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長岡あれこれ情報誌 Vol.39 My-Skip 4月号  2004.04 

八十里越の「塩の道」

火焔土器の道
 長岡から十日町市まで、「火焔土器の道」が制定されています。現在は、二号基まで完成していると思います。大一号の「火焔土器」の序幕式出席しました。そのレセプションの時に私の隣の人が、「長岡にも、塩の道はあったもんですよ。」という話をされました。私は、その話をとても興味深く聞いていました。私は、「火焔土器の道」は、「塩の道」でもあったものと推測しています。

 

長岡市の塩分の濃い井戸(塩井)
 長岡市内に塩分の濃い井戸があり、お祭りをしている集落を見学に行ったことがあります。大字名は忘れましたが、字名は”岩ノ入”だったように記憶しています。「塩」が不足していた戦時中は、その井戸水を求めての道ができたことでしょう。

与板町の塩之入
 与板町の塩入峠の所に、やはり塩井があります。岩の入の塩井も塩之入の塩井も、なめて見るとかなり塩辛い井戸水でした。与板町の石黒様は、「長岡市周辺からも人々は、”塩”が不足していた頃、その塩水汲みにきたものです。」ということでありました。ここにも、長岡と与板町を結んだ「塩の道」があったようです。

栃尾市の塩谷
 栃尾市にわ、「塩」の付く地名が多い。例えば、塩新町・塩中・上塩等から、「塩」との関わりがあったものと考えられます。長岡市在住の諸橋様に「長岡市内の”塩の道”を、具体的に知りませんか。」と尋ねたところ、『八十里越』という本を紹介してくださいました。この本は、社団法人北陸建設弘済会が平成元年6月に発行したものでした。33ページに「越後からの商品」として、「塩」のことが詳しく記述してあります。また、88ページに「塩の輸送」として、記述があります。長岡市立図書館に、『八十里越』があると思いますので、是非読んでみてください。先人が、苦労して「塩」を運んだ様子が理解できると思います。

敬和学園大学での講義
 敬和学園大学の経営方針の一つとして、郷土の歴史に基づいた教育活動を実践するということのようです。学生は、120人以上受講していました。新発田市の郷土の歴史等の「新発田学」が、今後益々活発になるものと思っています。長岡市の児童生徒や学生たちの教育活動にも、「長岡学」の一つに”塩の道”が取り入れられることを期待しています。私は、母校である中条町立中条中学校の全校生徒600人に、『塩の道は阿賀北地方が本場』と題して講話したことがあります。平成6年度のことです。この頃から、中条町の方々は「塩の道」について再認識してきました。

知事とふるさとを考える集い
 日本は、周囲を海に囲まれているため、縄文時代から製塩が行われていました。各地に製塩土器も出土しています。また、大和朝廷の渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅等にも、「米」や「塩」を送っています。「塩」は、人間が生活していくのに絶対に必要な物質です。このようなことから、新潟県は昔から「塩」と関わりながら生きてきました。知事とふるさとを考える集いの新発田会場(平成11年)や中条会場(平成13年)で、それぞれ「塩の道」について提言をしてきました。そのことが、私の著書『塩津潟は塩の道』の本文の記述や口絵に掲載されています。平山県知事さんからは、「塩の道」に関する激励のお手紙を頂戴しています。阿賀北地方の地域振興の助言を頂いたのは、平成13年9月のことでした。「塩の道」については、先進都市である糸魚川の地域おこしや地域の文化の伝承等、地域の活性化につながるイベントを継続できたら、とても良いことだと考えています。


敬和学園大学で講義中の筆者

塩津潟教育研究所  伊藤 國夫