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2006/12/29(Fri) 13:35 687各県の塩津小学校の交流<>各県には、塩田や塩津港の存在を先人は「塩津小学校」や「塩津中学校」と言うように、学校名にして残してくれた。塩津幼稚園も存在した。これらの貴重な固有名詞が、市町村の合併によって消えようとしている。本当に残念なことである。今こそ、各県や各市町村は、「塩津サミット」を開催し、地域おこしやまちづくりにネットワークを組織し、連携を強めると良いと思っている。
2006/12/29(Fri) 13:29 686「塩津サミット」の提言<>「塩津」という地名が存在する県は、7県ある。@新潟県胎内市A石川県七尾市B滋賀県伊香郡C島根県出雲市D和歌山県海南市E静岡県焼津市F愛知県蒲郡市である。この7県の県知事宛に、「塩津サミット」の開催を提言している。その理由は、先人が「塩をつくり、塩を送り出した港」を有している共通点があるからである。郷土の歴史や文化を、各県の地域おこしや教育活動に活用してほしいからである。
2006/12/29(Fri) 13:18 685大本山「玉蔵院<>弘法大師帰朝1200年記念に、奈良県生駒郡平群町信貴山に12月15日いってきた。「現代書家奉納展」のためだ。弘法大師伝説には、「塩の井戸」伝説がある。今回の旅は、「塩の道」に関連する旅でもあった。それは、海南市立塩津小学校・滋賀県の西浅井町立塩津小学校・石川県七尾市の塩津海岸を訪問する旅でもあった。
2006/12/29(Fri) 13:08 684「奥の細道」<>新潟日報は「越後路の謎をたどる」(平成18年12月28日付)を掲載した。胎内市築地に宿泊した後、新潟までの行程について、作家の石堂秀夫氏は、河川舟運の内水面説を記述している。となると、当然「胎内川⇔塩津潟⇔加治川⇔福島潟(島見前潟)⇔阿賀野川⇔新潟の行程が考えられる。≪乙宝寺から新潟へ≫
2006/12/29(Fri) 12:53 683都岐沙羅柵<>胎内市築地の「都岐沙羅柵を語る会」の講話を、12月26日に行ってきた。第4回目だ。都岐沙羅柵についての、最近の情勢にや塩津潟と都岐沙羅柵との関連を講話してきた。
2006/12/23(Sat) 23:29 681「胎内川の恵み」の講演<>新発田郷土史会の講演を、12月21日に行った。5回目になる。年末なのに、多くの方が出席した。5年目の講演だったので、胎内川と塩津潟との関連も丁寧に講話した。
2006/12/19(Tue) 10:14 石川県七尾市中島町塩津を訪問<>七尾市には、塩津海岸があり夏は賑わうという。また、夏には「塩津恋火祭(塩津納涼祭)が、実施されているという。ここにも塩津という地名があり、笠師保駅の付近は、塩津町内会の看板が立っていた。七尾湾一体は、塩の積み下ろしのあった港という感じがした。
「笠師保」の師保は、塩の意味があると直感した。その理由は、海南市の塩津小学校は、一時期に志保津小学校と呼んでいた時期がある。これと同じ例は、新潟県の与板町にある。「志保入」は、「塩入」と同義語である。
2006/12/19(Tue) 10:00 滋賀県伊香郡西浅井町の塩津小学校を訪問<>塩津小学校は、3校目の訪問に当たる。この町には、塩津中学校もあった。校舎は、出雲市や海南市の学校とよく似た環境に驚いた。
この町には、塩津街道があり「塩の道」には、『塩地蔵』があり手厚く守っているという。また、塩津神社と下塩津神社があり、敦賀からの「塩の道」を、大切にしていたことが容易に理解できた。琵琶湖の北辺の港には、塩津中や塩津浜の地名が残っている。
2006/12/19(Tue) 09:51 和歌山県海南市立塩津小学校を訪問<>海南市の塩津小学校を、訪問した。今年の3月に、島根県出雲市立塩津小学校を訪問したのに続いての学校訪問をした。「塩津浦」という港があり、塩田があったこと等を妻木校長先生から、各資料をもとに説明を受けた。塩津浦は、現在下津港となっているようである。
2006/12/19(Tue) 09:45 弘法大師伝説を披露<>新潟県内の「弘法大師伝説」の塩の井戸について、祝賀会の折に披露した。私のライフワーク「塩の道」が、奈良県でも拡がりを見せた。非常に良い「奉納展」なった。
また、信貴山は、聖徳太子が戦勝祈願した場所であり、その意味からもとても良い機会に恵まれた。
2006/12/19(Tue) 09:38 奉納展に参列<>奉納展は、信貴山の頂上の玉蔵院富企画貴閣で開催されていた。多くの「書」を鑑賞した後、午後6時からの祝賀会に参列した。書家の方々と祝賀の宴の美酒に酔う。
2006/11/24(Fri) 12:35 669胎内市の取り組み<>塩を生産した「塩澤・塩谷」の地名と塩を送り出した港(津)の塩津を後世に伝承しようと、「塩津潟記念公園」の造成を計画しているという。
『塩』は、人間の生命維持に欠かせない重要なものである。その塩の生産と運搬に関わった先人の歴史を大切にしようという気運が、高まってきている。
2006/11/24(Fri) 12:30 668阿賀町の取り組み<>阿賀町は、阿賀野川の河川舟運を地域おこしに活用したいと、計画中とのことである。
新潟県内には、「6つの大きな塩の道」があった。その塩の道を、各市町村は『塩』に関わるイベントを、それぞれに計画を進めている。
2006/11/24(Fri) 12:25 667新潟市の取り組み<>新潟市は、『柳都新潟』にふさわしく「信濃川や加治川による河川舟運」について取り組んでいる。渟足柵ー都岐沙羅柵ー磐舟柵という内水面交通の伝承に力を注いでいる。
2006/11/24(Fri) 12:21 666新発田市の取り組み<>新発田市は、新発田祭りに「井上久助の塩止め事件」を演劇で上演した。また、参勤交代の街道を「ウォークラリー」したりして、新発田藩の塩つくりを取り上げた。
2006/11/24(Fri) 09:21 665「塩津サミット」開催<>「塩津」という地名を有する各県(新潟県・石川県・滋賀県・島根県・和歌山県・愛知県等)は、『塩』の生産や運搬に関わる共通する事項から、『塩津サミット』の開催されることに、大きな期待をもっている。「塩津」という共通の歴史や文化を、地域おこしに活用できないものだろうか。
2006/11/24(Fri) 09:00 662塩津火まつり<>「塩津火まつり(塩津納涼祭り)」は、石川県七尾市に実施されている。現在も、継承されている。素晴らしいことです。
2006/11/23(Thu) 14:44 660海外の製塩<>「塩」の輸出国は、多いと思う。その中でもオーストリアやモンゴル国に、私の『塩津潟は塩の道』(英語版を含む)や写真がいっている。外国との交流が、盛んになることを願っている。
2006/11/23(Thu) 14:37 インカの製塩<>『「歴史ロマン・世界遺産』は、「インカの製塩」を紹介していた。山地の製塩は、塩井からの棚田に導いての天日塩であった。私は、胎内市の「塩澤・塩谷」の山塩を思い出していた。
2006/11/17(Fri) 10:11 胎内市美術展覧会<>子の展覧会に、3点「塩津潟に注いだ加治川・福島潟の舟運・津川の川港」を出展しました。第一回の市展は、盛会に開催されていました。今後、益々大きく発展することでしょう。
2006/10/31(Tue) 11:08 657塩津小学校から嬉しい連絡<>島根県出雲市立塩津小学校から、島根日日新聞に掲載された新聞が届きました。『伝統芸能を受け継いで』の大見出しで、平成18年10月4日付です。内容は、「映画“白い船“と神楽を通して地域と学校がしっかりスクラム」でした。半ページに写真が9枚。“塩津っ子“の元気な顔等と諸活動の説明文が紹介されていました。
今年の3月に、塩津小学校を訪問し交流を深めてきました。その時の塩津っ子を回想しながら、新聞を読みました。
2006/10/31

[656] 心ひとつ ふるさと復興
新潟日報(平成18年10月23日付)に、私の文が掲載されました。「“ふるさとは、必ずよみがえる“は、本当ですね。新潟地震のときは、大学2年でした。当時は、かなり大きな災害でした。それでも、新潟県人はへこたれずに見事に復興しました。復興した体験を、県人の中に持っています。“あせらず、あきらめずに、一歩一歩前進する気力を持とう“そのことが《心に太陽》を持つことにつながる。」 中越地震に被災された皆さんに、一日も早く復興してほしいと願っています。
2006/10/31

[655] 会津と越後を語る会
第20回「会津と越後を語る会」が、胎内市で開催された。平成18年10月29日は、盛大であった。この資料には、「塩津潟」について記述されていたものが3点あった。@資料の19ページA市報たいない(平成18年2月1日の11)B中条町史等がありました。 胎内市は、「塩津潟」で統一されています。
2006/10/31

[654] 紫雲寺潟の縁
新潟日報(平成18年10月20日付)に、「紫雲寺潟の縁いつまでも」として新発田市米子小の記事を掲載している。この記事の中には、塩津潟のことは触れていない。 今年度の新発田市の成人式には、代表の挨拶の中に「大きな潟」という表現をしたと聞いています。 このように、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」が、新発田市の教育現場では正しく認識されていない。誠に残念なことです。
2006/10/31

[653] 潟の干拓
新潟日報(平成18年10月17日付)新発田市紫雲寺中「雨に耐え開拓魂養う」この記事の中に、“潟の干拓によって土地を築き上げてきた祖先の開拓者魂に〜“と、塩津潟を潟と表現している。
2006/10/10

[652] 伊藤國夫写真展
写真展『國さんの旅景色』を、平成18年12月2日〜19年1月8日まで新潟市で開催します。是非、ご鑑賞してください。
2006/09/29

[651] 作品永久収蔵証明書
モンゴル国の「和の宝珠美術館」に、『塩津潟は塩の道』が収蔵される連絡があった。  モンゴル国前内閣総理大臣 ツァヒャーギン・エルベグドルジ氏より
2006/09/28

[650] 塩津潟の認識が広まる
「塩津潟」が、各階層に広まってきた。新潟県史の興味が、広がってきたことは好ましいことである。
2006/09/23

[649] 『今、地域では・・・』
新潟日報の連載で『今、地域では・・・』に、私の意見が掲載されました。オーストリアの芸術家との交流の様子を、「大地の芸術祭」と関連した内容です。平成18年9月17日付です。国際交流の実践例を、主張したものです。
2006/09/23

[648] 『和の宝珠展』
モンゴル国において『和の宝珠展』が、平成18年8月11日から3日間開催されました。「悠遠の彼方に輝く日本芸術」が、副主題です。この宝珠展に、『塩津潟は塩の道』の関連するものを出展しました。小泉純一郎総理大臣の、訪問と重なっていたそうです。日本の「塩の道」について、出展できて良かったです。この作品は、『モンゴル栄華芸術賞』に輝きました。
2006/09/23

[647] 『感覚の五重奏』
「モーツアルト生誕250年記念ワイン」の『感覚の五重奏』が、オーストリアの「クロスターノイブルク修道院」で開催されました。平成18年8月16日から3日間です。このワインラベルアートに、『抵抗重力(空中庭園)』を出展しました。この作品に、勲章を授与されたのと連絡がありました。
2006/09/23

[646] 『LIFE work』が好評
『LIFE work』の創刊号が、好評です。この創刊号に、「歴史の真実を探求者」として3ページ掲載されています。平成18年8月10日発行です。
2006/09/14

[645] 中条まつり
9月5日の「中条まつり」に、祝砲が2発打ち上げられた。一つは、『「塩津潟」は副読本に明記され、よみがえった。おめでとう!』二つ目は、『大塚の「ひとかご山」が、古墳と判明した。胎内市の歴史に光明を!』です。良い花火大会でした。
2006/09/11

[644] 塩だき小屋
「恋雪譜」の良寛と貞心尼の77で、寺泊地方の「塩の生成」について、工藤美代子氏は小説の中で記述している。新潟県内の「塩だき小屋」が分かる内容である。(新潟日報平成18年9月9日付)
2006/08/30

[643] 塩屋橘
阿賀町(旧津川町)に、「塩屋橘」があると新潟日報(平成18年8月30日付)は掲載している。阿賀野川の川港に関連することが理解できる。
2006/08/29

[642] アルプスの塩の道
新潟日報は、『えっさ探訪』(平成18年8月29日付)は、「アルプスの塩の道」を掲載した。“世界発信へ官民が連携“は、興味と関心を持った。私は、「塩の道」について昨年オーストリアで、今年モンゴルで啓発しています。新潟県の「塩の道」が、いよいよ全国や世界へ発信されることは、大変嬉しいことです。
2006/08/21

[641] 新潟の産業いま・むかし
新潟県立歴史博物館は、上記の企画展を開催している。この中では、「奈良・平安時代の塩づくり」が展示されている。このコーナーは、常設展示に一日も早くしてもらいたい。同博物館の努力と工夫に期待する。
2006/08/16

[640] 『神秘の金賞』を受賞
『今日の日本美術モナコフェステバル2006』に出展した「翡翠海岸の玉」が、『神秘の金賞』を受賞した。嬉しいことである。
2006/08/15

[639] 渟足柵
『歴史ロマン“日本海道“を行く』のゼミナールで、大阪外国語大学の武田佐知子氏は、「渟足柵」について発表した。しかし、この発表の中では、「都岐沙羅柵」と「磐舟柵」についても言及してほしかった。阿倍比羅夫の船団については、かなり詳しく説明したので、都岐沙羅柵と関連してきたことは有意義であった。
2006/08/15

[638] 「塩津潟」を2イベントで啓発
「塩津潟」を、2つの大きなイベントで啓発することができた。第一に、『遺跡発掘調査報告会』(胎内市・平成18年8月6日)である。第2に、『歴史ロマン“日本海道“を行く』(新潟市・平成18年8月12日)である。この2イベントに、沢山の参会者がいた。と同時に、大学の関係者が参与していたことは有意義であった。今後も、『塩津潟』か『塩津潟(紫雲寺潟)』が広く認識されると思う。
2006/08/15

[637] 『越後加地氏・新発田市氏の系譜』
飯田素州氏は、上記の著書の中で「塩津潟」について記述している。大和朝廷の城柵の一つ「都岐沙羅柵」についても、言及している。発行は、平成17年6月25日である。
2006/08/13

[636] 『美術画報』54に掲載
『美術画報』54に、私の研究と芸術のことが4ページ紹介されている。これは、大泉信夫芸術評論家との対談が掲載されている。平成18年8月20日が、発売開始である。 研究では、「塩津潟」や「都岐沙羅柵」や「塩の道」等のことが紹介されている。芸術では、写真やオーストリアへ昨年旅行し、インスブルック市長・ザルツブルグ市長・ウィーン市長代理(17番区長)とそれぞれ「塩の道」について、話し合ってきたこと等が紹介されている。
2006/08/13

[635] 『LIFE work』に掲載
『ライフワーク』Septenmber.2006vol.1に、3ページ掲載された。「歴史と真実の探求者 伊藤國夫 “塩津潟に50年の歳月を傾けた一教師の姿“である。平成18年8月10日発売である。 新潟県立歴史博物館での、写真が2葉。著書『塩津潟は塩の道』。新発田ロータリークラブの、講演の様子。ライフワークの様子等が、掲載されている。新潟県のことが、全国版で紹介されている。
2006/08/13

[634] 『UNIVERS DES ARTS』に掲載
『UNIVERS DES ARTS』ユニヴェール・デザール誌に、私の作品「水鳥とも語らい」が掲載された。平成18年8月10日発行。この作品は、秋吉和夫氏と特別対談をした新発田市五十公野公園内の「升潟」である。写真のコメントは、「静かな湖とそれを眺める暖かな母子の対比」である。 新発田市の五十公野公園が、全国版で紹介された。
2006/08/13

[633] 「新潟の舟運」
「ふるさと発見歴史ゼミナール」の会場でも、「新潟の舟運」(新潟市歴史博物館の企画展)の宣伝をしていた。が、「川がつなぐ越後平野の町・村」という副題の割には、新潟市だけの舟運の展示にしたのか理解できない。福島潟以北の加治川⇔塩津潟⇔胎内川⇔荒川⇔岩船潟の内水面交通を、絶対に取り上げるべきだと考える。研究者の一人として、視野の狭い新潟市立博物館の対応に、参会者の多くは不満であったろう。
2006/08/13

[632] 山元遺跡
岩船郡神林村大字下助淵字山元に、「山元遺跡」が発掘された。この遺跡は、岩船潟の河川舟運と深い関連のある位置に存在する。弥生時代中期後半〜後期後半(約2000〜1800年前)のものである。この遺跡の特徴は、@日本海側最北の高地性環濠集落A弥生時代後期に東北系土器分布圏で初めて確認された高地性環濠集落B東北系土器を使う人々(文化圏)の集落様相が、把握できる可能性C一つの墓から61点ものガラス小玉は、東日本で有数の出土量。 私が着目しているのは、信濃川⇔沼垂湊⇔阿賀野川⇔福島潟⇔加治川⇔塩津潟⇔胎内川⇔荒川⇔岩船潟の内水面交通の重要性である。
2006/08/13

[631] 『歴史ロマン“日本海道“を行く』
ふるさと発見歴史ゼミナールで、「塩津潟」の河川舟運が説明された。高橋一樹氏(国立歴史民俗博物館)は、「水海と河川のつくる中世の内海世界」の発表の中で、「塩津潟の舟運」について説明した。『越後国絵図』(1645年)を紹介し、「潟湖、河川でつながる交通動脈」は、塩津潟の存在はすぐ理解できる。国立歴史民俗博物館の高橋氏が、説明したことは大きい。同『資料集』には、「沼垂湊からは、阿賀野川加治川といった河川や島見前潟などの潟湖が作り出す水面ルートを使って、塩津潟(紫雲寺潟)に到達することができました。鎌倉時代の塩津潟(紫雲寺潟)では、物資の流通だけでなく奥山荘加地荘に住む人々が漁業を行っていたようです。」記述しいる。このことは、『塩津潟(紫雲寺潟)』と認識していることが分かる。
2006/08/13

[630] 『日本海域歴史体系』が発刊
環日本海の歴史と交流に光を当て、列島の新たな歴史像構成に関する内容である。新潟県の内水面交通の歴史は、さらに解明されていくと思う。新潟県や各市町村は、これらの最新研究を真摯にうけとめ、自らの判断で積極的に受け入れていくべであると思う。郷土の歴史は、後世に正確に伝承していかなければならない。
2006/08/13

[629] 新潟県・新発田周辺の古地図展
私が蒐集した「新発田市周辺の古地図」が、少しずつ威力を発揮しばめてきた。新潟県の様子が解る古地図が、国立公文書館や各大学に所蔵され、且つ展示されていることは非常に有意義なことである。研究者の多くは、これらの歴史史料を活用し、新しい論文を次々と発表するものと思う。
2006/08/13

[628] 中条・城の山遺跡発掘
胎内市の「城の山遺跡」は、古墳であることが昨年の胎内市教育委員会の発掘調査で明確になった。「遺跡発掘調査報告会」では、「城の山」で報告されている。この遺跡は、城氏の墓でないことが明らかになったので、「大塚山古墳」と改名するべきであると思う。胎内市の古代の様子が、今後理論付けられていくと思う。
2006/08/13

[627] 4回の個展が威力を発揮
私は、新発田市で3回・胎内市で1回の計4回の個展を、昨年実施した。このことが、「塩津潟」と「都岐沙羅柵」に対して、大きな影響を与えはじめてきた。これは、『塩津潟は塩の道』を平成15年8月8日に出版したことが、良かったと思っている。
2006/08/13

[626] 西部遺跡の「漆紙文書」出土
この遺跡の発掘は、大和朝廷の城柵に関連する「漆紙文書」が出土し、解明されたことは大きい。県内の三城柵の渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵が、注目されてきたことを感じた。胎内市やその周辺市町村の遺跡に、古墳時代の遺跡が多く発掘され、その現地説明が実施されていることは有意義なことである。
2006/08/13

[625] 遺跡発掘調査報告会
第13回「遺跡発掘調査報告会」が、胎内市で平成18年8月6日に開催された。胎内市教員委員会の水澤氏は、この報告会で内水面交通を論ずるときは「塩津潟が存在することが前提条件である。」と、私の質問に対して回答した。胎内市は、「塩津潟の存在」を明確に認識していることが確認できた。報告会に参会していた方々は、そのことを理解したものと思う。
2006/08/05

[624] 「新潟の舟運」
新潟市立歴史博物館の企画展「新潟の舟運」を、観覧してがっかりしました。「川がつないだ越後平野の町・村」と言う割りに、福島潟で止まっている。福島潟以北の加治川・塩津潟・胎内川・岩船潟・荒川までの舟運の様子を、詳細に展示してほしかった。
2006/08/05

[623] 『漆紙文書』の出土
大和朝廷の城柵と関連する『漆紙文書』が、西部遺跡から出土したことは、都岐沙羅柵や渟足柵の関係で重要である。
2006/08/05

[622] 製塩関連遺構
「西部遺跡」(岩船郡神林村大字牛屋)に、製塩関連遺構が出土していることは、重要なことである。この事実は、今後各方面に大きな影響を与えること必定である
2006/08/05

[621] オーストリアで会うた人と再会
「塩の道」のことで、昨年10月オーストリアのウィーンで会った人と、『大地の芸術祭』で再開していました。その方は、芸術祭に出展している作家だ。ウィーン市長代理と「塩の道」について話し合ったことが、新潟県で確かめることができた。インスブルック市長とザルツブルグ市長とそれぞれには話し合ったことが、有意義であったことが確認できた。
2006/08/05

[620] 新潟県庁内の認識
新潟県庁に所用があったので先日行ったら、担当していた方々は小生の著書『塩津潟は塩の道』を知っていた。県庁内にも、「塩津潟」がかなり広く認識されていることを知ることが出来た。「塩津潟」が、地域おこしに活用される日が近いことを感じた。
2006/08/05

[619] 「塩津潟内の青田遺跡」
『西部遺跡(04北区)』現地説明会(平成18年7月29・30日)では、参加者の中に「塩津潟内の塩津潟のようだ」と言う発言をしていた人がいた。一版社会人の中にも、「塩津潟」は随分認識されていることを感じた。
2006/08/05

[618] ナースステーションに掲載
『ナースステーション』(平成17年10月1日発行)は、小生の写真「古民家とビュー福島潟」が、掲載された。福島潟は、加治川によって塩津潟と連携して、河川舟運の重要な潟である。
2006/08/05

[617] 『悠悠ライフ』に著書が紹介
『悠悠ライフ』(平成18年8月1日発行)は、「私の一冊」のコーナーで小生の著書『塩津潟は塩の道』を、紹介した。紹介文は、「“塩津潟の由来“について、50年間の研究と実践をまとめた書。関連して、新潟県内の“大和朝廷の城柵」である渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵についても記述した実践書。」である。
2006/08/05

[616] 「平安古図」は江戸時代の作
新潟日報(平成18年8月5日付)は、康平図(1060年)と寛治図(1089年)について掲載している。「康平図は、紫雲寺潟が、古い呼び名の塩津潟と表記される。」と、塩津潟の存在を明確にしている。「塩津潟」が、新聞紙上でも塩津潟だけで記述されるようになってきたことは、喜ばしいことである。
2006/06/12

[615] 「塩の道」が地域おこしに活躍
新潟県内の「塩の道」が、各市町村の『地域おこし』に取り入れられることが多くなりました。例えば、糸魚川〜松本ラインのような「塩の道」が、見直されてきました。 現在、「塩の道」の展示装置があるのは、長野県の「長野県立歴史館」と関川村の「道の駅」にある。このような装置を、新潟県立歴史博物館に是非早急に作ってもらいたい。 このことは、私は平成16年1月28日付の新潟日報に掲載されている。この私の提案に対して、新潟県立歴史博物館の小林達雄館長は、平成16年2月18日付の新潟日報で回答を寄せている。この「塩の道」に対する県立博物館の対応は、どこまで進んでいるのであろうか?あれから2年5か月が過ぎている。県内の「塩の道」を、各市町村は合併や地域おこしに、既に取り組んでいる。現在は、「塩」が有り余っているからこそ、先人が苦労して塩を作り、それを運び人々の生命の存続に役立った事実を、構成に正確に伝承することは重要な活動の一つである。
2006/06/12

[614] 「塩津潟」と公文書
公共機関が発行している公文書には、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述してあるものは多い。 @新発田市史        ⇒新発田市 A加治川村誌        ⇒加治川村 B中条町史         ⇒中条町 C新潟県立歴史博物館常設展示時録⇒新潟県 D新潟県地質図説明書    ⇒新潟県 E阿賀北・岩船ふるさと大百科⇒株式会社郷土出版社(長野県) F奥山荘の歴史と江上館   ⇒中条町 Gふるさと中条       ⇒中条町 H胎内川の恵み       ⇒中条町・黒川村 Iわたしたちの郷土 胎内市 ⇒胎内市 J郷土史概論        ⇒大木金平(紫雲寺町) K越後古代史の研究     ⇒池田雨工(紫雲寺町) 等々 このように、塩津潟と関わっている各市町村は、「塩津潟」と「紫雲寺潟」の歴史的経緯を、明確に把握している。そして、各市町村に自分たちの郷土の歴史を、明確に伝承している。特に、胎内市では、小学校用の副読本として教育の現場で、教育活動に役立てている。 この事実を、公共機関の歴史博物館や公文書館や地域振興局の責任者は、重く受け止めてください。そして、早急に対処してください。今までは、「紫雲寺潟」の通称でよい等と無責任な対応を、是非改めてください。特に、県立博物館や新潟県庁から発信される公文書が、担当者に自由に選択させる等のでたらめな姿勢を、近日中に改善してください。
2006/06/12

[613] 紫雲寺潟にこだわる主な理由
「紫雲寺潟」にこだわる機関や担当者の主な理由は、次のようなものが挙げられる。 @「塩津潟」に直すのが面倒くさい。 A270年間も紫雲寺潟できたからそれでよい。 B自分の担当時代にはしたくない。 C「塩津潟」という地名の由来を、考えたくない。 D1270年代の干拓の際、幕府への上申書等で「紫雲寺潟」と用いら れたからそれでよい。 Eその後、新発田藩の公文書等で「紫雲寺潟」が用いられたからよ い・ F現代における通称として優勢になっていたからよい。 G平成12年当時の新潟県歴史博物館開館時紫雲寺を通称と見なして いた。 H新潟県立歴史博物館は、当該潟の呼称を「塩津潟(紫雲寺潟)」 ないし「塩津潟」とする旨の公式見解を出したことは無く、今後 その必要はないものと考えている。 I当該地名について、企画展・講座等催し物にあたっては、各研究 員選攻領域、扱う時代や資料により自由に呼称を選択させてい  る。 J国絵図展示で「塩津潟(紫雲寺潟)」としたのは、絵図自体にこ の名称が記されているからだ。 K「紫雲寺潟」にしたメンツがある。 L「紫雲寺潟」にしても、誰も文句を言わない。 M紫雲寺町の人が、かわいそうだ。 N「塩津潟」と記述された古地図を、探そうとしない。 O他の機関や大学の先生が、「紫雲寺潟」と言っている。 P市町村の合併による自治体の変化は関係ない。 Q先人の「塩」に関わった歴史は関係ない。 R新潟県の歴史は、あまり関係ない。 S「塩津潟」は、どうでもよい。 このように、誠にいい加減根拠や理由から、「塩津潟」と「紫雲寺潟」の歴史事実を解明しようという努力が、見られないのが現状である。本当に、残念なことである。 しかし、『塩津潟と紫雲寺潟の変遷年表』が近日中に解明され、新潟県の歴史が正しく伝承されていく日がくるものと考えている。 各関係機関の一層の探求と努力に期待する。
2006/06/12

[612] 『越佐の地名』
新潟県地名学会の本書は、県内の「塩」の付く地名の研究が掲載してある。最近の、刊行物である。読んでみると、県内の「塩」に関わる内容が含まれていた。また、かなり多くの地名が、県内に存在していることを発表していた。先人が、「塩」とのかかわりを後世に伝承しようという心意気を感じた。
2006/06/12

[611] 新潟大学の対応
新潟大学の先生方の論文を読むと、「塩津潟」と「紫雲寺潟」とに大きく分かれる。新潟大学の「塩津潟と紫雲寺潟の変遷年表」等を明確に提示してほしいものである。 「地盤工学学会」(会場は朱鷺メッセ)では、私の質問に対してが現在存在する古絵図には、一番古いので“塩津潟“を使用している」という学者がいた。「だから、紫雲寺潟を採用している意味が理解できない。」とのことであった。国際的な会議で、同一の潟が「塩津潟」と「紫雲寺潟」と二つあるのは不思議である。最高学府の大学に解決してほしいものである。私の調査では、かなり明確な資料が、多く存在しているので解明は容易であると思う。
2006/06/12

[610] 新潟県の歴史の修正が急務
新潟県の歴史の中で、「塩津潟」と「紫雲寺潟」の歴史事実を明確にすることが急務である。私の調査では、「塩津潟」が正しい潟名であると考えている。「紫雲寺潟」と言うのは、竹前さんたちが塩津潟を干拓した1728 年〜1732年までの干拓事業名にすると、一層明確になると思っている。新潟県は、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と、歴史認識を統一する時機にきている。 しかし、新潟大学・新潟県立歴史博物館・新潟県庁(各地域振興局を含む)・新潟県埋蔵文化財調査事業団・研究者や各機関の学芸員等々は、それぞれ違う認識を持っている。江戸幕府が各藩に命じて作製させた正保二年越後絵図(1645年)や元禄13年の越後国絵図(1700年)には、「塩津潟」と明記してある。しかし、各機関や担当者によって次の4種類が、バラバラ使われている。@塩津潟A塩津潟(紫雲寺潟)B紫雲寺潟C紫雲寺潟(塩津潟)である。 新発田市や胎内市等は、議会で議員の一般質問している。答弁の中では、「塩津潟」の存在を明確にしている。各市町村の議会議事録を読めば、一目瞭然である。また、中条町史・新発田市史・加治川孫村誌等には、「塩津潟」と明記してある現実がある。 にもかかわらず、まだ旧態どおりの「紫雲寺潟」だけで表記しているところが見られる。本当に、残念なことである。 紫雲寺潟が正しいとして採用している根拠を、『塩津潟と紫雲寺潟の変遷年表』等で明確にしてほしい。この統一見解が無いことが、教育の活動現場に大きな悪影響を及ぼしている。例えば、胎内市の小学校用副読本は、「塩津潟の干拓」となっている。新発田市の小学校用副読本は「紫雲寺潟の干拓」となっているる。両市の副読本は、合併後に使用するために作成された最新の教育用資料である。 大学を含めた多くの公共機関は、正しい歴史認識のもとで公文書を作成してください。
2006/06/02

[609] 大塚山古墳の発掘
中条町教育委員会は、中条町塩津の『大塚山古墳』の発掘調査を始めている。出土品には、どのようなものがあるのか今から興味津々である。大和朝廷時代の、城柵に関わる遺物が出土してほしい。 現在、中条町塩津では、大きな発見につながる二つの遺跡が発掘されている。これは、期待できそうである。
2006/06/02

[608] 中条町塩津の遺跡発掘
「塩津潟」の由来ともなった「塩津」の遺跡発掘を、新潟県教育委員会は行っている。場所は、日本海東北自動車道の中条インターの近くである。「塩津館」があったと言われる近くである。「都岐沙羅柵」に関する木簡が、出土することを願っている。
2006/06/02

[607] 川船再生など収録
「阿賀路」第43集を発行の掲載が、新潟日報(平成17年5月31日付)は報じている。新潟県は、古代から「河川舟運」で栄えてきたのである。「川船の再生」はとても大切な事柄である。 阿賀野川の「塩の道」は、着々と蘇ってきている。その意味では、この『阿賀路』は、貴重な資料となる。
2006/06/02

[606] 防人配備を証明
「佐賀中原遺跡出土の木簡」と新潟日報(平成17年5月31日付)は、報じている。新潟県の三つの城柵のうち、渟足柵(沼垂城)は出土している。磐舟柵と都岐沙羅柵の木簡が、一日も早く出土することを願っている。
2006/05/28

[605] 新発田藩主の新田開発を伝承
新発田藩主は、初代から塩津潟を含む新田開発をしてきた歴史的事実がある。私は、2つの櫓(三界櫓・辰巳櫓)の復元と同時に、溝口家の藩政の歴史的事実を市民に一層啓発すべきであると考えている。そのためには、「広報しばた」に何回も掲載したり、新発田市のホームページに早く掲載する等の具体的な手立てが、是非とも必要である。(H16年9月8日記)
2006/05/28

[604] 郷土の歴史を正しく伝承
私は、新発田市の決算審査特別委員会を傍聴しながら、「新発田の歴史は正しく伝承されているのか?」を考えていた。新発田城の二つの櫓は、復元された。東京から取材に来た人たちは、美しい新発田城に驚いていた。その時の様子は、『美術画報』45で全国に紹介されている。城址公園は整備され、良い教育環境が出来上がった。しかし、歴史に関する内容は、どうであろうか?いささか疑問である。例えば、長谷川晃議員が、「塩津潟か紫雲寺潟なのか」を、平成15年3月の新発田市議会で一版質問した。臼井教育長は、「江戸時代前期は、塩津潟と表記されている。」と答弁した。塩津潟については、新発田市において公式に議論された最初の議会である。新発田市の歴史を正しく伝承するための重要で且つ画期的な内容である。(H16年9月8日記)
2006/05/28

[603] 議会議事録は職員に徹底を
新発田市議会で質疑応答された内容は、市職員に徹底するべきです。私は、新発田市役所内の連絡方法と職員研修に、問題があると思っています。例えば、『正保二年越後絵図』が、溝口家から市に寄贈された文化財であることを知らない。この絵図は、江戸幕府の命令によって製作されたものである。これは、新潟県文化財に平成8年指定された貴重なものである。この絵図に記述してある『塩津潟』を、市職員は知らない。新発田藩が、1710年代に塩津潟を新田開発した歴史的事実を理解していない。いわんや、市民もである。平成13年3月市議会に、長谷川晃議員が一版質問している。この内容を、市職員に徹底することが急務である。職員研修の改善を、強く望むものである。私は、新潟県の夢事業の一つ「街道物語」による地域おこしに努力している。そのために、16市町村の長及び担当者と関わっている。その体験から新発田市の対応をみると、早いとは決して言えない。「塩津潟」の一日も早い復活を願っている。(H16.9.7記)
2006/05/27

[602] 部制条例に思う
新発田市と1町一村の合併が、5ヵ月後に迫ってきた。当条例の改正は、当然である。しかし、担当部課長の説明が、とても理解しにくい。各委員からも、質問や意見が続出していた。総務常任委員会は、委員が部課長を指導・助言する場ではないと思う。9月の定例会でも、よく見られた光景である。部課長の指導・監督は、誰の職責なのだろうか?新発田市の行政が「遅い」とか「停滞している」という原因が、この点にもありそうだ。私は、新潟医療福祉大学の「産官学連携講座」に参加してきた。14日間の講座である。初日は、篠田新潟市長が、「2005年度の新潟市政」である。『合併マニフェスト』による市政ビジョンを説明した。新潟市は、来春3月に大合併を行う。感心したことは、「合併マニフェスト」に基づき、説明は非常に分かり易かったことである。新潟県内にも、「マニフェスト」が定着してきた。(H16.12.10記)
2006/05/27

[601] 臨時パート職員の活用・・・?
青木議員が、9日の一版質問した内容である。片山市長の答弁が、12月11日の新潟日報に掲載された。「臨時職員に正職員の点検役を」が、見出しである。「市議提言 市長も前向き」が、小見出しである。この感性と感覚で本当に良いのだろうか?私は、「地方分権と新発田市の経営」を担当する市長や職員や行政職は、「新発田市マニフェスト」を企画できる能力と行動力が、絶対に不可欠であると考えている。「マニフェスト」を企画できる市長・部課長は、自己決定と自己責任において、自己評価が出来る政治家や職員だと思う。新発田市民は、それが出来る政治家や行政職を強く求めているのだと思っている。「アンケートなどの形で吸い上げ、真心対応や職員研修に生かしたい」と言うが・・・?最も重要なことは、「市政の情報公開による透明性」である。部課長以上は、新発田藩の歴史についても、市職員の一版教養の一つとして研修してほしい。
2006/05/27

[600] 市の観光振興を願う
市の観光課題について取り上げられていたが、もう一歩の質問と答弁がほしかった。私は、城下町新発田には観光資源が豊富あると思っている。例えば、歴史的文化財・月岡温泉・海水浴場・緑多い自然景観等々が豊富にある。私は、『美術画報』で新発田の魅力を紹介することが出来た。43号では、加治川桜の景観や新発田藩主による塩津潟の新田開発を、3頁にわたり全国に紹介出来た。また、45号では、新発田城・加治川・城下町・清水園・東公園・ふるさと会館・古四王神社(五十公野地区の歴史ゾーン)・升潟など゛、東京からのお客様3人を案内した。その時の様子が、13頁にカラーで掲載された。秋吉氏との特別対談が、全国に紹介された。12月が、発行日である。新発田市の観光行政は、官は官で出来ることは沢山有る。民間は民間で出来ることを、それぞれに努力している。問題は、何をいつまでに実施するかが重要な観光課題である。(H16.12.8記)
2006/05/17

[599] 塩津小学校が認識される
島根県出雲市立塩津小学校が、広く認識され始めました。塩津小・中学校は、島根県の他に岡山県や愛知県にもあります。それらの市町村や小・中学校の自動生徒が、「塩津」という地名から先人の営みを、後世に伝承する活動を協力しながら取組むことを期待しています。
2006/05/17

[598] 『歴史をつくる・歴史からつくる』
新潟県立歴史博物館で上記のイベントが、平成18年2月11日〜4月2日まで開催されました。『塩津潟(紫雲寺潟)内の遺跡』として、「青田遺跡の写真」を5葉出展しました。塩津潟内の縄文時代の遺跡が、紹介されました。
2006/05/17

[597] 『潟と文化を語る』
「にいがた湖沼フォーラム」が、浸透してきました。平成17年2月27日の発表「塩津潟をしのびその文化の伝承と復元を試みる」が、新潟県民に理解されてきています。
2006/05/10

[596] 『BM美術の森』Vol8発行
『BM美術の森』Vol8が、平成18年4月28日に発行されました。個人特集として『ひとすじの道』が、140〜143頁に掲載されています。私のライフワークの研究・調査と教育実践が、主な内容になっています。是非、ご覧になってください。
2006/05/10

[595] 胎内市の副読本(小3.4年用)が完成
胎内市立小学校3・4年用の『社会科資料集』が、平成18年3月20日発行されました。平成18年度の学習活動に使用されています。この資料集の中に、『7昔のくらしとまちづくり』の(5)「塩津潟の干拓」が記述されています。この「塩津潟の干拓」として学習することは、胎内市にとっては非常に大きなことです。 旧黒川村の塩澤・塩谷の「塩」の産出と、旧中条町の塩津という港が存在していたことを、後世に伝承することができるようになってきました。
2006/04/04

[594] 木簡の解読が進む
徳島県国府町の「観音寺遺跡」から8世紀の木簡出土と、新潟日報(平成18年3月30日付)で紹介しています。〜役人採用時に戸籍調査〜と掲載しています。 胎内市にも、多くの木管が出土しているという。「都岐沙羅柵」に関連する木管が、出土することを願っています
2006/04/04

[593] 『岩船学』創刊号
『岩船学』の創刊号が、編集されたことを新潟日報(平成18年3月31日付)に掲載されていました。今後は、岩船郡の合併と市名に大きな影響を与えるものと思います。 「磐舟郡集落文書で初確認」〜やはりあった佐伯郷・坂井郷〜(新潟日報平成18年4月3日)は、『磐舟柵』と深く関わっているものと考えています。「岩船市」の歴史的価値が、一層高まったものと思います。
2006/04/01

[592] 「フランス式芸術鑑賞」認定メダル
このたび、UNIVERS DES ARTS(ユニヴェールデザール)監修委員会より、日仏芸術交流貢献作家に認定されました。その認定メダルを頂戴しました。この芸術鑑賞は、『抵抗重力(空中庭園)』に対して贈れたものです。 Nicole LAMOTHE(ニコル ラモット)氏は、「最先端建築の強烈な存在感で現代を活写する」と評して下さいました。この写真は、UNIVERS DES ARTSの18号に掲載されたものです。
2006/04/01

[591] 東京で対談
私のライフワークについて、東京で対談してきました。「塩津潟」と「都岐沙羅柵」について、対談してきました。特別対談は、今回で、2回目です。どのようにまとまってくるか、今から楽しみです。
2006/04/01

[590] 博物館だより第15号
新潟県歴史博物館で開催された『歴博友の会創作活動展』の「歴史をつくる、歴史からつくる」の内容が、平成18年3月31日発行のたよりで紹介されました。期間は、平成18年2月11日〜4月2日でした。私は、写真を6点出展しました。「加治川桜の復活」と「塩津潟(紫雲寺潟)内の遺跡」を5点です。今回の出展者は、20名、出品作品は、50数点の展覧会でした。私は、塩津潟内の遺跡の一つである「青田遺跡」の発掘の様子の写真を出展しました。
2006/03/27

[589] 胎内市の古墳時代の解明
新潟県の歴史が、弥生時代から古墳時代へと解明される機運が、高まっていることを感じました。大和朝廷の新潟県内の城柵が、一つずつ解明に向けて進展してきました。阿賀北の歴史が、注目されててきました。嬉しいことです。
2006/03/27

[588] 県北の弥生時代後期の防除的集落
阿賀北地方の「防除的集落」の存在は、興味深い内容です。特に、弥生時代というのが意味深です。
2006/03/27

[587] 島根県の遺跡探訪
この度は、島根県の「神庭荒神谷遺跡」と「加茂岩倉遺跡」を見学してきました。「倭奴国王が、後漢に遣使を送った以前の遺跡です。この見学と『倭国乱の検証』とが、内容が一致しているのに驚きました。「史蹟古津八幡山遺跡の調査」報告と、胎内市の「大塚山(ひとかご山)古墳と、関連が強いように感じていました。
2006/03/26

[586] 「倭国乱」の検証
「戦が西からやって来た?!」のシンポジウムが、3月25日新潟市で開催されました。この資料の中に、塩津山墳丘墓群という地名がありました。「塩津」という地名は、古いということが分かりました。
2006/03/25

[585] 東豊小学校の卒業式
第18回新発田市立東豊小学校の卒業式に、参列してきました。児童たちは、大きく成長していました。小学校で学んだ学習の基礎を、中学校でも精一杯発揮してものです。ご卒業を、心よりお祝い申し上げます。
2006/03/24

[584] 出雲大社の遺跡
「出雲大社」の遺跡に、触れることができました。「古代御本殿」の模型等の各種遺跡について、学習することができました。出雲は、やはり神話のふるさとです
2006/03/24

[583] 『塩津潟の由来』の充実
HPの「新着情報」を、順調に追加しています。「塩津潟」に関するメッセージを、発信しています。アクセス数は、かなり多くなってきました。大変嬉しいことです。
2006/03/24

[582] 私の5冊の書籍が好評
『塩津潟は塩の道』の第2版及び英語版を支援する5冊の書籍@『伊藤國夫個展集』A『塩津潟の書籍集』B『新世紀宮廷芸術祭』C『塩津潟は塩の道出版記念祝賀会』D『新発田市民の声集』が、それぞれに好評を得ているようです。
2006/03/24

[581] 塩津小学校を訪問
島根県出雲市立塩津小学校を、訪問してきました。上越市主催の「歓迎セレモニー」による直江津港(平成17年7月23日)での交流以来でした。当校の卒業式は、17日に終了していました。5年生以下の在校生は、一生懸命に学習していました。歓迎の会をして頂き、感激しました。塩津小学校の皆さん、本当にありがとうございました。私は、「塩津」という土地を訪問した経験は、とても有意義なものになりました。
2006/03/24

[580] PEACE WALL NAGASAKI2006
「ピース ウォール 長崎2006」が、長崎県長崎市の水辺の森公園で開催されました。期間は、平成18年3月17日〜20日でした。私は、19日に鑑賞してきました。私が出展した作品は、@加治川桜の復活A阿賀野川の川港B翡翠海岸C福島潟の朝凪の4点です。新潟県や新潟市や新発田市や阿賀町等の、河川舟運(内水面交通)が私のメッセージでした。新潟県外の多くの人々に、鑑賞して頂いて本当に良かったです。
2006/03/24

[579] 『新発田市民の声集』を発刊
『新発田市民の声集』を3月に、発刊しました。「塩津潟」に対する新発田市民の声等が収録されています。新潟県や新発田市の歴史の見直しに、大きく貢献する書籍になると思います。
2006/03/06

[578] 「新発田市の文化財」47の分析
『広報しばた』3月1日号「新発田市の文化財」の分析は、次のようになります。片山市長や大滝教育長は、「新潟県や他市町村と基本的な認識の違いはない」と回答しています。第1に、この認識から47号の説明は、「塩津潟は、1728年〜1732年まで紫雲寺潟と呼ばれたことがある。」とするのが妥当だと考えます。この潟名は、中心が「塩津潟」です。主語は、「塩津潟」だと思います。第2に、「干拓以前」とは、新発田市教育委員会は1728年以前であると明言しました。第3に、私的な文書です。竹前家・宮川家・神田家の文書で説明しています。この説明の部分を、古文書や古絵図等の公的な史料からも解説するべきであると考えています。
2006/03/03

[577] 塩津潟と都岐沙羅柵
新発田ロータリークラブの卓話で『新発田と都岐沙羅柵』で説明したように、塩津潟と都岐沙羅柵は密接な関連が歴史的にあります。この卓話では、「塩の道」というキーワードで大和朝廷の城柵と塩津潟とは、密接に関連しています。新発田市民は、その事実に早く気が付くことです。下越地方の「塩の道」を、今まで以上に重要視する必要があります。
2006/03/03

[576] 広報しばたで「塩津潟」を紹介
『広報しばた』3月1日号で、「塩津潟」を“新発田市の文化財“47で紹介しました。「紫雲寺潟は、干拓以前は塩津潟て呼ばれ、〜」と記述し、新発田市民に初めて知らせました。このことは、画期的な進歩です。  しかし、まだ歴史的に正確な事実ではありません。新潟県や他市町村では、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述し呼称しています。新発田市は、一日も早く新潟県や他市町村のように「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」として、歴史の事実を新発田市民に知らせるべきです。この事実は、調べてみると誰でもすぐ気が付くことです。
2006/02/28

[575] 「新発田と都岐沙羅柵」
新発田ロータリークラブのタ卓話を、「新発田と都岐沙羅柵」という演題で昨日行いました。新発田市において、「塩津潟」と同様に「都岐沙羅柵」も新発田の歴史として、今後伝承されていくものと思っています。
2006/02/22

[574] 片山新発田市長の回答
片山新発田市長に、公開質問状を提出した。内容は、「郷土の歴史に関する新発田市の対応について」です。質問は、7項目です。片山市長とは、昨年の12月22日市長室で対談しました。今回の質問は、新発田市教育委員会主催の「新生新発田 ふるさとの文化を紹介する展示会」に、紫雲寺潟が前面に表示されることが予想されたので公開質問をしました。2月3日に、市役所の秘書課で質問をしたが理解してもらえなかったので、2月7日文書で質問した。その回答が、2月20日漸く届いた。質問の一つ一つについて、以後掲載していきます。
2006/02/20

[573] 塩津潟教育研究の名前が放映
NHK『地球だい好き 環境コンテスト』のプロットに、「塩津潟教育研究所」の名前が紹介されました。私は、スタジオ入りが送れたためにカメラに写り易い席でなかったので、ほんの少ししか移りませんでした。それでも、当研究所が、環境緑化に努力していることが、全国に紹介されたので良かったと思います。 表彰式には、小池環境大臣やNHKの会長等が出席して実施されました。全国の方々が、環境に対して取り組んでいる様子を知ることができて、大変に有意義でした。
2006/02/17

[572] NHK『地球だい好き』
NHKの公開生放送『地球だい好き 環境コンテスト』に、参加します。日時は、平成18年2月18日(土)午後3:05〜4:00です。私のライフワークの一つに、「学校の環境緑化」があります。新発田市立後免町小学校では、新潟県の「校内環境緑化の特選校」に選ばれました。また、新発田市立外ケ輪小学校では、百週年記念事業として「とがわの杜」を造成しました。この他に、それぞれの赴任校では、「花いっぱい運動」や「花壇コンクール」等に努力してきました。
2006/02/14

[571] BM(美術の杜)の「塩の道」
『BM(美術の杜)』が、2月10日発行されました。この本の中に、『「塩の道」は国境を越えて』というタイトルで、掲載されています。内容は、オーストリアのインスブルック市・ザルツブルク市・ウィーン市の3人の市長との会談の様子や私の著書『塩津潟は塩の道』が、最優秀作家大賞を受賞したこと等です。  「塩の道」については、海外編です。これを機会に、国際間の交流に発展することを願っています。
2006/02/14

[570] 紫雲寺町の合併が影響
新発田市に紫雲寺町と加治川村が、平成17年5月1日に合併したことが、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と呼称したり記述するようになった大きな機会になりました。今年度の合併年にのイベントに、「塩津潟」は1728年以前存在していたことを、新発田市は明確にしました。
2006/02/14

[569] 教育長・市長の回答
「塩津潟」と「紫雲寺潟」の由来等については、新発田片山市長と大滝教育長に公開質問状を提出しています。2月17日頃までに、回答が私に届くと思います。
2006/02/14

[568] 新発田市教育委員会の主催
「新生新発田 ふるさとの文化を紹介する展示会」は、新発田市教育委員会主催でした。そのイベントに、「紫雲寺潟は、干拓以前は塩津潟とよばれていた。」との認識をしました。この干拓以前とは、1728年のことである。」という。この歴史認識は、「塩津潟」が以前から呼称され、記述されていたことを意味します。このイベント以後は、新発田市から発信される公文書には、『塩津潟』か『塩津潟(紫雲寺潟)』と記述されると思います。  今回のこのイベントは、新発田市にとっても非常に重要なイベントだと思います。
2006/02/12

[567] 遺跡周辺の層序模式図
新潟大学の高濱氏・卜部氏の2004年の図『遺跡周辺の層序模式図』の中の「紫雲寺潟出現」(9世紀)とあるのは、「塩津潟」と考えた方が適切であると思います。この内容については、高濱氏や卜部氏には連絡していることです。新潟大学から発信される内容は、「塩津潟(紫雲寺潟)」と統一したものを一日も早く提示してほしいものです。
2006/02/12

[566] 縄文を科学する
新潟県立歴史博物館の荒川隆史氏は、「縄文を科学するー青田遺跡の生活復元ー」を講演した。平成18年2月11日に、紫雲寺潟・塩津潟と同格に扱った認識の講話を2回していきました。レジュメには、紫雲寺潟(塩津潟)と記述してあったが、新発田市教育委員会の案内状にあるように、「塩津潟(紫雲寺潟)」のミスプリントだと思います。新発田市は、1728年以前は、「塩津潟」との認識でこのイベントを実施ているからです。『市報たいない』の平成18年2月1日号には、「塩津潟」と明確に記述し、胎内市民に報じています。このことは、非常に大きな内容です。
2006/02/12

[565] 塩津潟と紫雲寺潟の名称の変遷年表
新発田市生涯学習センターの会場には、「塩津潟と紫雲寺潟の名称の変遷年表」が掲示された。この説明は、「塩津潟」の歴史的存在の確認を、参会者はしたと思う。この時の説明では、まだ不十分であるが、塩津潟と紫雲寺潟の年表でかなり明確になってきたと思う。その理由は、新潟県や胎内市が「塩津潟」と明文化しているからです。
2006/02/12

[564] 紫雲寺潟は干拓以前は塩津潟
「新生新発田 ふるさとの文化を紹介する展示会」の案内状に「紫雲寺潟は干拓以前は塩津潟とよばれていた」という見解を、新発田市教育委員会が公文書に明記したことは、「塩津潟」の呼称及び記述に大きな影響を与えます。この「干拓以前とは、1728年のことだ」という見解も初めてである。今までは、「江戸時代中期」という曖昧に認識に比べれば、すっきりした分かり易い説明である。
2006/02/09

[563] 新潟県歴史博物館の認識を統一する
新潟県の歴史博物館の『常設展示録』の記述のように、「塩津潟(紫雲寺潟)」と早急に統一することが重要と考えます。その旨を、副館長の野口功氏に提言してきました。その理由は、「青田遺跡の展示パネルとビデオ映像が、新発田市生涯学習センターに出展中だからです。同館から発信される内容は、『塩津潟(紫雲寺潟)』と統一されていることが、学問的である。関係各位の早急な対応を、お願いします。
2006/02/09

[562] 塩津潟が、新発田市でも復活してきた
「新生新発田 ふるさとの文化を紹介する展示会」の案内に、『紫雲寺潟は、干拓以前は塩津潟とよばれていた。』と初めて記述した。「この干拓以前とは、西暦に直すといつですか」という質問に、「1728年という」新発田市教育委員会の回答でした。今までの新発田市の認識は、「江戸時代中期」という説明でした。以前よりは、明確になってきたと思います。新発田市生涯学習センターの展示会場には、「塩津潟と紫雲寺潟の名称の変遷年表」が、『竹前兄弟の紫雲寺潟干拓物語』の所に掲示されました。このことは、新発田市には無かったことです。「塩津潟」の存在が、一層明確に市民の皆さんに理解されたものと思います。この変遷年表は、1732年以降は、元の潟名である「塩津潟とする」という認識まで行かないと、歴史に沿っ正しい事実とはいえません。「紫雲寺潟」は、僅か6年間の竹前氏たちの「干拓事業名」と解釈した方が、妥当な歴史認識と考えます。
2006/02/06

[561] 蒙日芸術創世記
『蒙日芸術創世記』〜導かれし日本芸術と神々との対話〜が、1月に発刊されました。私の作品が、2点掲載されいます。「ヒスイ海岸」と「カヌーの少年と海底油田」です。この本は、モンゴル国に配本される本です。糸魚川市と胎内市の海岸が、紹介されています
2006/02/05

[560] 塩津小学校からお便り
塩津潟教育研究所には、塩津小学校から「塩津の由来」について、お便りが届いています。@愛知県の塩津小学校・塩津中学校、A島根県の塩津小学校、B和歌山県の塩津小学校の学校です。これらの「塩津」という固有名詞に共通していることは、「製塩をした土地」とか、「塩を送り出した港」があることです。 以上のような塩津小・中学校の児童生徒の皆さんと、新潟県新発田市や胎内市の児童生徒との交流が開始されることを、私は願っています。
2006/02/05

[559] 市報たいない(2月1日号)
市報「たいない」は、2月1日号に、胎内市の国指定史蹟の説明地図に「旧塩津潟」と明確に記述してあります。また、同市報の18頁に、『旧中条町閉町記念誌の内容訂正』を掲載しています。平成17年8月発行の「紫雲寺潟」と記述した3行目と8行目を「塩津潟」と訂正しています。この市報によって、胎内市民は「塩津潟」の呼称と記述を統一しました。このことによって、胎内市から発行されるすべての公文書は、「塩津潟」と統一されました。
2006/02/05

[558] 大滝教育長に公開質問状を提出
新発田市の大滝教育長に、「塩津潟」と「紫雲寺潟」との認識について公開質問状(2月3日)を提出しました。7項目について、2月7日のイベント前までに明快な回答があります。 平成15年3月の市議会の一般質問に対して、当時の臼井教育長が「塩津潟」の存在を認めてから、新発田市は今日までどのような対策と対応を講じてきたのであろうか。
2006/02/05

[557] 市報たいない(2月1日号)
市報「たいない」は、2月1日号に、胎内市の国指定史蹟の説明地図に「旧塩津潟」と明確に記述してあります。また、同市報の18頁に、『旧中条町閉町記念誌の内容訂正』を掲載しています。平成17年8月発行の「紫雲寺潟」と記述した3行目と8行目を「塩津潟」と訂正しています。この市報によって、胎内市民は「塩津潟」の呼称と記述を統一しました。このことによって、胎内市から発行されるすべての公文書は、「塩津潟」と統一されました。
2006/02/05

[556] 大滝教育長に公開質問状を提出
新発田市の大滝教育長に、「塩津潟」と「紫雲寺潟」との認識について公開質問状(2月3日)を提出しました。7項目について、2月7日のイベント前までに明快な回答があります。 平成15年3月の市議会の一般質問に対して、当時の臼井教育長が「塩津潟」の存在を認めてから、新発田市は今日までどのような対策と対応を講じてきたのであろうか。
2006/01/24

[555] 『広報しばた』の記述に疑問?
2006.1.20号に、「新生新発田ふるさとの文化を紹介する展示会」の記事に、“紫雲寺潟に携わった竹前兄弟の〜“という記事があります。新発田市長及び新発田市教育委員会の見解に、市民の多くは大きな疑問を持っていると思います。その理由は、旧加治川村の『閉村記念村誌』には、『塩津潟(紫雲寺潟)』という潟名で統一しているからです。旧加治川村と旧紫雲寺町を合併した新発田市は、共通の歴史認識を早急に明確にする時機にきていると思います。
2006/01/24

[554] 教員が塩津潟を認識
先日教員の方々と、話し合う機会がありました。その席上で「塩津潟」の話題が出ました。塩津潟については、かなり多くの方が認識していました。
2006/01/15

[553] 皇太子さまが講義
皇太子さまは14日、学習院女子大学で「日本中世の水運について」講義された。皇太子さまは、水上交通の研究をライフワークしています。私のライフワークの「内水面交通の様子」と共通するので、どんな講義をされたのか、興味があります。是非、聞いてみたいです。
2006/01/14

[552] 第4回新潟出版文化賞
新潟県の「出版文化賞」に、私の著書が登録されています。「記録誌部門」です。多くの潟に、『塩津潟は塩の道』と『Shiotsu-gata is the Sait road』です。多くの人々に、読んでほしいと思っています。