掲示板から発信 2009

投稿日 投稿内容
2009/12/28(Mon) 10:37

『BESETO美術節・北京展』

中国の北京展の主催者「研究院」から、作品集が、届いた。この美術節は、日本・中国・韓国を巡回して開催されるものである。良寛の歌「藻塩草」を出展した。
『北京展』の「展覧会報告書」が、同封されていた。その中に、【日本文化研究特別功労賞】の賞が同封されていた。
2009/12/28(Mon) 10:04

BM美術の杜

『BM美術の杜』Vol.21に、第15回記念「BESETO美術祭北京展」の報告が掲載された。この北京展に、私は良寛の詩歌「久方の春日に芽でる藻塩草かきぞ集むる和歌の浦わは」を、出展した。
2009/12/28(Mon) 09:58

教職員の休職対策が急務

『平成21年度の教育ニュース』に対して、「教職員の休職対策が急務」が、掲載された。(平成21年12月21日付)
2009/12/28(Mon) 09:54

通学費高額化にも配慮

『高校授業料の無償化』の主題に対して、「通学費高額化にも配慮」が掲載された。(平成21年10月5日付)
2009/12/28(Mon) 09:52

国際化に対応できる

『成人年齢を下げる』の主題に対して、「国際化に対応できる」が、日本教育新に掲載された。(平成21年9月14日付)
2009/12/17(Thu) 10:04

「窓」欄に掲載

新潟日報に「学力向上に“生きた教材”最適」の意見が、平成21年12月15日付に掲載された。
2009/12/17(Thu) 09:58

胎内市で講演

『塩津潟と上城塚と大塚山』という演題で講演をした。大塚山周辺の古墳時代を、中心に話した。
2009/11/19(Thu) 09:03

日本教育新聞

「小学校時代の驚きからライフワークに」が、平成21年11月9日付に掲載された。塩津潟の由来についてである
『塩津潟は塩の道』(初版・二版)やホームページ『塩津潟の由来』や講演等についてが、紹介されている。
2009/11/01(Sun) 20:12

文芸たいない36号

特別特集【私への手紙】に、「“ミスター塩津潟”の國夫様へ」が掲載された。内容は、塩津潟と都岐沙羅柵に関するものである。
2009/11/01(Sun) 20:07

ミニック11月号

「瀬波の渡し」が、掲載された。村上市(旧荒川町)の民話である。ホームページ『塩津潟の由来』が、紹介している。
2009/10/27(Tue) 09:34

飯田素州氏

氏は、新潟日報「窓」欄(10月25日付)で、文中に「中略・・河川から福島潟、塩津潟を使う水運の開けた城が本丸、二の丸と描ける。以下略」と塩津潟を明記している。見出し「笹神は“歴史の宝庫”と再認識」の中で述べている。
2009/10/27(Tue) 09:26

敬和祭

敬和学園大学の「敬和祭」(10月24〜25日)に、『新発田藩の“塩の道”を探求しよう』を一教室に展示した。展示は、古絵図・書・写真・書籍等を、多くの資料や作品を紹介した。詳細は、「芸術関係」の報告を参照されたい。学生・大学職員・市民等々が、大変多く鑑賞してくれた。
2009/10/19(Mon) 09:48

文芸しばた

第35号に、私は「“塩の道”に視点を当てた講演」を寄稿。教員OBに、今年月岡で講演した内容を紹介したものである。40人つかい方々に、県内の「塩の道」について講話した。その様子である。
2009/10/19(Mon) 09:42

新潟教育会美術展

第13回の美術展に、「新発田城前の堀部安兵衛を出展。期日は、平成21年10月14日〜20日。会場は新潟県民会館。新潟日報は、「先生たちも“芸術の秋”」と紙面で紹介している。(10月16日付)私は、殆ど出展している。
2009/10/02(Fri) 17:51

ベルシー太陽芸術祭

フランスで平成21年9月に、開催された芸術祭である。私は、「和の灯火芸術特賞」を受賞した。
2009/10/02(Fri) 17:45

ミニック10月号

「桃川八幡」を掲載した。その中では、敬和学園大学での講話の内容と様子を紹介している。
2009/10/02(Fri) 08:46

敬和祭に参加

「新発田藩の“塩の道”を探究しよう」を、敬和学園大学の尋真館J211教室で開催する。1教室に、四つの視点で展示する。@古絵図の中の“塩津潟”A河川舟運の“水辺の写真”B良寛の“塩”の歌C書籍の中の“塩津潟”である。古絵図は、塩津潟を5篇。写真は、芸術祭に出展した作品を数点。書籍は、著書の他に全国版の書籍を2〇冊等を展示する。副題は、「新発田市の歴史の散歩」である。是非、ご鑑賞してください。
2009/10/02(Fri) 08:33

阿賀野川の川つくり

「阿賀野川のこれからの川づくり」に、参加してきた。阿賀野川河川事務所主催の会に、提言してきた。・河川舟運の歴史や文化を継承する手立てや施設に取り組む。・阿賀野川と地域住民が、水と親しむ生活に取り組む等の提言をしてきた。
2009/09/19(Sat) 08:42

「塩津潟」についての市長の回答

塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)については、市長から回答をいただいた。これは平成21年1月5日の「市長への手紙」に対して回答である。「塩津潟」の存在を、いずれも明記した回答である。
1、新潟市篠田昭市長(平成21年3月5日)
2、新発田市片山吉忠市長・大滝昇教育長(平成21年7月28日)
両市の職員と関連施設に、この歴史認識を徹底すると思う。また、そうなることを願いたい。
2009/09/19(Sat) 08:27

成人年齢の引き下げ

日本教育新聞に、「国際化に対応できる」として掲載された。(平成21年9月14日付)
2009/09/05(Sat) 10:28

「塩津潟の由来」

アクセス数が、40314回に達した。「塩津潟」が、多くの方に認識されている。著書『塩津潟は塩の道』と共に、「塩津潟」の啓発に役立っている。
2009/09/05(Sat) 10:25

BM美術の杜

Vol.20に、「悠久の書芸術の真髄」に私の書が掲載されている。
「わけのぼる道の しおりとなる松は 位なくともうやまれけり」である。私の「塩の道」ライフワークを、支えた歌でもある。
2009/09/05(Sat) 10:19

国立国語研究所

この研究所の出版物に、『塩津潟は塩の道』の内容が引用されるまでに発展してきた。「塩の道」が、広く認識されてきている。
2009/09/05(Sat) 10:17

塩津潟を教材化して

この演題は、高校の教師に講演した演題である。平成19年8月以来3年が経過した。漸く高校の教師にも「塩津潟」が、認識されてきた。
2009/09/05(Sat) 10:14

美術祭北京展

第15回記念BESETO美術祭北京展に、良寛詩(書)を出展した。
○会期 2009年10月18日〜22日 ○会場 北京労働人民文宮
この掛軸は、次の企画展に展示したい。
2009/09/05(Sat) 10:05

越後之歴史地理

吉田東伍博士の著書の中に、「塩津潟」について論文を発表している。大正14年のことである。
「塩津潟』の優位性は、確実である。この他に大木金平氏の『郷土史概論』や池田雨工氏の『越後古代史の研究』等大正時代に3人の学者によって提唱されている。
2009/09/05(Sat) 10:00

ミニック9月号

『ふるさとの民話』に、「大智院の地蔵」(旧神林村)を取り上げる。この中に、新発田学研究センターて゜の「しぱたを古絵図で知ろう」にふれた。
2009/09/05(Sat) 09:56

ミニック8月号

『ふるさとの民話』に、「日本国』(旧神林村)を取り上げる。この中に、「新潟県内の“塩の道”にふれる。
2009/07/09(Thu) 14:56

「しばたを古絵図で知ろう」

敬和学園大学のまちの駅「よろず」に、第11回個展「しばたを古絵図で知ろう」を開催する。《詳細については、ポスター参照》
期間は、7月10日(金)〜17日(金)
午前10時〜午後6時まで
「塩の道」に由来する『塩津潟』の古絵図を、5篇展示する。この他に、写真家としての写真と書家として掛軸を展示する。
大勢の皆さんから、鑑賞していただきたい。
2009/07/09(Thu) 14:48

NHKの「くらしのガイド」

この番組に「新発田朝市・12斉市」が、7月2日(木)5日(金)放映された。私の「ビデオレター」で採用されたものである。これは、新発田の活性化を図るために敬和学園大学の学生が企画したものである。新発田市や学生達が、活動の紹介に一段と自信を得たようである。10月には、今年2回目の「12斉市」を予定している。
2009/07/05(Sun) 04:18

新潟日報の「探る」

今回は、「縄文末の青田遺跡」(新発田)の文中に、「9世紀(平安時代)紫雲寺潟(塩津潟・江戸享保年間に干拓)の・」とある。
しかし、この記述は違っている。現在の認識は、『塩津潟』か『塩津潟(紫雲寺潟)』と記述し、呼称することが圧倒的に多くなってきた。これは、県からの公文書や各市町村史の記述は、「塩津潟(紫雲寺潟)」が圧倒的に多い。この取材に応じた研究者の認識が、時代遅れの感覚だと思う。
2009/06/29(Mon) 09:53

美の黎明祭

「優しき日本芸術のきらめきは生命を救う」の副題で実施された『美の黎明祭』の報告本が、明日届いた。私は、「堀部安兵衛」の写真を出展した。この黎明祭は、4月30日〜5月1日に東京のTFTビルホール1000で開催された。この報告書は、6月30日発行である。
この作品は、「美の黎明芸術鳳凰賞」を受賞した。
2009/06/22(Mon) 09:04

新潟県内の“塩の道”を探る

県内の教員OBに、「新潟県内の“塩の道”を探る」を講演した。講演場所は、「塩の道」と関係深い新発田市月岡である。期日は、平成21年6月20日。「塩の道」を、県内・国内・海外等の三本柱で構成した。「塩の道」と関連する“塩津”や“塩浜”等の地名と結び付けて講話した。「塩の道」が、教育という活動を通して今後ますます認識され、各方面に拡大することは確実である。
2009/06/05(Fri) 10:08

大里峠大蛇伝説

『ミニック』「ふるさとの民話」(6月号)に、大蛇伝説を取り上げた。荒川の「塩の道」についても記述してある。
2009/06/01(Mon) 19:24

「ふるさとの民話」Vol.25

『ミニック』の6月号「大里峠大蛇伝説」が、1日発行された。荒川の「塩の道」を、取り上げた。下越地方は、阿賀野川や荒川の河川舟運による「塩の道」が長く続いた。そのことは、地名や塩津潟等の潟名に残っている。関川村の「せきかわ歴史とみちの駅」に、「塩の道」の常設展示がある。是非ご覧頂きたい。
2009/06/01(Mon) 19:17

「塩の道」活動を報告

糸魚川市を会場に、「全国歴史の道会議」が開幕した。5月28日に、全国から「塩の道」の関係者が集った。新潟県が、会場になることの意義は大きい。下越地方の「塩の道」を、各方面に啓発していく必要がある。新発田市や胎内市は、「塩つくり」や「塩の運搬」に関わった先人の歴史を後世に伝承していく活動は大切である。
2009/06/01(Mon) 19:11

「県地域史研究ネットワーク」

県歴史博物館は、「県地域史研究ネットワーク」の設立準備に取り掛かっている。ねらいは、県内の各郷土史研究会や博物館が持つ幅広い情報の集約を図るという。このネットワークが設立は、「塩津潟」や「都岐沙羅柵」についてより明確な研究結果が明確になる。一日も早い設立が待たれる。
2009/06/01(Mon) 19:03

博物館等の「友の会サミット

第1回「友の会サミット」が、阿賀野市安田の「吉田東伍記念館」で行われた。県内18施設の博物館等の「友の会」会員が、一堂に集った。郷土の歴史歴史が、一層正確に伝承されるサミットが実施された。
2009/06/01(Mon) 18:58

文芸たいない35号刊行祝賀会

創刊以来35年間の『文芸なかじょう』→『文芸たいない』へと発展した祝賀会は、とても盛大なものであった。参会者の中からは、「塩津潟」の復活の話題が多く聞かれた。私は、「塩津潟」や「都岐沙羅柵」について執筆していたことが有意義であったと思う。「塩津道」が、県内外に波及している。
2009/06/01(Mon) 18:52

知事とのタウンミーティングの席上

この会の折に、「塩津潟は塩の道」についてA新聞社の記者に説明した。長岡地方の「塩の道」が、認識された。
2009/05/24(Sun) 11:53

博物館等サミット

吉田東伍記念博物館を会場に、「サミット」を出席した。八つの博物館等の友の会会員が県内から参集した。博物館等に入館者を増やす方法や友の会員を増加させるための話し合いを、熱心に議論した。吉田東伍博士の業績の講演等が、一日びっしりの日程である。
サミット宣言を、採択した。第2回の開会を、期待される。
2009/05/24(Sun) 11:45

新発田学研究センター

上記会議に、県内の「塩の道」の研究について紹介した。塩津潟についても、説明をした。
2009/05/20(Wed) 09:44

青きドナウの旅総集編A

NHKハイビョンは、世界遺産・青きドナウの旅を放映している。Aは、オーストリアのウィーンとザルツブルクである。3年前の旅行は、3人の市長(インスブルック・ザルツブルク・ウィーン)と「塩の道」について対談した。このことを回想した。オーストリアは、『塩』を日本に輸出している国である。インスブルック市長さんからは、「日本とオーストリアとの塩の道の架け橋になってほしい。」と言うお言葉を頂いた。ドナウ川の景色と物流の実態を思い出した。
2009/05/18(Mon) 10:22

「天地人」の塩の道

NHK「秀吉の罠」(5月17日放送)の番組の中では、糸魚川の「塩の道」のことが説明された。越の国の「塩の生産」が、義塩のエピソードが全国に紹介された。
2009/04/10(Fri) 09:51

にいがた地名考

新潟日報は、「由来と歴史」の中で『塩津潟』について掲載している。(平成21年4月10日付)筆者は、県地名研究会会長の長谷川勲氏である。紫雲寺潟ではなく、『塩津潟』の優位性を古絵図や伝説等を例にあげている。『塩津潟』が、私が著書『塩津潟は塩の道』(新潟日報事業部・平成15年8月8日)の中で論述している内容と同じである。この『塩津潟』は、「塩の道」に古来から由来している重要な潟名である。現在の公文書は、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述し、且つ呼称している。
郷土の歴史が、正確に伝承する気運が高まっている。その証拠に、新潟県庁や各市町村から発信される公文書は、『塩津潟』だけで表記することが多くなっている。
私は、50年以上『塩津潟』を研究してきた研究者にとっては、誠に嬉しい限りである。
2009/04/10(Fri) 09:51

郷土研究史あれこれ

新潟日報は、「意外な歴史掘り起こす」のタイトルのもと県内の郷土研究誌を紹介(平成21年4月10日付)している。私は、各郷土史に「塩津潟の由来」や「都岐沙羅柵」等について寄稿している。
本日の紙面で「にいがた地名考」の記事の中で、ようやく「塩津潟」の潟名の由来を紹介している。「紫雲寺潟」でないことが、明確に説明されていた。筆者は、新潟県地名研究会会長の長谷川勲氏である。このコーナーの中では、何度も「紫雲寺潟」が記載されていたが、ようやく『塩津潟』の潟名の優位性が説明された。
新潟県歴史博物館は、関連記事の中に「情報集約へ連携組織」を立ち上げることを明言している。『塩津潟』の歴史が、更に深く探究されると確信している。
2009/04/10(Fri) 09:31

にいがた地名考

新潟日報は、「由来と歴史」の中で『塩津潟』について掲載している。(平成21年4月10日付)筆者は、県地名研究会会長の長谷川勲氏である。紫雲寺潟ではなく、『塩津潟』の優位性を古絵図や伝説等を例にあげている。『塩津潟』が、私が著書『塩津潟は塩の道』(新潟日報事業部・平成15年8月8日)の中で論述している内容と同じである。この『塩津潟』は、「塩の道」に古来から由来している重要な潟名である。現在の公文書は、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述し、且つ呼称している。
郷土の歴史が、正確に伝承する気運が高まっている。その証拠に、新潟県庁や各市町村から発信される公文書は、『塩津潟』だけで表記することが多くなっている。
私は、50年以上『塩津潟』を研究してきた研究者にとっては、誠に嬉しい限りである。
2009/03/25(Wed) 11:12

「ビューポイントマップ」

知事とのタウンミーティングの際に、上記マップを参会者に配布された。このマップには、「塩津潟」が明記されている。この啓発は大きい。
2009/03/25(Wed) 11:10

知事とのタウンミーティング

「レジ袋削減県民運動」(平成21年3月24日)が、新発田市あおり館で開催された。わたしは、スーパーの企業努力とレジ袋の大・中・小の工夫が必要である旨を提言した。
2009/03/12(Thu) 08:52

BM美術の杜

Vol.18に、良寛の歌「春の野に わか葉つむとて 塩入の さかのこなたに この日暮らしつ」が掲載された。(平成21年3月2日発行)伊藤東軒の書である。
松田十蘭先生は、「良寛の書に触発された、新しい書美の追求」との評である。
2009/03/02(Mon) 11:10

ミニック三月号

『ふるさとの民話』の三月号は、「三度栗」阿賀町(旧津川町)が掲載された。阿賀野川ラインの「塩の道」を、取り上げた。
2009/03/02(Mon) 11:06

阿賀北ロマン賞の授賞式

敬和学園大学「新発田学研究センター」の開所二周年記念講演会が、昨日行われた。主題は、「文学を通して地域を考える」。テーマは「体験することー遠藤周作に学ぶこと」を、加藤宗哉氏が語った。第二部は、シンポジウム「越後と文学」だ。「阿賀北と芭蕉」新井明氏、「良寛の文学」を加藤喜一氏、「会津八一」を北嶋藤郷氏だ。このシンポジウムに、私は3点述べた。@新発田の大倉喜八郎を歌人として忘れないでほしい。A芭蕉は、河川舟運の塩津潟を通って新潟へ行ったこと。B良寛は、「山田」を多く使っているが、掛詞になっていると思う。(ア)山の田んぼ、(イ)与板の山田さんの掛詞だ。
第三部の授賞式は、私の「星と月と共に送る生活を続けて」は、大賞にはならなかった。残念!
2009/02/27(Fri) 09:15

にいがた地名考

「由来と歴史」−17ーは、“潟開発促す”と「潟」で記述している。ー15ー・ー16ーは、「紫雲寺潟」と表記している。今回は、「潟」である。新潟県や各市町村から発信される公文書は、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」である。県地名研究会は、「紫雲寺潟」という認識なのだろうか?不思議である。今回は、「潟」という表記であるが、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述するべきであると考える。「塩津潟」が、歴史的な事実である。各市町村史の「塩津潟」が、学問的な研究の成果であり事実である。
県地名研究会も、早く「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と認識することを提言する。会員相互のの共通理解することを、推奨する。この「にいがた地考」を読んだ多くの読者は、不思議に思い、且つ不快に思ったことだろう。
2009/02/23(Mon) 10:09

にいがた協育プロジェクト

昨日このシンポジウムに参加してきた。「希望のステージ」である。基調講演「地域からの学び」の他に、5つのステージの報告があった。@水A山B海C島D雪と、今回の総括シンポジウムだ。
協育プロジェクトは、かなり進展していた。しかし、「にいがたらしさを・・・」と言うのであれば、大小の川と多くの潟の河川舟運(内水面交通)を、もっともっと多く取り上げると良いと思った。
2009/02/23(Mon) 09:57

甦る北越雪譜

同記事ー8ー(平成21年2月21日付)は、〔恵みの川〕の中で「北越雪譜では信濃川を千曲川と表記されている」という。
妻有川が、いつ信濃川になったかを解明するのに重要なことである。千曲川が、新潟県に入ると信濃川になったのかは重要なことである。
十日町地方の「鳥追い歌」に、“信濃の国からおってきた・・・”のと関連が興味深い。
2009/02/13(Fri) 10:25

弥彦神社(伊夜日子神社)

弥彦神社は、西蒲区にある。胎内市にも、伊夜日子神社と弥彦神社が現存する。この2地域の神社が、関連あることに研究者が注目してきた。胎内市の塩津潟と伊夜日子神社・弥彦神社の歴史が、更に解明されることになる。
『弥彦神社』小林存著(大正2年4月発行)と、『越後一ノ宮弥彦神社』藤田治雄著(平成20年9月発行を読んでみた。
この関係を、新潟県地名研究会は近いうちに解明することだろう!
2009/02/13(Fri) 10:10

三条で松雄芭蕉講座

作家金森敦子氏は、県内の足跡を語っている。(新潟日報・平成21年2月13日付)金森氏は、「築地(胎内市)で川船に乗って新潟に入った」と、する推論を紹介している。この場合は、塩津潟⇔加治川⇔福島潟⇔阿賀野川⇔信濃川といあ内水面交通説である。
2009/02/13(Fri) 10:04

由来と歴史ー16ー

にいがた地名考は、「落掘開削」である。享保6年の絵図(1721年)を引用している。しかし、「塩津潟」の越後絵図(1645年)や元禄絵図(1700年)の絵図は、塩津という地名に由来している。
「塩津潟」は、このコーナーにいつ登場するのであろうか?
2009/02/09(Mon) 08:50

第5回マイ コレクション ワールド

新潟県立歴史博物館は「マイコレクションワールド」を、開催している。平成21年2月7日〜3月15日に、多くの鑑賞者が訪れると思う。私は、「歴史関連ポスター」を出品している。
『ポスターが語る日本の歴史』の解説は、「私のマイコレクションは、ポスターである。ポスターの蒐集は、全国からである。南は佐賀県の吉野ケ里遺跡から、北は青森県の三内丸山遺跡等等に及んでいる。各種イベント等の各種ポスターは、日本の歴史を良く物語っている。私のライフワークである大和朝廷が新潟県内に設置した城柵の一つである“都岐沙羅柵”(つきさらのき)と“塩津潟(紫雲寺潟)の由来”を、探求した旅で蒐集したものである。歴史博物館に相応しいポスターを、是非ご覧になってほしい。」
2009/01/29(Thu) 09:17

各市議会に「塩津潟」が再認識

各市の市議会議員は、「塩津潟」の優位性を再認識している。紫雲寺潟は、「塩津潟(紫雲寺潟)」という認識である。この「塩の道」が、地域おこしに活用されている。
新潟県新発田地域振興局が、『ビュー ポイントマップ』(平成20年12月発行)に「塩津潟」を明記したことにより、各市町村は一層自信をましている。
2009/01/28(Wed) 14:09

くらしの短歌

「塩の道 辿り辿りて ザルツブルク 甘い岩塩 味な漬け物」
越のみちネットワーク女性会議主催の短歌に、佳作として展示される。
2009/01/28(Wed) 10:08

与板に塩入という峠

「ひと賛歌」大矢紀さんの記事(新潟日報平成21年1月25日付)に、塩入峠を回想していた。「与板に塩入という峠があって、ふもとに井戸があったんだ。塩分がある水で、みんな一升瓶や桶を持って行列をつくっていたよ。その水で煮ると、ライギョでも何でも結構おいしかったよ。」
私は『ミニック』で「塩入峠」の塩のことを掲載している。戦時中の塩が不足したいた頃は、与板の塩井が役立っていたことを大矢氏は回想していた。
2009/01/26(Mon) 19:03

『振りかえれば日本一』

この本は、保田町長の後に、阿賀野市氏の初代市長の本田富雄の執筆による。副題に、「阿賀野川水運の要衝から道の要衝に発展させた41年間」である。「塩津道」は、新潟〜会津までの河川舟運の歴史を首長として41年間をまとめたものである。吉田東吾記念館の後に、直接会って話をした。本田氏とは、保田小学校時代から認識のある方である。また、伊藤孝二郎黒川村長との関係でも面識のある本田氏である。
今後は、阿賀野川舟運の歴史が、新潟市・阿賀野市・阿賀町の地域おこしに大きく取り上げられる内容である。
2009/01/26(Mon) 18:53

吉田東吾記念館

吉田氏の著書『地名大辞典』には、「塩津潟の転が、紫雲寺潟である」と記述してある。このことを確認すると同時に、新発田地域振興局発行の『ビュー・ポイントマップ』(平成20年12月)は、「塩津潟」となっていることを報告した。紫雲寺潟は、塩津潟が訛ったものであることは多くの研究者によって明確である。そのことを、館長と話し合ってきた。
2009/01/26(Mon) 09:04

恩師からの手紙(2)

柴橋小学校で共に学んだ大兄が、地球をかけ巡り、各種の元首から勲章を賜わるまでに成長しましたね。大兄が帰ったあと、山田校長が書いた良寛さんを巡る立派な文字の手紙をはじめ、分厚い画集等を読みとおしました。私をはるかに越えたとあの時も言いましたが、今後もなお一層お働きを期待しております。(平成20年11月18日)
2009/01/26(Mon) 08:52

恩師からの手紙(1)

「私の教え子というより、世界の伊藤國夫に飛躍しましたね。紫雲寺潟に疑問を持ち、自分の住所地の塩津潟と比べての挑戦はその“しつこさ”というか“熱心さ”というかすさましいものでした。
反面、加治川の桜の名場面の写真という高い芸術性もあり、学会にも信頼されて世界を回った。勲章まで頂いた者に、日本中にいないでしょう。たびたびの発表・展示会に、体のつごうで1回も行けなかったことは申し訳なかったと思っています。「塩の道」の問題提起も、素晴らしい。県内の教育委員会に、子供たちに指導したこともなお一層その情熱に敬意を表します。今後ますます活躍されますように。(平成20年11月10日)
2009/01/26(Mon) 08:34

新年会の紹介文

ホームページ“塩津潟の由来”は、34200回以上のアクセスがあり、
著書「塩津潟は塩の道」等に対して“日本の美を辿る歴史研究博士”に認定されました。(平成20年11月)
2009/01/24(Sat) 11:43

情感豊か史劇熱演

新潟日報(平成21年1月24日付)は、新発田・米子小4年生の紫雲寺潟干拓工事を題材にした史劇」を紹介している。担当者と児童は、塩津潟と紫雲寺潟の歴史的な経緯を、正確に理解しているのか危惧される。その根拠は、昨年新発田市立小・中学校職員に、実際会って聞いてみた。殆どの職員が、塩津潟についての認識はなかった。これでは、郷土の歴史を正確に伝承していくことの危うさが感じられた。
この心配を防ぐには、『新発田市史 上巻』の815頁の誤認・誤記を、『加治川村誌』や『豊浦町史』のように、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」に一日も早く訂正するべきである。
このことは、平成21年1月5日に、新発田市長片山吉忠氏に提言している。近日中に、対応すると思っている。
2009/01/24(Sat) 11:27

にいがた地名考

「由来と歴史」−15ー(新潟日報・平成21年1月23日付)は、紫雲寺潟開発という見出しに驚いた。地名研究会会長の文章であることに2度ビックリした。現在の歴史認識は、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と理解しているのが一般である。この説明文には、「塩津潟」の説明が一切ない。この新聞を読んだ後に、同研究会員から電話がかかってきた。「会長の文にしては、いささか歴史認識を欠いている。」という内容であった。今後に、同研究会で話題になることだろう。私は、研究者一員として期待している。
2009/01/23(Fri) 07:25

地方自治体の地域おこし

新潟市・新発田市・胎内市長岡市等の自治体は、「地域おこし」について積極的に取り組んでいた。「史蹟・ビューポイントマップ」の内容は、各自治体の職員は、とても良く理解していた。このエネルギーは、『天地人』の影響が大きいと感じた。広域の観光対策は、新潟県民に深く根付いている。
「天地人」の今後の展開が、楽しみになってきた。
2009/01/23(Fri) 07:17

吉田東吾記念館

1月22日に、当館を、訪問した。館長と「塩津潟」の、歴史認識について話し合ってきた。新潟県に、「塩津潟」の認識が急速に拡大している事実を知ることができた。新潟市立歴史博物館の、紫雲寺潟にこだわる認識も近日中に訂正されることだろう。
新潟市は、舟運の記念イベントを取り上げている。その時に、信濃川⇔阿賀野川⇔福島潟(島見前潟)⇔加治川⇔塩津潟⇔胎内川⇔荒川の内水面交通の歴史事実を、重要視しなければならないからである。
2009/01/23(Fri) 07:07

新潟県埋蔵文化財調査事業団

当事業団に、「塩津潟」優位性を理事長に提言してきた。館内の説明は、紫雲寺潟(塩津潟)になっているが、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」に訂正するよう各種資料を添付して提言した。
当事業団は、新潟県立歴史博物館の歴史認識と同様「塩津潟(紫雲寺潟)」に近いうちに訂正するものと思う。その根拠は、新潟県新発田地域振興局が、平成20年12月に発行した『阿賀北・新発田地域 ビューポイントマップ』が、「塩津潟」としたからである。吉田東吾氏は、『地名大辞典』の中で「紫雲寺潟は塩津潟の転」と記述している。吉田東吾氏・大木金平氏・池田雨工氏等の先人の研究者が、「塩津潟」が正確な潟名であることがようやく認識されてきた。私の著書『塩津潟は塩の道』が、平成15年8月に発行してから7年が経過した。ホームページ『塩津潟の由来』を、開設して15年目に当る.
2009/01/20(Tue) 20:55

ケータイの有害情報・・・

「ケータイの有害情報から子どもを守る県民の集い」に、参加してきた。新潟県青少年を取り巻く有害環境対策推進実行委員会の主催である。このシンポジウムに、私の体験であるホームページの掲示板や電子メールの体験談を発言した。平成6年からの実践である。ケータイの使い方を、児童生徒に丁寧に教える必要があることを強調して説明した。平成21年1月18日のことである。
2009/01/20(Tue) 20:47

塩津潟を教材化して

この題材は、高等学校の地理歴史公民担当者に講演した。平成19年8月22日である。このたびは、数高校の担当者と話し合って感じたことは、「塩津潟」のことをよく覚えていたことである。
2009/01/20(Tue) 20:34

新潟市役所の訪問

私は昭和52年頃に、「塩津潟」のことについて新潟市史担当者と話し合ったことがある。次は、『塩津潟は塩の道』を出版した平成15年に新潟市教育委員会を訪問し、「塩津潟」の説明をした。今回訪問した担当者は、『塩津潟は塩の道』のことを記憶していた。新潟市は、今後紫雲寺潟ではなく、「塩津潟」を呼称し記述することになると思う。
2009/01/20(Tue) 20:26

『塩津潟は塩の道』の活用

高等学校に、私の著書『塩津潟塩の道』が約100冊が寄贈されている。平成15年のことである。7年目に、数校訪問してみて図書館や社会科の研究室で活用されていることが分った。嬉しい限りである。高校生に、新潟県の正確な歴史を理解してほしい。「塩津潟」が、認識を拡大している様子が確認できた。
2009/01/16(Fri) 18:46

高等学校の教諭に講演

  「塩津潟の教材化」の演題で新潟県内の高等学校の先生に、講演したことが「塩津潟」の認識に役立っている。塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)が、新潟県や各市町村の公文書に使用されるまでに発展してきた。『塩津潟は塩の道み』をね出版した平成15年8月から7年めのことである。
  紫雲寺潟は、1728年から1732年のたった4年間の竹前氏の干拓事業名であることが、一般的に認識されてきている。
2009/01/16(Fri) 18:36

『塩津潟は塩の道』の効果

  『塩津潟は塩の道』の著書が、高等学校の図書館で活用されていることが確認できた。高校生が、郷土の歴史を正しく理解していることに感動している。
  このことは、新潟港を有している新潟市立の小・中学校についても同様のことが言えることが確認されている。
  新潟県内の「塩の道」が、少しずつ認識されてきている。このことは、「塩津潟」が、県民の多くの人々に認識されていることが大きな原動力になっている。
2009/01/14(Wed) 09:56

インカの「マラスの塩田」

NHKハイビジョンは、『失われた文明A』を放映した。「マチュピチュ」である。この中に、「マラスの塩田」の様子があった。山塩である。この塩が、金等の鉱物資源と共に塩が重要な資源であった。
2009/01/03(Sat) 13:16

ビューポイントマップ

新潟県新発田地域振興局が、「阿賀北・新発田地域“史蹟”ビューポイントマップ」を発行した。平成20年12月である。このマップの中に、「7・新発田合戦の説明の地図に、『塩津潟』が記述してある。「塩津潟」の説明は、非常に画期的な内容である。その理由は、「紫雲寺潟」ではないからである。
『塩津潟は塩の道』を、出版して7年目になる。ようやく【塩津潟】が、一般的に認識されてきた。著者とては、本当に嬉しいことである。
2009/01/03(Sat) 13:07

奴奈川姫(糸魚川市)

ミニック1月号に、「奴奈川姫」伝説を、紹介した。新潟県内の神社には出雲系と大和系がある。、古墳時代の伝説は、県内にも多くあることに認識してほしかった。「塩津潟」と「都岐沙羅柵」についても、関連付けてある。