越国の塩の道
 

はじめに

塩の字がついている『塩津潟』について不思議に思ったのは、小学校5年生のときからである。 私が新発田市立図書館に行った時に、館内に大きな地図が展示されてあった。 その地図には、大きく『塩津潟』と、書いてあった。 小さい頃から、『紫雲寺潟』と聞かされていたのに、『塩津潟』と明記されていることを知った時からである。 そのときの驚きは今でも強烈な印象として頭の中に残っている 『塩津潟』と『紫雲寺潟』について興味と関心を持ちはじめたのは、その時からである。 小学校のその時以来、今日までのその感心は、続いている。 
 
 
 

越国の塩の道

黒川村の塩谷・塩澤で湧出した「塩」を塩の津から送り出した港があることから「塩津潟」となったことは 「郷土史概論」の中で大木金平先生が論述しておられる。(詳細については省略) 人間が、生活していくのに欠かすことのできない「塩」が「塩津潟」と、とても深く 関わっていることが明らかになってきたのである。生活必需品である塩という生産物を通して 黒川村や中条町に住んでいた先人が、脈々と生活していた事実を無視できないのではないかと 考えるようになってきた。教職という仕事の上からでも、先人の生活の様子や努力してきたことを 後世の人々に正しく伝承していかなければいけないという使命感みたいなものを持つようになってきた。 
 
 
 

塩谷・塩澤の塩は、岩塩か塩泉か

黒川村元教育長片野徳蔵氏にお聞きすると塩水が出る井戸水があるという。また『コノ処土塩アリ』と記載してある 「越後輿地全図」(黒川村文化財)があるという。このふたつの事実から、黒川村に「塩」が採れたことは岩塩か どうかは別にしても、まぎれもない事実である。海塩に対して、黒川村のように山塩が生産されている事実は 長野県の大鹿村や福島県の只見町の事例を巡検して分かったことから、明らかなことである。 黒川村の塩は、特に山塩であったことが貴重な価値を持っていると思う。私は、黒川村に伝わっている伝説や 「コノ処土塩アリ」という古絵図があるということからしても、 何らかの固体の塩が採れたのではないかと推察している。(岩塩説については、現在調査中なので省略) 
 
 
 

越後の塩の道

塩の道と言えば、糸魚川から松本までの塩の道があまりにも有名である。千国街道がよく知られている。 しかし、越国の塩の道は調べてみるとそれだけではない新潟県側には、塩についての資料が殆ど無かったで、 塩を沢山買っていた福島県の県立図書館から調査を開始した。その結果、「塩の道を行く」という 朝日新聞福島支局の本など、数冊からの参考図書の本など、何冊かの参考図書を探し当てることができた。 それらの本を読み進めていくうちに驚くべき事実が分かってきた。 やはり、越後の塩の道がいくつかあったのである。 会津等へ塩を送りだす越後の塩の道には、次のような塩の道がある。 
  • 新潟 − 津川 − 野沢 − 束松 − 塔寺 − 坂下 − 城下 (鳥井峠・束松峠等)
  • 新潟 − 金谷山 − 伊北 − 永井野 − 高田 − 城下(八十里越)
  • 寺泊 − 三条 − 森町 − 叶津 − 塩沢・川口 (八十里越)
  • 新潟 − 六日町 − 上野中山 − 沼田・渋川(三国峠)
  • 岩船 − 下関 − 小国 − 小松 − 米沢 − 福島 − (板谷峠・二井宿峠)
  • 柏崎 − 小千谷 − 小出 − 只見(叶津)(六十越)
  • 糸魚川 − 大町 − 松本(三坂峠)
これらの事実は、福島県只見町の矢沢大二氏、村松町の塚野巳三郎氏、荒川町の小川清治氏、 津川町の安部利男氏の方々のご協力により新潟県側の古文書のいくつかが、 既に確認されているところである。このように「越後の国の塩の道」を調査してみると、 塩の津の塩津潟をはじめ、歴史的にみても古い時代から塩の津の道が栄えていたことが分かる。 私は、千国街道の塩の道よりも、蒲原郡岩船郡の塩の道の方が古く、量的にも多かったと思う。 むしろ、胎内川、荒川、塩津潟、阿賀野川、信濃川に関わる塩の道の方が、史実にもとづいて もっともっと大切に扱い、伝承していかなければならないと考えている。 
 
 
 

塩津潟(紫雲寺潟)を教材化して

小学4年生社会科の単元に、「くらしを高める願い」がある。 私は、地域素材の教材ということで、塩津潟(紫雲寺潟)を取り上げました。 第一回目は、今から十数年前に新発田市立住吉小学校の4年生に実践した。紫雲寺潟のことを 紫雲寺の方から、お話をお聞きした。その後、紫雲寺潟の現場学習をして、学習を実践しました。 第二回目は、平成6年度に新発田市立外ヶ輪小学校の4年に実践した。 導入の教材として使用したものは、「芦沼」という映画であるその後に、 正保二年の越後絵図(1645年)と、元禄十三年の越後国蒲原郡岩船郡絵図(1700年)を、使用した。 
 
 
 

塩津潟と都岐沙羅柵との関係

斎明天皇は、都岐沙羅柵を658年に設置している。また、648年に 『蝦夷に備えるため、磐舟柵を治め、越と信濃の民を選び柵戸を置く』(新潟県史)と、している。 しかしながら、都岐沙羅柵の場所は不明である。誠に残念なことである。 私は、幻の都岐沙羅柵のあった場所を特定すべく証拠となる古文書を、前々から探していた。 それが、今年(平成7年8月)に「倭名類聚抄」(京都大学文学部編)の中から 発見することができた。 『渟足船二柵之間、斎明四年紀有、都岐沙羅柵』と 記述してあったのである。 このことは、都岐沙羅柵が津川にあったものではない。石船柵の別名でもない。 ましてや石船柵の北にある等という諸説は成立しないことになる。 大和朝廷による古代越国地方の勢力伸長過程において、内陸水上交通の重要な処点として、 塩津潟が、非常に重要な役割を果てしていたことが分かる。 
  • 信濃川・阿賀野川を利用した渟足柵
  • 荒川・胎内川を利用した石船柵
  • 胎内川・加治川を利用した都岐沙羅柵
これらの、3つの城柵が、塩津潟と非常に強い関連をもって、先人によって営まれていたことは 間違いのないことであろう。 旧築地村の村歌(芳賀弥一 東京大学教授作詞)の二番に『史に名高き月さらの...』という言葉があるという。 山王の佐藤悌吉さんや、水沢乕作さんが語ってくれた。 『658年、安部臣、船師180艘を率いて蝦夷を討つ。 660年、安部臣、船師200艘を率いて粛愼を討つ。』(新潟県史)とある。 これらの大船団を繋留し、維持管理できるのは、塩津潟が最適であろうと考えている。 和銅二年(709年)頃から、蝦夷との戦いが激しくなっている。 それらに伴って、塩や糒などの生活のために必要な物資が、多量に調達しなければなくなるのは当然のことである。実際に塩や米を集めている。 大和朝廷が設置した各城柵を造り、柵戸を置くことによって越国の塩の道が、柵戸の行動と 共に、同時進行していったことは、疑いのない事実であろう。 私が考えるには、黒川の塩を送り出した塩の津と都岐沙羅柵のあった場所は、同じ場所で あったものと考えている。それは塩津・新館・築地・高橋を囲んだ地域ではないかと想定している。 何か裏付けとなる物的証拠が出土するのではないかと大いに期待している一人である 



越後国の塩の道は、 胎内川・塩の津・塩津潟・阿賀野川・信濃川・荒川等の河川を主に利用して送りだしていたのである。 越後国の中でも、特に、阿賀北地方の塩の道は塩の流通の本拠地と言って過言ではないだろう。 その意味において、古代における黒川の塩の道の生産と、塩の津があった塩津潟の存在価値が 非常に大きかったことは、言をまたないところである。 

参考文献 
・塩の道を行く 朝日新聞福島支局編
・塩の道を行く 田中欣一著
・あらかわ歴史散歩 荒川町教育委員会編
・阿賀の路 赤城源三郎著
・阿賀のさと 東蒲原郡史委員会編
・倭名類聚抄 京都大学文学部編