、今後活発に実施されていくことを、心よりご期待申し上げております。

《三楽大学での講演》(加治川村教育委員会)

塩津潟教育研究所  伊藤國夫