−掲示板から発信−
| 投稿日 | 投稿内容 |
| 2005/12/03 [546] 新潟出版文化賞 |
新潟日報の紙面に、同文化賞のことが掲載されていました。応募された本の中に、私の著書『塩津潟は塩の道』も掲載(平成17年12月3日付)されていました。 |
| 2005/12/03 [545] 第3回トルコ日本現代芸術世界展 |
トルコのミマールシナン大学で開催された同世界展が、10月20日〜24日まで開催されました。その時の写真集が、届きました。両方の写真集とも、会場の様子が良く分かり豪華版です。作品を出品したものとしては、とても良い記念と記録になりました。 同大学の学生の教材としても、活用されるそうです。この世界展を記念して、記念碑を除幕しました |
| 2005/12/03 [544] 新世紀宮廷芸術祭の写真集 |
第5回のインスブルック王宮で゛の同展が、10月7日〜14日まで開催されました。その写真集が、昨日届きました。この芸術祭のオープニングが、昨日のことようです。 |
| 2005/11/17 [543] 新発田郷土史会の講演 |
本日、同会の以来により新発田市文化会館で『塩津潟・都岐沙羅柵が復活した要因』というタイトルで、同会5回目の講演をして来ました。新発田市と関わりのある「塩津潟」と「都岐沙羅柵」について、講話しました。私が、新発田市を全国・世界へ発信している様子や、私の個展の様子等を講話することが出来ました。 |
| 2005/11/12 [542] 第3回トルコ日本現代芸術世界展 |
上記世界展が、トルコ共和国イスタンブールのミマール・シナン大学絵画彫刻美術館(BESIKTAS)で開催されました。会期は、2005年10月18日〜20日です。 初日は、美術館前広場にて「モニュメント」の除幕式が、盛大に執り行われました。本展は、トルコ共和国と日本両国間の親善や相互理解に貢献できたと、関係者は喜んでいました。 私は、本展に「加治川桜の復活」と「福島潟の朝凪」を出展しました。これらの作品は、ミマール・シナン大学の教材として活用されるとのことです。また、モニュメントには、出展者の名前が刻印されているそうです。 トルコ共和国民と日本人の友好に、末永く貢献することを期待しています。 |
| 2005/11/11 [541] 新潟大学テレビ公開講座 |
この講座が、明日から始まります。主題は、『新潟・水紀行』です。7回の講座です。新潟県民の、水との関わり方が新潟大学の先生方によって説明されます。制作・放送は、BSN新潟放送です。とても、楽しみにしています。 |
| 2005/11/11 [540] BM(美術の杜)Vol6 |
BM(Vol6)が、平成17年11月10日に発行されました。この本には、私のことが3点掲載されています。1点目は、『伊藤國夫展ー胎内市を全国・世界へ発信展』です。2点目は、『郷土と作家Vol6』です。この内容は、伊藤國夫展・塩津潟・新潟市の芸文会館・糸魚川市の翡翠海岸・新発田城・胎内市の板額御前・伊夜日子神社・奥山荘資料館・シンクルトン記念館・胎内自然天文館・塩津潟等の郷土菓子・『塩津潟の書籍集』・著書『塩津潟は塩の道』等です。3点目は、「世界平和芸術祭」のチューリップフェステバルUです。 今回の掲載内容で、『世界平和芸術伝導師』の認定をいただきました。 この号で、『伊藤國夫がこよなく愛した地“新潟“』が、6頁+2頁にわたって紹介されています。是非、ご覧下さい。 |
| 2005/11/11 [539] 信濃川自由大学 |
新潟市で昨日開催された同大学に、参加してきました。大変大勢の人が、熱心に聞き入っていました。 私は、この講座に2点について発言しました。1つは、新潟市は合併して旧豊栄市まで含むので、新潟市の北の阿賀野市・新発田市・胎内市等についても、是非触れてほしい。2つめは、長野県側は千曲川です。新潟県側は、妻有川の時代があるのに、何時からどんな理由で信濃川に変更したのか明確にしてほしいことです。田中長野県知事は、長野県ではなく信濃県に改名したいと言っています。長野県は、多くの人々が賛成しています。新潟県は、見通しを持って対応してほしいです。 |
| 2005/11/08 [538] 「塩の井」栃尾市 |
栃尾市大野原地区に、塩井「塩の井」が有ります。巣守神社境内に有ります。『ふるさと大百科』の長岡編の206頁に、掲載されています。県内の塩井は、胎内市・与板町・新発田市・栃尾市等に存在します。弘法大師伝説が、各所に伝わっています。 |
| 2005/11/07 [537] 「新潟県地名研究会」 |
新潟市で、10月30日に開催された同研究発表会では「越後における塩地名」が発表されたそうです。その時に、私の著書『塩津潟は塩の道』が、引用されたそうです。 新潟県内の「塩の道」が、少しずつ広まってきているようです。 |
| 2005/11/07 [536] 「越後平野の内水面交通」 |
この演題は、「にいがた連携講座」の主題です。講師は、新潟大学の原 直史氏です。この講座の資料には、「塩津潟(紫雲寺潟)と舟運」と言うように、「塩津潟(紫雲寺潟)」としていました。会場には、『正保二年越後絵図』を展示していました。また、資料にも、越後絵図のコピーを添付していました。 このことは、新潟県立歴史博物館の『常設展示図録』の記述と一致した認識です。県内では、「塩津潟(紫雲寺潟)」が一般的に認識されてきました。史実を直視した、正確な認識だと思います。 質問の段階では、「越後平野の塩津潟の内水面交通は、7世紀まで遡ることが出来ると思うが、原先生のお考えは如何ですか。」という質問と、私の著書『伊藤國夫個展集』と『塩津潟の書籍集』(いずれも平成17年10月1日発行)を、紹介しました。この両書は、「塩津潟」に関する書籍です。この内容は、私のホームページ『塩津潟の由来』に、掲載済みです。 |
| 2005/11/07 [535] 中学校同期会の反応 |
同期会の多くの参会者は、私の著書『塩津潟は塩の道』の出版を知っていました。中には、「買って読みました。」という人もいました。大変に、嬉しかったです。「塩津潟」に関連する著書は、現在6冊目になりました。郷土の人々には、『塩津潟』が地域の人々に与えた恩恵が、少しずつ理解されてきました。 |
| 2005/11/07 [534] 食と花のフォーム |
「私欲と花の世界フォーラムにいがたプレ2005」が、新潟市で11月4〜6日まで開催されました。4日の「食の国際シンポジウム」に参加してきました。食糧増産にかけた新田開発にも話題が、及びました。産業振興センターでの展示には、佐藤氏の亀田郷の新田開発も展示してありました。私は、新発田藩の塩津潟の新田開発や阿賀野川の日本海への切り落とし工事も、紹介してほしかったと思っています。新潟平野の新田開発は、塩津潟の新田開発等新発田藩の影響が大きい。新潟平野の多くの潟や湖沼を、新田に開発に及ぼした歴史は、新発田藩の新田開発と関連するところが多い。 |
| 2005/11/07 [533] 日東道工事が縄文時代を解明 |
日本海東北自動車道の工事が、縄文時代の様子を解明するのに大きな業績がありました。塩津潟内の「青田遺跡」をはじめ、多くの遺跡の発掘に関連しています。今回の現地説明会の「野地遺跡」や「道下遺跡」は、やはり縄文時代のものでした。縄文時代の、内水面交通と深く関わっているようです。 |
| 2005/11/03 [532] オーストリアに私の著書を贈呈 |
今回のオーストリアでの『芸術祭』の鑑賞に際して、インスブルック市やザルツブルグ市やウィーン市には、私の著書がそれぞれに寄贈されています。オーストリアは、「塩」の輸出国なので、日本の「塩の道」について参考になっていると思います。 私の著書ごる『塩津潟は塩の道』は、オーストリアの他にトルコ・フランス・イタリア・モンゴル・英語圏の国々に発信されています。詳細については、5冊目の著書『塩津潟の書籍集』を参照してください。全国版は、14冊が発信されています。これらの多くの書籍が、「塩津潟の復活」に大きな原動力になることは、明白です。 |
| 2005/11/02 [531] 「オーストリア名誉芸術賞」を受賞 |
『第5回 新世紀宮廷芸術祭2005』に、出展した「加治川桜の復活」と「福島潟の朝凪」に対して、ハプスブルク芸術友好協会より『オーストリア名誉芸術賞』を受賞しました。 私は、当芸術祭の公式鑑賞ツアー(平成17年10月7日〜14日)に、インスブルック宮殿の展示場に行ってきました。オーストリアの人々には、桜並木の古木と現代的なビュー福島潟と隣の古民家の対称が、興味深い様子でした。この受賞を喜んでいます。 |
| 2005/10/31 [530] 「塩津潟」の4種類の記述・呼称 |
私は、「塩津潟」は、古来から「塩津潟」でよいと考えています。 4つの呼称とは、次の名称です。 @塩津潟 ⇒県外の研究者や胎内市や旧加治川村など A塩津潟(紫雲寺潟)⇒新潟県や新潟県立歴史博物館など B紫雲寺潟 ⇒新発田市や旧紫雲寺町など C紫雲寺潟(塩津潟)⇒新潟県埋蔵文化財調査事業団など 以上のように、同じ潟名を4つの記述と呼称で、それぞれに使用しているのが現状です。この変な現象を、新潟県及び全国の学者はどのように考えているのでしょうか。特に、新潟県庁や各市町村の行政人は、どのように受け止めているのだろうか。私は、学者の怠慢だと思っています。新発田市と胎内市は、隣接している市です。そこで学習している児童生徒は、T市では、塩津潟で学習しています。S市では、紫雲寺潟で現在も学習しています。また、同じ大学の中でも、K教授は塩津潟で論文を発表し、T教授は紫雲寺潟で記述するという大きな矛盾をしています。 大半は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)の傾向になってきているので、まだ紫雲寺潟を使用している市町村や研究者には、早く連絡した方が親切だと思っています。それが出来るのは、国立及び県立の歴史博物館の関係者だと思っています。学問としての、郷土史を確立してほしいものです。それは、紫雲寺潟と言われた6年間の年号と内容が、明確になっているからです。このことは、江戸幕府が関わっているので、証拠となる古絵図や古文書が沢山現存するので、結論をだすのは簡単なことです。 |
| 2005/10/31 [529] 「紫雲寺潟(塩津潟ともいう)の認識に疑問 |
『水辺と森と縄文人』の88頁の記述には、疑問があります。青田遺跡の説明の中に、「江戸時代享保18年(1733年)まであった紫雲寺潟(塩津潟とも言う。以下紫雲寺潟とする)の中心部にあたり、縄文時代の遺跡はないと考えられていました。」という記述です。 私の研究では、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟ともいう)」という記述が、古絵図や古文書の立証から正しいと考えています。 このことは、『新潟県立歴史博物館 常設展示録』(16頁参照)の正保越後国絵図の「蒲原郡では、塩津潟(紫雲寺潟)〜」という認識が、最近では大方の認識です。 「塩津潟」としての歴史は、非常に長期間に及んでいます。 ○康平絵図 2005年ー1060年=945年前から ○高井道円譲状案 2005年ー1277年=728年前から ○紫雲寺潟として江戸幕府に干拓請願書を提出した年は1726年 2005年ー1726年=279年前 この干拓事業は、1732年には終了していますので、1733年以降は、塩津潟の古来の潟名で記述・呼称するべきであったと考えます。 ※詳細については、私の著書『塩津潟は塩の道』を参照してください。第1版は、平成15年8月8日に新潟日報事業社から出版されています。第二刷りは、平成16年8月です。英訳版は、平成17年3月に発行されています。 『縄文学』が、発掘調査によって新事実が判明しているように、『塩津潟』についても立証する古絵図や古文書が沢山解明されています。 国立歴史民俗博物館や新潟県立歴史博物館は、史実に基づいた勇気ある決断を望みます。早く結論を提示しないと、何時までも混乱が続きます。研究者や県・各市町村の担当者によって、先人が『塩』をつくり、運んだ潟だったので『塩津潟』という潟の由来が、正しく後世に伝承されません。この歴史的に重要な『塩津潟』が、現在でも4つの潟名で記述と呼称されています。そのために研究者や教育の活動に大きな混乱を引き起こしています。国及び県の歴史博物館の関係者に、努力してくれるよう強く望みます。 |
| 2005/10/31 [528] 荒川隆史氏の発表資料に疑問 |
『木が語る縄文ライフ』(平成17年10月29日)の荒川氏の発表資料に、疑問があります。荒川氏は、「青田遺跡にみる低湿地のムラの様相」の説明で使用した資料が適切でないと思います。それは、「図2紫雲寺地域の模式層序(高濱・卜部2001より)」の資料が適切でない。その理由は、二つあります。一つ目は、高濱氏達は紫雲寺潟か紫雲寺潟(塩津潟)という考えです。これは、新潟県立歴史博物館の塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)という認識と違うからです。二つ目は、図2 の紫雲寺潟の出現は9世紀になっていることです。荒川氏が口頭で説明したように、縄文時代から塩津潟の前身の湖沼は存在していたと思います。その理由は、胎内川をはじめ多くの河川から青田ムラの周辺に湖沼(後に塩津潟となるもの)として存在していたことは明らかです。それなのに図2 では、9世紀に紫雲寺潟が出現したという説です。紫雲寺潟が、言われだしたのは1700年代の後半からです。それに比べて、塩津潟が記述してある古絵図は、『康平絵図』の1060年です。公文書では、胎内市文化財の『高井道円譲状案』の1277年です。この歴史的事実からしても、新潟県立歴史博物館の公文書は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)とするべきであると、私は考えます。その意味で、『新潟県立歴史博物館 常設展示録』の記述や認識に賛成です。 この二つの根拠から、荒川氏が「高濱・卜部説」の資料を引用したことは、不適切だったと思います。 私は、卜部氏に「高濱・卜部説は、前述の歴史的根拠から無理があるのでないか」と直接質問したことがあります。新潟県立歴史博物館は、『常設展示録』の表記に合わせることが賢明と考えます。塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)としての歴史的事実をふまえた統一した見解を一日も早く提示してください。新潟県の歴史を担当している公的機関であることの自覚を、切望しています。 |
| 2005/10/31 [527] 木が語る縄文ライフ |
新潟県立歴史博物館開館5周年記念展に参加してきました。副題は、−青田遺跡の最新成果からーです。会場は、長岡技術科学大学です。参会者は、大変多かったです。 青田遺跡は、三内丸山遺跡や吉野ケ里遺跡に匹敵する偉大な縄文時代の貴重な遺跡です。その遺跡の木製遺物を、現在まで保存してくれたのは『塩津潟』の湿地です。その塩津潟については、殆ど説明が無かった。本当に、残念なことでした。 新潟県立歴史博物館には、『正保4年越後国絵図』に『塩津潟』が掲示してあります。また、同館の『常設展示録(2000年8月1日発行)』には、「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述してあります。しかし、今回のシンポジウムの資料やビデオには「紫雲寺潟(塩津潟)」か「紫雲寺潟」で説明している。この整合性の無さには、本当に残念なことです。 「地震工学学会」の世界的な学会では、「塩津潟」だけで研究論文を発表している研究者がいました。県内の各市町村では、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」として副読本を編集し、現在学習活動を進めています。 新潟県立の歴史博物館の公式文書が、「塩津潟(紫雲寺潟)」や「紫雲寺潟」や「紫雲寺潟(塩津潟)」と言うような、いい加減な歴史認識では困ります。実際に胎内市や新発田市では、学校教育の現場で非常に困惑しています。新潟県や新潟県立歴史博物館から発信される公文書には、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」のいう統一した見解を一日も早く示してください。『水辺と森と縄文人』の企画展には、東京等の県外者が多く参観しています。新潟県立歴史博物館から発信される公文書に、今回のような塩津潟の認識のズレは、同館の学問の正当性と信憑性が問われます。小林達雄館長の、指導性に期待しています。 |
| 2005/10/26 [526] 『ふるさとの宝』の放送 |
NHKの『ふるさとの宝』の放送内容は、「児童11人と白い船の交流」です。島根県出雲市立塩津小学校の全校児童11人と「白い船との交流」を取り上げたものです。「小さな学校の大きな活動」に、大きな感動をいただきました。10月25日の、全国放送でした。 上越市主催の「塩津小学校歓迎セレモニー」は、今年の7月23日に直江津港で行われました。そのセレモニーには、私も参加していたのですが、「夏休み中の大きな交流行事」を想い出しながら、昨日の放送に見入っていました。『塩津』が、少しずつ国内に広がって着ました。 「塩津っ子」の皆さんに、大きなエールを送りたいと思います。 |
| 2005/10/26 [525] 「菓子まつり」 |
「新潟県菓子まつりinしばた」が、9月30日〜10月2日まで新発田市交流センターで開催されました。県内の多数の菓子が、色鮮やかに展示されました。大勢の参会者(約15000人)が、バイキングコーナーや実演コーナーで美味しいお菓子を知ることが出来ました。 胎内市の西屋さんも、「塩津潟」「月さら」「塩の津」の塩津潟三兄弟の郷土菓子を展示していました。 |
| 2005/10/24 [524] 「塩津」地盤の広さが重要 |
胎内市の「塩津」の大字名が、非常に広いことが重要なことです。新潟県の『古墳時代』の歴史を語るときは、「塩津」という地名の広さと古さが大切になってきました。胎内市の『土居下遺跡』は、やはり胎内市塩津土居下627-2です。この遺跡の周辺には、古墳時代の遺跡が多く出土しています。大和朝廷の城柵の一つである「都岐沙羅柵」が、少しずつ判明してきているように思います。 |
| 2005/10/18 [523] 文芸しばた31号 |
新発田市の『文芸しばた』第31号に、「新・新発田市の合併を記念して個展開催」を寄稿しました。私の『伊藤國夫展』と『新発田を全国・世界へ発進展』のことが、分かり易く掲載されています。『伊藤國夫個展集』と『塩津潟の書籍集』と合わせて読んでいただくとありがたいです。 |
| 2005/10/17 [522] ウィーン市長との対談 |
『写真展』の鑑賞の折に、ウィーン市長と話し合う機会がありました。この話し合いでは、「塩の道」についての会話でした。市長さんは、子どもの頃に拾った「岩塩」を、今でも宝物とて大切にしているそうです。オーストリアは、古来から「製塩」に重点を入れており、近隣の諸国に『塩』を輸出していた歴史があります。 公式鑑賞ツアーの人たちは、味のある美味しい塩をお土産にしたようです。 |
| 2005/10/17 [521] ザルツブルグ市長に『塩津潟の書籍集』を贈呈 |
ザルツブルグ市役所を表敬訪問の折に、私の著書『塩津潟の書籍集』を、贈呈する機会がありました。ザルツブルグは、「塩」との関連が非常に深いので、日本とオーストリアの「塩の道」の掛け橋になれば良いことをメッセージして来ました。 |
| 2005/10/17 [520] インスブルック市長と対談 |
インスブルック市長と、私の作品の前で「桜」や「福島潟の古民家」について、話し合うことが出来ました。王宮内での芸術祭は、荘厳そのものでした。作品鑑賞後は、王宮内でのディナーでした。ワインや料理は、大変美味しかったです。 |
| 2005/10/17 [519] 第5回新世紀宮廷芸術祭に参加 |
オーストリアで開催された第5回『新世紀宮廷芸術祭』に、出席してきました。期間は、平成17年10月7日〜14日までです。公式鑑賞ツアーの活動内容は、『新世紀宮廷芸術祭』のオープニングとその鑑賞。聖ヤコブ協会、アッヘン湖(蒸気機関車・遊覧船)、スワロフスキー・クリスタル・ワールド等がインスブルグ市です。ザルツブルグ市では、大聖堂、モーツアルトの生家、ミラベル庭園、ザルザッハ(塩の川)からの市内観光、ザルツブルグ市役所表敬訪問、ヴァッハウ渓谷のドナウ川、メルク修道院、デルシュタイン、モーツアルト・ディナー・コンサート等です。ウィーン市では、美術史美術館、シェーンブルン宮殿、ウィーン市長表敬訪問、写真展(「富士山展」鑑賞)、帽子博物館等です。 今回のメーンは、インスブルック王宮で開催された『新世紀宮廷芸術祭』に出展している作品の鑑賞です。私は、「加治川桜の復活」と「福島潟の朝凪」です。新発田市の「桜」や新潟市の「福島潟」が、オーストリアの人々にも干渉されたことです。 |
| 2005/10/17 [518] 天野遺跡現地説明会 |
胎内市教育委員会は、「天野遺跡」の現地説明会を行いました。大塚山古墳(ひとかご山)の現地説明会(H17.6.19)の関連しています。古墳時代の遺跡であることが分かりました。やはり大和朝廷時代の城柵〔都岐沙羅柵〕と関連が一層深くなってきました。今後の進展が、とても楽しみです。 |
| 2005/10/17 [517] 伊藤國夫個展集 |
私の書籍は、5冊目の『塩津潟の書籍集』に続いて6冊目の『伊藤國夫集』が出来ました。新発田市で開催した3回と胎内市で開催した1回の個展が編集されています。その他に、『美のオートクチュール』や『塩津潟を全国・世界へ発信』や『塩津小学校との交流』が、編集されています。『塩津潟の書籍集』と、ペアになっています。ホームページ『塩津潟の由来』に、掲載されています。是非ご覧下さい。 |
| 2005/10/06 胎内市の土居下遺跡 [516] |
道端遺跡と同様に、土居下遺跡の現地説明会が10月8日にあります。発掘の内容が、大いに期待されます。 |
| 2005/10/06 [515] 荒川町道端遺跡 |
当遺跡は、古墳時代後期の建物跡が確認された。この事によって言える事は、胎内市や荒川町周辺に古墳時代の遺跡が多数確認されてきた。この地方には、6〜7世紀まで遡る歴史があるということです。大和朝廷の城柵が、少しずつ身近になってきました。「都岐沙羅柵」が、確認される機会が大変大きくなってきました。 |
| 2005/10/05 [514] 塩津小学校同士の交流 |
島根県の塩津小学校と和歌山県の塩津小学校とは、「塩津」という同名校から交流しているとのことです。新潟県には、「塩澤・塩谷」や「塩津」という地名の集落が有ります。新発田市や胎内市の小・中学校とは、島根県や和歌山県の塩津小学校と交流は出来ないものだろうか。どちらの「塩津」は、塩を作り、塩を運んだ先人の歴史があります。一日も早い交流ができる日を、期待しています。 |
| 2005/10/03 [513] 県菓子まつり |
新発田市の交流センターで、県内の菓子店がそれぞれの郷土の菓子を展示しました。材料にこるもの、テーマ工夫したもの、参会者が手作りするもの等々、大変な賑わいでした。胎内市の西屋さんは、鶴の子や塩津潟や月さら等の郷土会を出展していました。その様子は、新潟日報の平成17年10月3日付に掲載していました。各市町村の菓子店は、もっと郷土の歴史に関連した菓子を創作することをお奨めしたいと思います。 |
| 2005/10/03 [512] 中曽根遺跡現地説明会 |
荒川町のこの遺跡の発掘は、「西部遺跡」と同様に古代の遺物が確認された貴重に遺跡です。両遺跡は、古代の内水面交通の確認のためにも、大変重要な遺跡であると考えています。私は、大和朝廷時代の城柵の渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵と深い関連を持っているものと推察しています。 |
| 2005/10/03 [511] 西部遺跡現地説明会 |
神林村牛屋の「西部遺跡」の現地説明会が、平成17年10月1日に行われました。古代の様子や製塩土器の出土が、確認された貴重な遺跡です。 |
| 2005/10/03 [510] 古民家とビュー福島潟 |
『ナースステーション』10月号に、「古民家とビュー福島潟」の写真が掲載されました。福島潟の水辺で、人々が心を癒されることを願っています。 |
| 2005/10/03 [509] 『伊藤國夫の個展集』を発行 |
私の4回の個展が、ここの個展集に集約されました。個展の様子が、一層分かりやすくなりました。近日中に発行されます。是非、ご覧になってください。 |
| 2005/10/03 [508] 「塩津潟」の書籍集 |
『塩津潟の書籍集』が、出来ました。この書籍集の発行によって、「塩津潟」が全国に発信されることが容易になりました。 |
| 2005/10/03 [507] 「塩津っ子」のお便り |
直江津港での「歓迎セレモニー」の様子が、その時の写真と児童からのお手紙によって、よみがえってきました。塩津小学校の皆さんの貴重な体験と思い出深い感動の様子を、NHKの放送によって見れるかと思うと、今から楽しみです。 |
| 2005/10/03 [506] 塩津小学校の「学校だより」が届いた |
上越市が主催した「塩津小学校歓迎セレモニー」の様子が、掲載された学校だよりが届きました。夏休み中の大きな行事「ニューれいんぼうらぶ」の乗船が、無事に終了することが出来、元気に二学期が始まったことが分かりました。「塩津っ子」の元気な活動を、新潟からも期待しています。この体験学習の様子が、NHKの放送が10月に放送されるそうです。「塩津っ子」の大きな大きな活動を、是非見てください。 |
| 2005/10/03 [505] 乗船のお礼 |
「白い船 ニューれいんぼうらぶ」乗船のお礼が、島根県出雲市立塩津小学校の大森校長先生から届きました。塩津潟教育研究所ならびに新発田市の発展の祈念をしていただきました。「塩津」という固有名詞が取り持った交流でした。 |
| 2005/09/15 [504] 『美のオートクチュール』 |
2006年春夏コレクション『美のオートクチュール』が、駐日トルコ共和国大使館で昨日盛大に開催されました。私の「加治川桜の復活」と「福島潟の朝凪」という作品が、ワンピースになって披露されました。2006年の春に相応しいデザインに、仕上がっていました。私の手元に、10月中にそのワンピースが届きます。今から、とても楽しみです。 |
| 2005/09/05 [503] 個展のお礼 |
私の個展『新・胎内市を全国・世界へ発信展』が、昨日終了しました。4回の個展を合わせて約1500人が鑑賞してくださいました。沢山の皆さんに、長年かけて収集した古絵図や教師になってから始めた写真や自書を含めた各種書籍の数々を、観ていただきました。本当にありがとうございました。 |
| 2005/09/03 [502] モンゴル国の総理大臣から推薦状 |
『Gallery G』に掲載された「児童生徒と夢を育んで半世紀」という提言が、モンゴル国の総理大臣の目にとまりました。この本は、日本の文部科学省の「子どもの居場所づくりキャンペーン」です。私の座右の銘である「進みある教師こそ人を教える権利あり」という『塩津潟の由来』を、半世紀にわたりライフワークにしてきた実績が、評価されたようです。大変嬉しい気持ちで一杯です。ありがとうございます。 |
| 2005/09/03 [501] 『高志の城柵』 |
新潟大学の教授から『高志の城柵』という著書が、贈られて着ました。この著書の中には、「都岐沙羅柵」についても記述してあります。旧中条町教育委員会の大塚山(ひとかご山)の発掘調査の結果は、「古墳時代の古墳」であることが確認されました。そんな時期に、『高志の城柵』という著書が発刊されたことは「都岐沙羅柵」が、今後さらに認識されることが多くなるものと思います。このように、新潟県内の大和朝廷の城柵が、俄然注目されてきました。私の著書『塩津潟は塩の道』(平成15年8月発行)の中に、「都岐沙羅柵」という章があることに、自信を深めています。 |
| 2005/09/03 [500] 『黒川のあゆみ』 |
黒川村閉村記念誌が、届きました。カラー写真を多く取り入れた分かり易い記念誌です。この中には、「塩津潟」のことも記述されてあります。新胎内市の市民として、今後の益々の発展を祈念しています |
| 2005// [499] 第4回目の個展がオーブン |
新・胎内市の誕生をお祝いして、『胎内市を全国・世界へ発信展』を昨日オープンしました。中条まつりの期間中なので、グットタイミングでした。入場者は、研修会にきている人など多くの人々が、鑑賞してくださいました。 |
| 2005/09/03 [498] 都岐沙羅柵・塩の津 |
「中条まつり」のことで、胎内市の西屋さんが郷土菓子『都岐沙羅柵』と『塩の津』を、新潟日報に掲載していました。胎内市の「大塚山古墳(ひとがご山)」を、平成17年6月19日に現地説明会で「古墳である」あると確認しました。今年の大発見の年に、大和朝廷時代の『都岐沙羅柵』を掲載したことは、グットタイミングだったと思います。 |
| 2005/09/01 [497] 胎内市を全国・世界へ発信展 |
胎内市が、平成17年9月1日に誕生しました。合併を記念して、『胎内市を全国・世界へ発信展』を、9月2日〜4日まで胎内市産業文化会館で行います。多数の皆様のご来場を、お待ちしています。 |
| 2005/08/31 [496] 塩津潟と都岐沙羅柵の認識が拡がる |
新潟県庁の4つの部署と話し合いをしてきましたが、どの部署の担当者も「塩津潟」と「都岐沙羅柵」については、よく理解していました。今後の課題は、各市町村の取り上げ方にかかっています。地方分権の時代です。自分たちの郷土の歴史は、自分たちで主体的に決定する時代が到来しています。 |
| 2005/08/27 [495] 三浦雄一郎氏の講演 |
黒川村閉村記念講演『三浦雄一郎の「元気力」』を、拝聴してきました。プロスキーヤーとしての、三浦さんの考え方と生き様について、存分にお聞きすることが出来ました。あっという間の、90分間でした。 三浦さんと北海道大学の高松教授と村越教授について、お聞きすると両氏とも存じ上げていました。私は、高松・村越両氏に大変御世話になったので、懐かしくなりました。私の若い頃を、想い出していました。 その席上に、『知事と語るタウンミーティング』の「新発田地域の農業振興を目指して」の佐藤コーディネーターに合うことが出来、当日のことについて話し合うことが出来ました。この時の私の提言が、糸魚川会場での意見発表に大変有効でした。 この会場に、私の講演を聞いて下った方々や、私の個展を見てくださった方々と会うことが出来て嬉しかったです。 |
| 2005/08/26 [494] 泉田知事と語る |
「知事と語るタウンミーティング」の糸魚川地域に昨日参加してきました。私は、「糸魚川市の“塩の道“と“翡翠“を、地域の活力アップに取組むこと」を提言してきました。日本の宝とも言うべき「翡翠」と「塩の道」を、『歴史街道』にのせて全国に発信し、観光面にも重点化することを提案しました。その提言の根底には、新潟県全体が「塩の道」を有しているからです。現に、各市町村は、「塩津道」を地域の活性化に、取り組んでいるからです。 |
| 2005/08/13 [493] 小金昭様 |
日本でも、小金様が記述している方法で製塩していたものと思われます。「土塩」と「澤が白かった」という伝承からは、推察できます。黒川の場合は、何時まで遡るのかははっきりしていません。しかし、黒川での製塩は、昭和22年頃まで行われていたことは分かっています。塩井の成立は、温泉の湧出や原油の湧出の頃まで遡るものと思っています。 |
| 2005/08/10 [492] Re[483]: 土塩について(2) |
拝復 ご教示いただき有難うございます。塩井があるとの事、貴ホームページでも拝読いたしました。まだ知識貧弱にて理解不足の所多々ありますが、その塩井の成立はいつ頃まで遡るのでしょうか。「井」と言うからには人間が掘削して鹹水を汲み出す物で、鹹水が自然湧出する塩泉とは異なると思ったのですが。井戸を掘っていたらたまたま塩辛い水が出たのか、それとも最初から製塩用の鹹水を得る目的で井戸を掘削したのでしょうか。しかし、いずれにせよ塩井が掘削されるはるか昔は、なめると塩辛い土(土塩)のある場所として、狩場として猟師が熟知する動物の「塩なめ場」などとして存在が認識されていたのではないでしょうか。そして、塩分を多く含む土壌を水に溶かし、鹹水を抽出し、それを煎熬して塩を得るなどの細々とした習俗が、塩井が掘られる昔に行なわれていたのではと想像した次第です。何故かような事をお尋ねするかと申しますと、このような習俗が中国(旧満州)や中世ヨーロッパ(ドイツ)記録に残されているので、日本にも同様な事例が行なわれていたのではと愚考したためです |
| 2005/08/10 [491] 「蒲原のあけぼの」展 |
新潟市歴史博物館の「蒲原のあけぼの」展について甘粕健館長は、新潟日報(平成17年8月9日付)に『よみがえる古代のクニ』を寄稿しています。この記事を読んだ感想は、塩津潟中央付近から出土した「青田遺跡」等々の数多くの遺跡発掘から、蒲原地方は古代から人間が住んでいた地域であることが立証されました。そこで、新潟市歴史博物館の展示内容を、再考する必要があると考えています。その理由は、「塩津潟」についての説明が殆どありません。また、「渟足柵⇔都岐沙羅柵⇔磐舟柵」に関わる河川舟運ついての展示が詳細ではありません。新潟県立歴史博物館の「塩津潟」の展等示整合性を、一日も早く展示することを切望します。古代の歴史的事実を、新潟県民に公開してほしい。 |
| 2005/08/06 [490] 伊藤の個展 |
個展の開催が、続いています。@「伊藤國夫展」新発田市市民ギャラリー(平成17年6月15日〜21日)A「新発田を全国・世界へ発信展」新発田市まちの駅(平成17年7月1日〜7日)B「新潟県・新発田周辺の古地図展」新発田市生涯学習センター(平成17年7月29日〜8月3日)C「胎内市を全国・世界へ発信展」胎内市産業文化会館(平成17年9月2日〜4日) |
| 2005/08/06 [489] 知事とのタウンミーティング |
「泉田知事とのタウンミーティング」は、新発田市生涯学習センターで平成17年8月4日に開催されました。この席上私は、「新発田藩の新田開発の歴史」についてイベント「新潟県・新発田周辺の古地図展」(平成17年7月29日〜8月3日)の説明をしました。塩津潟教育研究所の活動を、紹介しました。 |
| 2005/08/06 [488] 【康平絵図】が大活躍 |
「新潟地震」の40年後の「地震工学学会」では、世界及び全国の学者は、「康平絵図」(1060年)の『塩津潟』を重要視しています。その理由は、『塩津潟』が記述してある最古の古絵図だからです。この学会以後は、『塩津潟』が堂々と学者の間で呼称され、記述されるまでに認識されてきました。「紫雲寺潟」は、1726年〜1732年までのたった6年間の干拓事業名であることが、広く認識されてきました。『塩津潟の由来』は、歴史的に観て先人の営みを後世に伝承するに相応しい、歴史的事実だからです。 |
| 2005/08/06 [487] 『塩津潟』と関連するイベント |
『塩津潟』の歴史と関連するイベントが、続きます。@「蒲原のあけぼの」です。新潟市歴史博物館は、平成17年7月16日〜8月28日まで開催します。A「発掘が語る新潟の歴史2005」です。新潟県立歴史博物館は、平成17年7月30日〜9月11日まで開催します。 いずれのイベントは、『塩津潟の歴史』と非常に深く関連しています。このイベントには、「塩津潟」か、「塩津潟(紫雲寺潟)」として説明されるものと思います。皆さんは、注目して観てください。 |
| 2005/08/06 [486] 世界的な「場」に作品を出品 |
@「TOKYO PEACE WALL(平和の壁)」に、新発田城三階櫓の写真を出品しました。Aエリザベート皇妃成婚150周年記念『新世紀宮廷芸術聖典2005』に、新発田城の三階櫓と辰巳櫓が、掲載されました。Bイタリアのヴェネツア展に、新発田城と後免町小学校の記念碑の拓本「良寛さんと関連する山田佐門校長揮毫」が、出品されました。 このように、新発田のことが、全国及び世界に発信されています。 |
| 2005/08/06 [485] 「塩津潟教育研究所」の業績 |
「塩津潟教育研究所」の業績が、下記のように認められいくつかのご褒美を頂戴しました。@芸術百家特別企画『名匠の暦程』で、「百家芸術褒章」を授与されました。(アートコミュケーション)A「日仏芸術交流貢献作家」認定メダルを、授与されました。(アートコミュニケーション)B「芸術文化伝導金賞」を、授与されました。(Gallery G実行委員会)C「日本文化伝導士」の認定とトロフィーを、授与されました。(ハプスブルク芸術友好協会・アートコミュニケーション)D日伊芸術・胸囲と美の饗宴『La・meraviglia(ラ・メラヴィリア)』の認定証と「日伊芸術使徒賞」を、授与されました。(アートコミュニケーション)EAUL(the Aritist of Ultimate Legend)の認定証を、授与されました。(ALPHA OMEGA選抜評議委員会)Fハプスブルク芸術友好協会会員盾を、授与されました。(ハプスブルク芸術友好協会)G日本美術評論家大賞ノミネート「優秀作品賞」を、授与されました。(日本美術評論家大賞選考委員会)H『塩津潟は塩の道』が、日本自費出版文化賞一次選考通過作品(地域文化部門)にノミネートされました。 このように、塩津潟教育研究所の活動が、評価されたことに喜んでいます。 |
| 2005/08/06 [484] 新潟県内の「塩の道」 |
拙書『塩津潟は塩の道』の76頁に記述してあるとおり、新潟県内には大きくまとめて6ルートの「塩の道」があります。上・中・下越地方に、それぞれ2本ずつあります。「塩の道」の歴史街道を、地域おこしに活用するために 糸魚川市・長岡市・新潟市がそれぞれ中心になって、取り組むものと思います。ちなみに、下越地方は、阿賀野川ラインと荒川ラインが既に着手しています。当然、黒川の塩澤・塩谷から中条の塩津を経由し『塩津潟』のラインは、阿賀野川ラインに含まれます。 |
| 2005/08/06 [483] 小金昭様 |
『塩津潟の由来』のHP、ご覧いただきありがとうございます。黒川村の「コノ処土塩アリ」については、実態は判明しています。黒川村の文化財財指定の古絵図が現存しています。また、実際に塩澤・塩谷の塩井が2本現存しています。岩塩ではなく塩泉(塩井)です。しかし、黒川は、原油が湧出したり、温泉が湧出したりしているために、それらに溶けていた「塩」が、地表面で結晶化していたことが推察できます。その根拠は、「一つの澤が白かった」という伝説があるからです。「岩塩」については、地下18m位から塩が採れるだけの高濃度の塩水が湧出しています。このことから、「岩塩層」があると推定し、ライマン博士が実際試掘しています。 |
| 2005/08/04 [482] 土塩について 投稿者:小金昭 |
前略 最近貴ホームページ拝見しました。特に、『越国の塩の道』「塩谷・塩澤の塩は、岩塩か塩泉か 」を興味深く拝読した所です。現在調査中とのことでしたがその後の成果は如何でしょうか。 ところで、黒川村の『コノ処土塩アリ』の土塩の実態は既に判明したのでしょうか。小生は、これは岩塩などではなく、額面どおり「土塩」と解した方が良いのではないかと思ったのですが如何でしょう。 付近の井戸の水に塩分が含まれているとの事ですから、塩泉のように自噴するほどではなくても、塩分が土中にしみ込み(あるいは付近に塩生植物の群落などがあるかもしれない)、井戸を掘るほどの資本力の無い人々が、その土から塩を抽出して使用していた事があるのではないでしょうか。 いくつかの書籍を読んだだけですが、土塩の利用は欧州や中国では古くから例がありますから珍しくないようです。オランダでは大々的に採掘されて、(たしか?)17世紀頃 に取り尽くされたほどだったというのを読んだ事があります。 |
| 2005/08/03 [481] 第3回個展大盛況 |
『塩津潟』に関する古地図展は、大成功でした。新発田市民に、『塩津潟』の古地図が沢山あることに、大変驚いていました。期間中は、約1000人位の皆さんに認識していただきました。 |
| 2005/07/30 [480] BMが届いた |
BM(美術の杜Vol5)が、手元に届きました。第一回個展『伊藤國夫展』や「大塚山古墳」の現地説明会の様子や、『塩津潟』と『都岐沙羅柵』等について掲載されています。最新情報が、掲載されています。是非読んでみてください。ままた、この号には、中条町の「チューリップフェア」の家族団欒の様子の写真も、掲載されています。 |
| 2005/07/30 [479] 古地図展は盛況 |
新発田周辺の古地図は、国立公文書館や明治大学等の東京方面から入手したものが多い。そのために、古地図展は大盛況です。 |
| 2005/07/26 [478] 各市町村に活動結果を報告 |
『塩津潟』と『都岐沙羅柵』に関する塩津潟教育研究所の活動内容と結果を、各市町村の担当部署や担当者に報告してきました。活動内容については、第一回個展『伊藤國夫展』(H17.6.15〜21)、第二回個展『新発田を全国・世界へ発信展』(H17.7.1〜7)、第三回個展『新潟県・新発田周辺の古地図展』(H17.7.29〜8.3)、第四回個展『胎内市を全国・世界へ発信展』(H17.9.2〜4)、中条町の区長会での講演『塩津潟復活の次は都岐沙羅柵(H17.7.2)「第四回日本自費出版フェスティバル」(大阪府豊中市17.7.16)塩津小学校の歓迎セレモニー(上越市主催の直江津港H17.7.23)以上のような、諸活動を市町村長や行政の担当部署の方々に、説明してきました。個展の様子については、近日中に全国版で紹介されます。このように、『塩津潟』と『都岐沙羅柵』については、かなり広範囲にわたり、多くの人々に認識されてきました。 |
| 2005/07/24 [477] 第3回「新潟県・新発田周辺の古地図展」が近づく |
上記の個展開催が、近づきました。新・新発田市の合併を記念して、先人が描き残してくれた「郷土の様子」が分かる古地図を中心に、展示したいと考えています。夏休み中なので、是非大勢の人々から鑑賞してほしいと思っています。第2回目よりも、新しい内容が追加展示されます。この展示でも、「進みある教師ほど、人を教える権利あり」という、小原邦國芳総長の実践を、新発田市でも展開したいと考えています。 |
| 2005/07/24 [476] 塩津小学校の皆さんと会う |
7月23日直江津港で、塩津小学校の児童・保護者・学校関係者と交流を深めて来ました。『塩津』という地名が、新潟県や愛知県等に存在することを、多くの人たちが認識してくれたものと思います。放送局の方が、取材をしていたので近いうちに放映されるものと思います。私は、『塩津』というキーワードから、学校教育の活動に取り入れられ、広い範囲の交流が始まることを願っています。次は、私が島根県平田市塩津町の塩津小学校を訪問したいと思っています。昨日は、上越市が歓迎のセレモニーをして下さいました。私は、とても感動しました。 |
| 2005/07/24 [475] 「塩の道」に普請痕跡 投稿者 |
糸魚川若竹原A遺跡から、「塩の道」の普請痕跡が発掘されました。新潟日報(7月21日付)は、「今回の道路遺跡はこれにつながる道で、1731年の絵図から昔の松本街道(塩の道)とみられる。」と掲載しています。考古学会でも、最近は特に『塩』に関する「塩の道」とか「製塩土器」とかに関する報告が多くなってきました。私の『塩津潟は塩の道』と関連することが、多くなってきました。 |
| 2005/07/19 [474] 塩津小学校の皆さんと会える |
島根県平田市立塩津小学校は、「塩津」という同名から以前から交流していました。この度、塩津小学校の皆さんが「ニューれいんぼう」に乗るために上越市直江津港を訪れることを知り、お会いすることが出来るようになりました。この小学校とは、私の著書『塩津潟は塩の道』とのご縁があったからです。日時は、7月23日(土)の午後8時30分からです。『塩の道』に関する書籍を、塩津小学校の皆さんに、寄贈しようと考えています。皆さんに会う日を、楽しみにしています。 |
| 2005/07/18 [473] 「空中庭園展望台」を体験 |
梅田のスカイビル「空中庭園展望台」を、夏休み前に体験してきました。超高層ビルの展望台から見る大阪の展望は、本当に素晴らしいものでした。これらの体験が、第3回個展『新潟県・新発田周辺の古地図展』や、第4回の個展『胎内市を全国・世界へ発信展』の運営に、大きな働きをするものと考えています。今後の個展にも、大勢の皆様のご来場をお待ちしています。 |
| 2005/07/18 [472] 「なにわの海の時空間」を見学 |
塩津潟や加治川等の河川舟運の研究と相まって、「なにわの海の時空間」を見学してきました。日本は、海に囲まれた国です。古代から「河川舟運」によって、栄えてきた国です。「船の歴史」を、再確認する良い機会でした。皆さんも是非訪問することを、お薦め致します。 |
| 2005/07/18 [471] 聖徳太子に関する廟や四天王寺を参観 |
大阪まで行ったので、「聖徳太子」に関する史蹟を参観してきました。聖徳太子が創設した業績について、思いをはせて来ました。私は、「塩津潟」の復活についてライフワークしたことが、聖徳太子との共通点のように思っています。 |
| 2005/07/18 [470] 『塩津潟は塩の道』の思いをスピーチ |
新潟県内の『塩の道』の復活を、熱く語ってきました。初版は、平成15年8月に50年間の探求結果を結集させて発行したことや、第2刷は、平成16年8月に発行したこと。その英訳版は、平成17年3月と3年連続発行したことにより、「塩津潟」が約270年ぶりに復活したことを力説してきました。また、中条町教育委員会の「大塚山古墳」の発掘結果により、大和朝廷の新潟県内の城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)についても、最近の様子を説明してきました。 |
| 2005/07/18 [469] 日本自費出版文化賞 |
第4回『日本自費出版フェステバル』が、大阪府豊中市の「千里ライフサイエンスセンター」で行われました。私の著書『塩津潟は塩の道』が、日本自費出版文化賞一次選考に通過したからです。著書フリーマーケット交換交流会では、私の著書とその英訳版が全国の方々と、交換・交流をすることが出来ました。 |
| 2005/07/18 [468] 新潟県・新発田周辺の古地図展 |
私の3回目の個展の主題が、『新潟県・新発田周辺の古地図展』です。期間は、7月29日〜8月3日です。会場は、新発田市生涯学習センターです。古地図から新潟県や新発田周辺の歴史を、見直してほしいと思っています。是非、多くの皆さんに鑑賞してほしいと願っています。 |
| 2005/07/06 [467] 中条・城の山遺跡発掘 |
下記の文は、中条町のHPの掲示板に寄稿したものです。(平成17年6月17日)『「塩津潟の北辺に、“大塚山“という山があります。地元の人々は、“大塚“という村があったので“大塚山“と言っています。新潟日報には、《中条・城の山遺跡》となっていましたが!?平成17年6月16日のNHKは、大ニュースを放送しました。【城の山遺跡は、古墳である】と。中条町の町民にとっては、非常に大きな古墳確認のニュースだと思います。 新潟日報は、“日本海側最北の前期古墳“と報じています。4世紀後半と言えば、大和朝廷が越国の城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)を設置した年代と近づいてくる。中条町大字塩津周辺は、非常に重要な地域であったことが、この発掘によって確認された。弥彦岡の“伊夜日子神社“との関連が、大きく示唆されてくる。私は、講演の中で説明したり、著書“塩津潟は塩の道“の中で記述してあるとおり、“塩の津“の重要性を再確認しています。私は、新発田市の市民ギャラリーで“伊藤國夫展“を開催しています。この個展では、“塩津潟”と“都岐沙羅柵“についても展示しています。“大塚山“の大ニュースと、私の個展が重なっていることに感動しています。』何か不思議な因縁を感じています。 |
| 2005/07/06 [466] ALPHA OMEGAより認定書 |
アルファーオメガ(ALOHA OMEGA)に、「塩津潟は塩の道」と「新発田市の「古四王神社」が掲載されました。全国版で、平成17年6月30日発行の専門誌です。著書の歴史的価値と、写真の芸術的価値に対して、贈られたものと思います。大変に、嬉しいことです。 |
| 2005/07/05 [465]日本評論家大賞 |
「日本評論家大賞」ノミネート優秀作品賞を、平成17年5月31日受賞しました。美術の杜出版から連絡がありました。 |
| 2005/07/03 [464]中条町区長会の講演 |
昨日区長会の講演『塩津潟復活の次は都岐沙羅柵』を行ってきました。中条町に、「都岐沙羅柵」が、復活するのも近いと思います。大和朝廷の城柵の沼垂柵・磐舟柵・都岐沙羅柵は、それぞれはっきりする日が近いと思っています。 |
| 2005/07/01 [463]新発田を全国・世界へ発信展 |
『新発田を全国・世界へ発信展』が、本日より新発田市「まちの駅」で開催しました。展示内容は、塩津潟が分かる古地図や写真家としての各種写真、新潟県内や全国および世界に発信されている書籍等が中心です。是非、大勢の皆さんの鑑賞をお願いいたします。ご来場を、お待ちしています。 |
| 2005/06/25 [462]『伊藤國夫展』の反響 |
私の個展が、200人以上の皆さんから鑑賞していただきました。その反響が、少しずつ広がってきました。特に、「塩津潟(紫雲寺潟)」についての認識が高まってきました。その反響の大きさに、『新発田を全国・世界へ発信展』の発展してきました。どうぞ、沢山のご来場をお待ちしています。 |
| 2005/06/25 [461] 日本自費出版文化賞 |
第8回(2005年)日本自費出版文化賞の一次選考通過作品に、私の『塩津潟は塩の道』が選ばれました。表彰式が、大阪市豊中市で7月16日に行われるので、出席する予定です。大変嬉しく思っています。『塩津潟は塩の道』が、全国に紹介されるものと思います。 |
| 2005/06/25 [460] 新発田を全国・世界へ発信展 |
『新発田を全国・世界へ発信展』を、新発田市の「まちの駅」で開催します。個展の副題は、「“塩津潟“が分かる古地図の世界へどうぞ!!」です。これは、〜新・新発田市の合併を記念して〜行うものです。 期日は、平成17年7月1日〜7日までです。時間は、平日午前8時30分〜午後6時30分、土・日曜は、午前10時〜午後6時です。会場は、「まちの駅」です。(駅から中央通の町の中央部に位置しています。)大勢の皆様のご来場を、お待ちしています。 |
| 2005/06/22 [459] 阿賀町の地域おこしの会に参加 |
阿賀町津川で開催された「地域おこし」の会議に参加してきました。私は、阿賀野川の「塩の道」について提言してきました。今後は、具体的な活動計画が立案されるものと思っています。 |
| 2005/06/18 [458] 本づくりセミナーで講演 |
新潟日事業社主催の「本づくりセミナー」で、『“塩津潟は塩の道“を出版して』と題して講演してきました。約100人位の参加者がありました。この講演の中では、拙書『塩津潟』と『都岐沙羅柵』について講話してきました。この中で、中条町大字大塚の「大塚山古墳」についても説明してきました。「都岐沙羅柵」の存在場所については、今後急速に話題になり論議されるものと考えています。著書『塩津潟は塩の道』と各種講演で講話した内容が、注目されてくるものと思っています。これからが、楽しみです。 |
| 2005/06/18 [457] 『都岐沙羅柵』の中条説が強まる |
私は、「都岐沙羅柵」は中条説を拙書『塩津潟は塩の道』で初版および第二刷で発信してきました。この度、中条町が発掘した「城の山遺跡=大塚山(ひとかご山)」は古墳であると確認された。この結果は、塩津潟の北辺に位置するこの古墳は、「都岐沙羅柵」と一層密接な関連があることが理解できる。中条説を強力に後押しする事象があります。それは、中条町大字塩津内に「伊夜日子神社」や大字築地内に弥彦神社があるからです。これらを総合的に判断すると、「都岐沙羅柵」は中条説が強くなってきます。『塩津潟は塩の道』に記述した内容が、今回の発掘調査の結果により、私は心強く思っています。 |
| 2005/06/17 [456] 伊藤國夫展の3日目 |
個展の三日目が、過ぎました。鑑賞者数は、130人を超えました。先生方や行政マンや歴史に興味と関心のある人たちが、大勢鑑賞してくれました。明日からは、土・日曜日です。新発田市民の皆さんからは、特に『古絵図』を見てほしいと思います。三日間では、東京からのお客さんが、一番遠い方でした。市外では、新潟市・燕市・阿賀町・中条町・黒川村などの方々でした。これは、新潟日報の「こしじ欄に掲載されたり、エフエムしばたで放送されたからだと思います。ありがとうございます。 |
| 2005/06/17 [455]中条町教育委員会に拍手 |
塩津潟の北辺に位置する大塚山(城の山・ひとかご山)が、古墳であることを確認した発掘に対して、大きな拍手を送りたいと思います。やはり歴史の町「中条」です。新市の胎内市になっても、「塩津潟」や「都岐沙羅柵」の歴史的背景を、後世に正しく伝承していってほしいと願っています。 |
| 2005/06/17 [454] 日本海側最北の前期古墳 |
NHKは、6月16日に「中条・城の山遺跡」の発掘結果の様子を放送しました。また、新潟日報は、翌日の紙上に「有力な豪族 埋葬か」と報じています。中条町大字塩津周辺、古墳時代から重要な地域であったことかが確認されました。「塩津潟」や「都岐沙羅柵」との関連が、急浮上してきました。このことに、私は大変喜んでいます。この機会に、『塩津潟は塩の道』を読み直してほしいと思っています。 |
| 2005/06/17 [453]東京の出版社がインタビュー |
『伊藤國夫展』を、東京からインタビューに来ました。この内容については、7月下旬に全国版で紹介されます。「塩津潟」や「都岐沙羅柵」や私の芸術作品が、掲載されると思います。私は、発行を楽しみにしています。 |
| 2005/06/17 [452] エフエムしばたで放送 |
『伊藤國夫展』内容について、インタビュー形式で放送されました。内容は、第一室が古絵図、第二室が写真、第三室が書籍などです。期間は、6月15日〜6月21日までです。時間は、午前10時〜午後4時までです。会場は、新発田市市民ギャラリーです。初日は、55人の入場者がありました。昨日は、30人の方が鑑賞してくださいました。皆様のおいでをお待ちしています。 |
| 2005/06/10 [451] 塩津潟を市議会が論議 |
新発田市義会は、6月定例会で「塩津潟(紫雲寺潟)」について、質疑と応答が行うるものと思います。その理由は、新発田市に紫雲寺町と加治川村が、5月1日に合併したからです。 |
| 2005/06/09 [450] 「伊藤國夫展」近づく |
個展が、近づきました。期日は、6月15日(水)〜6月21日(火)です。会場は、新発田市の『市民ギャラリー』です。皆様の、沢山のご来場をお待ちしています。 |
| 2005/06/09 [449] 『塩津潟の由来』の整理完了 |
ホームページ『塩津潟の由来』の項目が、多くなってきたので整理・統合させて、リニューアルを完了しました。項目ごとにまとめたので、見やすくなったと思います。今後も、沢山の活用をお待ちしています。 |
| 2005/06/02 [448]大塚山古墳の発掘 |
中条町教育委員会は、中条町塩津の『大塚山古墳』の発掘調査を始めている。出土品には、どのようなものがあるのか今から興味津々である。大和朝廷時代の、城柵に関わる遺物が出土してほしい。 現在、中条町塩津では、大きな発見につながる二つの遺跡が発掘されている。これは、期待できそうである。 |
| 2005/06/02 [447]中条町塩津の遺跡発掘 |
「塩津潟」の由来ともなった「塩津」の遺跡発掘を、新潟県教育委員会は行っている。場所は、日本海東北自動車道の中条インターの近くである。「塩津館」があったと言われる近くである。「都岐沙羅柵」に関する木簡が、出土することを願っている。 |
| 2005/06/02 [446] 川船再生など収録 |
「阿賀路」第43集を発行の掲載が、新潟日報(平成17年5月31日付)は報じている。新潟県は、古代から「河川舟運」で栄えてきたのである。「川船の再生」はとても大切な事柄である。 阿賀野川の「塩の道」は、着々と蘇ってきている。その意味では、この『阿賀路』は、貴重な資料となる。 |
| 2005/06/02 [445] 防人配備を証明 |
「佐賀中原遺跡出土の木簡」と新潟日報(平成17年5月31日付)は、報じている。新潟県の三つの城柵のうち、渟足柵(沼垂城)は出土している。磐舟柵と都岐沙羅柵の木簡が、一日も早く出土することを願っている。 |
| 2005/05/28 [444] 新発田藩主の新田開発を伝承 |
新発田藩主は、初代から塩津潟を含む新田開発をしてきた歴史的事実がある。私は、2つの櫓(三界櫓・辰巳櫓)の復元と同時に、溝口家の藩政の歴史的事実を市民に一層啓発すべきであると考えている。そのためには、「広報しばた」に何回も掲載したり、新発田市のホームページに早く掲載する等の具体的な手立てが、是非とも必要である。(H16年9月8日記) |
| 2005/05/28 [443] 郷土の歴史を正しく伝承 |
私は、新発田市の決算審査特別委員会を傍聴しながら、「新発田の歴史は正しく伝承されているのか?」を考えていた。新発田城の二つの櫓は、復元された。東京から取材に来た人たちは、美しい新発田城に驚いていた。その時の様子は、『美術画報』45で全国に紹介されている。城址公園は整備され、良い教育環境が出来上がった。しかし、歴史に関する内容は、どうであろうか?いささか疑問である。例えば、長谷川晃議員が、「塩津潟か紫雲寺潟なのか」を、平成15年3月の新発田市議会で一版質問した。臼井教育長は、「江戸時代前期は、塩津潟と表記されている。」と答弁した。塩津潟については、新発田市において公式に議論された最初の議会である。新発田市の歴史を正しく伝承するための重要で且つ画期的な内容である。(H16年9月8日記) |
| 2005/05/28 [442] 議会議事録は職員に徹底を |
新発田市議会で質疑応答された内容は、市職員に徹底するべきです。私は、新発田市役所内の連絡方法と職員研修に、問題があると思っています。例えば、『正保二年越後絵図』が、溝口家から市に寄贈された文化財であることを知らない。この絵図は、江戸幕府の命令によって製作されたものである。これは、新潟県文化財に平成8年指定された貴重なものである。この絵図に記述してある『塩津潟』を、市職員は知らない。新発田藩が、1710年代に塩津潟を新田開発した歴史的事実を理解していない。いわんや、市民もである。平成13年3月市議会に、長谷川晃議員が一版質問している。この内容を、市職員に徹底することが急務である。職員研修の改善を、強く望むものである。私は、新潟県の夢事業の一つ「街道物語」による地域おこしに努力している。そのために、16市町村の長及び担当者と関わっている。その体験から新発田市の対応をみると、早いとは決して言えない。「塩津潟」の一日も早い復活を願っている。(H16.9.7記) |
| 2005/05/27 [441] 部制条例に思う |
新発田市と1町一村の合併が、5ヵ月後に迫ってきた。当条例の改正は、当然である。しかし、担当部課長の説明が、とても理解しにくい。各委員からも、質問や意見が続出していた。総務常任委員会は、委員が部課長を指導・助言する場ではないと思う。9月の定例会でも、よく見られた光景である。部課長の指導・監督は、誰の職責なのだろうか?新発田市の行政が「遅い」とか「停滞している」という原因が、この点にもありそうだ。私は、新潟医療福祉大学の「産官学連携講座」に参加してきた。14日間の講座である。初日は、篠田新潟市長が、「2005年度の新潟市政」である。『合併マニフェスト』による市政ビジョンを説明した。新潟市は、来春3月に大合併を行う。感心したことは、「合併マニフェスト」に基づき、説明は非常に分かり易かったことである。新潟県内にも、「マニフェスト」が定着してきた。(H16.12.10記) |
| 2005/05/27 [440] 臨時パート職員の活用・・・? |
青木議員が、9日の一版質問した内容である。片山市長の答弁が、12月11日の新潟日報に掲載された。「臨時職員に正職員の点検役を」が、見出しである。「市議提言 市長も前向き」が、小見出しである。この感性と感覚で本当に良いのだろうか?私は、「地方分権と新発田市の経営」を担当する市長や職員や行政職は、「新発田市マニフェスト」を企画できる能力と行動力が、絶対に不可欠であると考えている。「マニフェスト」を企画できる市長・部課長は、自己決定と自己責任において、自己評価が出来る政治家や職員だと思う。新発田市民は、それが出来る政治家や行政職を強く求めているのだと思っている。「アンケートなどの形で吸い上げ、真心対応や職員研修に生かしたい」と言うが・・・?最も重要なことは、「市政の情報公開による透明性」である。部課長以上は、新発田藩の歴史についても、市職員の一版教養の一つとして研修してほしい。 |
| 2005/05/21 [438] 塩津潟は塩の道と副読本の連携 |
教職員の多くは、拙書『塩津潟は塩の道』を大変良く読み込んでいました。多くの人々とお会いして、実感として分かりました。10歳の少年の疑問を解決とか、理論を裏付ける資料の質と量等々について、話題が一致することが多かったです。しかし、教育活動の内容や、副読本の内容になると連携していないことが分かりました。 今後は、さらに啓発活動に工夫と努力が必要であることを感じました。 |
| 2005/05/20 [437] NHKの「地球大好き 環境キャンペーン」リンク |
NHK主催の「地球大好き 環境コンテスト」のホームページに紹介されています。HPアドレスは、http://www.nhk.or.jp/kankyoです。塩津潟教育研究所の取り組みが、簡潔に紹介されています。是非、ご覧下さい。 |
| 2005/05/20 [436] 「百家芸術褒章」を受章 |
芸術百家特別企画『名匠の暦程』の「百家芸術褒章」を、アートコミュニケーションより受章しました。立派な褒章を平成17年4月28日に頂戴いたしました。私は、とても嬉しく思っています。 |
| 2005/05/19 [435] 新潟市民にも塩津潟が浸透 |
『塩津潟』が、新潟市民にも浸透してきました。先般の「湖沼フォーラム」に、篠田昭市長が基調講演で「塩津潟」について説明したことが、大きな力になったようです。関連して、私の拙書『塩津潟は塩の道』についても、話し合われています。新潟県内の「河川舟運」の地域おこしか、活発になってきました。「福島潟」は、近いうちに、「ラムサ−ル条約」に指定される日は近いことでしょう。 |
| 2005/05/17 [434] 教職員に「塩津潟」が理解される |
郷土の歴史を教育している教師からは、『塩津潟の由来』が理解され始めています。認識が、広まってきています。教職員の皆さんから、著書『塩津潟は塩の道』について話されることが大変多くなってきました。私にとっては、大変嬉しいことです。 |
| 2005/05/15 [433] 本づくりセミナーの広告 |
即日『中越地震から半年』の県民フォーラムに行って来ました。その会場では、当日の新潟日報の「本づくりセミナー」の新聞を貼って、セミナーの広告をしていました。また、別刷りのパンフレットで、本づくりの参加者募集をしていました。沢山の方々が、『塩津潟は塩の道』の著書を知ることが出来たと思います。 |
| 2005/5/14 [432] 『塩の道』の認識が広まる |
先週は、阿賀町・阿賀野市・長岡市・十日町市等の行政関係者とお会いしてきました。県内の各市町村は、『塩の道』の地域おこしに前向きで積極的です。新潟県の『塩の道』は、上越地方に2本、中越地方に2本、下越地方に2本とそれぞれ存在しました。それらの『塩の道』については、各地方の地域振興局の支援を受けて、近日中に軌道にのるものと思います。本日の新潟日報は、「本づくりセミナー」の紹介を掲載しています。このセミナーでは、『“塩津潟は塩の道“を出版して』という主題で講演してきます。「塩津潟の由来」を通して、本づくりの楽しさを力説しようと考えています。 |
| 2005/5/12 [431] 芸術文化伝導金賞の受賞 |
〜芸術による子どもの居場所づくり〜の『Gallery G』の実行委員会での選考会議の結果、『芸術文化伝導金賞』をこのたび受賞いたしました。そのトロフィーを頂戴いたしました。「児童生徒と夢を育んで半世紀」というメッセージが、認められたものと思います。大変に、喜ばしいことです。 |
| 2005/5/12 [430] 英訳版が県内に広まる |
『Shiotsu-gata is the Salt roag』は、新潟県内に思っていたより早く広まってきています。敬和学園大学やサザンイリノイユニバシティカレッジの先生方等が、英訳して下さいました。この御厚意に感謝しています。本当にありがとうございます。各方面の方々に、ご活用して頂いていることに感激しています。 |
| 2005/5/12 [429] 「塩の道」の世界的なサミット開催 |
「世界の国々にも、「塩の道」はあります。この度は、『塩津潟は塩の道』の英訳版の発行や、オーストリアやフランスやイタリア等に、私の拙書が相次いで紹介されたことによって、「塩の道」が世界的になってきました。今後は、世界的な『塩の道サミット』が開催されることを願っています。 |
| 2005/5/11 [428] 新潟県立公文書館で『塩津潟』を確認 |
新発田市の平成17年度の小学生用の副読本『わたしたちの新発田』は、『塩津潟』を非常に曖昧に扱っています。『塩津潟』は、各市町村によって、対応が違い教育の現場で混乱を起こしています。大変残念なことです。 そのために、新潟県立公文書館に行って『塩津潟』の存在を確認してきました。その結果は、「紫雲寺潟」にこだわる必要は無いと言う意味の回答でした。 同副読本の「紫雲寺潟の干拓」を、新潟県立歴史博物館が『塩津潟(紫雲寺潟)』と記述しているように、一日も早い改訂を切望しています。その理由は、新発田藩の「新田開発の歴史」が、合併後の新発田市民に史実に正確な内容を理解されるからです。関係する担当者は、訂正シールを貼るなり、訂正文を挿入する等の対応をするべきです。 |
| 2005/5/11 [427] 新方から新潟へ |
新潟日報(平成17.5.8日付)の『日報抄』は、「新方から新潟へ」という意味の内容を掲載しています。新潟県は、『潟』の新田開発の歴史の継続であったことから、とても興味深い内容でした。 |
| 2005/5/11 [426] イザベラ・バードの旅 |
イザベラ・バードは、イギリスの女性探検家です。新潟日報は、『道』に同氏を掲載しています。彼女は、阿賀野川を舟で下っています。また、新潟からは、内水面を河川舟運で北上しています。この頃までは、内水面交通が行われていることが彼女の旅程記録から立証されています。1878(明治11)年のことです。 |
| 2005/5/6 [425] 各新聞社が掲載 |
新潟日報社はじめ朝日新聞社等11社が、『塩津潟は塩の道』に関する内容を掲載しました。現在は、全国に1750万部が配信されています。『塩津潟』は、全国に紹介されています。著作者としては、大変嬉しいことです。 |
| 2005/5/5 [424] 塩津潟と記述してある書籍 |
塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)と記述してある主な書籍には、次のような書籍があります。紫雲寺潟にこだわる人たちは、是非参考にしてほしい。(順不同) 『郷土史概論』1921年大木金平氏・『越後古代史の研究』1927年頃池田雨工氏・『新潟県立歴史博物館の常設展示録』2000年新潟県立歴史博物館・『新潟県地質図説明書』2000年新潟県商工労働部・『新潟であるために』1997年農林水産省・『にいがた社会教育』2004年新潟県社会教育協会・『奥山荘の歴史と江上館』2003年中条町・『阿賀北・岩船ふるさと大百科』2004年神津良子氏・『ふるさと中条』1998年中条町・『胎内川の恵み』2002年胎内川沿岸土地改良区・『胎内川流域のわが郷土』2004年片野徳蔵氏・『心のふるさと』2004年心のふるさと展・『塩津潟は塩の道』第一版2003年伊藤國夫・第二版2004年伊藤國夫・『Shionotsu-gata is the Salt road』2005年伊藤國夫・『加治川村誌』2005年加治川村・『美術画報』43 2004年アートコミニュケーション・45同・『芸術百家』19、202005年同・『Gallery G』2005年M.Y.Yコミュニケーション・『新世紀宮廷芸術聖典』2005年アートコミュニケーション等々が有ります。この他に加治川村の研究者の研究論文は、殆ど塩津潟で論述してあります。 このように、新潟県や各市町村等から発行されている書籍は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)に、記述及び呼称が統一されています。これらの書籍は、各市町村や日本国内や外国まで既に紹介されています。歴史の真実は、やはり強いです。 |
| 2005/5/4 [423] 越後絵図を尊重する |
「塩津潟」が明記してある『越後絵図』を尊重することが、歴史学習にはとても重要です。この越後絵図は、徳川家光の幕命により製作された正確な絵図です。そのことが高く評価され、新発田市及び新潟県の文化財に指定されています。新発田市は、この越後絵図を基本に据えて、副読本を編集することが重要であると考えています。現在は、この越後絵図が、幻になっています。この正確な越後絵図を、もっともっと活用するべきです。関係者の再認識と再確認を、是非お願いしたいと思います。 |
| 2005/5/4 [422] 本会議で塩津潟を報告 |
社会文教常任委員会(4月22日)の「塩津潟」については、本会議(4月28日)で同委員会委員長から報告された。次回の本会議で、一般質問として片山市長に答弁を要求することが、一番早い問題解決法であると思っています。 『わたしたちの新発田』の副読本は、新発田市小学校長会編・紫雲寺町小学校校長会編・加治川小学校長会編として編集されている。新発田市小学校長会で、責任を持って早急に解決するものと思っています。 |
| 2005/5/4 [421] 社会文教常任委員会を傍聴 |
平成17年4月の新発田市臨時議会の『市民の声』の傍聴感想です。4月22日に、議会事務局に提出した文です。標題は、『塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)の統一見解が是非必要だ!』です。 社会文教常任委員会で小島生涯学習課長が、紫雲寺潟について発言した。それに対して、長谷川晃議員が塩津潟か紫雲寺潟かについて、今後の対応に興味と関心があることに触れました。私は、社会文教常任委員会が、塩津潟の歴史的事実について議論されたことは、非常に大きな進歩であると思っている。その理由は、平成15年3月定例議会で長谷川晃議員が、臼井教育長に答弁を求めたのに続く議題であるからである。 現在は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)と表記し呼称することことが大半を占めてきた。例えば、新潟県(県立歴史博物館を含む)や他市町村の場合である。しかし、新発田市と紫雲寺町は、紫雲寺潟か紫雲寺潟(塩津潟)と記述し呼称している。この認識のズレは、合併後の新・新発田市の教育に、大きな混乱を起こすことは明白である。今までの経過を見ると、教育委員会の結論では無理である。次回の新発田市議会では、片山市長の答弁で統一見解が出されなければならない時期にきていると考えている。 |
| 2005/5/4 [420] 都岐沙羅柵は中条町へ |
「都岐沙羅柵」は、旧築地村の村歌に都岐沙羅柵=月さらが歌い込まれています。「塩津潟」との関連で、中条町に存在していたと言う説を、『芸術百家』の204〜207頁に掲載されています。この書籍は、全国版なので「都岐沙羅柵」の比定地について、全国的な範囲で取上げられるものと思っています。現に、中条町では「都岐沙羅柵」を地域おこしに活用しています。 |
| 2005/5/4 [419] 芸術百家に「塩津潟」が掲載 |
「塩津潟の歴史的経緯」と「塩津潟と紫雲寺潟の記述及び呼称の主な経緯」が、『芸術百家』の204〜207頁に掲載されました。年表形式にして、分かり易くまとめてあります。是非、参考にしてほしいと思います。「塩津潟」が、古来からいかに重要な『塩の道』の「塩津潟」であったかが、理解できる思います。その歴史的史実を、後世の人々に正確に伝承するべきと考えます。特に、次代を担う児童生徒の教育に、教育活動として、取り上げるへきと考えます。『わたしたちの新発田』の編集を担当した関係者に、一日も早い対策と対応を切望します。 |
| 2005/5/4 [418] 塩津潟は塩の道の英訳版が好評 |
『塩津潟は塩の道』の英訳版が、二つの大学の先生方や、高等学校の先生等の7人の協力者によって、英訳版『Shionotsu-gata is the Salt road』が、発行されています。この英訳版のことが、「分かり易い」とか、「外国人の私たちにも読める」等の意見が、私の耳に入ってくるようになりました。本当に、嬉しいことです。 今後も、各方面の人々に広く活用されることを願っています。 |
| 2005/5/4 [417] 加治川村誌の記述 |
加治川村では、新発田市と合併することを記念して『加治川村誌』を発刊しました。この村誌の中に、「塩津潟(紫雲寺潟)」という記述があります。これは、加治川村の「塩津潟」に対する統一見解です。このことが、新・新発田市の小学生用の『私たちの新発田』の副読本に、大きな影響を与えはじめています。 平成17年度から使用する『わたしたちの新発田』には、「紫雲寺潟の干拓」という表記をしています。私は、『塩津潟(紫雲寺潟)』と、新潟県や他市町村の発行している教育用資料と同様にすべきであると考えています。このことに対する責任は、誰が、いつ、どのようにとるのでしょうか?この認識のズレを、早急に取るべきです。例えば、『私たちの新発田を』全部回収する。訂正シールを貼って修正する。早急に、訂正版を発行する等のことが、考えられます。 合併後の教育の現場で、「混乱が起きないようにしてほしい。」と片山吉忠新発田市長に文書でお願いしたり、新発田市教育委員会等の関係する教育委員会に、『塩津潟』に関する資料を提供し続けてきたのに、やはり起きてしまいました。本当に、残念なことです。 平成17年4月1日から、新発田市・旧紫雲寺町・旧加治川村の小学校で、学習が開始しています。一日も早い改善対策を、関係者及び新発田市に要望します。 |
| 2005/5/2 [416] 文部科学省のキャンペーン |
『子供達の居場所づくり』は、文部科学省のキャンペーンです。『Gallery G』でも、このキャンペーンを取り上げています。私の体験談が、161頁に「児童生徒と夢を育んで半世紀」と「未来の大人たちへ」が掲載されています。内容は、『塩津潟は塩の道』と『越後絵図』と「新発田城の復元」のことが、解説されています。この本は、全国版ですので新発田市の歴史が紹介されています。 |
| 2005/4/30 [415] 紫雲寺町の町名由来は? |
「塩津潟」が、「紫雲寺潟」に改名させられた歴史的経緯が重要になってきた。平成17年5月1日に新発田市と合併する紫雲寺町の町名の由来は、「紫雲寺潟」からの由来ではないと言う。しからば、どんな由来がガあるのだろうか?「紫雲寺」というお寺の名称からだとも聞いている。しかし、「紫雲寺」というお寺は、伝説上の寺だと言う。竹前権兵衛が、紫雲寺というお寺を建立した由来は、開発途中で死亡した小八郎をはじめ多くの人々や生霊を弔うため、伝説上の寺「紫雲寺」を名のる寺院の建立を思い立った。当時は、新寺の建立が許されなかったので、向中条の「浄玄寺」を引地することになった。寛保2年(1742)に寺号を紫雲寺と改称した。権兵衛が伝説上の寺「紫雲寺」と同じ考えが小八郎にもあって、塩津潟の干拓の請願書に「紫雲寺潟」と書いて提出したものだという。 新・新発田市がこれらの事実をふまえたら、一日も早く「紫雲寺潟」ではなく、「塩津潟」という従前の潟名に改訂すべきものと考えています。新発田市の教育委員会及び片山吉忠市長に、確認したいと考えています。「紫雲寺潟」に固執する新発田市の態度には、不思議さと不快を感じます。史実に基づいた、歴史認識を確立してほしいのは、新発田市民の強い願いでもあります。 |
| 2005/4/29 [414] 新・新発田市の副読本 |
新発田市・紫雲寺町・加治川村の合併による新・新発田市の小学校用の副読本を、昨日見てきました。この副読本には、『紫雲寺潟』の名称で編集されていました。『塩津潟』については、「紫雲寺潟は、塩津潟とも言われていました。」という一行だけでした。これでは、「新発田藩の歴史を正確に学習することは出来ない。」と思いました。誠に残念です。次回の編集時に、『塩津潟』か『塩津潟(紫雲寺潟)』と、新潟県や他市町村のようにしてほしいと考えています。今回の副読本では、新発田市・旧紫雲寺町・旧加治川村の学校現場では、混乱が必ず起こると思います。早急な改善を、切望します。 |
| 2005/4/29 [413] 本会議で塩津潟が報告された |
新発田市議会臨時会の本会議(4月28日)に、社会文教常任委員会長によって、『塩津潟』と『紫雲寺潟』のことについて、長谷川晃議員の質問について報告されました。本会議で『塩津潟』が取り上げられたのは、平成15年3月に次いで2回目のことです。 この潟名『塩津潟』についての議論は、今後も続くものと思っています。その理由は、合併後に使用される『副読本』には、従前どおりの『紫雲寺潟』として記述してあるからです。 |
| 2005/04/29 [412] 『塩津潟』が全国に紹介 |
『塩津潟の由来』については、全国に紹介されています。海外に発信されている書籍の他に、全国版が発行されています。『美術画報』で3回。『芸術百家』で2回。『Gallery G』等です。この他に、著書『塩津潟は塩の道』は全国デブューしています。 これらの書籍が、公立の図書館や大学等々に配本され活用されていることに、作家として醍醐味を感じています。 |
| 2005/4/29 [411] 日仏芸術友好のメダルを受ける |
『UNIVERS DES ARTS』(ユニベール デ ザール)に、新発田藩の「新発田城」と「塩津潟」のことが掲載されました。このことを記念して、日仏友好の記念メダルを昨日頂戴しました。 『塩津潟塩の道』の英訳版やオーストリア・イタリア・フランス等、海外に紹介されています。新発田市の歴史が、諸外国に紹介されたことに作者として、嬉しく思っています。 |
| 2005/04/27 [410] 『Gallery G』に掲載 |
『Gallery G』には、「日本の芸術家達が捧げる“子供達の居場所づくり“」主題です。この本の中に、私の二作品が掲載されています。一つは、『塩津潟は塩の道』の著書です。もう一つは、新発田城の復元写真です。小見出しは、「児童生徒と夢を育んで半世紀」と「未来の大人たちへ」です。 本書は、文部科学省の推薦している『子ども居場所づくり』を通して発刊された『Gallery G』です。 |
| 2005/4/24 [409] 本づくりセミナーで講演 |
新潟日報事業社主催の「本づくりセミナー」で、『”塩津潟は塩の道”を出版して』と題して講演をします。平成17年6月18日(土)に、万代シルバーホテルで行います。 新潟日報の4月24日付の紹介では、「”塩の道”としての”塩津潟”の探求を、ライフワークとして教員時代より進め、関係論文の発表、また講演会などを多数行う。一昨年の「新潟日報事業社本づくりセミナー」参加を通して『塩津潟は塩の道』を上梓。多方面から話題を呼んでいる。」でした。 『塩津潟』が、新潟県内や日本全国に発信されたり、最近では、海外にまで紹介されている様子を、体験談としてお話する予定です。 |
| 2005/4/22 [408] 新発田市議会の社会文教常任委員会 |
社会文教常任委員会(平成17年4月22日)は、紫雲寺町と加治川村の合併に伴い、塩津潟(紫雲寺潟)のことについて説明がありました。そのことについては、長谷川委員が質問し再度確認しています。当委員会の委員と各部課長は、平成15年3月定例会での一般質問に次いで、塩津潟を再認識したものと思います。 最近では、「塩津潟」が多く取り上げれています。新発田中央ロータリークラブの卓話や産経新聞(平成17年4月13日付)の掲載等があります。また、国際的なものでは、『UNIVERS DES ARTS』や『新世紀宮廷芸術聖典』等に、「塩津潟」がそれぞれに紹介されています。 合併後(平成17年5月1日)の教育現場に、混乱をきたさぬように期待しています。 |
| 2005/4/22 [407] 新世紀宮廷芸術聖典の解説 |
私の作品『新発田城の復元』の解説は、次のように記述してあります。「The first reconstruction on the Shibata Castie in August 2004,the first in about 130years.It is a base station castle from which the Shibata feudal domain developed new sice fields in Kanbara,including in the Shiotsu-gata lagoon.The castle is the symbol of peace in Shibata City.」です。 この解説の中では、『塩津潟』を「Shiotsu-gata lagoon」と紹介されていることです。新発田藩の歴史の一部が、紹介されたことに喜んでいます。 |
| 2005/4/20 [406] 新世紀宮廷芸術聖典 |
ハプスブルク芸術友好協会制作の『新世紀宮廷芸術聖典』が、発行されました。この聖典の中に、「新発田城の三階櫓・が辰巳櫓」が掲載されています。この宮廷芸術聖典は、エリサザベート成婚150周年記念として出版されたものです。その聖典の中に、私が撮影した新発田城の三階櫓と辰巳櫓が掲載されたことに、とても喜んでいます。平成16年に復元された「新発田の歴史」が、西洋に紹介されたことは、本当に嬉しいことです。 |
| 2005/4/14 [405] HPアセクス数が急増 |
『美術画報』・『芸術百家』や全国版の新聞に掲載され、ホームページ『塩津潟の由来』のアクセスが急増しています。新潟県内の「塩津潟の由来」と「都岐沙羅柵」の歴史的経緯が、全国的に理解されてきていることに感激しています。 |
| 2005/4/14 [404] 『塩の博物誌』 |
著者は、Pierre Laszlo(ピェール・ラズロ)です。役者は、神田順子氏です。本書は、塩をめぐる政治と歴史のエピソード、塩田、塩の道、塩の神話と伝説、塩に関する世界の諺ほか、博覧強記の化学者が総合的な「知の塩」を提唱しています。「塩の道」は、世界的だと思いました。是非、読んでみてください。(東京書籍) |
| 2005/4/14 [403] 芸術と平和の祈り世界へとどけ |
上記主題で、産経新聞平成17年4月13日付に掲載されました.私の作品は、写真『福島潟の歴史と文化』と著書『塩津潟は塩の道』です。解説内容は、「江戸期に存在した“塩津潟”の名称が近世以降消失したことに疑問を抱いた氏が、50年にも亘る塩津潟研究を記録したものであり、日本文化や自然を知る上で貴重な資料と言えよう。他にも教育実践や講演等で塩津潟を熱く語り、人々の理解を深めながら、地域に大きく貢献し、水辺の文化について説き続けている。」でした。「塩津潟」と「福島潟」の関連を、メッセージしたものです。 |
| 2005/04/04 [402] 城下町の景観シンポ |
城下町新発田の景観について考える「新発田まちなみシンポジウム」が、4月2日に行われました。新発田城の復元が、大きなきっかけとなっています。私の『美術画報』や『ユニベール・デ・ザール』等での「新発田城」の掲載が、新発田市の「地域おこし」に役立っていると思っています。 |
| 2005/4/3 [401] 本書の英訳版が普及 |
『塩津潟は塩の道』の英訳版が、普及し始めました。新発田市内でも、話題が聞かれるようになりました。大変に、嬉しいことです。 |
| 2005/4/1 [400] Shiotsu-gata in the Salt Roadの反響 |
本書の副題は、「The origin of Shiotsu-gata and Tsukisara-no-ki」です。『塩津潟』と『都岐沙羅柵』が、多くの人々に読まれ、理解されることでしょう。郷土の歴史を基に、地域の活性化が出来ることを願っています。 |
| 2005/4/1 [399] フランス語版に紹介 |
「加治川桜の復活」と「新発田城の復元」が、フランス語版で紹介されます。新発田市の文化の啓発と観光の振興に、役立つことを願っています。『塩津潟は塩の道』の英訳版と共に、国際的に理解されるものと思います。 |
| 2005/4/1 [398] 平成の大合併スタート |
4月1日は、長岡市・阿賀町・十日町市・妙高市が誕生しました。新発田市も、一か月後に紫雲寺町・加治川村と合併します。この合併は、教育界に大きな変容をもたらすことでしょう。例えば、教育内容や人事異動等の面で、新風を吹き込むことでしょう。小・中学校の統廃合も、急速に進展することでしょう。県内の学力は、急激な向上を図ることでしょう。市民として、大きな期待を寄せています。 |
| 2005/3/21 [397] 加治川村誌 |
加治川村は、新発田市との合併を前に『加治川村誌』(平成17年2月)を発行しました。この記念誌には、『塩津潟(紫雲寺潟)』と統一した見解で編集されています。新発田市は、加治川村や中条町や新潟県等の『塩津潟(紫雲寺潟)』という認識を、どのように受け止めるのだろうか?新発田藩の「塩津潟」の新田開発について、新発田市民にどのように説明するのであろうか?新発田市の歴史認識を、早急に改訂する必要があると、私は考えています。 |
| 2005/3/18 [396] 塩津潟を復元する計画 |
塩津潟は、全部新田開発したので原型のハート型をした復元する計画が推進されています。塩津潟は、加治川によって福島潟と連結した兄弟潟です。新潟市の「湖沼フォーラム」が推進している「水辺の文化」を、新潟市と新発田市や中条町や黒川村等で推進されています。 |
| 2005/3/17 [395] shiotsu-gata in the salt roadの発行 |
『塩津潟は塩の道』の英文版が、3月15日発行しました。各方面の教材として、今後活用されるものと思います。写真等は、最新のものを追加したりして分かり易くしました。どうぞ、ご利用ください。 |
| 2005/3/12 [394] 「その時歴史が動いた」の講演会 |
新発田市文化講演会が、松平定知氏を招いて平成17年3月10日に新発田市文化会館で開催されました。 その演題にあやかる様に、「新発田藩の新田開発の歴史」が、市民に認識され始めました。「塩津潟」と「塩の道」の認識が、『塩津潟は塩の道』の出版やホームページ『塩津潟の由来』の開設や講演会等によって、「その時歴史が動き」始めました。 その大きなエネルギー源になったのは、「ハプスブルク芸術友好協会」(オーストリア)から認定された『日本文化伝導士』です。 |
| 2005/3/12 [393] 「塩津潟」の認識の相違 |
「塩津潟」に関する各市町村の認識に、相違がはっきりしてきました。新潟県や各市町村は、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と明記するようになってきました。新発田市は、今年の5月1日に紫雲寺町と加治川村との合併が、50日以内に迫ってきました。学校教育の現場では、郷土の学習を開始します。さて、どうするのでしょうか? 平成15年3月の新発田市議会で、長谷川晃議員が新発田市の認識と対応の仕方について、一般質問している。当時の臼井教育長は、「塩津潟か紫雲寺潟についての歴史の事実は、また、どういうふうに教えるかについて検討してみたい。」と答弁している。いまだに、明快な回答が出ていないのが現状です。 市長は、市職員が、この歴史事実を共通理解し、新発田市民に明確に知らせる義務があると思います。その啓発があれば、校長会は『副読本』に自信を持って掲載できると思います。 |
| 2005/03/12 [392] にいがた湖沼フォーラムの成果 |
『潟と文化を語る』の内容が、新発田市民にも理解されてきました。新潟万代市民会館で開催されたフォーラムには、中条町の方々が十数名参加していました。その時の『塩津潟をしのび、その文化の継承と復元を試みる』が、広がって来ました。 |
| 2005/3/12 [391] 新発田中央ロータリクラブの卓話 |
『新発田市における塩津潟の認識』という演題で、平成17年3月8日ベルナールで卓話してしてきました。新発田市民に、新発田藩の「塩津潟の新田開発」の歴史が、認識した人が多くなりました。「塩津潟」を立証する古絵図や、他市町村の認識の様子等を卓話しました。 |
| 2005/3/6 [390] 食の宝庫・日本海 |
「北東アジア交流プロジェクト・総括シンポジウムin新潟」に、参加してきました。このシンポジウムの無いように、縄文時代から北東アジアとの交流や内水面交通の舟運による文化の伝達・交流について、説明されていました。詳細については、新潟日報の朝刊(3月6日付)で掲載されていました。やはり、新潟県の歴史は、「舟運」による文化の交流を忘れてはならないのです。 |
| 2005/3/6 [389] にいがた昔ものがたり |
三田村邦彦氏が、進行役で新潟の昔の様子をTeny(テレビ新潟)で放映しました。3月5日(10:30〜11:25)に、新潟の歴史を舟運【日本海と内水面交通】についても説明していました。『潟と文化を語る』と、共通する内容が多かったのでとても有意義でした。 |
| 2005/3/5 [388] 『塩津潟は塩の道』の英文版 |
私の著書『塩津潟は塩の道』の英文版が、近日中に発行されます。翻訳は、大学の先生等数人の人たちが担当してくださいました。 A5版の60頁くらいのダイジェスト版です。高校生や大学生は、郷土の歴史を英語を通して学習してくれるものと思っています。また、大学の外国人の先生方にも「郷土の歴史」を、理解してもらう教材として利用してくれることを期待しています。 |
| 2005/3/5 [387] 「潟と文化を語る」の大反響 |
新潟市万代市民会館で、「潟と文化を語る」が開催されて一週間が過ぎました。発表者全員の提言は、それぞれの分野に大きな影響を与えました。私の提言「塩津潟の文化の継承と復元」も、新発田市をはじめ近隣市町村に大きな話題になっていることが分かりました。加治川で結ばれた塩津潟と福島潟の兄弟潟が、古来からの「河川舟運」による物流の文化が、後世に正確に伝承されていくものと思います。その意味からも、このたびの第3回「にいがた湖沼フォーラム」は、大成功だったと考えています。今回の発表者の中に、県外からの参加者がいたことは、今後大きな影響力を発揮するものと思います。豊栄市が昨年全国に発信した『水のサミット』が、新潟市の「福島潟」として、更に力強く発信されるものと確信しました。『塩津潟記念公園』の造成と『塩津潟』の復元は、「人間の生活」と「水辺の文化」の融合を、更に推進するものと考えます。 |
| 2005/3/5 [386] 新発田市民教養講座 |
新発田市は、紫雲寺町と加治川村との合併を控えて、市民教養講座を開催しました。2月24日と3月4日の内容の中に、「塩津潟」の存在について話題が出ていました。参会者は、塩津潟と紫雲寺潟の呼称についての各市町村の認識と対応の違いが、明確に理解できたものと思います。「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述したり、呼称するのは新潟県及び各市町村の取り組みの大きな方向です。 |
| 2005/3/5 [385] 塩津潟の復活は議会で答弁 |
「塩津潟」の存在については、各市町村の議会で一般質問されたことが非常に大きい。今までに、中条町が2回、新発田市が1回、紫雲寺町で1回と、計4回議員の一般質問に答弁しています。それぞれ教育長か市町村長が、歴史事実に沿った答弁をしました。各市町村は、合併を目前にしたとてもよい機会に、「塩津潟」を公式の場で明言しました。このことは、以前には無かった画期的な進歩です。新発田市も、遅まきながら「塩津潟」を明文化した公文書が、今後多くなっていくものと思っています。 |
| 2005/3/1 [384] にいがた湖沼フォーラムの報告 |
『潟と文化を語る』の第3回フォーラム報告を、新発田市役所の三つの部署(片山市長を含む)に報告してきました。「塩津潟」についての新潟県内の認識が、急速に広がっています。新発田市は、紫雲寺町や加治川村と5月1日に合併します。それを機会にして、「塩津潟」と正式に認識し、市民に知らせるものと思っています。 |
| 2005/2/28 [383] 塩津潟と都岐沙羅柵を発表 |
「潟と文化を語る」のフォーラムで、「塩津潟」と「都岐沙羅柵」について発表してきました。大変多くの方々に拝聴していただきました。福島潟と塩津潟の連携についても、具体的に説明してきました。 基調講演をした篠田新潟市長は、「塩津潟」の存在について10回以上説明しました。新潟市と新発田市の『潟の文化』の連携が、合併後も強化されていくものと思います。昨日は、とても有意義なフォーラムでした。 |
| 2005/2/22 [382] 「潟と文化を語る」が近づく |
このフォーラムは、政令指定都市を目指す新生新潟市にとっては、示唆にとんだ画期的なフォーラムになると思う。新潟県民の多くの人々が参加することを、期待している。その理由は、歴史問題・環境問題・政治問題・経済問題・文化問題・教育問題等と、多岐にわたっているからです。今回は特に、「平成の大合併」と強く関連しているからです。 |
| 2005/2/20 [381] 片山新発田市長からの礼状 |
片山市長さんから2月18日に、礼状が届きました。「謹啓 春寒去りがたき折柄、ますますご清祥のことと拝察申し上げます。 このたびは、ご丁重に貴重な「芸術百家」をご恵贈いただき誠にありがとうございました。また、先にも貴重な書籍を頂戴するなど重ねて御礼申し上げます。 さらに、このたびは、ハプスブルク芸術友好協会より「日本文化伝導士」に認定されたとのお知らせいただき、伊藤様のこれまでの制作活動が高く評価されたものと、敬意を表すとともに、心よりお祝いを申し上げるしだいであります。 伊藤様に置かれましては、今後ともご健勝でご活躍されますよう祈念申し上げ、取り急ぎ書中を以ってお礼申し上げます。 謹白」 新発田市の地域おこしの役に立ったことを、嬉しく思っています。 |
| 2005/2/20 [380] 新発田城の復元を祝う |
芝田『市民新聞』第40号に、「新発田城の復元を祝う」という小生の記事が掲載されています。昨年は、新発田市にとって歴史建造物の復元が相次ぎ、城下町としての風情がますます高まってきています。 |
| 2005/2/20 [379] 「紫雲寺、その歴史と人物」 |
紫雲寺町社会教育協会主催の講演会に、参加してきました。講師は、新発田市郷土研究会副会長の荻野正博氏でした。この講演の中て、荻野氏は「塩津潟から紫雲寺潟になったもの」という説明を、4回も繰り返し説明した。紫雲寺町に於ける講演会でも、「塩津潟」が確実に定着していることを感じました。 |
| 2005/02/19 [378] 日本文化伝道士の認定 |
オートリアの「ハプスブルク芸術友好協会」から認定された『日本文化伝道士』の認定は、とても大きな意義があります。「塩津潟」の復元と「都岐沙羅柵」の解明に、甚大な影響力を持ってきました。今後も、『郷土の歴史を正しく学習』する活動に、努力を継続していきます。 |
| 2005/02/15 [377] なんだかんだ一直線 |
BSNラジオの番組名です。本日、大倉修吾アナウンサー兼歌手とスタジオで対談してきました。内容は、主に『塩津潟は塩の道』のことでした。新発田の歴史や観光についても、説明してきました。 |
| 2005/02/03 [376] 紫雲寺町埋蔵文化財調査報告書 第3集 |
この報告には、『紫雲寺潟(塩津潟)と記述されています。以後紫雲寺潟と記述します。』となっています。 新潟県立歴史博物館の記述とは、明らかに違っています。同博物館は、『塩津潟(紫雲寺潟)』となっています。紫雲寺町の「発掘調査報告書」は、同博物館の潟名の表記が違います。 紫雲寺町は、新発田市と加治川村と一緒に合併します。平成17年5月1日のことです。新発田市立小・中学校の学習に、大きな混乱をもたらすことは確実です。『塩津潟』が、各市町村によっていろいろな表記で学習しています。新発田市の教育委員会が中心になって、早めに統一見解を提示する必要があると考えます。担当者各位の、早急な対策を望みます。郷土の歴史を、正しく学習できる環境作りに期待します。 |
| 2005/2/3 [375] 大峰山界隈B |
『ミニック』2月号の「大峰山界隈学びの歩みBには、次のように記述されています。「竹前兄弟・宮川四郎兵衛等の長年努力が実って享保18年(1733)開田に成功した旧塩津潟(旧紫雲寺潟)の干拓地です。(抜粋) 注目すべきは、旧塩津潟(紫雲寺潟)と記述していることです。 |
| 2005/01/31 [374] 「美術画報45」のお礼 |
美術画報に、新発田市の歴史的財産が全国に紹介されました。例えば、新発田城の三階櫓・や辰巳櫓の復元や諏訪神社の復元、清水園、古四王神社、五十公野地区の歴史ゾーン、大倉喜八郎翁等々の紹介でした。そのことに対するお礼や感謝の言葉が、新発田市民や市職員の方々から頂いています。観光面の民間大使の役割を、果たすことが出来て喜んでいます。 |
| 2005/01/31 [373] にいがた湖沼フォーラム |
上記のフォーラム『潟と文化を語る』が、平成17年2月27日(日)に開催されます。会場は、新潟市万代市民会館です。時間は、10:00〜16:10です。 私は、『塩津潟をしのびその文化の継承と復元を試みる』という主題で発表してきます。是非、聞いてください。 |
| 2005/01/31 [372] 塩津潟(紫雲寺潟)の定着 |
佐藤悌吉氏の叙勲を祝う会が、昨日中条で約200人の参列者で盛大に行われました。本当に、おめでとうございます。佐藤家は、「都岐沙羅柵」と深く関わってきた関係から、今後一層の好影響をもたらすものと思っています。 その席上では、「塩津潟」の話題が多く聞かれました。また、「都岐沙羅柵」についても、中条町に存在したという声が沢山聞かれました。いよいよ「塩津潟」と「都岐沙羅柵」を、中条町の地域おこしに活用する段階になってきたことを実感しました。 |
| 2005/01/24 [371] 「遺跡発掘調査報告会」 |
第12回の同報告会が、新潟県埋蔵文化財調査事業団の主催で、平成17年3月6日三条市で開催されます。この会の報告に、『古墳時代の発掘』が、三点あります。その中に、中条町の「西川内南遺跡」が含まれています。この遺跡は、『大塚山古墳(ひとかご山)』や『伊夜日子神社』とすぐ近くにあります。大和朝廷の城柵の一つ「都岐沙羅柵」と深い関連があるものと考えています。当日の報告会が、今から楽しみです。渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵は、近いうちに明確になるものと思っています。 |
| 2005/01/24 [370] 市民教養講座 |
同講座に、「紫雲寺町の歴史」が平成17年2月に行われます。副題は、〜紫雲寺潟の干拓を中心に〜です。新発田市議会が、平成14年3月の定例議会で『塩津潟の存在』を新発田市が公式に認定しているのに、「紫雲寺潟の干拓」を説明することは、一体どうなっているのだろうか?平成17年5月1日に紫雲寺町と加治川村が、新発田市に合併する。新発田市の歴史認識が余りにも不明解です。教育現場での混乱を、多くの市民が心配しています。 |
| 2005/01/24 [369] 『日本文化伝道士』に認定 |
私は、ハプスブルク芸術友好協会より「日本文化伝道士」に認定されたことの連絡を、平成17年1月に受け取りました。立派な「認定トロフィー」が、同時に贈られました。同封の文書には、『これまでの制作活動、国内外でのご実績が高く評価されました。また、日本現代芸術の未来を担うべく、期待を込めて「日本文化伝道士」に認定されました。』とありました。 私の長年による研究と、それに基づくホームページ『塩津潟の由来』の開設や、著書『塩津潟は塩の道』の出版や、数多くの講演会や教育現場での実践が、認められたものと喜んでいます。 |
| 2005/01/05 [368] 『回想のヴィノグラドフ』 |
この著書は、「ポール・ヴィノグラドフ先生に捧ぐ」という没後30周年記念記録集である。126頁に、西新発田高等学校講堂で開催された演奏会のことが掲載されている。昭和25年(1950)10月29日の、開催である。ピアノは、ポール・ヴィノグラドフさん、ソプラノは、アクリヴィシーマ福沢さんである。 主催は、新発田市。後援は、新潟日報社。企画は、新発田市音楽同好会である。戦後の混乱期に、よくこれだけの芸術活動を開催したものだと感心する。 私に、この著書が届いたのは大和朝廷の新潟県内の「城柵の設置」を調べていることから、東京大学や国学院大学の関係者からの資料提供である。そのきっかけになったのは、『美術画報』45の新発田市の歴史を紹介したことによる。なんと不思議な因縁が、あるものである。発行は、平成16年12月2日である。『美術画報』は、平成16年12月20日で、殆ど時を同じくしている。なお、福沢さんは、福沢諭吉さんと姻戚関係にある人だそうである。 |
| 2005/01/05 [367] 伊夜日子神社 |
中条町大字弥彦岡の『伊夜日子神社』は、昨年の暮れに改装されとても立派になっていました。この神社の周辺から発掘された遺跡は、古墳時代のものが多いのです。歴史的に、古い歴史を持っている伊夜日子神社なのです。 |
| 2005/01/01 [366] 謹賀新年 |
新年明けましておめでとうございます。 新春を迎え皆々様のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。 昨年は、大変御世話になりありがとうございました。私のライフワークである『塩津潟は塩の道』は、少しずつ広がりと深まりを増してきました。 『塩津潟は塩の道』の第二刷を、8月に出版しました。副題は、「塩津潟の由来と都岐沙羅柵」です。この研究に関する講演を、30回以上行いました。昨年だけでも、8会場で行ってきました。 ホームページ『塩津潟の由来』は、平成6年に開設して以来11500回以上のアクセス数です。著書とホームページで理解を高め、講演で沢山の方々に郷土の歴史を聞いていただき、とても感謝しています。 芸術の分野では、新発田市展に出品した「加治川桜の復活」が、『美術画報』43に3頁掲載されました。45では、「秋吉和夫氏との特別対談」が10頁掲載され、全国に紹介されました。全国に、新聞や冊子等で1500万部発信されました。 本年も、ご支援とご指導の程よろしくお願い申し上げます。 平成17年 元旦 伊藤國夫 |
| 2004/12/28 [365] 新発田市の民間観光大使 |
『美術画報』43と45に、「新発田市の自然観光」や「歴史観光」の事例が掲載され、全国に紹介されました。平成16年12月28日に、『中越地震』の被災から66日ぶりに「上越新幹線」が、復旧しました。新年は、「新発田市」に多くの観光客が来訪してくれることを願っています。 これは、「秋吉和夫氏との特別対談」を、今年の8月4日に新発田市で実施したことが、全国に紹介されたものです。 |
| 2004/12/28 [364] 『塩津潟』が全国版に掲載 |
「塩津潟」と「都岐沙羅柵」が、全国版に相次いで掲載されました。例えば、『美術画報』『各新聞社の7社』『週刊誌』『塩津潟は塩の道』等々です。 人々は、「伊藤先生は、新潟県の人から日本の人になりましたね」とか、「五尺玉の大きな花火を上げましたね」という声が、聞かれるようになってきました。大変、嬉しいことです。 |
| 2004/12/25 [363] 越後は辺境か |
上記シンポジウムが、新潟県立歴史博物館で10月30日に行われています。縄文時代から、日本海側は大陸の諸国と交流のある表日本だったわけです。その歴史的事実を、現代人特に新潟人は絶対に忘れてはいけません。この内容を、教育の現場に活用する必要があります。 |
| 2004/12/18 [362] 新潟大学産学連携セミナー |
『経営感覚の導くものは』のセミナーに、12月17日参加してきました。この討論でも、「米特区」の話題を提供してきました。先人が苦労して新田開発した史実と米生産にかける農業の大切さを力説してきました。キーワードは、「減反政策」と「地産地消」です。日本国民を安心させる『自給率』の向上が、非常に重要です。 |
| 2004/12/17 [361] 大山助役に説明 |
片山新発田市長に面会を求めたら、都合がつかないので大山助役に説明してほしいとのことで、「塩津潟」や「都岐沙羅柵」について説明してきました。『美術画報』45を資料にして郷土史の、学会等の最近の様子について説明してきました。 新発田市としての、歴史認識の方針を明確にするものと思っています。この面談を機会に、『美術画報』を寄贈してきました。この画報は、全国版なので新発田市民も目にすることが多くなることでしょう。新発田藩の歴史が、後世の人々に正確に伝承されることを、強く望んでいます。 |
| 2004/12/11 [360] 『にっぽう新聞塾』 |
新潟国際情報大学の開講講座に、参加してきました。本日のテーマは、『選挙報道の醍醐味』でした。選挙の裏話や構図の話から、新潟県政を分かり易く講話しました。その資料の中に、『にいがた地名考』ありました。地名の由来のことが、記述してありました。また、『新潟日報新発田フェア』のことや『産学連携セミナー第2期講座』のことも、記述してありました。 |
| 2004/12/11 [359] 「北陸地域の活性化」の中間報告会 |
北陸建設弘済会主催の『第10回「北陸地域活性化」に関する研究助成事業中間報告会』が、12月10日新潟市で開催されました。13主題の発表がありました。その内、大学関係が8主題ありました。私は、全体会でも発言してきました。また、第一分科会では、新潟平野の河川舟運やその後の新田開発について、説明してきました。当然のごとく『塩津潟』は、その両方に関係している内容なので詳しく説明してきました。参会者の中には、私の著書「”塩津潟は塩の道”を読みました。」という人もいました。とても嬉しかったです。 |
| 2004/12/11 [358] 新潟医療福祉大学の『新潟考』 |
同大学の生涯学習センターの教養講座『新潟考』が、12月10日に終了しました。10回の講座でしたが、この講座の中でも、新潟市の河川舟運の歴史と、塩津潟等の新田開発の話をしてきました。現在豊栄市の「福島潟」は、平成17年3月21日には新潟市に合併するので、新潟市の福島潟は、加治川によって塩津潟と連携していたことになり、「塩の道」が一層連結し易くなりました。篠田新潟市長は、「塩の道」については既に認識している内容なので、阿賀北地方の「塩の道」は、地域の活性化に役立つと思います。 |
| 2004/12/11 [357] 『新潟力』に「塩津潟 |
新潟市長篠田昭氏の著書『新潟力』に、「塩津潟(紫雲寺潟)」という記述があります。篠田氏は、私の著書『塩津潟は塩の道』を既に読んでおられるようです。 新潟市は、「水の都」をキャッチフレーズにしているだけあって、「新潟湊」の歴史をふまえた政令指定都市をビジョン化しているようです。「河川舟運」の重要性を、後世に正確に伝承していきたいものです。 |
| 2004/12/06 [356] 美術画報45に塩津潟が掲載 |
『美術画報』に、秋吉和夫氏との「特別対談」が掲載されました。新発田市の歴史・塩津潟・伊藤の芸術論等が、10ページに写真入で紹介されています。 これは、『美術画報』43の掲載に続くものです。「塩津潟」の新田開発の歴史的事実が、全国版で紹介されています。新潟県の歴史の見直しが、急速に進展すると思います。郷土の歴史が、正確に伝承される近況が整備してきました。 |
| 2004/12/02 [355] 新潟大学農学部の擬似湿地を創出 |
新潟大学農学部の教授は、今後『塩津潟』を文章に記述し、呼称してくれるものと思います。新潟県の歴史は、湿地帯の「新田開発」の連続でありました。『塩津潟』の新田開発は、新発田藩の歴史でもありました。新潟県における「農業」は、重要な産業です。 だからこそ、篠田新潟市長は、『田園型政令指定都市』を合併の二大柱にしているのだと思います。 |
| 2004/12/02 [354] 新発田城の3展示会 |
『新発田城の復元』に関する展示会が、3会場で開催されました。 「ピース・ウォール&ヌーボーラベル展→東京のお台場11/18〜20 「新発田城写真展」→新発田市地域交流センター11/20〜30 「新発田城を描こう」新発田市生涯学習センター11/20〜30 私は、この3展示会に作品を出品しました。そのご褒美に、ボージョレ・ヌーボーの「新発田城ラベル」を味わうことができました。 27歳と30歳に、フランスで飲んだワインの味を思い出していただきました。 |
| 2004/12/01 [353] 新潟日報「ミニック」 |
「ミニック」12月1日号に、『塩津潟(紫雲寺潟)』と記述した記事が掲載されました。同新聞の『大峰山界隈学びの遊歩』の、説明文中です。このタイトルは、加治川村の歴史に関する説明文です。 『塩津潟』か『塩津潟(紫雲寺潟)』が、新潟県下に日増しに確実に定着してきています。私の夢が叶い、本当に喜んでいます。 |
| 2004/11/29 [352] 「産官学連携」が盛ん |
国立大学が、特殊法人化されてから一層「産官学連携」が活発になりました。敬和学園大学・新潟国際情報大学・新潟医療福祉大学・新潟大学等の公開教養講座が、本当に盛んになりました。若いときに、玉川大学に御世話になっている頃のことを想起させます。 行政側も大学側も、社会の生活向上に誠心誠意工夫と努力をしてくださいます。ありがたいことです。 |
| 2004/11/28 [351] 第10回農学部フォーラム |
新潟大学農学部は、『水鳥飛び交う田園型政令指定都市をめざして』を平成16年11月28日新潟市民芸術文化会館で開催しました。このフォーラムで、『水辺の文化』の伝承として「新潟は古代から河川舟運の歴史があるので、児童生徒の副読本に歴史の事実として副読本に編集して活用しべきである。」という私の提言がパネルデスカッションの時に紹介されました。新潟は、大小の河川と鳥屋野潟や福島潟や塩津潟等と多くの河川によって物流の重要な交通手段だったわけです。人間の生活に潤いを与えるのは、『水辺』です。現代人は、このことを忘れてはいけません。 |
| 2004/11/27 [350] 『塩津潟は塩の道』の紹介 |
鈴木明夫前教育長の出版記念祝賀会の席上に、私の著書『塩津潟は塩の道』が紹介されました。大勢の参会者に、新潟県の「塩津の道」が再認識され、大変喜んでいます。『塩津潟』が、一層多くの人々に深く理解されてきました。新発田市史の改訂も、近いものと考えています。 |
| 2004/11/26 [349] 新発田城がヌーボーのレッテルに |
『ピース・ウォール』と同時に、ボージョレ・ヌーボーのレッテルに貼られたものが届きました。今年は、新発田市にとって「新発田城の三階櫓や辰巳櫓」と「諏訪神社」が復元した記念すべき年になりました。 |
| 2004/11/24 [348] ピース・ウォール展 |
『平和の壁(ピース・ウォール)』が、東京のお台場で開催されました。期間は、平成16年11月18日〜20日まで世界のアーティストが作品を展示しました。私は、その展示会に『新発田城』の三階櫓を出品しました。これは、新発田市の平和のシンボルと考えているからです。 |
| 2004/11/19 [347] にいがた社会教育370 |
新潟県社会教育協会主催の『新潟県人よ、教育で元気を出そう』のシンポジウムを実施しました。平成16年5月26日に、新潟市の「ウェルシティ新潟」を会場にして多くの参会者を集めて開催されました。その時のシンポジウムの記録が、『にいがた社会教育』370に掲載されました。パネラーとしての私の提言は、『新潟県人は、教育で元気を出すぞ』でした。内容は、近日中に、全文を『塩津潟は塩の道』のHPに掲載します。是非、読んでください。『塩津潟』と『都岐沙羅柵』の復活について、最新の様子を提言したものです。 |
| 2004/11/19 [346] ハプスブルク芸術友好協会会員 |
「ハプスブルク芸術友好協会」の会員盾が、私に届きました。とても嬉しく思います。長年の研究生活とそれに基づく『塩津潟は塩の道』の出版(初版及び第二版)とホームページ『塩津潟の由来』の開設と、長年の写真を撮り続けた勲章と考えて言います。アートに対する考え方が、一層深まるような気がします。ルーブル美術館に、27歳と30歳の時に鑑賞に旅行したことが、大きな原動力になっているように思います。本当に立派な、「会員盾」が「塩津潟教育研究所」の事務所を明るくしています。 |
| 2004/11/17 [345] 「地域の力」再発見 |
上記主題で、東北・新潟8新聞社共同企画で7県14人のメッセージが掲載された。2人ずつ7回の連載でか。総集編が11月14日付に、読者の意見・感想として私の感想が掲載されました。『人生選択に自信』という内容です。原文は、私のホームページ『塩津潟の由来』の新潟日報の欄に取り入れます。26〜39歳の若者の「若い選択未来を照らす」大きなエネルギーに感心しました。『ここが好き、だからここに住む』という「夢」を追い、開拓者として輝いている若人にスポットを当てた好企画でした。 |
| 2004/11/17 [344] 市長への手紙 |
広報しばたの11月15日号(1145)に、「市長への手紙」の内容を「広報しばた」や市ホームページに掲載していくとの記事がありました。大変に良いことだと思います。私は、「秘書・広報課」に何度か行ってお願いしたことが、やっと実現します。 『塩津潟の由来』や『都岐沙羅柵の由来』等については、早い段階で広報に掲載されるものと期待しています。【市民に開かれた市政】は、民主主義政治の根本理念です。早急な対策を、願っています。 |
| 2004/11/17 [343] 作家の醍醐味 |
新潟日報は、同事業社から発行されている著書を一頁を使い紹介している。11月13日や17日付である。その他に、土・日曜日ごとに多くの出版物を掲載し紹介している。私の著書『塩津潟は塩の道』も、その中に含まれている。私が著書の中で提唱している「塩津潟の復活」と「都岐沙羅柵の復活」は、確実に新潟県民をはじめ全国に浸透してきている。この喜びを、作家の醍醐味と言う風に感じ取っています。 |
| 2004/11/11 [342] 新市名は『塩津市』 |
中条町と黒川村の合併が、一年以内です。新市名も、決めなければなりません。私は、中条町と黒川村に大昔から共通する『塩』に関わる名称が良いと考えています。『塩津市』が、最適な新市名と考え、公募の段階でも応募しています。関係各位の、一考をお願いいたします。 |
| 2004/11/07 [341] 青田遺跡の発見・発掘とその意義 |
にいがた連携公開講座2004が、11月7日紫雲寺町中央公民館で行われました。資料には、旧紫雲寺潟(別名塩津潟)でした。紫雲寺潟の出現は、9世紀とあったので質問しました。 塩津潟は、9世紀より早いと思います。その根拠は、大和朝廷が新潟県に城柵を三つ装置しています。その造営に当たっては、どうしても内水面交通が必要である。また、新発田市議会は、昨年の3月議会で竹前さんたちの干拓前は、「塩津潟」で呼称・表記することを確認しています。念ため、紹介しておきます。 |
| 2004/11/07 [340] 郷土出版図書の紹介 |
新発田市立図書館は、「郷土出版図書の紹介」を、図書館一回のフロアで展示・紹介してくれました。その展示に、初版(平15年8月20日)と第二版(平成16年8月9日)が、紹介されました。 |
| 2004/11/07 [339] 「塩津潟の探求と実践の継続」 |
上記の主題は、機関紙『土壌』に掲載されたテーマです。『塩津潟教育研究所』の活動の一端として、掲載されたものです。 インターネットの『塩津潟の由来』は、10717回のアクセス数に達しています。ホームページからも、「塩津潟」の発信が継続されています。 |
| 2004/11/07 [338] 「塩津潟の伝道師」 |
「伊藤先生は、塩津潟の伝道師」と紹介してくれたのは、敬和学園大学の初代学長の北垣宗治博士です。当大学の講義に次いで、新発田ロータリークラブの講演会での講師紹介の言葉でした。 とても、光栄に思いました。「塩津潟」と「都岐沙羅柵」についての講演を、30回以上行ってきました。本年は、8回の講演会を実施しました。順調に、「塩津潟」の伝道を続けています。 |
| 2004/11/03 [337] 西川内北遺跡の現地説明会 |
この遺跡は、塩津地内の「大塚山古墳(ひとかご山)」と弥彦岡の「伊夜日子神社」の近くの『塩津潟』の北辺にあります。 本日の担当者の説明を聞いて、古墳時代の大和朝廷の城柵の一つである『都岐沙羅柵』との関連を、一層強く持ちました。その理由は、「大塚山古墳」の周辺に古墳時代の遺跡が、大塚遺跡等12遺跡が最近発掘されているからです。とても興味深い、遺跡群です。 |
| 2004/11/02 [336] しばた市議会だより |
第73号が、平成16年10月29日に発行されました。「市民の声」欄に、私の感想が掲載されました。『合併後の新市政はどこへ』です。これは、9月定例会を傍聴したレポートです。初日を除き、全部(本会議・各委員会を含む)傍聴しました。『越後国絵図』を活用する活動は、新市長と新議員と市職員によるところが大きいのです。郷土の歴史を、郷土の発展のために活用してほしいことを提言したものです。 |
| 2004/11/02 [335] 広報しばたH16.11.1日号 |
『正保越後国絵図』が、新発田市の文化財として紹介されました。この国絵図は、徳川家光が命じて作成されたものです。1645年のことです。新発田藩の当時の様子が、正確に読み取ることが出来る非常に正確なものです。 この絵図には、『塩津潟』が明確に記述してあります。河川舟運の様子が、よく理解できる絵図でもあります。現代の新発田市民は、この貴重な絵図を大切にすると共に、現代の地域の活性化に役立てるべきだと思います。 近日中に、この絵図の縮小版が販売されます。大いに活用してほしいと、考えています。 |
| 2004/11/02 [334] ご無沙汰しております・・・ |
『越後不思議紀行』の海月です。少し潟東村の宣伝をさせてください。 平成16年12月5日(日曜日)に潟東村において、 『かもんかもねぎ祭り』が開催されます。 カモ猟などの実演や潟東太鼓の演奏などが行われます。 メインの”カモ汁”は前売り券での販売になっています。 詳細は下記のURL(潟東村のホームページ内)をご覧下さい! http://www.vill.katahigashi.niigata.jp/kamonegi/KAMONEGI.HTM ※震災にあわれた方も少し元気が出たら、ぜひお越し下さい。 アツアツのカモ汁で心も体も暖まります・・・ http://www.nightmare.jp/ |
| 2004/11/01 [333] 片山市長の回答(2) |
9月3日(再メール9月10日)の回答が、10月7日に届きました。回答が具体的でなかったので、再度10月8日に再質問しました。その回答が、10月29日に届きました。その回答を、私のホームページ『塩津潟の由来』に掲載しますので、よく読んでください。いかに学問的な回答に、なっていないかが分かると思います。 しかし、いくつかの点で、今までよりは少し進展した内容が読み取れます。まだ、不明確な内容については、今後も質問と意見の提言を続けていきたいと思います。 |
| 2004/10/21 [332] 新発田ライオンズクラブの講演 |
上記講演『塩津潟が再認識される』を、10月20日行ってきました。新発田城の復元と、新発田藩主の新田開発とが復活してきます。新発田市の知識人、『塩津潟の復活』を再認識したものと思います。 |
| 2004/10/19 [331] 埋文にいがた48 |
新潟県埋蔵文化財調査事業団は、『埋文にいがた』(H16年9月30日)で中条町の発掘調査結果を掲載しています。「昼塚遺跡」「六斗蒔遺跡」「道端遺跡」(荒川町)です。これらの遺跡は、塩津潟の北部に位置する重要な遺跡です。この発掘によって、塩津潟を中心とした河川舟運の古代の様子が、明確になってなってきました。塩津潟周辺は、新潟県の古代を探求するには重要な遺跡の宝庫です。「塩津潟」周辺の大和朝廷の城柵の研究に、大きな成果を発揮すると考えています。『都岐沙羅柵』が、明確になることは近いと思います。 |
| 2004/10/14 [330] 越後佐渡の古代ロマン |
新潟県立歴史博物館は、上記の企画展を16日から開幕します。新潟日報は、10月11日と10月14日付の朝刊に掲載しています。新潟県の古代に、スポットが当たることにワクワクしています。 しかし、残念なことがあります。それは、『都岐沙羅柵』について触れていないことです。県内に城柵は、渟足柵(647年)・磐舟柵(648年)・都岐沙羅柵(658年)と、日本書記に記述されています。今回の企画展には、『都岐沙羅柵』について説明していないようです。本当に残念なことです。日本書記に記述されていることは、説明をするべきだと考えています。なぜならば、今回のキーワードは、「大遠征」・「蝦夷」・「城柵」だからです。担当者の再考をお願いします。 |
| 2004/10/13 [329] 片山市長への質問 |
「市民の声」として、市長に質問をしました。『塩津潟と紫雲寺潟の私の研究結果について』です。10月8日付けです。具体的な五項目について、明快な回答が近日中に届くと思います。 |
| 2004/10/07 [328] 片山市長の返事 |
片山新発田市長に、9月3日に出しました。その返事が、10月7日に届きました。その詳細については、全文を掲載しますので読んでください。 |
| 2004/10/06 [327] 中条町まちだより〔9月1日号〕 |
広報「まちだより」9月1日号に、『船戸川崎遺跡』と『船戸桜田遺跡』の報告が掲載されています。「渟足柵」と「磐舟柵」の頃の木簡が出土したことが記述してあります。中条町の古代の様子が、報告されています。そうすると、『都岐沙羅柵』とも密接に関連してきます。いよいよ『大塚山古墳(ひとかご山)』と、大和朝廷の新潟県内における城柵が急浮上してきました。『都岐沙羅柵』が、中条町に復活する日が近づいてきました。何か、ワクワクしてきますね。 |
| 2004/10/05 [326] 地方分権とこれからの地域経営 |
北川正恭早稲田大学大学院教授の講演を、10月4日朱鷺メッセで聞いてきました。地方分権の時代になった今日、知事を含め各市町村長の地域経営の感性が問われています。新潟県内の『塩の道』を、地域の活性化に導入しようと市町村長と話し合っています。市町村長のタイプに、二つあります。一つ目は、自分たちの市町村のことは自分で決断し、結果においては責任を取るタイプです。二つ目は、重要事項は決定せず、他市町村の行政の模倣するタイプです。このリーダーは、結果責任も取りません。しかし、明るい傾向としては、前者のタイプの市町村長が増加していることです。昨日の講演は、前者の市町村長の出現に大きな影響を与えと思います。 |
| 2004/10/03 [325] 著書が、各大学の図書館に整備 |
私の著書『塩津潟は塩の道』が、各大学の図書館に整備されています。「塩津道」や「塩津潟」や「塩の津」等の検索で、『塩津潟の由来』が分かるようになっています。また、『都岐沙羅柵』の検索でも、『塩津潟は塩の道』へアクセス出来ます。各大学の学生が、『塩津潟の由来』について、調べ始めました。多くの後継者が、育ってきていることを、実感しています。 |
| 2004/10/01 [324] 「道端遺跡」現地説明会 |
中条町乙付近の「道端遺跡」の現地説明会が、平成16年9月25日に行われました。この遺跡は、上層は古墳前期、下層は、縄文後期の遺構です。荒川を北に望む胎内川の扇状地北東部扇端に営まれた古墳時代前期(4世紀)を中心とする集落跡です。この発掘によって、『塩津潟』周辺の古墳時代と関連する集落跡です。大和朝廷の「蝦夷対策」と、関連が深くなりました。越後国の三つの「城柵」との関連が一層強くなりました。 |
| 2004/09/30 [323] 日本テレビの対応に感激 |
9月28日に放映された直後に、紫雲寺潟より塩津潟が正しいと連絡しました。『塩津潟の由来』の資料を、直送しました。その回答が、9月30日にありました。この素早い対応に、感激しました。 2〜3日後に、『おもいっきりテレビ』の「きょうは何の日」のホームページに訂正内容を、掲載するとのことです。 |
| 2004/09/30 [322] 新田開墾令が発布された日 |
徳川吉宗が、幕府の財政を立て直そうと『享保の改革を』を行いました。そのための「新田開墾令」が発布された日が、1722年9月28日です。竹前小八郎が、塩津潟(紫雲寺潟)を干拓しようとして、江戸幕府に工事の願い書を提出したのが、11726年です。それまでは、『塩津潟』で通ってきたのです。その願い書に「紫雲寺潟」と書いて出しのが、紫雲寺潟と呼ばれるようになった大きな原因です。この干拓は、1734年に完成しています。完成させたのは、新発田藩なのです。だからその後の潟の呼び名は、元来の潟名である『塩津潟』に戻せば、今日のような混乱は起きなかったのです。原因が明確なので、現代人は古来からの呼び名である『塩津潟』と呼ぶことが、先人の生活の営みに対する礼儀であると考えています。 |
| 2004/09/30 [321] 日本テレビからの回答 |
平成16年9月27日放送の「きょうは何の日」の塩津潟(紫雲寺潟)の潟名について、長澤様から回答がありました。新潟県の事情は、よく分かりました。対応としては、日本テレビのホームページに、伊藤様からのご指摘の内容については、掲載するとのことです。 次に、新潟県の歴史の変遷(塩津潟の由来)については、今後検討するとのことです。 |
| 2004/09/29 [320] サンデー毎日 |
『サンデー毎日』の「ときめき通信」の中に、『塩津潟は塩の道』の第二版の紹介がされています。「塩津潟の復活」と「都岐沙羅柵の復活」が、掲載されています。この冊子は、全国版なのです。私の著書が、全国に紹介されたのは、平成16年9月26日号です。 |
| 2004/09/29 [319] 徳川吉宗時代の新田開発 |
『おもいっきりテレビ』の「きょうは何の日」の中で、「新田開発令」の事例として、「見沼代用水」と「紫雲寺潟」を取り上げました。後者の「紫雲寺潟」については、「塩津潟」という歴史的背景をスタッフは理解していなかったようです。「紫雲寺潟」を現在では、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)と呼称したり、記述することをご存知なかったようです。 そのことを日本テレビとテレビ新潟の放送局に、即連絡しました。また、『塩津潟』に関する著書と各種資料を送付して、新潟県の正確な歴史を理解してもらうよう、お願いをしました。同テレビ局から、何らかの回答がくるものと思います。 |
| 2004/09/24 [318] 『塩津潟の由来』の充実 |
私のホームページ『塩津潟の由来』が、9月になってからもとても充実しました。「新聞等の掲載」を含めて、内容が多面的になってきました。24日現在は、10247回のアクセスがありました。新聞だけでなく、週刊誌や専門誌にも、全国版で発信されています。『塩津潟』は、全国規模で認識されてきました。ホームページと新聞等の活字によって、新潟県外の方々にも理解されてきました。本当に、嬉しいことです。 |
| 2004/09/24 [317] 新発田市出身者の著書紹介 |
新発田市立図書館では、新発田市出身者の著書を紹介しています。その中に、私の著書『塩津潟は塩の道』の初版と第二版が紹介されています。新発田市の歴史に関する著書が、新発田市民に紹介されているのは、大変嬉しいことです。 |
| 2004/09/22 [316] 議会運営員会 |
新発田市議会「議会運営委員会」に、私が提言してきた『市民の声』が、プリントされて議員に配布された。平成16年9月22日のことである。明日の新発田市政に、何点かは活用されることでしょう。楽しみにしながら、市政を見守っていきたい。その中には、『塩津潟の復活』が、明確に提言してあります。具体的に、活動されると思います。 |
| 2004/09/17 [315] 新発田市片山市長に公開質問状 |
『塩津潟』の存在に対する片山市長に、「公開質問状」を出している。平成16年9月3日です。Eメールを送信したのですが、届いていないと言うことで、9月10日に文書で再度出しました。『塩津潟』に対する新発田市の基本的な態度が、2週間以内に明確になります。 紫雲寺町の福沢教育次長と井浦議会議長と、9月7日に会って話し合いをしてきました。その結果、紫雲寺町は、『塩津潟(紫雲寺町)』でも良いとのことでした。鬼島町長は、6月議会で丸山議員の一般質問に『塩津潟』の存在を認めた答弁をしています。 |
| 2004/09/16 [314] ふるさと大百科 |
決定版「阿賀北・岩船」が、平成16年3月18日に郷土出版社から、販売されました。この本の中には、『塩津潟』が呼称されています。漸く、紫雲寺潟から塩津潟に蘇りました。大変、画期的なことです。今後、新発田市の公文書は、「塩津潟」で表記され、呼称されると思います。 |
| 2004/09/11 [313] 「私の逸品集」が完成 |
「深い思い入れ 感じてほしい」は、新潟日報の下越版(H16年9月11日付)に掲載されました。新発田市の『地域おこし』の活動が、一つ定着してきました。「城下町しばた」の歴史や文化が、市民に啓発されました。 |
| 2004/09/08 [312] 「塩の道」の提言 |
新潟日報社の『一日編集局』が、新発田市で平成16年9月4日に開催されました。その時に提言した『塩の道』のことが、9月8日付の朝刊に掲載されました。この記事によって、新潟県の『夢事業』の「街道物語」の中に“金の道”や“絹の道”などと共に“塩の道”も全県を挙げて取り組む気運が高まることを期待しています。掲載された記事は、「塩の道を研究している。全県的な取り組みができないか。」ですが、『知事と語るむらおこし・まちづくり』の事例や、長岡市・三条市・新発田市・村上市等の『地域振興局』の取り組みの事例を挙げて、『塩の道』の提言をしたものです。 |
| 2004/09/08 [311] 「都岐沙羅柵」の復活 |
中条町のHPに「都岐沙羅柵」についてのことが、掲載されました。中条町民は、「板額御前」や「塩津潟」のように、「都岐沙羅柵」の復活を力強く推進ていくと思っています。 |
| 2004/09/07 [310] 『塩津潟の由来』が一万回のアクセス |
私のホームページが、10周年で10000回に達しました。最初の5年間位は、あまりアクセスがありませんでした。近年では、爆発的にアクセス数が急増しています。郷土史に関心が高まってきていることに、とても喜んでいます。私の著書『塩津潟は塩の道』の第二版と相まって、『塩津潟』と『都岐沙羅柵』が順調に認識されてきています。 |
| 2004/09/07 [309] 中条まつりの花火大会 |
同まつりの花火大会が、9月5日に行われました。『打ち上げ祝砲』の中に、塩津潟教育研究所が二発上げました。「塩津潟が美術画報で全国に紹介されました。」「塩津潟は塩の道は、二版です。都岐沙羅柵が蘇ります。おめでとう。」です。中条の空に、大きく花開いたことでしょう。本当におめでとう。 |
| 2004/09/04 [308] 第一回『心のふるさと』 |
『心のふるさと』の「私の逸品」が、平成16年2月19日〜3月31日まで新発田市市島酒造で開催されました。その時の逸品を収録した小冊子がこのたび発行されました。 私が出品した『越後絵図と塩の道』が、掲載されています。その説明文は、『私が「塩の道の探求を始めたのは、かれこれ遡ること50年、小学校5年生の時でした。「正保二年越後絵図を昔の新発田立図書館で見て、その絵図に「紫雲寺潟」でなく「塩津潟」と明記してあるのに非常に強い衝撃を受けました。以後研究に研究を重ね、塩津潟の由来を少しでも多くの方々に知っていただくために、活動を続けてまいりました。新潟県は、古来から隣接県に「塩」を供給してきました。その歴史的事実を忘れないためにも今回皆さんに見ていただきたいと思いました。』です。新発田市民はもとより、他市町村の方々からも見ていただき、本当に有意義な『心のふるさと展』だったと思います。 |
| 2004/09/03 [307] 市町村議会の郷土史見直し |
中条町・新発田市・紫雲寺町の各市町村が、『塩津潟』の存在について一般質問し、教育長及び市町村長が答弁をしています。どの市町村も、『塩津潟』の存在を明確に認めました。この内容は、非常に画期的な出来事です。今までは、紫雲寺潟だけで通してきました。今後は、『塩津潟(紫雲寺潟)』か、『塩津潟』だけで表示したり、呼称されると思います。これは、中条町の富樫議員・紫雲寺町の丸山議員・新発田市の長谷川議員の功績が、非常に大きいものがあります。 次の段階は、市町村の職員の認識を高めることと、各市町村民への啓発活動が重要になってきます。広報で知らせたり、ホームページに掲載したり、講演会を開催する等の手立てが大切になってきます。市町村長の、リーダーシップに期待しています。 |
| 2004/09/03 [306] 新潟海洋国際会議 |
上記会議が、朱鷺メッセで9月1日〜9月2日に開催されました。新潟県は、海岸線が長いので関係の深い会議でした。特に、県内は直江津港・新潟港・岩船港等の港があるので密接な内容でした。新潟県は、古代から大和朝廷の渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵と深い関わりがあり、海だけではなく川や潟等の『河川舟運』の活発な土地でした。これらの内陸水上交通も、忘れてはならない歴史上の事実と考えました。 |
| 2004/09/02 [305] 紫雲寺町議会の鬼嶋町長の答弁 |
紫雲寺町議会の丸山議員の質問に対して、鬼嶋町長は『塩津潟』の存在を認めた答弁をしています。このことは、とても大きな進展です。紫雲寺町の町民は、歴史の真実に気が付いてきているようです。『塩津潟』については、中条町・新発田市に次いで紫雲寺町も議会で討論を行いました。地域住民の歴史は、地域住民で決定していくと言う傾向が顕著になってきました。これでこそ民主主義です。地方の文化の時代です。人間はやはり《真実》を求めるものですね。漸く、江戸幕府が命じて作成した古絵図【正保二年絵図(1645年)・元禄13年国絵図(1700年)】に記載されている『塩津潟』が、みごとに蘇ってきました。『塩津潟』と呼称することによって、新発田市や新潟県の文化財に指定してある価値が発揮されると言うものです。 |
| 2004/09/02 [304] 新発田市秘書・広報課との話し合い |
広報しばた9月1日号の「紫雲寺町」の紹介は、紫雲寺町のホームページからダウンロードしたものをそのまま掲載したとのことでした。片山市長の名前で配布される広報としては、いささか不思議な内容の広報だと思いました。『塩津潟』に関する新発田市の態度は、昨年新発田市議会で臼井教育長が答弁したように、『塩津潟』の存在を認めているとのことでした。新発田藩主が所有していた『正保二年越後絵図』に記述してある『塩津潟』を、新発田藩による新田開発については、後日「広報しばた」で新発田市民に知らせるとのことでした。その大きな理由は、新潟県から発信される公文書や新潟県立歴史博物館の展示録には、『塩津潟(紫雲寺潟)』と記述されるようになってきているからです。新発田市民は、『塩津潟』を、一日も早く正しく認識されることを願っています。 |
| 2004/09/02 [303] 中条まつり(9/3〜9/6) |
「中条まつり」の紹介を、新潟日報(H16.9.2日付)は掲載しています。このページの中で、西屋さんは『都岐沙羅柵・月さらと塩の津』を掲載しています。商標登録出願中とのことです。西屋さんは、「塩津潟」は平成6年・「都岐沙羅柵(月さら)」は平成7年・「塩の津」は平成15年に製造販売している郷土菓子です。地域住民には、どれも親しみのある郷土菓子として定着しています。 |
| 2004/09/02 [302] 広報しばたH16.9.1日 |
同広報は、「来年5月1日に仲間入り 紫雲寺町・加治川村をもっと知ろう」の記事の中で「紫雲寺潟干拓史劇」を掲載しています。新発田市の広報に紫雲寺町の紹介とはいえ、「紫雲寺潟」だけを記述するはどういう感覚でしょうか?「塩津潟」のことも同時に解説することが、大切な配慮だったと思います。新発田市議会(H15.3)の「塩津潟」に関する臼井教育長の答弁は、一体どうなるのでしょうか?本当に支離滅裂な新発田市の対応だと思います。この不思議な話を、新発田市はいつ、どのような対応をするのか、早急な回答を待っています。私は、「塩津潟」で統一する時期にきていると考えています。 |
| 2004/08/26 [301] 知事と語るむらおこし・まちづくり |
三条市で平成16年8月25日に、上記の会が開催されました。この機会に、新潟県三条地域振興事務所の方々と『県の夢事業』の「街道物語」について話し合うことが出来ました。内容は、街道物語の中に、鉄の道・馬の道・塩の道等を、取り上げることが重要であるあることを理解して頂きました。「80里超の塩の道」が、三条市でも認識されたことは大きな成果でした。 |
| 2004/08/23 [300] 建御柱祭 |
新発田市内の諏訪神社境内で、『建御柱祭』が平成16年8月22日に行われました。諏訪神社の竣工と相まって、新発田まつりに間に合いました。当神社は、新発田の歴史との関わりが深いので、皆で喜びたいと思います。 |
| 2004/08/21 [299] 新潟大学セミナーで「塩の道」提唱 |
『産学連携セミナー』で、「塩の道」の歴史街道を大切にするよう提唱してきました。今後、いろいろな手立てで「塩の道」を使用した地域おこしが、実践されていくものと思います。大学生やNPOの活動が活発になると考えています。 |
| 2004/08/15 [298] 第二回同期同窓会 |
新発田市立第一中学校昭和55年卒業生が、ベルナールで開催されました。約80人が集いました。この同窓会の席上では、著書の『塩津潟は塩の道』の話題が゛、多く聞かれました。大変に嬉しく思いました。その後、5人の教師と郷土の歴史について話し合うことが出来て、本当に有意義でした。今後は、教育の現場で実践されるものと考えています。各市町村の行政と教育者の良識に期待しています。 |
| 2004/08/15 [297] 著書『塩津潟は塩の道』の紹介 |
新潟日報は、昨日に続き『塩津潟は塩の道』の紹介をしました。『都岐沙羅柵』と中条町との関係を、〔第二刷出来〕と含めて掲載しました。歴史に関係する人々だけでなく、新潟県民に広く読んでいただきたい。新潟県の古代の歴史的事実に興味と関心を、持ってほしいと思います。 |
| 2004/08/15 [296] 「都岐沙羅柵」の中条説 |
『大塚山古墳』(一籠山=城の塚)周辺の多くの遺跡の発掘は、「塩津潟」の古くからの存在と、「都岐沙羅柵」の中条説を強力に立証する発掘結果になってきています。遺跡の遺物は、「塩津潟」周辺の古代の様子を、少しずつ裏付けてきています。中条町民はじめ新潟県民は、この事実を真摯に受け止めるべきであると思っています。「塩津潟」と「都岐沙羅柵」の解明に、非常に大きな結果を近日中に物語ってくれることを確信しています。 |
| 2004/08/15 [295] 大塚山古墳の周辺の遺跡の発掘 |
「大塚山古墳(一籠山)の周辺の遺跡を、多く発掘しています。平成16年度のことです。遺跡は、大塚遺跡や中倉遺跡や船戸川崎遺跡や船戸桜田遺跡の他に、七遺跡が平成16年度追加されています。例えば、西川内南遺跡・西川内北遺跡・6斗蒔遺跡・一杯田遺跡・沢田遺跡・昼塚遺跡・江添遺跡等は、いずれも中条町に存在します。それも、みんな塩津潟の北辺に位置しています。古墳時代には、塩津潟が非常に重要に場所であったことが立証されてきました。私の講演内容と一致しているので、ワクワクしてきます。『塩津潟』の歴史の古さが、少しずつ判明してきました。 |
| 2004/08/15 [294] 沢田遺跡 |
埋文にいがた47で、中条町大字赤川字沢田の同遺跡の発掘結果を報告しています。特筆すべきは、土師器・須恵器等の中に「製塩土器」が存在することです。検出された炉が、製塩炉 |
| 2004/08/15 [293] 西川内北遺跡 |
新潟県埋蔵文化財調査事業団は、『西川内北遺跡』を掲載しています。この遺跡は、塩津潟の北辺にあり、とても重要な遺跡の発掘です。この遺跡は、県内では例の少ない約1300年前の奈良時代の集落跡であることが分かりました。大和朝廷の城柵が造られた6世紀頃のものです。私が講演会で説明していたことが、『都岐沙羅柵』についての存在が遺跡の遺物等で立証できるようになってきました。とても嬉しいことです。この遺跡は、中条町大字西川内字家の浦にあります。 |
| 2004/08/15 [292] 新潟日報は、第二版を掲載 |
『塩津潟は塩の道』の第二版を、平成16年8月13日に掲載しました。説明文は、『塩津潟の復活が現実味を帯びてきた今、第二刷で「塩津潟と都岐沙羅柵の進展」を加筆し、「都岐沙羅柵」と中条町の関係を説く。』です。新潟県の歴史の見直しは、今後一層加速するものと思います。各方面に、大きな影響を与えることでしょう。 |
| 2004/08/15 [291] 塩津潟は塩の道の二刷が出来た |
著書『塩津潟は塩の道』の第二版が、平成16年8月9日に出来ました。内容は、「都岐沙羅柵」等を24ページを加筆しました。また、新発田城の三階櫓・辰巳櫓の写真等を入れ替えました。初版から一年以内に、二版が出来たことに喜んでいます。「塩津潟」と「都岐沙羅柵」が、益々日本国民に認識されることを願っています。 |
| 2004/08/12 [290] 新潟県内の学会 |
県内の関係する各学会は、「塩津潟」と「都岐沙羅柵」については、正式に取り上げ真剣に研究する段階に入ってきました。近日中に、「塩津潟」と「都岐沙羅柵」については、統一した認識と見解を発表するものと考えています。『縄文学』は、今までの学説を訂正して科学的な立証方法と検証によって、新しい事実が毎日のように発表されています。学問においては、この真摯な姿勢が重要であると考えています。慣習や惰性に流されることは、学問の停滞につながります。学者と行政人の、賢明な判断と決断に大きな期待を寄せています。 |
| 2004/08/12 [289] 「都岐沙羅柵」の新聞掲載 |
「塩津潟」と「都岐沙羅柵」について、九社の新聞社が平成16年7月1日から一斉に取り上げました。新潟日報は150万部です。取り上げた新聞社は、朝日新聞・読売新聞・毎日新聞・ディリースポーツ新聞・スポーツ報知新聞・サンケイビジネスアイ・日刊スポーツ等々です。合わせて430万部が、発信されました。新潟日報と合計すると、580万部が7月1日から8月の約一ヶ月間に、掲載されました。各社の取り上げ方は、塩津潟の50年間に及ぶ探求や塩津潟の干拓と諫早湾の干拓との比較や北陸の蝦夷と九州の隼人に視点を当てたもの等、それぞれ興味のある紹介でした。 |
| 2004/08/11 [288] 塩津潟と都岐沙羅柵は浸透 |
『塩津潟』と『都岐沙羅柵』は、全国の学者や関係者に強烈に印象付けられたと思います。それは、「地盤工学学会(7月8日)」の学会と『地下に眠る古代の越後(8月7日)』歴史ゼミナールによって、広く認識されたことは事実です。このたびの新潟日報の平成16年8月11日付の掲載は、新潟県民に「塩津潟」と「都岐沙羅柵」を、明確に意識づけたものと思います。 |
| 2004/08/11 [287] 都岐沙羅柵の記事 |
新潟日報は、『都岐沙羅柵』についても掲載しています。私の質問と意見に対して、当新聞は次のように「県内にもう一つあったと言われる都岐沙羅柵についても触れてほしい」という指摘には、小林昌二さんが「位置が特定できないので言いづらいが、日本書紀に出てくるので取り上げた方がよかった」と答えた。私は、大和朝廷の県内における城柵を論ずるときは、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵を同時に取り上げていくべき内容であると考えています。近日中に、『都岐沙羅柵』の木簡が出土するものと思っています。 |
| 2004/08/11 [286] 塩津潟の正当性 |
『地下に眠る古代の越後』の歴史ゼミナールの報告が、新潟日報の平成16年8月11日付に掲載されました。この記事を読んで、高浜信行氏のコメントの中に紫雲寺潟と旧紫雲寺潟という潟名が二度出てきます。これは当日会場でも私の意見と質問をした通り、「塩津潟」か「旧塩津潟」の記述が正しいと思います。その理由は、『康平絵図』には「塩津潟」と明確に書いてあるからです。また、7月8日に朱鷺メッセで開催された「地盤工学学会」の研究発表では、「塩津潟」になっていました。私は「紫雲寺潟」と言わない理由を尋ねると、K氏は、「塩津潟が出てくる一番古い絵図が、塩津潟だったので、塩津潟を使用している」との回答でした。私は、この考え方が正しいと思います。この絵図が、康平絵図なのです。 |
| 2004/08/08 [285] 地下に眠る古代の越後 |
上記の「ふるさと発見歴史ゼミナール」が、新潟市民プラザで平成16年8月7日に行われました。主催は、新潟日報社・新潟市・新潟市歴史博物館でした。共催は、新潟大学人文学部です。このゼミナールでは、大和朝廷の城柵の一つ『都岐沙羅柵』について、話題が提供されました。また、『塩津潟』についても、議論が行われました。中条町の『蔵の坪遺跡』についても、高橋保(新潟県埋蔵の説明がありました。『大塚山古墳(一籠山)』一帯は、古代から『津』=港であったことが分かり易く説明しました。ここまで遺跡の遺物で『津』が立証された今日、『津』の付いた『塩津潟』が正しい潟名であることが理解出来ます。新潟県の歴史関係に携わっている学者は、古絵図や古文書や遺物等でこんなに明白に立証されている『塩津潟』を、素直に認める時機にきている事を強く感じました。 |
| 2004/08/08 [284] 紫雲寺町巡り |
テレビ新潟(TeNY)は、『夏の紫雲寺町巡り』を平成16年8月5日に放映していました。「町名の由来の寺発見」に、興味がありました。寺の名前が、紫雲寺町の由来とのことでした。と言うことは、紫雲寺という町名は、非常に新しいと言うことが分かりました。紫雲寺潟の干拓にも触れていましたが、紫雲寺潟という潟名もとても新しい呼称であることが、この放送で分かりました。しかし、『塩津潟』は、1060年の『康平の絵図』に見られます。また、1277年の『高井道円時茂譲状案』は、『しうつ(塩津)』が存在しています。この書状は、中条町の文化財です。このような歴史的事実から「紫雲寺潟」ではなく、「塩津潟」であることが明確になりました。 |
| 2004/07/28 [283] 新発田城の復元完成 |
新発田城の三階櫓と辰巳櫓が、このたび完成し7月25日に登城式等のイベントが行われました。新発田藩の藩主の新田開発等の、素晴らしい藩政を振り返るとても良い機会になりました。郷土の歴史を、大切に伝承していくという気運が一段と高まってきました。新発田市民にとっては、大変に喜ばしい記念の年になりました。 |
| 2004/07/21 [282] 『渟足柵探求4カ年』の効力絶大 |
新潟県内の「大和朝廷城柵」の研究は、『渟足柵探求4ヵ年』の効力がとても大きいものがあります。この研究結果の冊子が発刊され、シンポジウムが開催されたのは、平成16年2月29日です。「都岐沙羅柵」が、公文書に記述されたのはこの冊子が最初と言っても過言ではないでしょう。「都岐沙羅柵」についての木簡が、出土するのはそう遠くないものと思っています。8月7日に開催される「ふるさと発見歴史ゼミナール」の『地価に眠る古代の越後』が、楽しみです。 |
| 2004/07/20 [281] 『都岐沙羅柵』の推定地 |
この問題は、今後全国的な規模で大々的に議論されるものと考えています。それは、中条町郷土研究会誌『おくやまのしょう』等の歴史専門書に、掲載されことが非常に多くなってきたからです。第一線の研究者が、それぞれに研究結果を発表してきたからです。いろいろな大学の研究者が、この興味ある課題の『都岐沙羅柵』に、着目しているからです。近日中に、「シンポジウム」か「フォーラム」が開催されることが多くなるでしょう。 |
| 2004/07/20 [280] 『都岐沙羅柵』がいよいよ登場 |
新潟県の公文書には、「都岐沙羅柵」のことが記述されることは大変少なかった。漸く「渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵」と、三つの城柵が並列に記述されるようなりました。本当に嬉しいことです。私は、県の里創プランの名称も、歴史的事実に基づいた名称にすべきであると考えています。村上・岩船地区のNPOの名称は、「都岐沙羅パートナーズ」ではなく、「村上パートナーズ」か「岩船パートナーズ」が最も相応しいと思っています。その理由は、『磐舟柵』の歴史的事実が、だんだんと忘れられていくからです。二つ目の理由は、中条町が大正時代から芳賀矢一博士の論を受けて、旧築地村の村歌に「都岐沙羅=月さら」を歌い続けてきた歴史的経緯があるからです。NPOの名称変更は、県庁の担当部署で確かめると簡単な手続きで完了するとのことです。村上・岩船地区の住民の皆さんの賢明な判断と決断に期待しています。 |
| 2004/07/20 [279] 6〜9世紀の越後と佐渡年表 |
この年表の中には、658年に「都岐沙羅柵」のことが記述されていません。日本書紀には、「都岐沙羅柵」のことが記述されています。新潟日報のこの年表を見て、残念に思いました。日本書紀には、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三つの城柵のことが記載されています。 |
| 2004/07/20 [278] 渟足柵 場所はどこ |
新潟日報は、『地価に眠る古代の越後』を掲載(平成16年7月20日付)していました。「6〜9世紀の東北アジア」の図は、主な城柵の推定地と関連遺跡」を説明していました。「都岐沙羅柵」は、磐舟柵の北に記述してありましたが、おかしいと思いました。その理由は、『倭名類聚抄』には「渟足柵と磐舟柵の二柵の間にある」という記述があるからです。「都岐沙羅柵」は、中条町にあるという説を提唱している学者が多いわけです。越後の古代研究は、漸くスタートラインに着いたばかりです。今後の研究で、城柵の推定地が確定していくものと期待しています。 |
| 2004/07/19 [277] 歴史の陽だまり散歩 |
新発田城の三階櫓と辰巳櫓の復元に伴い、『歴史の陽だまり』を、寺町・清水谷地区まちづくり協議会が編集しました。平成16年6月に、『甦る新発田城』の冊子と同時に販売されました。この冊子の中には、「紫雲寺潟干拓」と記述してありますが、「塩津潟干拓」の方が良いと考えています。その理由は、新発田藩が竹前氏の新田開発よりも以前に干拓事業を実施しているからです。竹前さん幕府に新田開発を願い出た文書は、1726年頃です。それ以前の新発田藩の新田開発の事業のことですから、「塩津潟干拓」の方が、より史実に基づいた歴史的事実と考えます。(19ページの六代藩主溝口直治侯の時代) また、29ページの『諏訪神社』の説明の中では、「渟足柵」と「磐舟柵」に加えて、「都岐沙羅柵」も加えた方が良かったと思います。その理由は、文部科学省の研究助成を受けた『渟足柵探求4カ年』の研究結果が、平成16年2月29日に新潟市でシンポジウムの形で発表されているからです。この研究結果には、新潟県に「渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵」の三つの城柵があった事を、結論付けているからです。この内容は、最新情報だからです。 |
| 2004/07/19 [276] 甦る新発田城 |
新発田城の三階櫓と辰巳櫓が、平成16年7月18日に復元しました。新発田藩主は、代々「新田開発」に重点を置いた藩政を実践してきました。藩民の生活の向上と、食糧増産に努力を継続してきました。藩内の湿地を、新田にする工夫と努力の連続でした。「塩津潟」の新田開発は、1716年頃から着手しています。竹前さんたちより、11年も前から塩津潟を干拓しています。『新発田城』が、このたび三階櫓と辰巳櫓が復元されたことは、誠におめでたいことです。新発田城公園と相まって、新発田市民の心の憩いの場所となることでしょう。 |
| 2004/07/19 [275] 伊藤孝二郎氏顕彰記念像建立 |
黒川村名誉村民伊藤孝二郎氏「顕彰記念像建立式典」が、平成16年7月10日にロイヤル胎内パークホテルで行われました。伊藤孝二郎前黒川村長は、胎内川沿岸土地改良区理事長を長年歴任した方です。過疎化した日本の農業を観光化したり、地産地消を奨励したり、農産物に価値を付加したりして、日本の農業振興に努力された方です。『農は国の基なり』と言われます。伊藤前村長の「先憂後楽」の強い信念の基づいて、村政を実践した功績は大きいものがありました。 |
| 2004/07/14 [274] 知事と語るむらおこし・まちづくり |
阿賀野市で、平成16年7月13日に上記の会が開催されました。その時に、「阿賀野川の河川舟運による塩の道」について、提案してきました。下越地方の「塩の道」は、新潟県の夢事業の『街道物語』の中に、位置付けられていくと思います。地域の活性化に、歴史街道が再認識されてきました。『塩』送り県としては、上越・中越・下越地方の県全体の活動まで発展することを、強く願っています。 |
| 2004/07/09 [273] 北陸の蝦夷と九州の隼人 |
大和朝廷は、全国統一を果たすために『防人』をそれぞれの地方に派遣している。新潟県には、大和朝廷の城柵が三つあります。渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵です。九州地方の「隼人」対策は、どのようなものだったのでしょう。両方の共通点や相違点を、比較してみるのも面白いと思っています。 |
| 2004/07/09 [272] 地盤工学研究発表会 |
2004NIIGATA第39回「地盤工学研究発表会」が、7月8日朱鷺メッセで行われました。私は、第一会場の「液状化現象」に参加しました。意見交換の折に、『塩津潟』について述べました。発表者によって、「塩津潟」と言った方と、「紫雲寺潟」と言った方がいました。そこで、学校現場では、正保二年越後絵図と元禄13年の越後国絵図の記述から、「塩津潟」を採用していることを紹介しました。既に副読本は、3冊を数えています。それらの記述は、「塩津潟」か、「塩津潟(紫雲寺潟)」となっている事例を話しました。また、新潟県立歴史博物館の『展示録』や『新潟県地質図』は、「塩津潟(紫雲寺潟)となっている。現在教育の現場では混乱しているで是非紫雲潟だけで記述したり、説明するのはやめてほしい。今日のような会には、新潟県の公文書で使用している「塩津潟」で統一してほしいことを訴えました。発表した安井さんに、「紫雲寺潟と説明した潟は、塩津潟のことですか?」と尋ねたら、「塩津潟のことです」と、全員の前で答えました。会場に参加していた多くの参会者は、『塩津潟』を認識したものと思います。新潟県立歴史博物館の小林達雄館長も、この発言は聞いていたものと思います。 |
| 2004/07/06 [271] 「マイースキップ」7月号 |
『八十里越の塩の道』は、3月号より5回シリーズで掲載してきました。7月1日に、発行されました。内容の小見出しは、(1)越後の河川舟運による塩の道。(2)知事と語るむらおこし・まちづくり。(3)塩の道の最近の展開です。中越地方の「塩の道」は、長岡市が中心になって地域の活性化に早く取組むことを、期待しています。そのための具体例や実践例を、5回にわたって紹介しました。 |
| 2004/07/05 [270] NPOの名称変更は簡単 |
新潟県庁の新潟県県民生活・環境部県民生活課は、NPOの名称変更の手続きの仕方を説明してくれました。名称変更は、案外簡単であることが分かりました。学問的に、明確な名称にしたいものです。NPOの名称は、慎重であってほしいものです。 |
| 2004/07/05 [269] 郷土を研究して半世紀 |
朝日新聞に上記の見出しで、平成16年7月1日付で掲載されました。北陸地方の「蝦夷統一」は、大和朝廷の城柵と関連している内容である。九州地方の「隼人統一」政策との関連や相違点を、今後明確になることを期待しています。新潟県においても、古代の研究は明確でない内容が多いのです。大和朝廷の全国統一を、全国的規模で解明されることを願っています。『塩津潟は塩の道』は、全国的になってきました。 |
| 2004/07/02 [268] 玉川学園50周年記念誌 |
玉川学園同窓会50周年記念誌が、先般届きました。昭和42年に玉川大学を去ってからは、40年になろうとしているが「玉川の丘」も随分発展しました。玉川学園を訪れるたびに、強く感じます。今回の、記念を読んでいるとつくづくそう思います。小原國芳総長の新教育論を、今また回想しています。 |
| 2004/07/01 [267] 塩津潟と都岐沙羅柵の復活を提唱 |
新潟日報7月1日付に、上記のことが掲載されました。内容は、「塩津潟の復活と塩の道を説く」と、「新潟県内の大和朝廷城柵の一つ“都岐沙羅柵“は中条町にあると力説」です。隣に、『古代の蝦夷と城柵』吉川弘文館が掲載されています。城柵の知識が、一層高まるものと思います。 |
| 2004/06/30 [266] 『美術画報』への掲載 |
「加治川」と「塩津潟」は、とても深い関係があるのですが、このたぴの美術画報に掲載されたことにより、「加治川桜」の想いでのお便りを沢山頂きました。日本一の加治川桜の観桜記憶が、それぞれの方の懐かしい思い出になっていることを、改めて認識しました。新発田市展に、昨年「加治川桜の復活」を出品して本当に良かったです。 |
| 2004/06/30 [265] 敬和学園大学の公開講座 |
同大学のオープンカレッジが、昨日終了しました。『知っているようで知らない世界のお話』でした。ガりバー旅行記、アルプスの少女ハイジ、赤ずきんちゃん、桃太郎・瓜子姫・一寸法師、アラビアンナイト、不思議の国のアリスの5回シリーズでした。とても面白かったです。 |
| 2004/06/29 [264] 新潟大学産学連携セミナー |
上記のテーマで、シンポジウムが開催されました。「新潟大学の法人化で何が変わるか」の、デスカッシンでした。国立時代とは、かなり変わってきた印象を受けました。(平成16年6月28日・新潟駅南キャンパスで)新潟県の各産業は、相当活気づくでしょう。 |
| 2004/06/29 [263] わが家の防災(上) |
新潟日報の6月のテーマは、「わが家の防災」です。この中に、『割高でも耐震構造住宅が安心』という実践例が、掲載されました。 |
| 2004/06/29 [262] 命と地域を守る住まいづくり |
新潟地震40年安全・安心「耐震住まいシンポジウム」に参加してきました。平成16年6月27日朱鷺メッセで行われました。我が家は、大雪及び耐震構造の住宅であるが、まだ全県的には普及していない感じがしました。 |
| 2004/06/23 [261] 塩津潟と都岐沙羅柵の歴史的価値 |
上記の演題で、JA北越後金塚支店OB会で昨日講演をしてきました。新田開発による食糧増産の郷土歴史を、お話してきました。 |
| 2004/06/23 [260] 「都岐沙羅柵」の検索で資料が確認 |
「都岐沙羅柵」は、検索で資料名が容易に分かるようになってきました。以前は、「幻の都岐沙羅柵」と言われていましたが、ようやく大和朝廷が新潟県に設置した城柵であると言うことが、認識されてきました。渟足柵と磐舟柵と都岐沙羅柵の三城柵が、新潟県民に、認知されてきました。新潟県の古代の様子が、少しずつ判明してきました。 |
| 2004/06/16 [259] Re[258]: ご質問 |
> 「合併による教育」を検索しましたら見つかりません。 > 私のページに送っていただけないでしょうか。 > お願い致します。 千田直人様 「合併による教育」のご質問の意図が良く分かりません。もう少し、具体的にお願いいたします。伊藤國夫 |
| 2004/06/16 [258] ご質問 |
「合併による教育」を検索しましたら見つかりません。 私のページに送っていただけないでしょうか。 お願い致します。 |
| 2004/06/14 [257] アメリカにあった伊能大図 |
新潟日報は、「アメリカにあった伊能大図とフランスの伊能中図」として、平成16年6月6日付で掲載している。今昔を問わず、地図の重要性が理解できる。いずれにしても、アメリカとフランスで発見されたことは、喜ぶべき内容である。 |
| 2004/06/09 [256] 都岐沙羅柵の関心が高まる |
「都岐沙羅柵」は、新発田市・加治川村・中条町等で、地域住民の関心が日増しに高まっています。特に、中条町では都岐沙羅柵との関係は深く、大正時代から地域おこしに意を注いできました。例えば、旧築地村の村歌に「史に名高き月さらの」と歌い、親しんできました。それ以来の、深い関わりです。最近では、四校統合校による新築地小学校の校歌に、その意義が引き継がれています。 |
| 2004/06/06 [255] 私の経歴 |
私は、私立校(玉川学園)に4年間、公立学校(新潟県)に36年間勤務しました。その間に、欧米旅行を二回行って来ました。27歳と30歳の時です。一回目は、冬季に北極経由でした。二回目は、夏季に赤道経由でした。それは、地球の自然しいては”季節感“を体感するためでした。二回行った国は、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・スイスです。その他に、四カ国を旅行してきました。「ルーブル美術館は、二回とも鑑賞してきました。この時に経験した「感性」が、私のセンスに大きく影響しています。私が若い時の経験で、1ドル300円の為替ルートでした。 |
| 2004/06/06 [254] 「塩津潟は塩の道」の解説 |
『塩銃潟は塩の道』の解説は、「文字通りライフワークというべき著作です。”塩津潟“という江戸時代の古い絵図にあった地名が、近世以降“紫雲寺潟”と呼ばれてきたことの疑問について半世紀を費やして得た答えなのである。小学生時代に抱いた疑問を、教職という恵まれた立場にあったとはいえ、古絵図や古地図やさまざまの文献を渉猟して結論に至る過程は知的なスリルに溢れている。」(略)「さらに、7世紀に存在した“都岐沙羅柵”の研究から大和朝廷と越国の関係にも及び、新潟県の歴史の見直しを迫る。」(略)是非、本書を読んでほしいと思っています。 |
| 2004/06/06 [253] 現代作家「美」の競演 |
『加治川桜の復活』の紹介文の一部です。『独自の視点で郷土を探求』が、見出しです。「生地の新潟県で長らく教員として教育実践の傍ら、植物と人間のかかわりや郷土史に独自の視点から研究成果を上げ、昨年には塩津潟教育研究所を設立して、講演活動なども行っている作家の写真作品と著作である。」 作品についての解説は、「加治川桜の復活は、川の堤防沿いに続く満開の桜の遥かな連なりである。桜並木の下草や川原の植物はまさに萌え出るような緑で桜の花と穏やか澄み渡る青空が、心弾むような春の雰囲気を色彩のハーモニーとして奏でている。」(略) 私の想っている自然観が、良く表現されていると思いました。 |
| 2004/06/06 [252] 私の写真歴 |
写真を始めたのは、40年位前からです。初任給24000円の時に、48000円もするカメラを購入してからです。その間に、新発田市展や教職員美術展覧会や学校の展覧会等に、数多く出品してきました。今回の『美術画報』に掲載された「加治川桜の復活」は、昨年の新発田市展に出品していた作品がび、東京の方の目にとまったものです。全国版の『美術画報』に掲載され、全国に紹介されたので、とても喜んでいます。 また、この写真の技術が、著書『塩津潟は塩の道』の写真に、多く活用されています。 |
| 2004/06/05 [251] 加治川桜の復活 |
『美術画報』平成16年5月発行に、「加治川桜の復活」と著書「塩津潟は塩の道」が、掲載されました。新潟県の「桜の名称」と「塩津潟」のことが、全国に紹介されました。とても嬉しいことです。「都岐沙羅柵」についても、紹介されているので、新潟県の歴史の見直しは一段と早まるものと思います。 |
| 2004/06/05 [250] 知事と語るむらおこし・まちづくり |
上記の会が、長岡市中央図書館で平成16年6月4日に開催されました。この会で、新潟県の「塩の道」を地域づくりに活用することを提言しました。上・中・下越地方の塩の道は、糸魚川市・長岡市・新潟市をそれぞれ中心にして取り組むことが大切です。県の夢事業として、「街道物語」に塩の道を取り入れるのです。是非、実現することを願っています。平山新潟県知事さんは、「塩の道」について良く存じていました。各市町村の取組にも、大きな期待をしています。 |
| 2004/06/05 [249] 「都岐沙羅柵」の議論を |
中条町郷土研究会誌第29号が、平成16年5月に発刊されました。その中に、「都岐沙羅柵の議論を」な寄稿しました。都岐沙羅柵のシンポジウムの開催を、再度提言したものです。新潟県庁の各関係部署が、それぞれに再検討を開始しました。各市町村、地域おこしに活用しようと行動計画を実施しています。 |
| 2004/06/03 [248] 都岐沙羅柵と磐舟柵 |
村上・岩船地区の合併問題について、磐舟柵が歴史的に見て古いことが学問的に裏付けられているようです。都岐沙羅柵と磐舟柵は、別な城柵であることは明白なことです。都岐沙羅柵が、磐舟柵の別名で存在したのではないことを、村上・岩船地区の方々も理解してきているようです。 |
| 2004/06/02 [247] アフリカ開催ぜひ実現して |
新潟日報『窓』欄に、テーマ特集「オリンピック」が取り上げられました。その中に、上記の主題で掲載(平成16.5.31日付)されました。東京オリンピックが、日本人に与えたあの喜びと自信を、アフリカ諸国の人々にも味わってもらいたいと考えています。アフリカ大陸でのオリンピック開催を、世界の先進国が協力して開催できる日が、一日も早く来ることを願っています。国連やIOCの前向きの対策に、大きな期待をしています。 |
| 2004/06/02 [246] 八十里越の塩の道C |
マイスキップの6月号が、発行されました。上記のテーマで、掲載されました。小項目は、「大和朝廷軍への米と塩の提供」と、「塩の道の展示による県民への啓発」です。長岡市民が、『米百表』と同様に『塩の道』も地域おこしや児童生徒用の教材化に、早く取組むことを期待しています。 |
| 2004/05/31 [245] 新潟県社会教育協会のシンポジウムの反響 |
5月26日ウエルシティ新潟(新潟市)で開催されたシンポジウムが、大きな反響を起こしています。特に、『都岐沙羅柵』と『塩津潟』については、各市町村の「地域おこし」に大きな影響を与えてきました。「教育面から、新潟県の元気付ける」ことが、少しずつ成果を発揮してきています。大変喜ばしいことです。 |
| 2004/05/31 [244] 城の山(大塚山)周辺の遺跡 |
中条町大字塩津付近に存在する『城の山(大塚山)』古墳の周囲には、沢山の遺跡が点在しています。例えば、天野遺跡・大塚遺跡・屋敷遺跡・野付遺跡・福田遺跡・船戸川崎遺跡・船戸桜田遺跡・蔵ノ坪遺跡・四ツ持遺跡・兵衛遺跡・青田遺跡・築地原遺跡・中曽根遺跡・反貫目遺跡・西川内北遺跡・西川内南遺跡・下原遺跡・宮崎遺跡・宮川遺跡等々が多数存在しています。これらは、『塩津潟』の周囲に点在する貴重な先人の生活を裏付ける遺跡群です。中条町や新潟県にとっては、本当に貴重な遺跡の一つ一つであります。それらの発掘結果が、少しずつ明らかにされてきています。 |
| 2004/05/27 [243] 「新潟県人は、教育で元気を出すぞ!」 |
新潟県社会教育協会主催のシンポジウム『新潟県人よ、教育で元気を出そう』が、平成16年5月26日ウェルシティ新潟(新潟厚生年金会館)で開催されました。”私の提案“として、上記の演題で提案してきました。提案の趣旨は、二つです。一つは、「塩津潟を蘇らせること」です。二つ目目は、「都岐沙羅柵を蘇らせること」です。シンポジウムに参加された多くの方々は、新潟県の歴史の見直しの成果に、共感を得ていたようです。今後、「塩津潟の復活」と「都岐沙羅柵の存在」は、益々明確になるものと思います。 |
| 2004/05/27 [242] 塩津潟と都岐沙羅柵の歴史的価値 |
北蒲原郡町村監査委員会で、上記の演題で講演(平成16年5月26日)をしてきました。五町村の関係者が、塩津潟の由来と都岐沙羅柵の歴史的な価値について、認識を深めたものと思います。行政に関わっている方々だったので、早速「地域づくり」に活用されるものと考えています。 |
| 2004/05/25 [241] 塩津潟と都岐沙羅柵の講演二回 |
明日、上記の演題で二回講演会を行います。分かり易い講演になるように、資料等準備中です。 |
| 2004/05/23 [240] 市町村合併をともに考える |
全国リレーシンポジウム2004『市町村合併をともに考える』に、参加してきました。(平成16.5.22・新潟テルサ)講演は、「これからの地方自治のあり方」を、麻生太郎総務大臣が行いました。「塩津潟」や「都岐沙羅柵」は、今後の合併と大きく関わりがあります。先人が地名に託した深い想いや願いが、大切にされなければならないと思います。 しかし、合併による「教育」に及ぼす甚大な影響についての話題が出なかったことが非常に残念でした。 |
| 2004/05/19 [239] 「都岐沙羅柵」が中条町に定着 |
新潟県の「古代」の研究が、盛んになってきました。最新の研究結果が、『渟足柵探求4カ年』の文部科学省の指定研究です。古墳時代の城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)のことが、各市町村の「地域おこし」に積極的に取り入れられてきています。大変に、結構なことです。 |
| 2004/05/16 [238] 「塩津市」という新市名 |
中条町と黒川村の合併に伴う新市名は、『塩津市』が適していると考えます。その理由は、1277年の高井道円譲状案(中条町文化財)に、『しうつ(塩津)』という集落が存在していたことです。また、それより更に約470年ほど遡って《7〜8世紀頃》、大字船戸の「蔵の坪遺跡」から最近『津』という墨書土器が出土しているからです。よくよく「塩の津」と関連が深いということが立証されたからです。 |
| 2004/05/16 [237] 「塩津館」の存在は重要 |
「韋駄天山遺跡」の報告書が、中条町教育委員会から平成16年3月31日に発行されました。この報告書の中の『中世遺跡分布図』に、「塩津館」が掲載されています。場所は、日東道の中条IC付近です。中条町大字塩津付近です。中条町民は、「塩津潟の由来」ともなったこの「塩津」という地名を、後世に正しく伝承することが大切と考えます。 |
| 2004/05/14 [236] 三楽大学で講演 |
加治川村教育委員会主催の「三楽大学」で講演をしてきましした。演題は、『塩津潟と都岐沙羅柵が加治川村に与えた価値』です。入学式が午前で、講演会は午後の日程でした。加治川村の古代からの歴史について、演題にそって理解していただけたものと思います。 |
| 2004/05/13 [235] 長野県立歴史館 |
当館の「古代」のコーナーに、越国の城柵との関連記事が説明されてありました。とても興味深い内容でした。 |
| 2004/05/11 [234] 「塩津」という地名の重要性 |
中条町と黒川村の合併による新市名は、『塩津市(しおつし)』が最適と考えます。その理由は、4つあります。@「塩津潟」が、276年ぶりに蘇ってきたこと。A『塩』は、黒川村と中条町に深い関連を持っていること。それは、塩谷・塩澤という地名の集落が存在し、塩を作っていたこと。「塩津」という古代港の地名が存在し、塩を送り出していたこと。B中条町船戸の”蔵の坪遺跡”から、『津』という墨書土器が出土していること。C中条町に「塩の湯」があること。D大和朝廷に、「塩」と「米」を提供していること。等々を考え合わせると、古代・中世から歴史的な価値のある『塩津』であるからです。なお、『塩津市』という市名は、まだどこの県にもない市名だからです。新鮮な名称です。 |
| 2004/05/10 [233] 奴奈川姫伝説と大和朝廷の関係 |
新潟県と大和朝廷との関係を、奴奈川姫との関連で新潟日報で掲載(平成16年5月10日付)していました。大和朝廷との関係を、県内の三つの城柵との解明も進展しています。新潟県の古代史が、少しずつ県民に理解されてきています。 |
| 2004/05/10 [232] 「心のふるさと展」の反省会 |
同展の反省会を、5月9日に出品者等が参加して行われました。城下町新発田の歴史を、かいま見る作品が多く、大成功だったという意見が多かったです。市島邸の見事な庭園を、鑑賞しながらの昼食会でした。来年度も、「心のふるさと展」の開催が待たれます。 |
| 2004/05/10 [231] 研修旅行 |
新潟県立歴史博物館友の会の研修旅行に、5月8日長野県立歴史館等の見学に行ってきました。当館には、『塩の道』の展示コーナーがあります。糸魚川から松本まで等の「塩の道」が、電光掲示板で理解出来るようになっています。このような展示コーナーを、新潟県立歴史博物館内に設置してほしいと考えています。 |
| 2004/05/10 [230] 八十里越・六十里越 |
「山椒大夫の足取りの謎を追って」と、新潟日報は安寿と厨子王一家の足取り想定ルートを掲載(平成16年5月4日付)しています。その中に、八十里越・六十里越・会津〜阿賀野川等のルートを紹介しています。特筆すべきは、「塩の道」と一致することが重要な点です。 |
| 2004/05/07 [229] 中条町史に塩津潟が初登場 |
『中条町史』の通史篇に、「塩津潟」が町史に初登場しました。三 願文山の戦いの項目の中に“図1 正保絵図にみえる塩津潟周辺(220ページ)に記述されています。このことは、非常に大きな進歩です。中条町の郷土史としては、喜ばしい歴史的な町史の編纂となりました。 |
| 2004/05/06 [228] Re[225]: ご無沙汰してます・・・ |
〇 ご無沙汰してます。年度末には、講演が3会場も続き大忙しでした。 > 『塩津潟は塩の道』読ませていただきました。 自分にとっては難しい部分もありましたが、先生の”塩津潟”にかける情熱とこれまでの ご苦労が、ひしひしと伝わってきました。 〇ありがとうございます。現在は、『塩津潟』に続き『都岐沙柵』について取り組んでいます。村上地区のNPO「都岐沙羅 パートナーズ」名称を返還してもらう活動を中条町と共に実施しています。 > 私の住んでいる西蒲原の方では今ひとつ、塩津潟/紫雲寺潟や福島潟でさえピンと来ませんが、 〇「塩津潟」は、新潟県民に認識されていませんでしたが、最近はかなり多くの人々に理解されてきました。嬉しいことです。 > 手元にあった書籍に載っている古い時代の新潟県の様子を見るとその大きさに驚かされます。 ”塩津潟”と言う潟名も初耳でした。 〇歴史的事実が、正しく伝承されていなので、とても残念です。 > たしかに中条町塩津周辺は日東道の整備などで周辺へのアクセスなども格段に良くなっている ようでしたが、ほ場整備なども進められているようで、昔のモノがだんだんと忘れられていくのかなと 少しさみしい感もありました。 〇本当ですね。だからこそ、あらゆる手立てを講じているわけす。 「都岐沙羅柵」についても、検索してみてください。 |
| 2004/05/06 [227] 山椒大夫の足取りの謎を追って |
新潟日報(平成16年5月4日付)で、「名作を読む」で『安寿と厨子王一家の足取り想定ルート』を掲載しています。福島県いわきから新潟県直江津までのルートを想定しています。阿賀野川ライン・荒川ライン・八十里越・六十里越等を想定してます。これらはいずれも、『塩の道』と合致しています。この記事によって、新潟県の『塩の道』に光が当たることを期待しています。 |
| 2004/05/06 [226] 心残るふるさとの歌 |
TeNYテレビ新潟で平成16年5月4日に「心残るふるさとの歌紫雲寺編」で、“紫雲寺潟の干拓“という説明をしていました。現在は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)という記述や呼称していることを、是非ご理解願いたいものです。テレビ新潟様、ご配慮をお願いします。 |
| 2004/05/04 [225] ご無沙汰してます・・・ |
ご無沙汰してます・・・ 年度末で忙しいと思っていたのですが、新年度に入っても何かとバタバタしています。 『塩津潟は塩の道』読ませていただきました。潟東村の図書館に問い合わせたところ、 「無いけどリクエストがあれば、購入する」とのことで・・・ ようやく先日届きました。 自分で買うよりは図書館の方で入れてもらえば、より多くの人の目にも触れるのでは ないかと思いまして。 自分にとっては難しい部分もありましたが、先生の”塩津潟”にかける情熱とこれまでの ご苦労が、ひしひしと伝わってきました。 私の住んでいる西蒲原の方では今ひとつ、塩津潟/紫雲寺潟や福島潟でさえピンと来ませんが、 手元にあった書籍に載っている古い時代の新潟県の様子を見るとその大きさに驚かされます。 ”塩津潟”と言う潟名も初耳でした。 たしかに中条町塩津周辺は日東道の整備などで周辺へのアクセスなども格段に良くなっている ようでしたが、ほ場整備なども進められているようで、昔のモノがだんだんと忘れられていくのかなと 少しさみしい感もありました。 それではまたおじゃまします・・・ http://www.nightmare.jp |
| 2004/05/02 [224] 鬼道の系譜・闇の呪術4 |
「庶民を救った修験者」という見出しで、新潟日報(平成16年5月2日付)で紹介しています。「溜池を作ったり水田開発を手伝った修験者の話も残っている」と、水田開発を助けた記事が記述されていました。9世紀頃から水田開発のことが、残っていることは素晴らしい記録です。 |
| 2004/05/02 [223] マイスキップ5月号が゛届く |
『八十里越の塩の道』5月号が、届きました。小項目は、塩の道と三坂峠、八十里越と六十里越の塩の道の連携、翡翠の道です。写真は、翡翠玉と新発田郷土史会の講演の様子です。 長岡市を中心とした中越地方の「塩の道」について、地域おこしや児童生徒用の副読本の編集まで、発展することを期待しています。 |
| 2004/04/25 [222] 最古級の丸木舟出土 |
新潟日報は、滋賀県米原町の入江内湖遺跡で縄文時代前期前半(約5500年前)の国内最古級とみられる丸木舟が、ほぼ完全な形で発掘されたことを掲載(平成16年4月25日付)しています。私は、この記事を読み新潟県の塩津潟内の「青田遺跡」の丸木舟の発掘を思い起こしていました。縄文時代の「河川舟運」の技術の高さを知ることが出来ます。「塩津潟」も、丸木舟を使用した交易が行われたいたことが類推できます。とても貴重な、遺物の発見でした。 |
| 2004/04/24 [221] 都岐沙羅柵の項目が増加 |
「都岐沙羅柵」(月さら)の項目が、10項目になりました。随分前から、「都岐沙羅柵」について記述をしてきたが、漸く注目を集めてきました。新潟県内の三つの城柵は、「都岐沙羅柵」を加えて論ずるようになってきました。その動機を与えてくれたのが、『渟足柵探求4カ年』の文部科学省の研究指定でした。 |
| 2004/04/24 [220] 町章 紫雲寺町 |
(財)二市北蒲原郡総合健康開発センター健康情報誌第45号(平成16年4月1日)に、紫雲寺潟の由来のことが掲載されています。しかし、この説明では、「塩津潟の由来」と歴史的事実と相反する内容が、多すぎます。多くの問題点を、この文を記述した方は、どう説明するのでしょうか?同センターの編集担当者は、新潟県から発信される文章に「塩津潟」又は「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述されていることを、知らなかったと言っていました。今後、これに対して善処するとのことでした。教育現場の児童生徒の学習に、大きな支障を引き起こしています。関係各位の、早急な対処を切望しています。 |
| 2004/04/21 [219] 胎内川流域のわが郷土 |
新潟日報に片野徳蔵氏の『胎内川流域のわが郷土』という著書が、「胎内川潤した歴史今に」としう見出しで掲載されました。この著書の中にも、「塩津潟」や「都岐沙羅柵」についても紹介されています。分かり易い本ですので、是非読んで見てください。郷土の歴史が、よく分かると思います。 |
| 2004/04/19 [218] 270年後に蘇った塩津潟 |
『塩津潟』は、1730年頃に「紫雲寺潟」に変えられてから約270年後に、見事に蘇ってきました。『都岐沙羅柵』も、里創プランの名称として使用されてからまだ5年くらいしか経過していません。中条町に、早く蘇ってくることを期待しています。関係各位には、良識ある判断を希望します。村上・岩船地区の住民の中には、「村上」よりも「岩船」の地名が、歴史的には古いので「岩船」の方が、由緒ある地名であるという意見も、多くなってきているとのお話が耳に入ってくるようになりました。とても懸命な意見だと思います。村上・岩船地区は、「岩船」が最適の名称と考えます。 |
| 2004/04/18 [217] 新・新潟価値づくり事業 |
新潟日報(平成16年4月18日付)の日刊社説で、『地域の宝』が掲載されました。大分県の「一村一品運動」を、平山征夫新潟県知事は「一村一価値運動」に平成11年から取り組んでいます。地域の個性や文化や伝統、住民同士の一体感が問われている。『都岐沙羅柵』の里創プランの名称も、その一例です。新潟県の文化と教育面が、大きく問われています。新潟県全体の「地域づくり」を、新潟県庁内の担当部署は、考慮する時期にきていると考えています。再検討を、関係各位に、切望するものです。 |
| 2004/04/17 [216] 渟足柵の遺構探索ロマン追う |
新潟日報は、「古代新潟」の謎解きに挑戦という副題で小林昌二教授を紹介(平成16年3月17日付)していました。新潟県の大和朝廷の城柵を、新潟大学や秋田大学や大阪外国語大学や国立歴史民俗博物館等の教授で、4カ年にわたる研究をしたものです。その報告会が、2月29日新潟市で行われました。新潟県内の渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三つの城柵のことについても言及しています。特に、『都岐沙羅柵』については、新潟県内の公式文書に登場したのは、最初のものだと思います。非常に画期的な研究結果が、『第4回シンポジウム 地域と地域史研究の未来を語る 渟足柵探求4カ年』の資料集に記述してあります、是非ご覧になってください。漸く『都岐沙羅柵』にも、光が当たってきました。本当に喜ばしいことです。この研究結果は、県内に渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三城柵説を採っています。 |
| 2004/04/16 [215] 新潟県の里創プランの名称 |
新潟県の新行政推進室や地域振興局等では、「里創プラン」の名称を慎重に検討するようになってきました。歴史的な事実や、時代考証に基づいた名称になるよう努力をしています。それは、新潟県内の各市町村の地域おこしや地域づくりに、支障をきたしてきているからです。また、郷土の歴史を取り入れた副読本や教育用資料に基いて学習している児童生徒に、大きな混乱を引き起こしているからです。関係者の早急な対策を、望んでいる一人です。 |
| 2004/04/16 [214] 新発田市教育委員会に説明 |
新発田市役所の教育委員会等に、「塩津潟」及び「都岐沙羅柵」について説明をしてきました。今までも何回となく説明に行っているので、行政側の理解も広まり、少しずつ深まってきました。昨年の新発田市議会の臼井教育長答弁で、「塩津潟」の存在を公式に認めました。ことことによって、新発田市から発信される公文書には「塩津潟」か「塩津潟」(紫雲寺潟)として記述されるものと思います。また、児童生徒用の副読本や教育用資料には、「塩津潟」が記述されるものと確信しています。関係各位の、努力に期待します。なぜなら、新発田藩主が【塩津潟の新田開発】を、1716年頃から取り組んできた歴史的事実があるからです。これらの事実を、後世に正しく伝承していく現代人の責務があるからです。 |
| 2004/04/15 [213] 「都岐沙羅柵」の記述 |
片野様の「胎内川流域のわが郷土」は、「都岐沙羅柵」についての記述があります。中条町の「都岐沙羅柵」という概念が、一層強力に論述されています。また、「塩津潟」についても、分かり易い説明と絵図で編集されています。黒川村民と中条町民にとって、とても良い資料が刊行されました。 |
| 2004/04/15 [212] 「胎内川流域のわが郷土」の出版 |
黒川村の片野徳蔵様が、この度「胎内川流域のわが郷土」という教育用図書を出版しました。片野様は、「金峰神社」「伊藤語録」「蔵王権現とわがふるさと」「黒川村発展のあゆみ」「ふるさとの再発見」等の著書が多く、いずれも教育用図書として学校関係者に寄贈され、児童生徒や社会人に活用されています。 |
| 2004/04/14 [211] 三坂峠と塩の道 |
山脈で囲まれた新潟県には、「三坂峠」(御坂峠)がいくつかあります。この三坂峠と塩の道は、密接な関連を持っています。長野県・群馬県・福島県等への物資の交流には、この峠が活躍していました。 |
| 2004/04/13 [210] 反貫目遺跡の報告 |
反貫目(たんがんめ)遺跡の報告が、「埋文にいがた」46(H16.3.29)に掲載されました。この内容は、中条町の歴史の解明には非常に大きな事実を、私たちに教えてくれました。近くの「大塚山」の古墳と、深い関連を持っていることが理解できます。 |
| 2004/04/07 [209] 私の逸品 |
「心のふるさと」の展示が、3月31日で盛会裏のうちに終了しました。市町村長さんはじめ、多くの方々の出品で多数の見学者の目を楽しませたようです。出品された人々の、想いが託されたものばかりでした。やはり、城下町新発田ですね。歴史に纏わるものが、多かったようです。 |
| 2004/04/06 [208] 八十里越の塩の道 |
「マイスキップ」4月号に、掲載されました。小項目は、火焔土器の道、長岡市の塩分の濃い井戸(塩井)、与板町の塩之入、栃尾市の塩谷、敬和学園大学での講義、知事とふるさとを考える集いです。長岡市民の方々に、「塩の道」の関心を持っていただくとありがたいです。 |
| 2004/04/05 [207] 県内の「塩の道」の展示 |
新潟県立歴史博物館に、一日も早く「県内の塩の道」の展示が完成することを待っています。県内の「塩の道」は、大きくまとめると6つのルートがあります。それらのすべての展示を希望しています。なにしろ『塩』は、動物の生命を維持するのにとても大切な物質だからです。また、『塩』の生産や運搬等に関わっ人々が、沢山いるからです。 |
| 2004/04/01 [206] みなとぴあの見学 |
新潟市歴史博物館を、見学してきました。「新田をひらく」コーナーでは、『正保二年越後絵図』が展示してありました。「塩津潟」が、読み取ることが出来ました。全体的に、加治川周辺の様子が少ないと感じました。新発田藩の新田開発が、よく分かりませんでした。その絵図の前には、「松ヶ崎の掘割」の映像の説明に“紫雲寺潟”という潟名でした。何か不自然な感じを受けました。新潟県立博物館と、「塩津潟」については整合性がほしいです。 |
| 2004/04/01 [205] 渟足柵探求結果を喜ぶ |
『渟足柵探求四カ年』のシンポジウムが、開催されました。「学術研究の四年間」と、新潟日報は報じていました。私は、『都岐沙羅柵』が公式文書に明文化されたのを見るのは初めてです。県内の三城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)が、公的に発表されたことは新潟県民にとって、非常に大きな研究結果です。 |
| 2004/04/01 [204] 日曜議会の効力 |
日曜議会は、「有権者と政治」を密接にする効力があります。中条町の「日曜議会」は、身近な問題について傍聴することができました。熊倉町長さんの町政方針で、郷土の歴史を大切にした「まちづくり」をするとのことでした。板額御前や都岐沙羅柵について、一般質問で明確な答弁がありました。 |
| 2004/03/27 [203] 都岐沙羅柵で検索 |
「都岐沙羅柵」で、検索してみてください。新潟県立図書館でも、『塩津潟は塩の道』」の第七章の「よみがえれ!都岐沙羅柵」にヒットします。 |
| 2004/03/26 [202] 都岐沙羅柵の記述 |
『塩津潟は塩の道』のなかに、「都岐沙羅柵」について四箇所記述してあります。口絵の築地村の村歌と芳賀矢一博士、新発田市の古四王神社、平山県知事さんからの手紙、四番目に第七章のよみがえれ!都岐沙羅柵です。今後益々、「都岐沙羅柵」注目されると思います。 |
| 2004/03/25 [201] 行政側が「都岐沙羅柵」の調査を開始 |
新潟県及び各市町村の行政側が、「都岐沙羅柵」について調査と検討に入りました。新潟県内の各市町村の『地域おこし』や『地域づくり』に、非常に大きな原動力になります。県内の合併が進行中です。合併問題と合わせて、早急に結論を出してほしい考えています。関係する部署及び担当者の努力に期待します。 |
| 2004/03/24 [200] 倭名類聚抄の都岐沙羅柵の記述 |
「倭名類聚抄」が、急激に注目されてきました。新潟県内の三城柵の確認に、大きく影響を与えます。そのことが、今回の『渟足柵探求4カ年』の研究結果が、非常に大きな支援になっています。 |
| 2004/03/24 [199] 都岐沙羅柵を中条町が発信 |
中条町議会の「都岐沙羅柵」についての質疑・応答を受けて、3月23日中条町で講演をしてきました。旧築地村の村歌は、大正時代から『史に名高き月さらの』と歌い継がれてきた村歌です。そのことに、触れた講演内容になりました。都岐沙羅柵と月さらとは、同義語として歌われていました。 |
| 2004/03/24 [198] これからの観光=感幸と地域づくり |
北陸建設弘済会主催の講演会が、3月22日新潟市で行われました。講師は、政所利子さんでした。「地域づくり」のポイントが、分かり易く講話しました。新潟県や各市町村等の、広域の地域づくりに参考になる点が沢山ありました。 |
| 2004/03/24 [197] 都岐沙羅柵(月さら)の追加 |
「都岐沙羅柵」に関する内容を、追加しました。「地域づくりシンポジュウム」《3月17日》、「中条町立築地小学校校歌」、「渟足柵探求4カ年」です。新潟県内の三つの城柵の「渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵」の比定地の確認が、急がれています。特に、里創プランの名称が見直されるでしょう。 |
| 2004/03/24 [196] 新しいメニュー |
3月4日と15日に、新メニューを二項目追加しました。「良寛さん」と「長岡あれこれ情報誌」です。ホームページの内容が、豊富になりました。 |
| 2004/03/24 [195] 各種講演の様子に追加 |
3月4日に、各種講演会の様子に5項目追加しました。「第一回心のふるさと」「塩の津郷土菓子」「新津古絵図展」「塩津潟は塩の道を追って」「良寛さんと新発田市のつながり」の、講演等です。 |
| 2004/03/21 [194] 都岐沙羅柵 |
『都岐沙羅柵」の検索が、平成16年3月21日現在1335回のアクセスがあり、興味と関心の強さを感じました。大和朝廷の城柵のロマンが、新潟県民に強く意識されてきたことは、とても嬉しいことです。ずっと以前から「都岐沙羅柵」について、研究と調査を継続してきた結果が、学問的に裏付けられてきました。 |
| 2004/03/21 [193] 加治川桜の復活 |
私たちの生活に大昔から、関わってきた「加治川」が再び蘇って来ました。加治川は、河川舟運・農業用水・生活用水・工業用水等々、密接に関わってきました。私たちの生活は、『水の潤い』によって豊かさを謳歌してきました。その加治川に桜が、蘇ってきつつあることは喜ばしい事です。 |
| 2004/03/14 [192] 加治川の恵み |
新発田市でも、「胎内川の恵み」のような活動を始めました。胎内川と加治川の両水系が、協力して取り組むと大きな成果を上げることが出来ると思います。今回の参会者、30人位の会合でした。 |
| 2004/03/14 [191] 芳賀矢一博士の作詞が光る |
旧築地村の村歌は、芳賀矢一博士の作詞である。当博士は、皇室の方々に講義をしてきた人である。その博士の作詞は、非常に重みがある。「価値の高い、築地村の村歌であった」と、私は考えている。その意味で、『都岐沙羅柵(月さら)』は重要な言葉である。 |
| 2004/03/13 [190] 中条町の「日曜町議会」 |
中条町の「日曜町議会」を、3月7日に傍聴してきました。とても大勢の人々が傍聴していました。この議会で、「都岐沙羅柵」についての一般質問が行われたのは、非常に画期的なことでした。本当に良い「日曜町議会」でした。 |
| 2004/03/13 [189] 磐舟柵をどうするのか? |
村上・岩船地区のNPOは、「都岐沙羅パートナーズ」を里創プランの名称に使用しているが、肝心の「磐舟柵」をどうする気だろうか?不思議でならない。村上・岩船の方々で、「磐舟柵」を抹殺する気だろうか?私は、かの有名な「磐舟柵」を大切にするべであると考えます。新潟市・村上市・中条町が、それぞれの城柵を地域おこしに役立てるべであると思います。即ち、渟足柵は新潟市、磐舟柵は村上市、都岐沙羅柵は中条町と、新潟県全体の地域の活性化を考慮した地域づくりが重要であると考えます。 |
| 2004/03/13 [188] 「都岐沙羅柵」は中条町へ |
中条町は「都岐沙羅柵」が、中条町に戻ってくることを願っています。そのことは、中条町の諸施策を見ていると良く分かります。例えば、旧築地村の村歌を非常に大切に今でも扱っています。その精神が、新築地小学校の新しい校歌に引き継がれています。また、児童生徒用の、副読本や教育用の資料等に、郷土の歴史のことが盛り込まれています。さらには、郷土の歴史を託した「郷土菓子」をいち早く取り組み、中条町民に親しまれています。それらは、旧築地村の方だけでなく、広く町民に愛されています。このような中条町民の「都岐沙羅柵」にかける熱い想いが、ひしひしと伝わってきます。 |
| 2004/03/11 [187] 中条町にNPOが2月に誕生 |
中条町にNPOが、2月に誕生しました。中条町は、このNPOと協力して「都岐沙羅柵」に関わる各種イベントを企画し、活発な活動をするものと思います。黒川村や新発田市と連携して、郷土の歴史をふまえた諸活動が楽しみです。 |
| 2004/03/11 [186] 新潟県総務部新行政推進室の新組織 |
新潟県庁内に、上記の推進室ができました。この新組織は、各地区の地域振興課が平成16年4月から地域振興局に格上げするのと関連しているそうです。今後、各市町村や各地域の「地域おこし」や「地域づくり」に、大きな力を発揮する役所です。この推進室から、県下の地域づくりに指導・助言をお願いいたします。 |
| 2004/03/10 [185] 都岐沙羅柵の参考資料 |
「都岐沙羅柵」について記述してある資料は、次のようなものがあります。・渟足柵探求の4カ年(H16.2)・塩津潟は塩の(H15.8)・胎内川の恵み(H14.5)・倭名類聚抄( )・文芸なかじょ(H6.11)伊・旧築地村村歌(S13春)・おくやまのしょう(H12.3)・文芸しばた(H13.10)・塩津潟の由来(H6.9)等々があります。参考にしてください。「都岐沙羅柵」についての研究論文は、非常に少ないですが、きっと参考になると思います。 |
| 2004/03/10 [184] 加治川村に防人の伝説 |
加治川村に「防人の伝説」が、伝わっています。とても興味深い、伝説です。塩津潟の南側に、「防人」の伝説があり、今日まで語り継がれています。「都岐沙羅柵」が、中条町築地にあるという説と、不思議と一致してきます。また、中条町苔実に、「都岐沙羅柵」があったという説を唱えている人もいます。ますます加治川村の「防人の伝説」が、真実味を増してきます。この「防人の伝説」を、今後検証してみる価値は十分にあります。 |
| 2004/03/10 [183] 「渟足柵」の研究結果を大歓迎 |
新潟県内の三つの城柵は、今回の文部科学省の指定研究の研究結果を最新情報として、県民は真摯に受け止めています。渟足柵は、新潟市沼垂付近、磐舟柵は、村上市岩船付近、都岐沙羅柵は、中条町築地付近と、明確にするための第一歩と考えています。大和朝廷が造営した北陸及び東北地方の城柵の探求に、非常に大きな成果をもたらしました。それぞれの城柵に、光明を与えてくれました。 |
| 2004/03/10 [182] 都岐沙羅柵の立地条件 |
「都岐沙羅柵」が、中条町築地に造営されたと言う立地条件が揃っています。1「塩津」という地名が現存しているように、良港があったことです。2塩津潟の東側に「一籠山」という古墳が存在していることです。3一籠山の近くに、「伊夜日子神社」が現存することです。4康平の絵図(1060年)の当時の地形を考慮するに入れることが出来ます。これら諸々の立地条件を、総合的に考察すると中条町築地に、「都岐沙羅柵」は存在したと結論付けているわけです。 |
| 2004/03/10 [181] 新潟県名で配布される刊行物 |
新潟県の名前で印刷されて、新潟県下に配布される刊行物は、学問的に信憑性のある学説等で、拠り所のある語彙や語句を使用したほうが良いと考えています。例えば、「都岐沙羅柵」については、村上市付近と言う説と中条町付近と言う説とが、混乱して使用されています。このために、教育の現場や各市町村の地域おこしや地域づくりに、大きな支障となっています。新潟県庁内の各担当部署は、適切な指導と助言が必要になってきています。早急な対処を、強く要望いたします。 |
| 2004/03/10 [180] 旧築地村村歌が築地小学校校歌へ |
旧築地村村歌の歌詞「史に名高き月さらの 昔すえたる礎の」が、平成14年4月に開校した中条町立築地小学校の校歌に、引き継がれています。第一に、国学院大学の先生であることです。第二に、「月さら」の歴史的事実が継承されていることです。旧築地村が昭和42年に中条町に合併するまで愛唱歌として歌われていたものです。旧築地村の4校の統合校の校歌に、盛り込まれています。現に築地小学校の児童や学区民が、郷土の歴史を噛み締めながら歌い続けています。本当に素晴らしいことです。また、『胎内川の恵み』という副読本で、都岐沙羅柵(月さら)の学習を、熱心に続けています。 |
| 2004/03/09 [179] 文芸誌等で「都岐沙羅柵」を論述 |
文芸なかじょうや文芸しばた等の文芸誌で、「都岐沙羅柵」について数多くの論文が既に掲載されています。また、郷土史の専門誌『おくやまのしょう』でも、数多くの論文が掲載されています。新潟県民は、「都岐沙羅柵」の比定地は中条町築地説を採るのが、多いと考えています。その理由は、県内の城柵は、三つの城柵があったとする説が有力だからです。 |
| 2004/03/09 [178] 都岐沙羅柵の私の主張 |
私は、「都岐沙羅柵」について主張しているのに二つあります。一つ目は、私の著書『塩津潟は塩の道』の第7章に「よみがえれ!都岐沙羅柵」があります。二つ目は、ホームページ『塩津潟の由来』の都岐沙羅柵(月さら)の項目があります。どちらも丁寧に記述してあるので、是非ご一読ください。 |
| 2004/03/09 [177] 倭名類聚抄の都岐沙羅柵の記述 |
この歴史書に、新潟県の城柵について記述してことは、非常に重要なことです。特に、都岐沙羅柵が、渟足柵と磐舟柵の間に存在するとの記事は、中条町築地にとっては貴重な内容です。今後このことが、中条町の地域づくりに大きな影響を与えてきます。 |
| 2004/03/09 [176] 中条町が都岐沙羅柵を発信 |
中条町の歴史的事実として、「都岐沙羅柵」を発信することができるのも近いと思います。村上・岩舟地区NPOが里創プランの名称として使っている「都岐沙羅パートナーズ」は、近日中に「岩舟パートナーズ」等と、名称を変更するものと思っています。私は、旧築地村の村歌に歌っていた『史に名高き月さらの』は、中条町の地域づくりに使用するのが、一番よいことと考えています。 |
| 2004/03/09 [175] 新発田市も都岐沙羅柵に関わる |
新発田市五十公野に、「古四王神社」が存在します。この神社は、大和朝廷が派遣した阿倍比羅夫を祀った神社です。そのために、新発田市でも、大和朝廷の三つの城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)と関係するので、地域づくりの活性化のために努力するものと思います。 |
| 2004/03/08 [174] 「都岐沙羅柵」を提唱している学者 |
文部科学省の今回の研究結果と同じ内容を既に発表していた学者がいます。斎藤修平元新潟県立図書館長・芳賀矢一元国学院大長・伊藤國夫塩津潟研究家・その他大勢の学者が、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三つの城柵説を主張していました。新潟県内に、渟足柵と磐舟柵の二つの城柵説を唱えている学者は、非常に少ないです。 私は、著書『塩津潟は塩の道』の中で「第7章”よみがえれ!都岐沙羅柵“」を、平成15年8月8日に出版し、その中に記述しています。私の研究が、今回の文部科学省の指定研究の結果と一致していたことに、大きな喜びを感じています。中条町の歴史の解明に、「塩津潟」の復活と「都岐沙羅柵」の解明と、大きく貢献することができました。特に、中条町日曜町議会(平成16年3月7日)で富樫誠議員が、「都岐沙羅柵」について「都岐沙羅柵は中条町築地である」という提言と、中条町の歴史認識と態度について伺った事は、本当に良い機会でした。中条町の議会記録に、公式記録として「都岐沙羅柵」が初登場したことは、非常に大きな意義があります。中条町民はもとより、新潟県民は渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵にもっと関心を持って接し、郷土の歴史を大切にしていくことが重要です。 |
| 2004/03/07 [173] 「都岐沙羅柵」が中条町の公式記録に載る |
「都岐沙羅柵(月さら)」が、中条町の「日曜町議会」に登場しました。富樫誠議員が、「都岐沙羅柵は、中条町築地である」という質問に対して、吉田教育長は答弁しました。「都岐沙羅柵(月さら)」は、旧築地村の村歌の歌詞にあります。『史に名高き月さらの 昔すえたる礎を 固め固めて年年に』です。この歌詞は、芳賀矢一国学院大学長が作詞したものです。昭和42年に、中条町に合併するまで村民に愛唱されていたものです。「月さら」は、37年ぶりに蘇ってきました。塩津潟と同様に、都岐沙羅柵も中条町に復活してきました。平成16年3月7日は、記念すべきよき日になりました。 |
| 2004/03/03 [172] 越国の城柵研究 |
沼垂城や磐舟柵や都岐沙羅柵の研究に、新潟大学や秋田大学や大阪外語大学や国立歴史民俗博物館の各先生方が、共同で研究を開始したことは、非常に効果が大きい。その意味で、今回の4年間の研究結果は、内容的にものすごく進展してきている。 この研究結果を、各治自体は「地域の活性化」に、大いに役立てるべきである。 |
| 2004/03/03 [171] 河川舟運に注目 |
文部科学省のこの度の研究指定は、大和朝廷の越後国の城柵く比定地に、加治川・塩津潟・胎内川・阿賀野川等の河川舟運に注目してきたことが、第4回シンポジュウムで明らかになってきました。 いよいよ塩津潟や福島潟の内水面交通が、クローズアップしてきました。 |
| 2004/03/02 [170] 「磐舟」という報告書 |
上記の報告書は、新潟県文化財調査報告書第九として、昭和37年3月に発行されている。この報告書には、「磐舟柵と都岐沙羅柵とは同一」とは記述されていない。 今回の第4回シンポジュウムの報告書と合わせて考察すると『都岐沙羅柵』は、磐舟柵とは別に存在したことになる。やはり、今までの学説の通り、新潟県には三つの城柵が創置されていたことになります。 |
| 2004/03/02 [169] 都岐沙羅柵の存在の確認 |
文部科学省の研究指定を受けた、第4回シンポジュウムが開催された。平成16年2月29日に、新潟市万代市民会館で行われた。新潟大学や奈良女子大学や秋田大学や大阪外語大学や国立歴史民俗博物館等々の先生方の研究チームによるシンポジュウムです。 この研究冊子の中に、『都岐沙羅柵』が石舟柵と並列に記述してある。37頁と39頁です。要するに、越後には、沼垂城と石舟柵と都岐沙羅柵と、三つの城柵が装置されたことを明記してあります。 |
| 2004/03/02 [168] 八十里越の塩の道 |
My-Skipの地域情報誌に「八十里越の塩の道」が、掲載されました。3月号です。中越地方の「塩の道」を、現代人に伝承していきたいと考えています。先人が、大変な苦労と努力によって「塩」を、送り続けてきた『道』です。 糸魚川と松本の「塩の道」に、続くことを願っています。郷土の歴史と文化を、大切にしていきたいものです。 |
| 2004/02/26 [167] 伊能忠敬と日本図 |
伊能忠敬は、「日本地図」の作成に取り掛かったのは、50歳を過ぎた第二の人生の仕事として取組んだものです。まさに生涯学習の大偉業を成し遂げたわけです。新発田市生涯学習協会の講演会では、そのことも力説してきました。少子化時代の今日は、「老人パワー」を大いに発揮する時代であると考えます。 |
| 2004/02/26 [166] ライフワークの50年間 |
私が10歳の時に抱いた疑問『塩津潟の存在』は、見事に蘇りました。その大きな原動力になった言葉は、大倉喜八郎翁の「勇気」でした。『知恵比べ 努力比べの多き世に ほしきは人の勇気なりけり』を、心の支えとしてきました。そのことを、「良寛さんと新発田市のかかわり」の講演の中で講話してきました。現代は、「生涯学習」の重要性を力説してきました。 |
| 2004/02/25 [165] 山田佐門校長の学校経営 |
先般の「良寛さんと新発田市とのかかわり」については、山田佐門校長の教育哲学について、触れた講演をしてきました。良寛さんと山田佐門校長の考え方が、『自然論』を基調とした考え方であることを事例を挙げて、いくつか講話をしました。新発田良寛会の方々も、今までとは一味違った講演会だったと、感想を述べていました。良寛さんの思想が、新発田市の教育現場にも、深く浸透することを期待しています。 |
| 2004/02/25 [164] 河川文化フォーラムin越後 |
信濃川明治の大水害「横田切れを検証する」を、平成16年2月22日付で報告文を掲載している。新潟ベルナールで実施された、フォーラムである。大水害を、科学的に分析したことは大きな成果を発揮したと思っている。 しかし、人間が生存していくためには、「水辺の文化」を今よりもっと身近なものにしていかなければならないと考えています。そのための方策を、どんどん提案していかなければならない。 |
| 2004/02/23 [163] 沼垂城のシンポジュウム |
新潟県の城柵についてのシンポジュウムが、平成16年2月29日に新潟市で開催されます。磐舟柵と都岐沙羅柵との扱い方が、非常に楽しみです。私は、三城柵説を採用するものと考えています。沼垂城の場所が確定すると、他の二つの都岐沙羅柵と磐舟柵も、おのずと明確になってくると思います。 |
| 2004/02/22 [162] 新発田市の古四王神社 |
大和朝廷が越後に派遣した、阿倍比羅夫を祀った古四王神社が、新発田市五十公野に存在する。越後の城柵である「都岐沙羅柵」との関連がある神社です。新発田市は、この神社をもっともっと大切に扱うことかが、重要であると思います。磐舟柵と都岐沙羅柵とは、明確に区別する必要があると考えています。先人が、研究したた結果も考慮すると、歴史の真実が伝承されていくと思います。 |
| 2004/02/22 [161] イザベラ・バードさんの探検旅行 |
イギリスの旅行家が、阿賀野川を経由して阿賀北地方を旅行し、旅行記を残している。やはり内陸水上交通で舟運している。当時の交通手段やルートが解明でき、貴重な資料である。 |
| 2004/02/22 [160] 良寛さんと新発田市のかかわり |
新発田良寛会主催の講演会が、新発田市文化会館で行われました。平成16年2月22日です。1 「良寛さんと新発田市」2『塩津潟と新発田市」という柱で講演してきました。新発田市と良寛さんは、とても深い関係が有るのです。 |
| 2004/02/22 [159] 塩津潟は塩の道を追って |
新発田市生涯学習協会主催の講演会で、『「塩津潟は塩の道」を追って』と題して、講演を行ってきました。平成16年2月21日です。新発田藩主の藩政に触れながら、私の生涯学習としてのライフワークを講話してきました。新発田の郷土史を、相当に理解してくれたものと思います。私の提言した内容を、新発田市の市政に反映するものと確信しています。 |
| 2004/02/21 [158] 「塩津潟」三兄弟誕生 |
中条町の西屋さんから、『塩津潟三兄弟』が誕生しました。郷土菓子の「塩の津」が、平成16年2月に誕生しました。平成8年に誕生した「塩津潟」あります。その後、「月さら」が創作されました。 今回の「塩の津」の誕生で、『塩津潟三兄弟』がそろいました。NHKの「だんご三兄弟」に、あやかりたいものです。郷土の銘菓が、また一つ増えました。可愛がってほしいと思います。 |
| 2004/02/21 [157] 磐舟柵と都岐沙羅柵とは同一? |
学問的には、磐舟柵と都岐沙羅柵とは、同一とは考えていない。しかし、平成16年2月20日NST放送局の新潟版で、NPOの都岐沙羅柵は同一のように放送していた。本当だろうか?キサラ通貨を使用しているとも伝えていた。新潟県には、沼垂柵と岩船柵と都岐沙羅柵の三城柵があるというのが、通説である。現在、文部科学省の研究指定を受けて、新潟大学が中心になって大和朝廷の城柵について事実解明に努力中である。私の説は、「塩津潟は塩の道」の著書の中に記述してある。是非、読んでください。 |
| 2004/02/20 [156] 良寛さんも河川舟運 |
良寛さんは、かなり行動範囲が広いです。それらへの行程で、おそらく「舟」を多く使ったのではないだろうか。良寛さんは、新発田へも来ています。旅程のある区間は、「舟」を使ったものと思っています。何か、立証できる古文書は発見できないものであろうか。 |
| 2004/02/20 [155] 芭蕉も塩津潟を舟運 |
私は、いろいろな観点から考察して、芭蕉は塩津潟を通っていると考えています。皆さんも、いろいろな視点で研究してみてください。阿賀北地方の「河川舟運」の重要性が、理解できると思います。 |
| 2004/02/19 [154] 塩津潟を舟運した人々 |
京都の高僧が、塩津潟を舟運した記録が発見されている。その研究を、立教大学の藤木教授が発表している。この他に、多くの人々が舟運していることが分かっている。塩津潟の二重構造である。物資の舟運と食糧増産を目指した新田開発である。ここで重要なことは、「塩津潟の由来」である。 |
| 2004/02/19 [153] 私の逸品 |
市島酒造株式会社で、第1回 「心のふるさと」が2月19日から実施されました。私も、「越後絵図と塩の道」を出品しています。それぞれの出品物は、「心のふるさと」を強く感じされるものばかりでした。是非、ご覧になってください。復刻版の『正保二年越後絵図』に、お目にかかれます。 |
| 2004/02/19 [152] 良寛さんと新発田市のかかわり |
新発田良寛会で、上記のテーマで講演します。平成16年2月22日に、新発田市文化会館で行います。「こころ」の問題に、触れてみたいと思います。 |
| 2004/02/19 [151] 日本道徳基礎教育学会 |
私は、当学会に入会して20年位になります。私の『塩津潟は塩の道』のライフワークには、非常に役立ちました。「こころの教育」が、研究の底流にあります。この会議のために、筑波大学付属小学校へ通いました。この会への入会の動機は。新発田市立住吉小学校で、研究主任を拝命した時からです。校内の「道徳教育」を、研究したときからです。現在の児童生徒は、やはり「こころ」の教育が更に重要視されなければならないようです。 |
| 2004/02/19 [150] 県歴史博物館長の回答 |
新潟日報「窓」欄の『県内塩の道の啓発を考えよう』の私の提言(平成16年1月28日付)について、小林県歴博館長が回答を新潟日報「窓」に寄せています。(平成16年2月18日付)新潟県立の博物館が、『塩の道』について考えていくとのことです。本当に、力強いことです。 |
| 2004/02/19 [149] 広報しばたに掲載 |
新発田市内の学校に寄贈した私の著書「塩津潟は塩の道」のことが、2月15日号に紹介されました。学校現場でも、いよいよ活用され始めました。とても嬉しいことです。新発田市外でも、同様のことが実施されています。 |
| 2004/02/19 [148] 加治川村で講演 |
「塩津潟が加治川村に与える価値」と題して、平成16年2月12日に講演をしてきました。加治川村の歴史についての学習でした。 |
| 2004/02/06 [147] Re[146]: 一籠山の看板設置の回答 |
確認しました・・・ 期待してます。 ”一籠山”周辺で発掘作業が行われたりしているんですか? 見た感じそんなふうには見えませんでしたが・・・ 雪が消えたら、もう一度ゆっくり回ってみようと思います。 http://www.nightmare.jp/ |
| 2004/02/06 [146] 一籠山の看板設置の回答 |
表題については、早速中条町の教育委員会から、回答がありました。中条町のHPを、ご覧ください。中条町では、現在検討中だそうです。歴史の街「中条町」らしい取り組だと思いました。 |
| 2004/02/06 [145] 鬼道の系譜 |
『鬼道の系譜』と題して、新潟日報で連載されています。副題は、「卑弥呼から晴明へ」です。(H16年1月10日付)この記事の中に、新潟県の城柵と深く関わりのある「皇極天皇」及び「斉明天皇」のことが、記述してありました。とても興味深い内容です。是非、読んでみては如何でしょうか。 |
| 2004/02/06 [144] 合併に伴う地域史の伝承 |
全国的に、各市町村の合併が急激に進行しています。新発田圏域でも、同様です。新発田市は、新発田藩主が藩民の食糧増産のために「新田を開発」してきた事実を、学校教育及び生涯学習の教育内容として、取り上げる絶好の機会であると考えます。代々の新発田藩主が、取り組んできた「新田開発事業」を、取り上げるのに今回の合併は、郷土の歴史を伝承するのに本当に良い機会であると考えます。担当部署の検討に、大きな期待を寄せています。 |
| 2004/02/04 [143] 八十里越の塩の道 |
新潟県内の「塩の道」は、『峠』を越えて隣接県へ運ばれています。地元の人々は、「八十里越」や「六十里越」について、どのような認識を持っているのでしょうか。先人の尊い生活実態や業績を、どのように捉え、どのように後世に伝承しているのでしょうか。糸魚川市の地域おこし「塩の道」のように、“地域おこし”や“街おこし”の活性化に役立てることを提言いたします。 |
| 2004/02/03 [142] 2月に講演会が3本 |
生涯学習課関連の講演会が、立て続けに3会場であります。いずれも『塩津潟の由来』に関するものです。新発田市民の皆さんも、「塩津潟」に興味と関心が高まってきたようです。最近は、歴史の真実が協力であることを、強く感じています。 |
| 2004/02/02 [141] 生涯学習課の人材バンクに登録 |
生涯学習指導者派遣事業の人材バンクに、平成16年1月に登録しました。私が体験してきた技能と、調査して得た知識を生涯学習のために役立てたいと考えています。この掲示板でもよし、Eメールでもよし、ご連絡ください。 |
| 2004/02/02 [140] 塩津潟の由来アクセスの推移 |
「塩津潟は塩の道」の出版以来、「塩津潟の由来」のアクセス数が激増しています。 平成 6年 8月 17回 平成14年 1月 2678回 平成10年11月 796回 平成15年11月 6692回 平成11年 5月 1001回 平成16年 2月 7339回 平成12年12月 1335回 平成13年 6月 2313回 このように,HPでも沢山の方々に利用されています。特に、著書を出版した昨年の8月以降も、十数項目追加しています。是非ご覧ください。 |
| 2004/02/02 [139] 一籠山の看板設置 |
一籠山の看板設置のお願いは、中条町のHPの掲示板に1月30日付けに載っています。早く実現することを、願っています。 |
| 2004/02/01 [138] 看板の設置 |
中条町は、郷土の歴史について大切にしているので、設置の方向で努力すると思います。中条町の総務課には連絡しておきました。予算とも関連しますが、きっと検討してくれると思います。 |
| 2004/01/31 [137] Re[134]: 一籠山の説明看板の設置 |
> 海月さんは、すぐ現場へ行って調査することは素晴らしいことですね。上記の件は、早速中条町へ看板設置を連絡しておきます。積極的なご意見を頂戴し、ありがとうございます。 先生はそんなことがすぐ出来るんですか? 驚きです!! http://www.nightamre.jp/ |
| 2004/01/31 [136] 児童会主催の「雪祭り」 |
「アイデア競う児童作品期待」と題して、新潟日報朝刊「窓」欄に掲載されました。平成16年1月31日のことです。『塩津潟教育研究所』として、教育全般に関する内容に触れたものです。約30年前の子供たちの思考形態と意識について、記述したものです。当時は、6年生だった子供たちは、今年熟年の40歳である。 |
| 2004/01/31 [135] 塩津潟が見事に復活した |
「塩津潟」が、理由もなく紫雲寺潟に1730年頃変えられてから、平成時代になって見事に復活しました。本当に、越後不思議紀行の一つでした。先人の研究の努力によって、「塩津潟」が蘇ってきました。今後、ますます新潟県民に理解されていくことでしょう。嬉しいことです。 |
| 2004/01/30 [134] 一籠山の説明看板の設置 | 海月さんは、すぐ現場へ行って調査することは素晴らしいことですね。上記の件は、早速中条町へ看板設置を連絡しておきます。積極的なご意見を頂戴し、ありがとうございます。 |
| 2004/01/29 [133] そうですか・・ |
連日の除雪作業で疲れましたが・・・ 昨日雨が降ったせいで一気に雪も融けてしまった様です。 そうですか、”かごほろき山”は今は無いと言うことですね。 ”ひとかご山”も案内看板や、説明看板の類が全くなく 少し残念に思いました。 http://www.nightmare.jp |
| 2004/01/29 [132] 県内「塩の道」の啓発を |
上記の主題で、新潟日報朝刊「窓」欄に掲載されました。H16年1月28日付です。新潟県内の「塩の道」を、新潟県立歴史博物館に展示し、県民に啓発することを記述したものです。何しろ、大きなルートが6ルートもあるわけですからね。早急な完成を、期待しています。 |
| 2004/01/29 [131] 河川文化フォーラムin越後 |
上記のフォーラムが、H16年1月26日に新潟ベルナールで開催されました。主題は、「横田切れを検証する」でした。信濃川の洪水に関する検証を、各要因から分析したものです。大変有意義な、フォーラムでした。沢山の参会者で、熱気ムンムンでした。 私は、河川舟運や新潟平野に多く点在する「潟」との関連も触れてほしかったです。 |
| 2004/01/29 [130] ボッカ運搬用具が国の指定 |
糸魚川市の「ボッカ運搬用具」が、国の重要有形民俗文化財に指定されました。大変な喜びです。糸魚川市根知の「塩の道資料保存会」の、長年の努力が認められたものと思います。本当に、おめでとうございます。「塩」の供給県である新潟県の「塩の道」が、後世に伝承できる道が開けました。県内の「塩の道」の各ルートが、後世に伝承できる日を待っています。八十里越や阿賀野川ルートも、早くできるように努中です。 |
| 2004/01/27 [129] 板額御前のイベント継続 |
中条町の歴史イベント「板額御前」は、『武士の食事』として800年祭に続いて、小・中学校でこの度実施されました。とても喜ばしいことです。これらの活動を通して、児童生徒に郷土を愛する気持ちが着実に育っていくものと考えています。800年祭実行委員の一人として、大賛成です。これからの継続に、期待が持てました。頑張れ!中条。次なるイベントが楽しみです。 |
| 2004/01/26 [128] かごほろ山の位置 |
「大塚山」(一籠山)は、一目で分かったとのこと何よりでした。古墳であるということは、すぐご理解できたと思います。しかし、「かごほろき山」は、地元の人々でも既に忘れかけています。このように、郷土の歴史がどんどんと忘れられています。本当に、残念なことです。そのことを付記しておけば良かったのですが、大変失礼しました。かごほろき山は、大塚山から東方に50メートル位の所に、記念碑と大きな杉の木が存在したのです。現在は、杉は伐採され、記念碑は当位置に埋められたと言われています。 大塚山とかごほろき山は、ペアの遺跡なのです。 |
| 2004/01/25 [127] こんばんは・・・ |
金曜あたりからの雪で一苦労でした。 夜中に除雪作業に出なければならないので・・・ 中条町の塩津辺りを回ってきたのですが「かごほろき山」と言う山が 解りませんでした。 「ひとかご山」はインターネットに写真があり、結構遠くからも 目立ったのですぐ解りましたが・・・ 近くの集落内に少し土を盛ったような所があり、ちいさな”祠”の様な ものがありました。 「ここなのかな〜」と思いましたが、案内看板や説明看板の類が全くなく 結局、解りませんでした・・・ 雪が消えたら写真でも撮ってこようと思います。 http://www.nightmare.jp/ |
| 2004/01/25 [126] 各方面へのリンク |
「塩津潟の由来」は、各市町村のHPと以前からリンクしています。新潟県及び各市町村の『地域おこし』に、大いに役立ててもらっています。この度、さらにリンクの幅が広がりました。温故知新です。地域の歴史を正しく伝承していきたいと考えています。 |
| 2004/01/22 [125] Re[124]: 越後不思議紀行へのリンク |
有り難うございますm(_ _)m デジカメを買ったので土日にでも写真を撮って見ようかと 思ったのですが、この雪です・・・ 今後もよろしくお願いします。 http://www.nightmare.jp/ |
| 2004/01/22 [124] 越後不思議紀行へのリンク |
越後不思議紀行のHPは、内容が豊富なHPでした。リンクをしていただき、多くの方々にお役に立てばありがいです。 |
| 2004/01/20 [123] お願い・・・ |
「越後不思議紀行」の【掲示板】のページから、県内の色々な個人掲示板を まわれるように直接、こちらの掲示板をリンクしました。 http://www.nightmare.jp/keijiban_FL.html ご迷惑な場合はリンク一覧からはずしますので、ご連絡下さい。 事後報告で申し訳ありせんが、よろしくお願いします・・・m(_ _)m http://www.nightmare.jp/ |
| 2004/01/20 [122] 一籠山は大塚山 |
ひとかご山は、一籠山とも書きます。また、一籠山を地域の方々は、「大塚山」とも言います。それは、昔「大塚」というかなり大きな集落(昔の村)が存在しました。その村内の中に「大塚山」が、存在したからです。大塚山の周辺の遺跡からは、貴重な異物が出土しています。『津』という墨書土器等も、出土しています。私のホームページ「塩津潟の由来」の中にも、「ひとかご山」のことが記述してあります。大塚山は、円墳の形をしています。是非、ご覧になってください。 |
| 2004/01/19 [121] また、来ました・・・ |
”ひとかご山”検索サイトで調べましたが、あまりありませんでした。 しかし、画像が一つ見つかりました・・・ 山と言うからそれなりに大きいのかと思ったら、本当に”塚”みたいな感じなんですね? 雪が消えたら言ってみようと思います。 http://www.nightmare.jp/ |
| 2004/01/18 [120] 加藤辰蔵さんの研究 |
康平3年越後國絵図の研究には、『塩津潟』が記述してありました。にいつ古絵図展でのことでした。この研究は、昭和8年8月の年月日が記入してありました。とても興味がありました。 |
| 2004/01/18 [119] ひとかご山は中条町に存在 |
「ひとかご山」は、中条町大字塩津に存在します。大和朝廷とは、密接に関連しています。是非、訪れてみてください。とても興味深い内容です。 |
| 2004/01/17 [118] ひとかご山 投稿者:海月 |
伝説は伝説として、実際”ひとかご山”と言う山があるのですか? 時間があれば訪れてみたいですね。 歴史はあまり詳しくないので解りませんが、大和朝廷の勢力範囲は 福島県、新潟県あたりが北限だったと聞きます。 そうするとこういった、はずれの方にも古墳に葬られるような権力者が 居たと言うことなのでしょうか? 興味深いですね・・・ http://www.nightmare.jp/ |
| 2004/01/16 [117] 大和朝廷の城柵 |
「ひとかご山」伝説は、大和朝廷時代の古墳であると、私は考えています。ご一考ください。658年の「都岐沙羅柵]と、密接に関連していると思います。 |
| 2004/01/14 [116] ありがとうございます |
自分の持っている本にも「ひとかご山」ありました。 あとでまた詳しく調べてみます。 http://www.nightmare.jp/ |
| 2004/01/14 [115] 「にいつ古絵図展」の見学 |
上記の古絵図展が、新津市図書館で1月 8日から12日まで開催されました。50点の古絵図が見事に展示されてありました。新津市周辺の歴史が、とても良く分かりました。阿賀野川・信濃川・能代川等の、河川舟運の様子が良く分かりました。新津市も、「塩の道」の地域おこしに取組むものと思います。広域のイベントが実施出来ると考えています。 |
| 2004/01/14 [114] 海月さん、「ひとかご山」伝説 |
「塩津潟は塩の道」へのアクセス、ありがとうございます。 中条町に、「ひとかご山」伝説があります。中条町立図書館へ問い合わせてみてはどうでしょう。下越地方の伝説を、いくつか入手できると思います。 |
| 2004/01/12 [113] こんにちは 投稿者:海月 |
昨年12月ようやく潟東村にもADSLが入りました。 これを機会に、越後に伝わる伝説・伝承・奇談などの市町村別一覧や 県内の不思議なモノ・話などを中心に紹介しています。 といっても内容に関してはまだまだ不十分です。 暇なときにでも冷やかしにいらして下さい。 今後もよろしくお願いします。 http://www.nightmare.jp/ |
| 2004/01/09 [112] 「地域学」の台頭 |
各都道府県及び各市町村は、地域史に関する学問をスタートさせるところが多くなりました。このことは、各大学でも取り上げ始めています。 さて、新発田市は新発田城の復元等、新発田藩の歴史を正しく伝承しようと努力を始めています。とても素晴らしいことです。 |
| 2004/01/05 [111] 合併しても河川舟運の推進を |
港町新潟市をはじめ「河川舟運」に関する地域おこしは、合併後も協力に推進してほしいと考えています。このことは、安田町を中心とした地域、及び津川町を中心とした地域にも期待したい内容です。信濃川や阿賀野川に関わる市町村の工夫と努力に期待しています。 |
| 2004/01/04 [110] 沢山の年賀状から |
今年も沢山の年賀状を頂戴しました。その中に、「塩津潟は塩の道を読みました。」という賀状が多かったのに、とても感激しています。本当に嬉しいことです。ありがとうございます。県外から方からのものも多かったので驚いています。 新潟県内の「塩の道」が、各市町村でイベント化される勢いを感じました。糸魚川と松本ラインに、早く追いつくことを期待しています。 |
| 2004/01/01 [109] 飯沼先生からの年賀状 |
今年の年賀状は、「塩津潟は塩の道」の出版に関する記事が多かったです。また、「塩津潟教育研究所」の設立に関する内容も多かったです。それらの中でも、1年生担任の飯沼先生からの励ましの年賀状は、とても嬉しかったです。昨年50年ぶりにお会いしました。先生は、すこぶるお元気でした。低学年当時の私をよく覚えていてくださいました。本当に恩師は、ありがたいものです。 さらなる研究の意欲を、掻き立てられました。 |
| 2004/01/01 [108] 大学の特殊法人化へ |
平成16年は、国立大学の「特殊法人化」が実施される年です。このことが実現すると、「塩津潟の由来」は各大学の教材として、大きく取り上げられるものと思っています。 地域の歴史が、大学生によってさらに解明されていくもの考えています。本年は、画期的な良き年になることでしょう。 当研究所は、それらのお役に立ちたいものと現在準備をしています。 |
| 2004/01/01 [107] 謹賀新年 |
旧年中は、大変御世話になりありがとうございました。皆様のご多幸とご健康をお祈り申し上げます。 昨年は、『塩津潟教育研究所』を設立し、『塩津潟は塩の道』を出版しました。この著書と『塩津潟の由来』のHP(アクセス数7130回)は、学校教育と生涯学習の教育資料として活用されているようです。 本年もご支援とご指導の程よろしくお願い申し上げます。 平成16年 元旦 伊藤 國夫 |
| 2003/12/31 [106] 「塩津潟」の充実 |
平成15年4月に、『塩津潟教育研究所』を開設してから、『塩津潟」が一層充実してきました。その一番良い例が、『塩津潟は塩の道』の出版です。この著書は、相当広範囲の方々に読まれています。もうすぐ2版に入る段階になってきました。新潟県民が、郷土の歴史を正しく学ぼうとしている傾向の現れだと思います。大勢の方々のご支援とご協力に、心より感謝申し上げます。 |
| 2003/12/20 [105] 玉川学園同窓会報 |
当会報no127(2003.12.10)号に、「同窓生の本・先生の本」が、13冊紹介されました。その中の一冊に、「塩津潟は塩の道」が全国的に紹介されました。新潟県の「塩の道」の歴史が、全国の玉川学園の同窓生に読んでいただく事をご期待申し上げています。 |
| 2003/12/19 [104] 弥彦神社の歴史 |
弥彦神社は、かつての越後国の一の宮。祭神は、天照大御神の曾孫天香山命である。天香山命が神武天皇の勅を奉じて和歌山県熊野から越後国におもむき、地元民に稲作・漁業・製塩・酒造の技を教え、指導したことから越後国の文化・産業の始祖人として奉祀されたのが、始まりとされている。 |
| 2003/12/15 [103] 「塩津」という地名 |
「塩津」という地名を3つ追加します。 和歌山県海草郡下津町大字塩津 滋賀県伊香郡西浅井町大字塩津 石川県鹿島郡字塩津 「塩津」は、新潟県・島根県・愛知県と合わせて、6県に存在します。新潟県中条町の「塩津」は、『塩』との関わりを通して、政治・経済の重要な地域であったことが少しずつ明らかになってきました。 |
| 2003/12/15 [102] 「白い船」を試写 |
「白い船」を、検索して試写し見てはいかがでしょう。塩津町の人々の、「夢」をかなえてくれた感動エンたーティントです。 新潟県の小・中学校でも、学習活動の教材として活用できるものと思います。 |
| 2003/12/15 [101] 塩津港 |
島根県平田市塩津町に、「塩津港」が存在します。塩津小学校の子供たちは、「白い船」の映画に出演しています。とてもロマンのある映画です。「白い船」で検索してみてください。 当校の子供たちは、昔ながらの「塩つくり」に挑戦しています。昔は、塩津港から、『塩』が送り出していたことでしょう。 |
| 2003/12/15 [100] 塩津小学校の「塩つくり」 |
当校では、体験活動の一環として「塩つくり」をしているそうです。黒川村の小・中学校で、「製塩」についての交流は共通の学習課題になるものと考えています。総合的な学習の時間に、取り上げる児童・生徒がいるような気がします。 両県の教職員の、教材研究に期待します。きっと、楽しい学習活動ができるように思います。 |
| 2003/12/15 [99] 「白い船」との交流 |
島根県の塩津小学校では、「白い船」との交流を続けています。当校のホームページにその内容が、掲載されています。日本海を行くフェリー「れいんぼうらぶ」の乗船記等が、記述されています。新潟県の直江津と博多を結ぶ航路で、体験活動を積んでいます。当校は、「白い船」の映画にも登場する学校です。新潟県の学校から、当校と交流する学校が早く登場することを願っています。また、「白い船」が、新潟県で上映されることを願っています。 |
| 2003/12/12 [98] 塩津小学校と塩津中学校 |
文芸しばた第29号に、「塩津小学校と塩津中学校」のことが掲載されました。新発田市民はじめ新潟県民は、島根県や愛知県に「塩津」という地名があることを認識しました。 人々や物資の交流が、活発になることを機会あるごとに、皆様に呼びかけています。とりあえず、小・中学校の児童・生徒たちによる学習面による交流が、開始されることを願っています。 |
| 2003/12/12 [97] 塩津小学校からの便り |
島根県の大森校長先生から、お便りがありました。塩津小学校では、新潟や博多までのフェリーによる体験旅行や海水から塩をつくる活動をしているそうです。『塩』という共通点から、島根県と新潟県の子供たちが、交流を始めることを期待しています。 塩津小学校には、立派なホームページがあります。是非、ご覧になってください。新潟県の人は、島根や博多方面へはフェリーで旅行することをお勧めします。 |
| 2003/12/11 [96] 「塩津潟の由来」の充実 |
私のホームページ「塩津潟の由来」は、今年一年間で27項目を追加し、充実することが出来ました。講演の様子や論文の掲載等、多岐にわたることが出来ました。中でも、『塩津潟は塩の道』の出版はとても大きな出来事でした。現在1500冊以上が、読者の手元に届いています。新潟県の歴史の見直しに、非常に大きな影響を各方面に与えています。これは、「塩津潟教育研究所」の開設が大きく関わっています。 |
| 2003/12/10 [95] 校長先生方のお話や便り |
「塩津潟は塩の道」の著書についての感想が、私の耳に沢山聞こえるようになってきました。また、お便りを沢山頂戴しています。社会科や総合的な学習の時間に、教材として活用しているとのことです。大変喜ばしいことです。歴史上の真実の強さを、感じています。この著書の内容が、各市町村が編集する「副読本」に参考資料として役立つことを、切に期待しています。 |
| 2003/12/08 [94] 「われは海の子」の作詞者 |
芳賀矢一博士は、「旧築地村村歌」を作詞した方です。「都岐沙羅柵」を調査している過程で、「われは海の子」の作詞者であることを知りました。それは、芳賀様の親族からの申し出によるものでした。 博士は、新潟県ととても深い関わりのある方なので、他人事とは思えません。何とかならないものでしょうか。 |
| 2003/12/08 [93] 「塩の先生」という呼称 |
私は、子供たちから「塩の先生」という愛称で呼ばれるようになってきました。地域の子供たちは、親しみをこめて呼ぶようになりました。このことは、「塩の道」についてかなり理解を深めていることを物語っているようです。 |
| 2003/12/08 [92] 各市町村長さんが塩津潟を認識 |
平山新潟県知事さんはじめ、県内の各市町村長さんが、「塩津潟」及び「都岐沙羅柵」をそれぞれに認識してきました。各市町村長さんたちと会って、郷土の歴史について話し合ってきました。その結果、「塩津潟」及び「都岐沙羅柵」については、理解していただいたものと考えています。 この歴史的な事実を、地域の活性化にどう活用していくかが、今後の課題です。既に、活発に取組んでいる市町村もあります。 |
| 2003/12/08 [91] 塩津さんが登場 |
「塩津」という苗字、が、日本にあります。塩津という地名と同様に、『塩』に関わるお仕事をしていたものと想像しています。先日、テレビを見ていたら俳優の中に「塩津」という姓名の方が、出演していました。日本には、何世帯数おられるのか調べて見たくなりました。 |
| 2003/12/05 [90] 塩津潟か゜文献に続々登場 |
最近発刊された中世の考古学の文献等を読んでいましたら、「塩津潟」が文献に登場することが多くなってきました。学者の論文にも、『塩津潟」が定着してきました。内容的に注目されているのは、「塩津潟」が河川舟運に果たした役割の大きさです。 今後ますます、塩津潟の政治上・経済上の果たした役割が、明確になると思います。 |
| 2003/12/05 [89] 大甫場整備と地域の活性下 |
農地の大甫場整備と各市町村の活性化が、密接に連携しています。阿賀北地方も、相当整備してきました。活性化の内容は、多種多様に考えています。塩津潟の活用についても、同様のことが言えます。 |
| 2003/12/02 [88] 敬和学園大学で講話 |
平成15年11月14日の当大学での講話が、私のホームページ「塩の津」に掲載しました。レジュメも掲載しましたので、ご覧ください。大学生は、郷土の歴史を愛郷の念で調べ始めることでしょう。 |
| 2003/12/02 [87] 大倉喜八郎さんの啓発 |
私は、大倉さんの歌を座右の銘にしています。「知恵比べ、努力比べの多き世に、ほしきは人の勇気なりけり」です。この言葉は、昭和42年にお茶碗に揮毫した言葉です。私の講演に、よく出てくる言葉です。私と大倉さんとは、18歳で上京したり、海外視察をしたり等良く似た点があります。新潟日報「ミニック」の12月号に、大倉喜八郎さんのことが掲載されました。新発田市でも、最近大倉さんのことが取り上げられるようになってきました。 |
| 2003/12/02 [86] ガンジーの「塩の行進」 |
nhkの「その時歴史が動いた」で、ガンジーの非暴力運動のことが放送されました。イギリス支配と闘う方法として「塩の行進」を取り入れたことを知り、本当に驚きました。やはり、「塩」の持つ力はすごいものです。 |
| 2003/12/02 [85] 広報しばた12月1日号 |
当広報に、出版記念祝賀会のご祝儀と著者の志を合わせたものを、新発田市に寄贈(8月)しました。そのことが、今号に掲載されました。教え子たちの新発田市に対する愛郷の念を感じました。 祝賀会を開いてくれた気持ちと、郷土を大切にする気持ちのあることを知り、感心しました。 |
| 2003/11/25 [84] 「月さら」は都岐沙羅柵 |
中条町の『月さら研究会』が、郷土の歴史を明確にしようと活発な活動を再度開始したとのことです。これは、文芸なかじょう30周年記念祝賀会での会話である。中条町民は、「塩津潟」同様「都岐沙羅柵」を再認識してきました。今後は、全国に向けて発信することでしょう。 |
| 2003/11/25 [83] 北陸農政局等の資料の活用 |
官公庁から、多種多様の資料が刊行されています。私は、上記資料を活用した教育実践を「塩津潟の由来」に掲載しました。 それにアクセスした愛知県の「オルナタティブコミュニケーションズ」様から、連絡がありました。「郷土の歴史を教材化する時の配慮点」についてでした。「官公庁からの刊行物」は、内容もよく吟味され、安価で有用な資料が多いです。 学校現場では、これらの資料をさらに多く活用するべきであると考えています。 |
| 2003/11/25 [82] 県立高校の最近の取り組み |
国立大学の法人化に伴い、県立高校の対処を心配していました。しかし、高校の会議に参加して最近の取り組みを知ることが出来ました。阿賀北地方の大学がある新発田市や中条町は、さらに積極的に取組むべきだと考えています。先般、新潟大学のシンポジュウムに出席してきまた。幼・小・中学校の連携した研究内容と研究組織には、感心しました。大学の生き残りを、強く感じた一日でした。 |
| 2003/11/25 [81] 文芸なかじょう30周年記念祝賀会 |
創刊30周年記念祝賀会は、平成15年11月22日に中条グランドホテルで盛大に挙行されました。約80名の参加者でした。中条町の文化・文芸・教育・歴史・俳句及び短歌等、多岐にわたる内容の創刊30周年です。本当におめでとうございます。 『塩津潟」については、平成6年ころから掲載させていただきました。多くの方々から、読んでいただきました。 今後、ますますの増刊を祈念しています。 |
| 2003/11/21 [80] 「塩津潟は塩の道」の重層構造 |
この著書は、重層的に記述してあります。塩津潟の河川舟運時代と干拓された新田時代。即ち、塩のことと米のこと。中世の塩津潟のことと古代の大和朝廷の越後3つの城柵のこと。塩津潟の現代の様子と未来の未来の希望について等、重層構造にしてあります。是非、ご一読ください。敬和学園他大学の延原教授の書評の通りです。 |
| 2003/11/20 [79] 日本図と越後絵図 |
「伊能忠敬と日本図の関係年表」と新潟県の古絵図等を比較しながら、講話しました。その中に、世界の国々が「日本図」に関心を寄せている年表を、資料として活用しました。 また、中央政府(江戸幕府)が、国を治めるのに「日本図」をいかに重要視したかが伺われます。敬和学園大学の学生は、その点を理解してくれたものと思います。 |
| 2003/11/19 [78] 講話で登場した人物 |
今回の講話で登場した人物は、次の方々です。小原國芳学長、北垣宗治学長、徳川家光、徳川綱吉、伊能忠敬、大倉喜八郎、伊藤孝二郎、延原時行様等々で、それぞれに説明しました。 歴史の経緯を、人間との関わりで講話しました。学生の皆さんは、阿賀北地方の歴史を、見直してくれたものと受け取ることが出来ました。 |
| 2003/11/15 [77] 敬和学園大学で講話 |
平成15年11月14日「塩津潟は塩の道」と題して、講話してきました。学生は、120人以上聴講してくれました。新発田藩の塩作りや塩津潟の新田開発について、歴史的背景をふまえながらお話しました。新発田の郷土史や、新発田出身の大倉喜八郎さんの人生観や生き方を交えて、講話しました。講話後、レポートを読ませていただきましたが、私がメッセージとして発信したことは、理解していることが分かりました。学生の中には、小学校で教えた人が数人いました。とても懐かしく思い、楽しい一日でした。 |
| 2003/11/12 [76] 国立大学から法人化へ |
新潟大学付属幼・小・中の「科学教育シンポジウム」に、先般参加してきました。平成16年度から、法人化になります。確かに、研究内容及び研究方法が、今までとは進展していました。 法人化になると、地域素材に密着した教材をより一層取り扱うことになるでしょう。今後の研究内容に、大きな期待を寄せています。新潟県の『塩の道』も、近日中に取り上げられるでしょう。 |
| 2003/11/11 [75] 「塩の道」の輪が広がる |
阿賀北地方の「塩の道」の輪が、少しずつ広がってきました。その訳は、『塩』に関する話題が各市町村の行政側から、多く聞かれるようになってきました。このことは、合併が進行すると一層「塩の道」のイベント化が加速すると思います。 |
| 2003/11/10 [74] 子どもに対する食教育」に参加 |
新潟県教育委員会主催の「にいがた連携公開講座」に参加してきました。今後は、食農教育の重要性を強く感じました。先人が、潟の干拓を長年継続して、食糧増産に努力してきました。その事実を教育の現場で、もつと大切に取り扱わなければならないと、強く感じました。 |
| 2003/11/10 [73] 文芸なかじょう30周年記念号 |
「塩津潟が新発田市議会に上程」が、30周年記念号に掲載されました。新発田市議会議員が、ようやく認識し、活動を開始しました。新発田藩の新田開発が、新発田市民に認識されてきました。平成15年3月19日のことでした。新発田市の教育の現場でも、児童生徒の「副読本」として、登場できるようになりました。とても大きな成果です。 |
| 2003/11/09 [72] 科学教育を考える会に参加 |
第2回科学教育シンポジュウムに、参加してきました。日本の科学教育は、危機的な状況にあることを再認識してきました。学問的に真実を、正確に探求し伝承していくことの大切を、つくづく感じました。各大学の研究や授業を通しての、検証を急ぐことを強く感じました。合理的な努力を、継続していく必要があると考えています。 |
| 2003/11/09 [71] 大倉集古館名品展を鑑賞 |
新発田出身の大倉さんのコレクションを、鑑賞してきました。「塩津潟は塩の道」にも記述したように、大倉さんの『知恵比べ努力比べの多き世にほしきは人の勇気なりけり』の支えがあったからです。大倉さんの先見性と行動力には、本当に驚くばかりです。 |
| 2003/11/07 [70] 伊能忠敬と日本図 |
江戸開府400年記念特別展「伊能忠敬と日本図」を、参観してきました。「塩津潟」を解明できたのは、多くの古絵図が存在していたからです。同展は、日本の地図の歴史がとてもよく理解することができました。是非、観賞することをお勧めします。 それにしても、伊能忠敬さんの50歳過ぎてからの、「日本図」作成の大偉業に驚くばかりです。伊能さんの人生観を、見習いたいものです。 |
| 2003/11/05 [69] 黒川村から新潟市までの塩の道 |
黒川村の塩沢・塩谷から、中条町の塩津を経由して、新潟港の新潟市まで『塩の道』がつながりました。このことによって、黒川村から新潟市を通って、津川町まで「塩の道」が連携できました。阿賀北地方の、「地域おこし」のイベントに期待しています。 |
| 2003/11/04 [68] 「塩津潟は塩の道」に登場する人物 |
「塩津潟は塩の道」の中に登場する人々は、沢山います。その人たちは、郷土の歴史を大切にしようと心がけた人たちです。それぞれの立場で、いろいろな面で多大なご支援を頂戴いたしました。 多くの人たちのご協力で、刊行にいたったものです。今後も、多くの人々に活用していただきたいと思っています。 |
| 2003/11/04 [67] 文芸なかじょう30周年記念号 |
創刊30周年記念号おめでとうございます。担当者の30年間におよぶ感慨は、ひとしおのものがあると思います。 私は、この記念号に「塩津潟が新発田市議会に上程された」を、掲載させていただきました。中条町民に対して、読んだり書いたりを通して、文学に親しみを持ち続けた30年間だったことと思います。特に、阿賀北地方の先駆的な役割を果たしたと聞いています。記念祝賀会の盛会を、祈念しております。 |
| 2003/11/03 [66] 英国人「イザベラ・バード |
新潟日報は、15年10月15日付けの朝刊で、英国の旅行家「イザベラ・バード」を紹介してます。今回の津川町郷土資料展でも、イザベラを紹介していました。彼女は、会津から阿賀野川を船に乗って新潟を経由して山形県へと旅行しいます。1878年のことです。この頃の河川舟運の様子が、この旅行記によって知ることが出来ます。 私は、新潟日報の記事と、津川町での展示の偶然にとても驚いています。 |
| 2003/11/03 [65] 「阿賀野川」の塩の道 |
『塩の道』の阿賀野川ラインは、新潟市・安田町・三川村・津川町・鹿瀬町と、各市町村の連携が出来、共通の認識が市町村長や行政側に出来上がってきました。 昨日の津川町での「水運の歴史一堂に」を参観して、強く感じました。 |
| 2003/11/02 [64] 水運の歴史一堂に(2) |
津川町役場の「水運の歴史を一堂に」は、河港としての物流の様子が分かり易く展示してありました。佐藤さんや赤城さんや宮川さんから、詳しくお話をお聞きすることができました。 津川町の歴史を、合併した後も児童生徒に正しく伝承する教育活動を継続してほしいと思いました。 |
| 2003/11/02 [63] 水運の歴史一堂に |
「津川の河港と阿賀野川水運」をテーマにした東蒲原津川町郷土資料展が、津川町役場で3日まで開催されています。 新潟県の『河川舟運』が、各市町村で取り上げられています。 |
| 2003/11/02 [62] 港テーマあつく討論 |
「みなとまち新潟」について、10月31日新潟市万代市民会館で開催されました。「新世紀港湾ビジョン」について討論が行われたと新潟日報は伝えていました。 |
| 2003/10/31 [61] 作者と読者 |
私は、今までは「読者」一辺倒でした。この度、「塩津潟は塩の道」を出版してみて、「作者」としての『メッセージ』の発信と伝播力に喜びを感じています。現役時代に、「学級文集」を1年間に5冊編集した経験がありましたが、その子供たちが出版記念祝賀会を開いてくれました。その子供たちも、書くことの喜びを理解してくれたように思いました。 |
| 2003/10/31 [60] 「暮らしの中に生きる図書館」 |
上記の講演を、昨日聞きました。講師は、埼玉県鶴ヶ島市教育長松崎頼行様でした。私は、『まちづくりと図書館づくり』に興味と関心がありました。著書を発刊するにあたり、本当に多くの図書館にお世話になりました。特に、図書館員さんに相談することが多かったです。私のメッセージの中に、「地域おこし」がありますので、大変参考になりました。ありがとうございました。 |
| 2003/10/30 [59] 都岐沙羅柵の比定地は中条である理由(1) |
中条町に「都岐沙羅柵」があったと提唱している人々がいます。 @齋藤修平様(元新潟県立図書館長)A芳賀矢一様(元国学院大学長) B小野まつえ様(中条町)C伊藤國夫(新発田市)D城柵の研究者等々特に、旧築地村の村歌に「史に名高き月さらの〜」があることを見逃せない。中条町の地域おこしに、「都岐沙羅柵」が取り上げられることでしょう。 |
| 2003/10/30 [58] 児童生徒の最近の反応 |
最近、児童生徒の口から「塩」のことや「塩津潟」のことが、私の耳にまで聞こえるようになってきました。さらには、「伊藤先生は本を書いたんですね」というところまできました。子供たちの心の中に、新発田や中条の歴史のことが意識されていることを知り、著者として喜んでいます。 |
| 2003/10/30 [57] 出版記念お祝いと祝賀会のお礼 |
著書の出版に際して、沢山の方々からお祝いを頂戴いたしました。また、祝賀会には大勢の皆様からご出席頂き、祝賀会を盛り上げていただきました。本当にありがとうございました。おかげ様で、著書の売れ行きは好調に進んでいます。地域史の見直しや郷土を愛する児童生徒等が、育成されることを期待しています。 |
| 2003/10/29 [56] 文芸「しばた」の塩津小学校を掲載 |
平成15年10月18日発行の「塩津小学校と塩津中学校」を掲載しました。新潟県の児童生徒と、島根県や愛知県の「塩津」に由来する人々が、交流することを期待しています。 |
| 2003/10/29 [55] 「にいがたの一冊」の全文を掲載 |
平成15年10月12日に、新潟日報に掲載された敬和学園大学の 延原時行教授の「塩津潟は塩の道」の書評をご覧ください。 |
| 2003/10/29 [54] 中条町議会の一般質問を掲載 |
平成15年9月19日の富樫誠議員の質問に対して、熊倉信夫町長が答弁したものを掲載しました。前回の平成12年の中倉教育長が答弁したものより、明確な答弁になっています。 |
| 2003/10/28 [53] 各町村だよりに「塩津潟」が紹介 |
「塩津潟は塩の道」が、各市町村便りに紹介され始めました。このことによって、阿賀北地方の『塩の道』がなお一層イベント化に近づいてきました。先人が営んだ「塩」との関わりが、新潟県民に理解されてきました。 |
| 2003/10/28 [52] 地域学の誕生 |
先般「東北学」という本が、知人から郵送されてきました。内容は、地域に関するものでかなり大冊でした。各大学で、「地域学」に取組み始めていることを知りました。近いうちに、新潟学や長岡学や新発田学というような、地域と密着した学問が活発になってくることを感じました。 |
| 2003/10/28 [51] 図書館担当教師からの激励 |
新潟県内の沢山の「図書館担当教師及び担当者」は、いろいろな本を本当に沢山読んでいます。私は、『塩津潟』や「都岐沙羅柵」の調査には大変お世話になりました。 私が今回出版した「塩津潟は塩の道」について、「よくまとめられましたね」との激励を多く頂きました。この著書を、さらに活用して郷土の発展に寄与できることを願っています。 |
| 2003/10/28 [50] 里創プランの愛称は慎重に |
新潟県内の各市町村は、「地域おこし」に取組んでいます。里創プランの愛称は、新潟県の歴史とも深く関連しているので、慎重に検討して決定するべきものと思います。やはり学問的な配慮が、絶対に必要であると考えます。 |
| 2003/10/23 [42] 「塩の道」の学習状況 |
現在、学校で「塩の道」について学習を進めている学校または教師がおられましたら、お知らせいただくとありがいです。よろしくお願いいたします。 |
| 2003/10/22 [41] 新潟県総合政策部地域政策課へ提言 |
「塩津潟は塩の道」で、各市町村の地域活性化に対する提言をしています。先般、お話し合いをした通りご高配をお願いいたします。 |
| 2003/10/22 [40] 「塩津潟は塩の道」のメッセージ |
「塩津潟は塩の道」のメッセージの中の一つに、小学校・中学校の児童生徒に『自分が持った夢を、実現させてほしい』という、著者の願いが込められています。そのためには、社会科学習等の発展や総合的な学習の時間に、積極的に努力してほしいと思います。 |
| 2003/10/21 [39] 「よみがれ!都岐沙羅柵」 |
上記の主題は、「塩津潟は塩の道」の第7章の内容です。 「つきさらのき」については、是非一読願いたい。中条町の地域おこしに関連して、近いうちに「都岐沙汰羅柵」がよみがってくることでしょう。 |
| 2003/10/21 [38] 新潟県地域振興課のご理解 |
県の地域振興課〔新潟・新発田・村上〕は、都岐沙羅柵について中条町築地が比定地であるという説を、ご理解いただけたものと思います。大和朝廷は、新潟県に3つの城柵を設置しています。つまり、沼垂柵・岩船柵・都岐沙羅柵です。里創プランの愛称としも、史実に基付いた名称を使用するべきだと考えます。今後、一考してくださるようお願いいたします。〔平成15.10・21〕 |
| 2003/10/21 [37] 土木事務所のご理解 |
新潟や新発田及び村上の各土木事務所は、新潟港〜阿賀野川〜福島潟〜加治川〜塩津潟〜胎内川〜岩船港による河川舟運について、一定のご理解を頂いたものと思っています。 |
| 2003/10/21 [36] 最近の便りから |
10月12日の新潟日報「にいがたの一冊」『知の考古学の傑作』を拝見しました。今までも日報紙上でいろいろな形で紹介されていましたが、今回の記事は、あなたの本質を最高に激賞した、価値の高いものと思います。〔n.k〕 |
| 2003/10/21 [35] 最近の便りから |
『「塩津潟は塩の道」の最近の活動状況についてお知らせありがとうございました。付近の小学校・中学校が、先生の御本によって地域の歴史に眼を開かれ、歴史の面白さを知って児童・生徒たちを知的に刺激していくことが、最も願わしいことだと思います。』というお便りが届きました。 |
| 2003/10/18 [34] 都岐沙羅柵に対する中城町民の想い |
旧築地村の皆さんは、村歌の「史に名高き月さらの〜」を、中条町に合併するまでは歌っていたのです。また、「月更工業」は、ずっと以前から経営している会社です。この歌詞の「月さら」とは、「都岐沙羅」のことです。だから、中条町民にとっては、「都岐沙羅柵」は、感懐深い言葉なのです。大和朝廷の、城柵に想いをはせているのです。 |
| 2003/10/18 [33] 市町村長たちとの話し合い |
阿賀北地方の各市町村長たちと「塩の道」について、話し合ってきました。それぞれに地域の活性化に努力しておられました。また、合併問題についても、真剣に取組んでいました。 |
| 2003/10/18 [32] 「塩津潟記念公園』の造成計画 |
中条町の住民の皆さんは、「塩津潟記念公園」の造成計画に、平成10頃年から本格的に取組んでいます。福島潟と塩津潟の「水辺の文化」の交流が、早く開始できることを願っています。 |
| 2003/10/18 [31] 阿賀黎明中学校・高等学校の参観 |
中・高校一貫校の「阿賀黎明中学校・高等学校に、お邪魔する機会がありました。吉田校長先生以下、学校をあげて地域に根ざした教育活動に取組んでいました。今後の卒業生の、大活躍に期待がふくらみます。 |
| 2003/10/18 [30] 新発田市内の5つの高校 |
最近、市内の5校にお邪魔する機会がありました。高校生のさわやかな様子を、目の当たりにすることができした。小学校の時に教えた子供たちから「伊藤先生』と、声をかけられる場面もありました。入試の季節が、すぐやってきます。自分の目当てに向かって、驀進してほしいと思いました。 |
| 2003/10/18 [29] 塩津潟教育研究所の開設 |
平成15年4月に、『塩津潟教育研究所』を開設しました。その記念に「塩津潟は塩の道』を出版しました。2000部を印刷し、8月に販売を開始しましたが、残りが少なくなりました。地域の住民は、地域史の見直しに、深い興味と高い関心を持っています。 多くの方々のご協力に、感謝いたします。 |
| 2003/10/18 [28] 地域振興課から地域振興局へ |
平成15.8.20に平山征夫新潟県知事は、地域の活性化を図る上からも「課から局へ」平成16年4月に格上げをすると、中条町で説明されました。合併後の各市町村で、各地域の振興に力点を置くことでしょう。 |
| 2003/10/18 [27] 都岐沙羅柵の比定地の検討 |
新潟大学等は、「大和朝廷が新潟県に設置した3つの城柵のあった場所」の検討始めました。沼垂柵・岩船柵・都岐沙羅柵が、近いうちに明確になることでしょう。これは、文部科学省の研究指定を受けているからです。 |
| 2003/10/18 [26] 文芸「しばた」に塩津小学校が掲載 |
平成15.10.18に発売された「文芸しばた」に、島根県と愛知県の「塩津小学校と塩津中学校」のことが、掲載されています。 新潟県内の小・中学校の児童・生徒が、「塩の道」という共通点から、総合的な学習の時間等で相互の交流が図られることを期待しています。 |
| 2003/10/18 [25] 町だより「なかじょう」に紹介 |
平成15.10.15の町だよりで、町内の小学校5校・中学校3校の児童生徒に、活用されていることが紹介されていました。 自分たちが生活している郷土の歴史を、正しく学んでくれることを願っています。 |
| 2003/10/16 [24] 主な活動の経過 |
平成15年の主な活動の経過を、紹介しました。詳細については、「塩津潟の由来』をご覧ください。 |
| 2003/10/16 [23] にいがたの一冊〔新潟日報〕 |
平成15.10.12に、新潟日報に「塩津潟は塩の道」の書評が掲載されました。敬和学園大学の延原時行教授は、「知の考古学の傑作」という論評で紹介してくださいました。 |
| 2003/10/16 [22] 中条町議会の定例会議 |
平成15.9.19に、中条町議会に富樫誠議員が、「塩津潟』について熊倉中条町長に質問しました。熊倉町長は、「塩津潟」についての認識を明確に答弁されました。 |
| 2003/10/16 [21] 町だより「なかじょう」に紹介 |
中条町の『塩津」の歴史的事実が、中条町民の皆さんに紹介されました。平成15.9.1のことです。 |
| 2003/10/16 [20] 県立歴史博物館友の会会報 |
平成15.8.31に、上記の会報に「塩津潟は塩の道」の出版のことが紹介されました。新潟県内に、広く紹介されました。 |
| 2003/10/16 [19] 新潟日報「ひととき」に掲載 |
平成15.8.27に、新潟日報の「ひととき」欄に掲載されました。「塩津潟は塩の道」の出版に関する記事でした。私の『塩津潟研究』の様子が、詳しく説明されていました。 |
| 2003/10/16 [18] 平山新潟県知事との集い |
平成15.8.20に、上記の集いが中条町の産業文化会館で開催されました。その時に、阿賀北地方の『塩の道』についての地域おこしの提案を、新発田市での平山県知事との集いに次いで、私がしました。 |
| 2003/10/16 [17] 新発田郷土史会の講演 |
平成15.8.21に、上記の講演会を行いました。演題は、「塩津潟は塩の道』です。4年連続の講演でした。大勢の方が、本当に熱心に聞いてくださいました。 |
| 2003/10/16 [16] 塩津潟は塩の道 |
平成15.8.8に、「塩津潟は塩野の道』の出版記念祝賀会を開催しました。中条グランドホテルにおいて、80数名という大勢の方たちによって盛大に行われました。 |
| 2003/10/16 [15] 新発田市議会 |
平成15.3.12に、新発田市議会において、長谷川晃議員が『塩津潟』について一般質問をしました。新発田市において、『塩津潟』が公式に議会で質疑応答か行われたのは、これが最初のことです。このことによって、学校現場において「新発田藩の塩津潟の新田開発」のことが教材として取り上げられることになります。とても大きな進歩です。 |
| 2003/10/16 [14] 中条町議会 |
平成14.3.7に、中城町議会において、富樫誠議員が「塩津潟』について一般質問をしました。『塩津潟』が、新潟県内において議会で討議されたのが、今回が最初のことです。本当に画期的な議会でした。 |
| 2003/10/16 [13] シポジウム |
平成14.3.3に、「にいがた・沼垂の古環境と歴史像」のシンポジウムで私の意見を発表してきました。 |
| 2003/10/16 [12] 地域素材を教材化 |
平成15.2.28に「地域素材の教材化」で実践記録を発表しました。 |
| 2003/10/16 [11] 県建築士会の講演 |
平成15.2.27に、「塩津潟と新発田藩」という演題で講演しました。このことで、新発田市民に『塩津潟』のことが、一層広く認識されてきました。 |
| 2003/10/16 [10] 新発田ロータリーの講演 |
平成15.1.27に、「塩津潟と新発田藩」という演題で講演をしました。このことが、新発田市議会の一般質問へと発展しました。 |
| 2003/10/16 [9] 敬和学園大学 |
平成15.1.17に、当大学で「塩津潟』のお話をしてきました。それ以来、新発田市においても『塩津潟』が広く認識されてきました。演題は、「塩津潟と新発田市」でした。 |
| 2003/10/16 [8] 『塩津潟 |
このホームページは、平成6年に開設しました。現在は、6412回のアクセスがありました。内容の充実とともに、利用する人が多くなってきています。 |
| 2003/10/16 [7] 塩津潟 |
塩津潟は、大変よく読まれています。 |
| 2002/07/01 [6] ありがとうございます |
お教えいただきましてありがとうございます。 どのような起源をもつ塩水なのか調査してみます。 |
| 2002/06/29 [5] 黒川の塩井について |
黒川村の塩井は、温泉ではないか゜2本現存しています。塩沢・塩谷にあります。 |
| 2002/06/27 [3] 黒川塩井について |
福島県只見、長野県鹿塩など「山塩」の産地の温泉調査を行っているものです。新潟県黒川村にも塩井が存在するという文章を読ませていただきました。 具体的には現在の黒川村のどのあたりを指しているのでしょうか? お教えいただけると幸いです。現在ある温泉の、胎内や樽ケ橋は塩濃度が高くなく、対応する場所を見つけることが出来ませんでした。 よろしくお願いいたします。 |