平成13年5月28日
朝日村教育研究協議会
塩津潟研究家 伊藤 國夫
会場 朝日村総合文化会館
塩津潟が教材にできた要因 |
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講演の録音(抜粋)はここ |
3 古絵図における塩津潟の立証
(1) 正保 2年 「越後絵図」 西暦1645年
(2) 元禄13年 「越後國蒲原郡岩船郡絵図」
西暦1700年
(3) 宝暦 6年 「越後輿地図」
西暦1756年
(4) この他多数
4 「塩津潟」が紫雲寺潟といわれている理由
(1) 「しうつ」と「しぉんづ(塩津)」と「しうんじ(紫雲寺)」が一致 →【言語学的にも立証】
(2) 「塩津」の行政区が目まぐるしく変わった
(3) 塩津潟と紫雲寺潟が同じだということに気付いていない
(4) 塩津潟を紫雲寺潟とも言う住民のいい加減な意識がある
(5) 塩津潟と紫雲寺潟の2つの潟名に不自然さを感じていない
(6) 紫雲寺潟は、古絵図に存在しないことを知らない
(7) 「紫雲寺潟は、『塩津潟の転』だ」という事実に気が付いていない
(8) 「塩津」をよい意味の「紫雲寺」に変えたという説がある
(9) 「紫雲寺町」の町名由来を調べれば、紫雲寺という寺名である
(10) 中条町の住民が、『塩津潟』を諦めている 等々
5 河川舟運の様子〔旅人から立証〕
・ イサベラ バラード(イギリスの旅行家)
・ 松尾芭蕉
6 川舟と船着場
・ 津川 ・ 新津
・ 金津
・ 角神(津の神) ・ 塩津 ・ 百津 等々
7 社会科副読本編集の続出
・ 中条町 ― 「ふるさと中条」
・ 黒川村 ― 「わたしたちの郷土 中条・黒川」
・ 新発田市 ― 「副読本の改訂作業中」 等々
8 塩津潟が正式名で呼ばれるようになった理由
(1) 『塩津潟』の研究に、学者の関心が高まってきた。
(2) 学者と行政の連携が強まった。
(3) 『塩津潟』の研究が、各大学関係者と連携ができた。
(4) 各市町村の横の連携が頻繁になってきた。
(5) 各市町村が『塩津潟』を正式潟名であると明確な態度を取ってきた。
(6) 関係する地域住民がしっかり諦めていた。
(7) 福島潟の「お副伝説」が正しく理解されてきた。
(8) 竹前氏たちが、幕府への干拓願いを新発田藩を抜きに進めたことが判明した。
(9) 『塩津潟』を「紫雲寺潟」と呼んでいる不自然さに気付いてきた。
(10) 『塩津潟』の正式潟名に訂正する手順・手引きが分かってきた。
(11) 『塩津潟』を正式潟名に訂正しようとする意識が行政側に出てきた。
(12) 新聞やテレビ等のマスコミが多く取り上げてくれた。 等々
9 塩津潟が定着してきた理由
・ 古絵図による立証
・ 古文書による立証 ―学校の副読本として児童生徒に活用
・ 研究者の努力
10 「塩津潟」を学習した実践例
(1) 新発田市立住吉小学校の事例 新潟県教育研究集会で発表
(2) 新発田市外ヶ輪小学校の事例
「総合的な学習の中に歴史学習を取り入れる一考察」
(3) 新発田市立車野小学校の事例 〜塩津潟の新田開発の歩み〜
(4) 中条町立中条中学校の事例
(5) 中条町立竹島小学校の事例
11 都岐沙羅柵の比定地の確認
・ 旧築地村の村歌 ―芳賀矢一博士の作詞
・ 新発田市五十公野の古四王神社
12 越国の『塩の道』
(1) 荒川ライン
(2) 60里越ライン
(3) 阿賀野川ライン
(4) 80里越ライン
(5) その他
13 越国の『塩の道』と各市町村の地域おこしの実態 ⇒私の大きな夢
・ 黒川村→中条町→加治川村→新発田市→聖籠町→新潟市→津川町→福島県へ
14 郷土史を伝承していくための今後の課題
・ 郷土の歴史を正しく学ぶ努力 ⇒郷土史の素材を教材化して副読本に編集
15 おわりに
【インターネット】
【塩津潟の由来】
http://www.inet-shibata.or.jp/~shionotsu/ | |
《塩の津》 |