−掲示板から発信−

投稿日 投稿内容
2005/12/30

[551] 土居下遺跡
この遺跡は、胎内市塩津字土居下に出土した古墳時代前期の遺跡である。近接に、「大塚山古墳(ひとかご山)」がある。周辺には、古墳時代前期から中期にかけての遺跡が多い。このことは、大和朝廷が、越国の3つの城柵と深く関わっていると考えています。
2005/12/26

[550] 旧築地村村歌扁額修復完成
『都岐沙羅柵=月さら』の歌詞が歌いこまれた扁額が、昨日お披露目されました。芳賀矢一元國學院大學長が、作詞したものです。 胎内市が、『都岐沙羅柵=月さら』の歴史を、地域おこしに本格的に活用するものと思います。
2005/12/24

[549] 新発田市長と対談
片山新発田市長と、「塩津潟」と「都岐沙羅柵」の由来について、全国版の書籍を寄贈しながら、説明をしてきました。22日のことです。新発田市の歴史に対する対応の遅れが、少しは改善されるものと思っています。
2005/12/23

[548] 東京で全国の人達と話し合う
第5回新世紀宮廷芸術祭に出席した皆様とは、東京で「塩の道」について話し合うことが出来ました。
2005/12/10

[547] 新発田市議会で塩津潟を発言
昨日の新発田市議会で、下條議員゛「紫雲寺潟」の説明で「塩津潟」とも言うと、12月定例会で発言しました。このことは、非常に重要な発言で、大きな意味を持っています。 新発田市議会議員の中にも、「塩津潟」を認識してきたことを裏付けています。
2005/12/03

[546] 新潟出版文化賞
新潟日報の紙面に、同文化賞のことが掲載されていました。応募された本の中に、私の著書『塩津潟は塩の道』も掲載(平成17年12月3日付)されていました。
2005/12/03

[545] 第3回トルコ日本現代芸術世界展
トルコのミマールシナン大学で開催された同世界展が、10月20日〜24日まで開催されました。その時の写真集が、届きました。両方の写真集とも、会場の様子が良く分かり豪華版です。作品を出品したものとしては、とても良い記念と記録になりました。 同大学の学生の教材としても、活用されるそうです。この世界展を記念して、記念碑を除幕しました
2005/12/03

[544] 新世紀宮廷芸術祭の写真集
第5回のインスブルック王宮で゛の同展が、10月7日〜14日まで開催されました。その写真集が、昨日届きました。この芸術祭のオープニングが、昨日のことようです。
2005/11/17

[543] 新発田郷土史会の講演
本日、同会の以来により新発田市文化会館で『塩津潟・都岐沙羅柵が復活した要因』というタイトルで、同会5回目の講演をして来ました。新発田市と関わりのある「塩津潟」と「都岐沙羅柵」について、講話しました。私が、新発田市を全国・世界へ発信している様子や、私の個展の様子等を講話することが出来ました。
2005/11/12

[542] 第3回トルコ日本現代芸術世界展
上記世界展が、トルコ共和国イスタンブールのミマール・シナン大学絵画彫刻美術館(BESIKTAS)で開催されました。会期は、2005年10月18日〜20日です。 初日は、美術館前広場にて「モニュメント」の除幕式が、盛大に執り行われました。本展は、トルコ共和国と日本両国間の親善や相互理解に貢献できたと、関係者は喜んでいました。 私は、本展に「加治川桜の復活」と「福島潟の朝凪」を出展しました。これらの作品は、ミマール・シナン大学の教材として活用されるとのことです。また、モニュメントには、出展者の名前が刻印されているそうです。 トルコ共和国民と日本人の友好に、末永く貢献することを期待しています。
2005/11/11

[541] 新潟大学テレビ公開講座
この講座が、明日から始まります。主題は、『新潟・水紀行』です。7回の講座です。新潟県民の、水との関わり方が新潟大学の先生方によって説明されます。制作・放送は、BSN新潟放送です。とても、楽しみにしています。
2005/11/11

[540] BM(美術の杜)Vol6
BM(Vol6)が、平成17年11月10日に発行されました。この本には、私のことが3点掲載されています。1点目は、『伊藤國夫展ー胎内市を全国・世界へ発信展』です。2点目は、『郷土と作家Vol6』です。この内容は、伊藤國夫展・塩津潟・新潟市の芸文会館・糸魚川市の翡翠海岸・新発田城・胎内市の板額御前・伊夜日子神社・奥山荘資料館・シンクルトン記念館・胎内自然天文館・塩津潟等の郷土菓子・『塩津潟の書籍集』・著書『塩津潟は塩の道』等です。3点目は、「世界平和芸術祭」のチューリップフェステバルUです。 今回の掲載内容で、『世界平和芸術伝導師』の認定をいただきました。 この号で、『伊藤國夫がこよなく愛した地“新潟“』が、6頁+2頁にわたって紹介されています。是非、ご覧下さい。
2005/11/11

[539] 信濃川自由大学
新潟市で昨日開催された同大学に、参加してきました。大変大勢の人が、熱心に聞き入っていました。 私は、この講座に2点について発言しました。1つは、新潟市は合併して旧豊栄市まで含むので、新潟市の北の阿賀野市・新発田市・胎内市等についても、是非触れてほしい。2つめは、長野県側は千曲川です。新潟県側は、妻有川の時代があるのに、何時からどんな理由で信濃川に変更したのか明確にしてほしいことです。田中長野県知事は、長野県ではなく信濃県に改名したいと言っています。長野県は、多くの人々が賛成しています。新潟県は、見通しを持って対応してほしいです。
2005/11/08

[538] 「塩の井」栃尾市
栃尾市大野原地区に、塩井「塩の井」が有ります。巣守神社境内に有ります。『ふるさと大百科』の長岡編の206頁に、掲載されています。県内の塩井は、胎内市・与板町・新発田市・栃尾市等に存在します。弘法大師伝説が、各所に伝わっています。
2005/11/07

[537] 「新潟県地名研究会」
新潟市で、10月30日に開催された同研究発表会では「越後における塩地名」が発表されたそうです。その時に、私の著書『塩津潟は塩の道』が、引用されたそうです。 新潟県内の「塩の道」が、少しずつ広まってきているようです。
2005/11/07

[536] 「越後平野の内水面交通」
この演題は、「にいがた連携講座」の主題です。講師は、新潟大学の原 直史氏です。この講座の資料には、「塩津潟(紫雲寺潟)と舟運」と言うように、「塩津潟(紫雲寺潟)」としていました。会場には、『正保二年越後絵図』を展示していました。また、資料にも、越後絵図のコピーを添付していました。 このことは、新潟県立歴史博物館の『常設展示図録』の記述と一致した認識です。県内では、「塩津潟(紫雲寺潟)」が一般的に認識されてきました。史実を直視した、正確な認識だと思います。 質問の段階では、「越後平野の塩津潟の内水面交通は、7世紀まで遡ることが出来ると思うが、原先生のお考えは如何ですか。」という質問と、私の著書『伊藤國夫個展集』と『塩津潟の書籍集』(いずれも平成17年10月1日発行)を、紹介しました。この両書は、「塩津潟」に関する書籍です。この内容は、私のホームページ『塩津潟の由来』に、掲載済みです。
2005/11/07

[535] 中学校同期会の反応
同期会の多くの参会者は、私の著書『塩津潟は塩の道』の出版を知っていました。中には、「買って読みました。」という人もいました。大変に、嬉しかったです。「塩津潟」に関連する著書は、現在6冊目になりました。郷土の人々には、『塩津潟』が地域の人々に与えた恩恵が、少しずつ理解されてきました。
2005/11/07

[534] 食と花のフォーム
「私欲と花の世界フォーラムにいがたプレ2005」が、新潟市で11月4〜6日まで開催されました。4日の「食の国際シンポジウム」に参加してきました。食糧増産にかけた新田開発にも話題が、及びました。産業振興センターでの展示には、佐藤氏の亀田郷の新田開発も展示してありました。私は、新発田藩の塩津潟の新田開発や阿賀野川の日本海への切り落とし工事も、紹介してほしかったと思っています。新潟平野の新田開発は、塩津潟の新田開発等新発田藩の影響が大きい。新潟平野の多くの潟や湖沼を、新田に開発に及ぼした歴史は、新発田藩の新田開発と関連するところが多い。
2005/11/07

[533] 日東道工事が縄文時代を解明
日本海東北自動車道の工事が、縄文時代の様子を解明するのに大きな業績がありました。塩津潟内の「青田遺跡」をはじめ、多くの遺跡の発掘に関連しています。今回の現地説明会の「野地遺跡」や「道下遺跡」は、やはり縄文時代のものでした。縄文時代の、内水面交通と深く関わっているようです。
2005/11/03

[532] オーストリアに私の著書を贈呈
今回のオーストリアでの『芸術祭』の鑑賞に際して、インスブルック市やザルツブルグ市やウィーン市には、私の著書がそれぞれに寄贈されています。オーストリアは、「塩」の輸出国なので、日本の「塩の道」について参考になっていると思います。 私の著書ごる『塩津潟は塩の道』は、オーストリアの他にトルコ・フランス・イタリア・モンゴル・英語圏の国々に発信されています。詳細については、5冊目の著書『塩津潟の書籍集』を参照してください。全国版は、14冊が発信されています。これらの多くの書籍が、「塩津潟の復活」に大きな原動力になることは、明白です。
2005/11/02

[531] 「オーストリア名誉芸術賞」を受賞
『第5回 新世紀宮廷芸術祭2005』に、出展した「加治川桜の復活」と「福島潟の朝凪」に対して、ハプスブルク芸術友好協会より『オーストリア名誉芸術賞』を受賞しました。 私は、当芸術祭の公式鑑賞ツアー(平成17年10月7日〜14日)に、インスブルック宮殿の展示場に行ってきました。オーストリアの人々には、桜並木の古木と現代的なビュー福島潟と隣の古民家の対称が、興味深い様子でした。この受賞を喜んでいます。
2005/10/31

[530] 「塩津潟」の4種類の記述・呼称
私は、「塩津潟」は、古来から「塩津潟」でよいと考えています。 4つの呼称とは、次の名称です。 @塩津潟      ⇒県外の研究者や胎内市や旧加治川村など A塩津潟(紫雲寺潟)⇒新潟県や新潟県立歴史博物館など B紫雲寺潟     ⇒新発田市や旧紫雲寺町など C紫雲寺潟(塩津潟)⇒新潟県埋蔵文化財調査事業団など 以上のように、同じ潟名を4つの記述と呼称で、それぞれに使用しているのが現状です。この変な現象を、新潟県及び全国の学者はどのように考えているのでしょうか。特に、新潟県庁や各市町村の行政人は、どのように受け止めているのだろうか。私は、学者の怠慢だと思っています。新発田市と胎内市は、隣接している市です。そこで学習している児童生徒は、T市では、塩津潟で学習しています。S市では、紫雲寺潟で現在も学習しています。また、同じ大学の中でも、K教授は塩津潟で論文を発表し、T教授は紫雲寺潟で記述するという大きな矛盾をしています。 大半は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)の傾向になってきているので、まだ紫雲寺潟を使用している市町村や研究者には、早く連絡した方が親切だと思っています。それが出来るのは、国立及び県立の歴史博物館の関係者だと思っています。学問としての、郷土史を確立してほしいものです。それは、紫雲寺潟と言われた6年間の年号と内容が、明確になっているからです。このことは、江戸幕府が関わっているので、証拠となる古絵図や古文書が沢山現存するので、結論をだすのは簡単なことです。
2005/10/31

[529] 「紫雲寺潟(塩津潟ともいう)の認識に疑問
『水辺と森と縄文人』の88頁の記述には、疑問があります。青田遺跡の説明の中に、「江戸時代享保18年(1733年)まであった紫雲寺潟(塩津潟とも言う。以下紫雲寺潟とする)の中心部にあたり、縄文時代の遺跡はないと考えられていました。」という記述です。 私の研究では、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟ともいう)」という記述が、古絵図や古文書の立証から正しいと考えています。 このことは、『新潟県立歴史博物館 常設展示録』(16頁参照)の正保越後国絵図の「蒲原郡では、塩津潟(紫雲寺潟)〜」という認識が、最近では大方の認識です。 「塩津潟」としての歴史は、非常に長期間に及んでいます。 ○康平絵図     2005年ー1060年=945年前から ○高井道円譲状案  2005年ー1277年=728年前から ○紫雲寺潟として江戸幕府に干拓請願書を提出した年は1726年           2005年ー1726年=279年前  この干拓事業は、1732年には終了していますので、1733年以降は、塩津潟の古来の潟名で記述・呼称するべきであったと考えます。 ※詳細については、私の著書『塩津潟は塩の道』を参照してください。第1版は、平成15年8月8日に新潟日報事業社から出版されています。第二刷りは、平成16年8月です。英訳版は、平成17年3月に発行されています。 『縄文学』が、発掘調査によって新事実が判明しているように、『塩津潟』についても立証する古絵図や古文書が沢山解明されています。 国立歴史民俗博物館や新潟県立歴史博物館は、史実に基づいた勇気ある決断を望みます。早く結論を提示しないと、何時までも混乱が続きます。研究者や県・各市町村の担当者によって、先人が『塩』をつくり、運んだ潟だったので『塩津潟』という潟の由来が、正しく後世に伝承されません。この歴史的に重要な『塩津潟』が、現在でも4つの潟名で記述と呼称されています。そのために研究者や教育の活動に大きな混乱を引き起こしています。国及び県の歴史博物館の関係者に、努力してくれるよう強く望みます。
2005/10/31

[528] 荒川隆史氏の発表資料に疑問
『木が語る縄文ライフ』(平成17年10月29日)の荒川氏の発表資料に、疑問があります。荒川氏は、「青田遺跡にみる低湿地のムラの様相」の説明で使用した資料が適切でないと思います。それは、「図2紫雲寺地域の模式層序(高濱・卜部2001より)」の資料が適切でない。その理由は、二つあります。一つ目は、高濱氏達は紫雲寺潟か紫雲寺潟(塩津潟)という考えです。これは、新潟県立歴史博物館の塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)という認識と違うからです。二つ目は、図2 の紫雲寺潟の出現は9世紀になっていることです。荒川氏が口頭で説明したように、縄文時代から塩津潟の前身の湖沼は存在していたと思います。その理由は、胎内川をはじめ多くの河川から青田ムラの周辺に湖沼(後に塩津潟となるもの)として存在していたことは明らかです。それなのに図2 では、9世紀に紫雲寺潟が出現したという説です。紫雲寺潟が、言われだしたのは1700年代の後半からです。それに比べて、塩津潟が記述してある古絵図は、『康平絵図』の1060年です。公文書では、胎内市文化財の『高井道円譲状案』の1277年です。この歴史的事実からしても、新潟県立歴史博物館の公文書は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)とするべきであると、私は考えます。その意味で、『新潟県立歴史博物館 常設展示録』の記述や認識に賛成です。 この二つの根拠から、荒川氏が「高濱・卜部説」の資料を引用したことは、不適切だったと思います。 私は、卜部氏に「高濱・卜部説は、前述の歴史的根拠から無理があるのでないか」と直接質問したことがあります。新潟県立歴史博物館は、『常設展示録』の表記に合わせることが賢明と考えます。塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)としての歴史的事実をふまえた統一した見解を一日も早く提示してください。新潟県の歴史を担当している公的機関であることの自覚を、切望しています。
2005/10/31

[527] 木が語る縄文ライフ
新潟県立歴史博物館開館5周年記念展に参加してきました。副題は、−青田遺跡の最新成果からーです。会場は、長岡技術科学大学です。参会者は、大変多かったです。 青田遺跡は、三内丸山遺跡や吉野ケ里遺跡に匹敵する偉大な縄文時代の貴重な遺跡です。その遺跡の木製遺物を、現在まで保存してくれたのは『塩津潟』の湿地です。その塩津潟については、殆ど説明が無かった。本当に、残念なことでした。 新潟県立歴史博物館には、『正保4年越後国絵図』に『塩津潟』が掲示してあります。また、同館の『常設展示録(2000年8月1日発行)』には、「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述してあります。しかし、今回のシンポジウムの資料やビデオには「紫雲寺潟(塩津潟)」か「紫雲寺潟」で説明している。この整合性の無さには、本当に残念なことです。 「地震工学学会」の世界的な学会では、「塩津潟」だけで研究論文を発表している研究者がいました。県内の各市町村では、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」として副読本を編集し、現在学習活動を進めています。 新潟県立の歴史博物館の公式文書が、「塩津潟(紫雲寺潟)」や「紫雲寺潟」や「紫雲寺潟(塩津潟)」と言うような、いい加減な歴史認識では困ります。実際に胎内市や新発田市では、学校教育の現場で非常に困惑しています。新潟県や新潟県立歴史博物館から発信される公文書には、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」のいう統一した見解を一日も早く示してください。『水辺と森と縄文人』の企画展には、東京等の県外者が多く参観しています。新潟県立歴史博物館から発信される公文書に、今回のような塩津潟の認識のズレは、同館の学問の正当性と信憑性が問われます。小林達雄館長の、指導性に期待しています。
2005/10/26

[526] 『ふるさとの宝』の放送
NHKの『ふるさとの宝』の放送内容は、「児童11人と白い船の交流」です。島根県出雲市立塩津小学校の全校児童11人と「白い船との交流」を取り上げたものです。「小さな学校の大きな活動」に、大きな感動をいただきました。10月25日の、全国放送でした。 上越市主催の「塩津小学校歓迎セレモニー」は、今年の7月23日に直江津港で行われました。そのセレモニーには、私も参加していたのですが、「夏休み中の大きな交流行事」を想い出しながら、昨日の放送に見入っていました。『塩津』が、少しずつ国内に広がって着ました。 「塩津っ子」の皆さんに、大きなエールを送りたいと思います。
2005/10/26

[525] 「菓子まつり」
「新潟県菓子まつりinしばた」が、9月30日〜10月2日まで新発田市交流センターで開催されました。県内の多数の菓子が、色鮮やかに展示されました。大勢の参会者(約15000人)が、バイキングコーナーや実演コーナーで美味しいお菓子を知ることが出来ました。 胎内市の西屋さんも、「塩津潟」「月さら」「塩の津」の塩津潟三兄弟の郷土菓子を展示していました。
2005/10/24

[524] 「塩津」地盤の広さが重要
胎内市の「塩津」の大字名が、非常に広いことが重要なことです。新潟県の『古墳時代』の歴史を語るときは、「塩津」という地名の広さと古さが大切になってきました。胎内市の『土居下遺跡』は、やはり胎内市塩津土居下627-2です。この遺跡の周辺には、古墳時代の遺跡が多く出土しています。大和朝廷の城柵の一つである「都岐沙羅柵」が、少しずつ判明してきているように思います。
2005/10/18

[523] 文芸しばた31号
新発田市の『文芸しばた』第31号に、「新・新発田市の合併を記念して個展開催」を寄稿しました。私の『伊藤國夫展』と『新発田を全国・世界へ発進展』のことが、分かり易く掲載されています。『伊藤國夫個展集』と『塩津潟の書籍集』と合わせて読んでいただくとありがたいです。
2005/10/17

[522] ウィーン市長との対談
『写真展』の鑑賞の折に、ウィーン市長と話し合う機会がありました。この話し合いでは、「塩の道」についての会話でした。市長さんは、子どもの頃に拾った「岩塩」を、今でも宝物とて大切にしているそうです。オーストリアは、古来から「製塩」に重点を入れており、近隣の諸国に『塩』を輸出していた歴史があります。 公式鑑賞ツアーの人たちは、味のある美味しい塩をお土産にしたようです。
2005/10/17

[521] ザルツブルグ市長に『塩津潟の書籍集』を贈呈
ザルツブルグ市役所を表敬訪問の折に、私の著書『塩津潟の書籍集』を、贈呈する機会がありました。ザルツブルグは、「塩」との関連が非常に深いので、日本とオーストリアの「塩の道」の掛け橋になれば良いことをメッセージして来ました。
2005/10/17

[520] インスブルック市長と対談
インスブルック市長と、私の作品の前で「桜」や「福島潟の古民家」について、話し合うことが出来ました。王宮内での芸術祭は、荘厳そのものでした。作品鑑賞後は、王宮内でのディナーでした。ワインや料理は、大変美味しかったです。
2005/10/17

[519] 第5回新世紀宮廷芸術祭に参加
オーストリアで開催された第5回『新世紀宮廷芸術祭』に、出席してきました。期間は、平成17年10月7日〜14日までです。公式鑑賞ツアーの活動内容は、『新世紀宮廷芸術祭』のオープニングとその鑑賞。聖ヤコブ協会、アッヘン湖(蒸気機関車・遊覧船)、スワロフスキー・クリスタル・ワールド等がインスブルグ市です。ザルツブルグ市では、大聖堂、モーツアルトの生家、ミラベル庭園、ザルザッハ(塩の川)からの市内観光、ザルツブルグ市役所表敬訪問、ヴァッハウ渓谷のドナウ川、メルク修道院、デルシュタイン、モーツアルト・ディナー・コンサート等です。ウィーン市では、美術史美術館、シェーンブルン宮殿、ウィーン市長表敬訪問、写真展(「富士山展」鑑賞)、帽子博物館等です。 今回のメーンは、インスブルック王宮で開催された『新世紀宮廷芸術祭』に出展している作品の鑑賞です。私は、「加治川桜の復活」と「福島潟の朝凪」です。新発田市の「桜」や新潟市の「福島潟」が、オーストリアの人々にも干渉されたことです。
2005/10/17

[518] 天野遺跡現地説明会
胎内市教育委員会は、「天野遺跡」の現地説明会を行いました。大塚山古墳(ひとかご山)の現地説明会(H17.6.19)の関連しています。古墳時代の遺跡であることが分かりました。やはり大和朝廷時代の城柵〔都岐沙羅柵〕と関連が一層深くなってきました。今後の進展が、とても楽しみです。
2005/10/17

[517] 伊藤國夫個展集
私の書籍は、5冊目の『塩津潟の書籍集』に続いて6冊目の『伊藤國夫集』が出来ました。新発田市で開催した3回と胎内市で開催した1回の個展が編集されています。その他に、『美のオートクチュール』や『塩津潟を全国・世界へ発信』や『塩津小学校との交流』が、編集されています。『塩津潟の書籍集』と、ペアになっています。ホームページ『塩津潟の由来』に、掲載されています。是非ご覧下さい。
2005/10/06

胎内市の土居下遺跡 [516]
道端遺跡と同様に、土居下遺跡の現地説明会が10月8日にあります。発掘の内容が、大いに期待されます。
2005/10/06

[515] 荒川町道端遺跡
当遺跡は、古墳時代後期の建物跡が確認された。この事によって言える事は、胎内市や荒川町周辺に古墳時代の遺跡が多数確認されてきた。この地方には、6〜7世紀まで遡る歴史があるということです。大和朝廷の城柵が、少しずつ身近になってきました。「都岐沙羅柵」が、確認される機会が大変大きくなってきました。
2005/10/05

[514] 塩津小学校同士の交流
島根県の塩津小学校と和歌山県の塩津小学校とは、「塩津」という同名校から交流しているとのことです。新潟県には、「塩澤・塩谷」や「塩津」という地名の集落が有ります。新発田市や胎内市の小・中学校とは、島根県や和歌山県の塩津小学校と交流は出来ないものだろうか。どちらの「塩津」は、塩を作り、塩を運んだ先人の歴史があります。一日も早い交流ができる日を、期待しています。
2005/10/03

[513] 県菓子まつり
新発田市の交流センターで、県内の菓子店がそれぞれの郷土の菓子を展示しました。材料にこるもの、テーマ工夫したもの、参会者が手作りするもの等々、大変な賑わいでした。胎内市の西屋さんは、鶴の子や塩津潟や月さら等の郷土会を出展していました。その様子は、新潟日報の平成17年10月3日付に掲載していました。各市町村の菓子店は、もっと郷土の歴史に関連した菓子を創作することをお奨めしたいと思います。
2005/10/03

[512] 中曽根遺跡現地説明会
荒川町のこの遺跡の発掘は、「西部遺跡」と同様に古代の遺物が確認された貴重に遺跡です。両遺跡は、古代の内水面交通の確認のためにも、大変重要な遺跡であると考えています。私は、大和朝廷時代の城柵の渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵と深い関連を持っているものと推察しています。
2005/10/03

[511] 西部遺跡現地説明会
神林村牛屋の「西部遺跡」の現地説明会が、平成17年10月1日に行われました。古代の様子や製塩土器の出土が、確認された貴重な遺跡です。
2005/10/03

[510] 古民家とビュー福島潟
『ナースステーション』10月号に、「古民家とビュー福島潟」の写真が掲載されました。福島潟の水辺で、人々が心を癒されることを願っています。
2005/10/03

[509] 『伊藤國夫の個展集』を発行
私の4回の個展が、ここの個展集に集約されました。個展の様子が、一層分かりやすくなりました。近日中に発行されます。是非、ご覧になってください。
2005/10/03

[508] 「塩津潟」の書籍集
『塩津潟の書籍集』が、出来ました。この書籍集の発行によって、「塩津潟」が全国に発信されることが容易になりました。
2005/10/03

[507] 「塩津っ子」のお便り
直江津港での「歓迎セレモニー」の様子が、その時の写真と児童からのお手紙によって、よみがえってきました。塩津小学校の皆さんの貴重な体験と思い出深い感動の様子を、NHKの放送によって見れるかと思うと、今から楽しみです。
2005/10/03

[506] 塩津小学校の「学校だより」が届いた
上越市が主催した「塩津小学校歓迎セレモニー」の様子が、掲載された学校だよりが届きました。夏休み中の大きな行事「ニューれいんぼうらぶ」の乗船が、無事に終了することが出来、元気に二学期が始まったことが分かりました。「塩津っ子」の元気な活動を、新潟からも期待しています。この体験学習の様子が、NHKの放送が10月に放送されるそうです。「塩津っ子」の大きな大きな活動を、是非見てください。
2005/10/03

[505] 乗船のお礼
「白い船 ニューれいんぼうらぶ」乗船のお礼が、島根県出雲市立塩津小学校の大森校長先生から届きました。塩津潟教育研究所ならびに新発田市の発展の祈念をしていただきました。「塩津」という固有名詞が取り持った交流でした。
2005/09/15

[504] 『美のオートクチュール』
2006年春夏コレクション『美のオートクチュール』が、駐日トルコ共和国大使館で昨日盛大に開催されました。私の「加治川桜の復活」と「福島潟の朝凪」という作品が、ワンピースになって披露されました。2006年の春に相応しいデザインに、仕上がっていました。私の手元に、10月中にそのワンピースが届きます。今から、とても楽しみです。
2005/09/05

[503] 個展のお礼
私の個展『新・胎内市を全国・世界へ発信展』が、昨日終了しました。4回の個展を合わせて約1500人が鑑賞してくださいました。沢山の皆さんに、長年かけて収集した古絵図や教師になってから始めた写真や自書を含めた各種書籍の数々を、観ていただきました。本当にありがとうございました。
2005/09/03

[502] モンゴル国の総理大臣から推薦状
『Gallery G』に掲載された「児童生徒と夢を育んで半世紀」という提言が、モンゴル国の総理大臣の目にとまりました。この本は、日本の文部科学省の「子どもの居場所づくりキャンペーン」です。私の座右の銘である「進みある教師こそ人を教える権利あり」という『塩津潟の由来』を、半世紀にわたりライフワークにしてきた実績が、評価されたようです。大変嬉しい気持ちで一杯です。ありがとうございます。
2005/09/03

[501] 『高志の城柵』
新潟大学の教授から『高志の城柵』という著書が、贈られて着ました。この著書の中には、「都岐沙羅柵」についても記述してあります。旧中条町教育委員会の大塚山(ひとかご山)の発掘調査の結果は、「古墳時代の古墳」であることが確認されました。そんな時期に、『高志の城柵』という著書が発刊されたことは「都岐沙羅柵」が、今後さらに認識されることが多くなるものと思います。このように、新潟県内の大和朝廷の城柵が、俄然注目されてきました。私の著書『塩津潟は塩の道』(平成15年8月発行)の中に、「都岐沙羅柵」という章があることに、自信を深めています。
2005/09/03

[500] 『黒川のあゆみ』
黒川村閉村記念誌が、届きました。カラー写真を多く取り入れた分かり易い記念誌です。この中には、「塩津潟」のことも記述されてあります。新胎内市の市民として、今後の益々の発展を祈念しています
2005//

[499] 第4回目の個展がオーブン
新・胎内市の誕生をお祝いして、『胎内市を全国・世界へ発信展』を昨日オープンしました。中条まつりの期間中なので、グットタイミングでした。入場者は、研修会にきている人など多くの人々が、鑑賞してくださいました。
2005/09/03

[498] 都岐沙羅柵・塩の津
「中条まつり」のことで、胎内市の西屋さんが郷土菓子『都岐沙羅柵』と『塩の津』を、新潟日報に掲載していました。胎内市の「大塚山古墳(ひとがご山)」を、平成17年6月19日に現地説明会で「古墳である」あると確認しました。今年の大発見の年に、大和朝廷時代の『都岐沙羅柵』を掲載したことは、グットタイミングだったと思います。
2005/09/01

[497] 胎内市を全国・世界へ発信展
胎内市が、平成17年9月1日に誕生しました。合併を記念して、『胎内市を全国・世界へ発信展』を、9月2日〜4日まで胎内市産業文化会館で行います。多数の皆様のご来場を、お待ちしています。
2005/08/31

[496] 塩津潟と都岐沙羅柵の認識が拡がる
新潟県庁の4つの部署と話し合いをしてきましたが、どの部署の担当者も「塩津潟」と「都岐沙羅柵」については、よく理解していました。今後の課題は、各市町村の取り上げ方にかかっています。地方分権の時代です。自分たちの郷土の歴史は、自分たちで主体的に決定する時代が到来しています。
2005/08/27

[495] 三浦雄一郎氏の講演
黒川村閉村記念講演『三浦雄一郎の「元気力」』を、拝聴してきました。プロスキーヤーとしての、三浦さんの考え方と生き様について、存分にお聞きすることが出来ました。あっという間の、90分間でした。  三浦さんと北海道大学の高松教授と村越教授について、お聞きすると両氏とも存じ上げていました。私は、高松・村越両氏に大変御世話になったので、懐かしくなりました。私の若い頃を、想い出していました。  その席上に、『知事と語るタウンミーティング』の「新発田地域の農業振興を目指して」の佐藤コーディネーターに合うことが出来、当日のことについて話し合うことが出来ました。この時の私の提言が、糸魚川会場での意見発表に大変有効でした。  この会場に、私の講演を聞いて下った方々や、私の個展を見てくださった方々と会うことが出来て嬉しかったです。
2005/08/26

[494] 泉田知事と語る
「知事と語るタウンミーティング」の糸魚川地域に昨日参加してきました。私は、「糸魚川市の“塩の道“と“翡翠“を、地域の活力アップに取組むこと」を提言してきました。日本の宝とも言うべき「翡翠」と「塩の道」を、『歴史街道』にのせて全国に発信し、観光面にも重点化することを提案しました。その提言の根底には、新潟県全体が「塩の道」を有しているからです。現に、各市町村は、「塩津道」を地域の活性化に、取り組んでいるからです。
2005/08/13

[493] 小金昭様
日本でも、小金様が記述している方法で製塩していたものと思われます。「土塩」と「澤が白かった」という伝承からは、推察できます。黒川の場合は、何時まで遡るのかははっきりしていません。しかし、黒川での製塩は、昭和22年頃まで行われていたことは分かっています。塩井の成立は、温泉の湧出や原油の湧出の頃まで遡るものと思っています。
2005/08/10

[492] Re[483]: 土塩について(2)
拝復 ご教示いただき有難うございます。塩井があるとの事、貴ホームページでも拝読いたしました。まだ知識貧弱にて理解不足の所多々ありますが、その塩井の成立はいつ頃まで遡るのでしょうか。「井」と言うからには人間が掘削して鹹水を汲み出す物で、鹹水が自然湧出する塩泉とは異なると思ったのですが。井戸を掘っていたらたまたま塩辛い水が出たのか、それとも最初から製塩用の鹹水を得る目的で井戸を掘削したのでしょうか。しかし、いずれにせよ塩井が掘削されるはるか昔は、なめると塩辛い土(土塩)のある場所として、狩場として猟師が熟知する動物の「塩なめ場」などとして存在が認識されていたのではないでしょうか。そして、塩分を多く含む土壌を水に溶かし、鹹水を抽出し、それを煎熬して塩を得るなどの細々とした習俗が、塩井が掘られる昔に行なわれていたのではと想像した次第です。何故かような事をお尋ねするかと申しますと、このような習俗が中国(旧満州)や中世ヨーロッパ(ドイツ)記録に残されているので、日本にも同様な事例が行なわれていたのではと愚考したためです
2005/08/10

[491] 「蒲原のあけぼの」展
新潟市歴史博物館の「蒲原のあけぼの」展について甘粕健館長は、新潟日報(平成17年8月9日付)に『よみがえる古代のクニ』を寄稿しています。この記事を読んだ感想は、塩津潟中央付近から出土した「青田遺跡」等々の数多くの遺跡発掘から、蒲原地方は古代から人間が住んでいた地域であることが立証されました。そこで、新潟市歴史博物館の展示内容を、再考する必要があると考えています。その理由は、「塩津潟」についての説明が殆どありません。また、「渟足柵⇔都岐沙羅柵⇔磐舟柵」に関わる河川舟運ついての展示が詳細ではありません。新潟県立歴史博物館の「塩津潟」の展等示整合性を、一日も早く展示することを切望します。古代の歴史的事実を、新潟県民に公開してほしい。
2005/08/06

[490] 伊藤の個展
個展の開催が、続いています。@「伊藤國夫展」新発田市市民ギャラリー(平成17年6月15日〜21日)A「新発田を全国・世界へ発信展」新発田市まちの駅(平成17年7月1日〜7日)B「新潟県・新発田周辺の古地図展」新発田市生涯学習センター(平成17年7月29日〜8月3日)C「胎内市を全国・世界へ発信展」胎内市産業文化会館(平成17年9月2日〜4日)
2005/08/06

[489] 知事とのタウンミーティング
「泉田知事とのタウンミーティング」は、新発田市生涯学習センターで平成17年8月4日に開催されました。この席上私は、「新発田藩の新田開発の歴史」についてイベント「新潟県・新発田周辺の古地図展」(平成17年7月29日〜8月3日)の説明をしました。塩津潟教育研究所の活動を、紹介しました。
2005/08/06

[488] 【康平絵図】が大活躍
「新潟地震」の40年後の「地震工学学会」では、世界及び全国の学者は、「康平絵図」(1060年)の『塩津潟』を重要視しています。その理由は、『塩津潟』が記述してある最古の古絵図だからです。この学会以後は、『塩津潟』が堂々と学者の間で呼称され、記述されるまでに認識されてきました。「紫雲寺潟」は、1726年〜1732年までのたった6年間の干拓事業名であることが、広く認識されてきました。『塩津潟の由来』は、歴史的に観て先人の営みを後世に伝承するに相応しい、歴史的事実だからです。
2005/08/06

[487] 『塩津潟』と関連するイベント
『塩津潟』の歴史と関連するイベントが、続きます。@「蒲原のあけぼの」です。新潟市歴史博物館は、平成17年7月16日〜8月28日まで開催します。A「発掘が語る新潟の歴史2005」です。新潟県立歴史博物館は、平成17年7月30日〜9月11日まで開催します。 いずれのイベントは、『塩津潟の歴史』と非常に深く関連しています。このイベントには、「塩津潟」か、「塩津潟(紫雲寺潟)」として説明されるものと思います。皆さんは、注目して観てください。
2005/08/06

[486] 世界的な「場」に作品を出品
@「TOKYO PEACE WALL(平和の壁)」に、新発田城三階櫓の写真を出品しました。Aエリザベート皇妃成婚150周年記念『新世紀宮廷芸術聖典2005』に、新発田城の三階櫓と辰巳櫓が、掲載されました。Bイタリアのヴェネツア展に、新発田城と後免町小学校の記念碑の拓本「良寛さんと関連する山田佐門校長揮毫」が、出品されました。 このように、新発田のことが、全国及び世界に発信されています。
2005/08/06

[485] 「塩津潟教育研究所」の業績
「塩津潟教育研究所」の業績が、下記のように認められいくつかのご褒美を頂戴しました。@芸術百家特別企画『名匠の暦程』で、「百家芸術褒章」を授与されました。(アートコミュケーション)A「日仏芸術交流貢献作家」認定メダルを、授与されました。(アートコミュニケーション)B「芸術文化伝導金賞」を、授与されました。(Gallery G実行委員会)C「日本文化伝導士」の認定とトロフィーを、授与されました。(ハプスブルク芸術友好協会・アートコミュニケーション)D日伊芸術・胸囲と美の饗宴『La・meraviglia(ラ・メラヴィリア)』の認定証と「日伊芸術使徒賞」を、授与されました。(アートコミュニケーション)EAUL(the Aritist of Ultimate Legend)の認定証を、授与されました。(ALPHA OMEGA選抜評議委員会)Fハプスブルク芸術友好協会会員盾を、授与されました。(ハプスブルク芸術友好協会)G日本美術評論家大賞ノミネート「優秀作品賞」を、授与されました。(日本美術評論家大賞選考委員会)H『塩津潟は塩の道』が、日本自費出版文化賞一次選考通過作品(地域文化部門)にノミネートされました。  このように、塩津潟教育研究所の活動が、評価されたことに喜んでいます。
2005/08/06

[484] 新潟県内の「塩の道」
拙書『塩津潟は塩の道』の76頁に記述してあるとおり、新潟県内には大きくまとめて6ルートの「塩の道」があります。上・中・下越地方に、それぞれ2本ずつあります。「塩の道」の歴史街道を、地域おこしに活用するために 糸魚川市・長岡市・新潟市がそれぞれ中心になって、取り組むものと思います。ちなみに、下越地方は、阿賀野川ラインと荒川ラインが既に着手しています。当然、黒川の塩澤・塩谷から中条の塩津を経由し『塩津潟』のラインは、阿賀野川ラインに含まれます。
2005/08/06

[483] 小金昭様
『塩津潟の由来』のHP、ご覧いただきありがとうございます。黒川村の「コノ処土塩アリ」については、実態は判明しています。黒川村の文化財財指定の古絵図が現存しています。また、実際に塩澤・塩谷の塩井が2本現存しています。岩塩ではなく塩泉(塩井)です。しかし、黒川は、原油が湧出したり、温泉が湧出したりしているために、それらに溶けていた「塩」が、地表面で結晶化していたことが推察できます。その根拠は、「一つの澤が白かった」という伝説があるからです。「岩塩」については、地下18m位から塩が採れるだけの高濃度の塩水が湧出しています。このことから、「岩塩層」があると推定し、ライマン博士が実際試掘しています。
2005/08/04

[482] 土塩について 投稿者:小金昭
前略 最近貴ホームページ拝見しました。特に、『越国の塩の道』「塩谷・塩澤の塩は、岩塩か塩泉か 」を興味深く拝読した所です。現在調査中とのことでしたがその後の成果は如何でしょうか。 ところで、黒川村の『コノ処土塩アリ』の土塩の実態は既に判明したのでしょうか。小生は、これは岩塩などではなく、額面どおり「土塩」と解した方が良いのではないかと思ったのですが如何でしょう。 付近の井戸の水に塩分が含まれているとの事ですから、塩泉のように自噴するほどではなくても、塩分が土中にしみ込み(あるいは付近に塩生植物の群落などがあるかもしれない)、井戸を掘るほどの資本力の無い人々が、その土から塩を抽出して使用していた事があるのではないでしょうか。 いくつかの書籍を読んだだけですが、土塩の利用は欧州や中国では古くから例がありますから珍しくないようです。オランダでは大々的に採掘されて、(たしか?)17世紀頃 に取り尽くされたほどだったというのを読んだ事があります。
2005/08/03

[481] 第3回個展大盛況
『塩津潟』に関する古地図展は、大成功でした。新発田市民に、『塩津潟』の古地図が沢山あることに、大変驚いていました。期間中は、約1000人位の皆さんに認識していただきました。
2005/07/30

[480] BMが届いた
BM(美術の杜Vol5)が、手元に届きました。第一回個展『伊藤國夫展』や「大塚山古墳」の現地説明会の様子や、『塩津潟』と『都岐沙羅柵』等について掲載されています。最新情報が、掲載されています。是非読んでみてください。ままた、この号には、中条町の「チューリップフェア」の家族団欒の様子の写真も、掲載されています。
2005/07/30

[479] 古地図展は盛況
新発田周辺の古地図は、国立公文書館や明治大学等の東京方面から入手したものが多い。そのために、古地図展は大盛況です。
2005/07/26

[478] 各市町村に活動結果を報告
『塩津潟』と『都岐沙羅柵』に関する塩津潟教育研究所の活動内容と結果を、各市町村の担当部署や担当者に報告してきました。活動内容については、第一回個展『伊藤國夫展』(H17.6.15〜21)、第二回個展『新発田を全国・世界へ発信展』(H17.7.1〜7)、第三回個展『新潟県・新発田周辺の古地図展』(H17.7.29〜8.3)、第四回個展『胎内市を全国・世界へ発信展』(H17.9.2〜4)、中条町の区長会での講演『塩津潟復活の次は都岐沙羅柵(H17.7.2)「第四回日本自費出版フェスティバル」(大阪府豊中市17.7.16)塩津小学校の歓迎セレモニー(上越市主催の直江津港H17.7.23)以上のような、諸活動を市町村長や行政の担当部署の方々に、説明してきました。個展の様子については、近日中に全国版で紹介されます。このように、『塩津潟』と『都岐沙羅柵』については、かなり広範囲にわたり、多くの人々に認識されてきました。
2005/07/24

[477] 第3回「新潟県・新発田周辺の古地図展」が近づく
上記の個展開催が、近づきました。新・新発田市の合併を記念して、先人が描き残してくれた「郷土の様子」が分かる古地図を中心に、展示したいと考えています。夏休み中なので、是非大勢の人々から鑑賞してほしいと思っています。第2回目よりも、新しい内容が追加展示されます。この展示でも、「進みある教師ほど、人を教える権利あり」という、小原邦國芳総長の実践を、新発田市でも展開したいと考えています。
2005/07/24

[476] 塩津小学校の皆さんと会う
7月23日直江津港で、塩津小学校の児童・保護者・学校関係者と交流を深めて来ました。『塩津』という地名が、新潟県や愛知県等に存在することを、多くの人たちが認識してくれたものと思います。放送局の方が、取材をしていたので近いうちに放映されるものと思います。私は、『塩津』というキーワードから、学校教育の活動に取り入れられ、広い範囲の交流が始まることを願っています。次は、私が島根県平田市塩津町の塩津小学校を訪問したいと思っています。昨日は、上越市が歓迎のセレモニーをして下さいました。私は、とても感動しました。
2005/07/24

[475] 「塩の道」に普請痕跡 投稿者
糸魚川若竹原A遺跡から、「塩の道」の普請痕跡が発掘されました。新潟日報(7月21日付)は、「今回の道路遺跡はこれにつながる道で、1731年の絵図から昔の松本街道(塩の道)とみられる。」と掲載しています。考古学会でも、最近は特に『塩』に関する「塩の道」とか「製塩土器」とかに関する報告が多くなってきました。私の『塩津潟は塩の道』と関連することが、多くなってきました。
2005/07/19

[474] 塩津小学校の皆さんと会える
島根県平田市立塩津小学校は、「塩津」という同名から以前から交流していました。この度、塩津小学校の皆さんが「ニューれいんぼう」に乗るために上越市直江津港を訪れることを知り、お会いすることが出来るようになりました。この小学校とは、私の著書『塩津潟は塩の道』とのご縁があったからです。日時は、7月23日(土)の午後8時30分からです。『塩の道』に関する書籍を、塩津小学校の皆さんに、寄贈しようと考えています。皆さんに会う日を、楽しみにしています。
2005/07/18

[473] 「空中庭園展望台」を体験
梅田のスカイビル「空中庭園展望台」を、夏休み前に体験してきました。超高層ビルの展望台から見る大阪の展望は、本当に素晴らしいものでした。これらの体験が、第3回個展『新潟県・新発田周辺の古地図展』や、第4回の個展『胎内市を全国・世界へ発信展』の運営に、大きな働きをするものと考えています。今後の個展にも、大勢の皆様のご来場をお待ちしています。
2005/07/18

[472] 「なにわの海の時空間」を見学
塩津潟や加治川等の河川舟運の研究と相まって、「なにわの海の時空間」を見学してきました。日本は、海に囲まれた国です。古代から「河川舟運」によって、栄えてきた国です。「船の歴史」を、再確認する良い機会でした。皆さんも是非訪問することを、お薦め致します。
2005/07/18

[471] 聖徳太子に関する廟や四天王寺を参観
大阪まで行ったので、「聖徳太子」に関する史蹟を参観してきました。聖徳太子が創設した業績について、思いをはせて来ました。私は、「塩津潟」の復活についてライフワークしたことが、聖徳太子との共通点のように思っています。
2005/07/18

[470] 『塩津潟は塩の道』の思いをスピーチ
新潟県内の『塩の道』の復活を、熱く語ってきました。初版は、平成15年8月に50年間の探求結果を結集させて発行したことや、第2刷は、平成16年8月に発行したこと。その英訳版は、平成17年3月と3年連続発行したことにより、「塩津潟」が約270年ぶりに復活したことを力説してきました。また、中条町教育委員会の「大塚山古墳」の発掘結果により、大和朝廷の新潟県内の城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)についても、最近の様子を説明してきました。
2005/07/18

[469] 日本自費出版文化賞
第4回『日本自費出版フェステバル』が、大阪府豊中市の「千里ライフサイエンスセンター」で行われました。私の著書『塩津潟は塩の道』が、日本自費出版文化賞一次選考に通過したからです。著書フリーマーケット交換交流会では、私の著書とその英訳版が全国の方々と、交換・交流をすることが出来ました。
2005/07/18

[468] 新潟県・新発田周辺の古地図展
私の3回目の個展の主題が、『新潟県・新発田周辺の古地図展』です。期間は、7月29日〜8月3日です。会場は、新発田市生涯学習センターです。古地図から新潟県や新発田周辺の歴史を、見直してほしいと思っています。是非、多くの皆さんに鑑賞してほしいと願っています。
2005/07/06

[467] 中条・城の山遺跡発掘
下記の文は、中条町のHPの掲示板に寄稿したものです。(平成17年6月17日)『「塩津潟の北辺に、“大塚山“という山があります。地元の人々は、“大塚“という村があったので“大塚山“と言っています。新潟日報には、《中条・城の山遺跡》となっていましたが!?平成17年6月16日のNHKは、大ニュースを放送しました。【城の山遺跡は、古墳である】と。中条町の町民にとっては、非常に大きな古墳確認のニュースだと思います。 新潟日報は、“日本海側最北の前期古墳“と報じています。4世紀後半と言えば、大和朝廷が越国の城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)を設置した年代と近づいてくる。中条町大字塩津周辺は、非常に重要な地域であったことが、この発掘によって確認された。弥彦岡の“伊夜日子神社“との関連が、大きく示唆されてくる。私は、講演の中で説明したり、著書“塩津潟は塩の道“の中で記述してあるとおり、“塩の津“の重要性を再確認しています。私は、新発田市の市民ギャラリーで“伊藤國夫展“を開催しています。この個展では、“塩津潟”と“都岐沙羅柵“についても展示しています。“大塚山“の大ニュースと、私の個展が重なっていることに感動しています。』何か不思議な因縁を感じています。
2005/07/06

[466] ALPHA OMEGAより認定書
アルファーオメガ(ALOHA OMEGA)に、「塩津潟は塩の道」と「新発田市の「古四王神社」が掲載されました。全国版で、平成17年6月30日発行の専門誌です。著書の歴史的価値と、写真の芸術的価値に対して、贈られたものと思います。大変に、嬉しいことです。
2005/07/05

[465]日本評論家大賞
「日本評論家大賞」ノミネート優秀作品賞を、平成17年5月31日受賞しました。美術の杜出版から連絡がありました。
2005/07/03

[464]中条町区長会の講演
昨日区長会の講演『塩津潟復活の次は都岐沙羅柵』を行ってきました。中条町に、「都岐沙羅柵」が、復活するのも近いと思います。大和朝廷の城柵の沼垂柵・磐舟柵・都岐沙羅柵は、それぞれはっきりする日が近いと思っています。
2005/07/01

[463]新発田を全国・世界へ発信展
『新発田を全国・世界へ発信展』が、本日より新発田市「まちの駅」で開催しました。展示内容は、塩津潟が分かる古地図や写真家としての各種写真、新潟県内や全国および世界に発信されている書籍等が中心です。是非、大勢の皆さんの鑑賞をお願いいたします。ご来場を、お待ちしています。
2005/06/25

[462]『伊藤國夫展』の反響
私の個展が、200人以上の皆さんから鑑賞していただきました。その反響が、少しずつ広がってきました。特に、「塩津潟(紫雲寺潟)」についての認識が高まってきました。その反響の大きさに、『新発田を全国・世界へ発信展』の発展してきました。どうぞ、沢山のご来場をお待ちしています。
2005/06/25

[461] 日本自費出版文化賞
第8回(2005年)日本自費出版文化賞の一次選考通過作品に、私の『塩津潟は塩の道』が選ばれました。表彰式が、大阪市豊中市で7月16日に行われるので、出席する予定です。大変嬉しく思っています。『塩津潟は塩の道』が、全国に紹介されるものと思います。
2005/06/25

[460] 新発田を全国・世界へ発信展
『新発田を全国・世界へ発信展』を、新発田市の「まちの駅」で開催します。個展の副題は、「“塩津潟“が分かる古地図の世界へどうぞ!!」です。これは、〜新・新発田市の合併を記念して〜行うものです。 期日は、平成17年7月1日〜7日までです。時間は、平日午前8時30分〜午後6時30分、土・日曜は、午前10時〜午後6時です。会場は、「まちの駅」です。(駅から中央通の町の中央部に位置しています。)大勢の皆様のご来場を、お待ちしています。
2005/06/22

[459] 阿賀町の地域おこしの会に参加
阿賀町津川で開催された「地域おこし」の会議に参加してきました。私は、阿賀野川の「塩の道」について提言してきました。今後は、具体的な活動計画が立案されるものと思っています。
2005/06/18

[458] 本づくりセミナーで講演
新潟日事業社主催の「本づくりセミナー」で、『“塩津潟は塩の道“を出版して』と題して講演してきました。約100人位の参加者がありました。この講演の中では、拙書『塩津潟』と『都岐沙羅柵』について講話してきました。この中で、中条町大字大塚の「大塚山古墳」についても説明してきました。「都岐沙羅柵」の存在場所については、今後急速に話題になり論議されるものと考えています。著書『塩津潟は塩の道』と各種講演で講話した内容が、注目されてくるものと思っています。これからが、楽しみです。
2005/06/18

[457] 『都岐沙羅柵』の中条説が強まる
私は、「都岐沙羅柵」は中条説を拙書『塩津潟は塩の道』で初版および第二刷で発信してきました。この度、中条町が発掘した「城の山遺跡=大塚山(ひとかご山)」は古墳であると確認された。この結果は、塩津潟の北辺に位置するこの古墳は、「都岐沙羅柵」と一層密接な関連があることが理解できる。中条説を強力に後押しする事象があります。それは、中条町大字塩津内に「伊夜日子神社」や大字築地内に弥彦神社があるからです。これらを総合的に判断すると、「都岐沙羅柵」は中条説が強くなってきます。『塩津潟は塩の道』に記述した内容が、今回の発掘調査の結果により、私は心強く思っています。
2005/06/17

[456] 伊藤國夫展の3日目
個展の三日目が、過ぎました。鑑賞者数は、130人を超えました。先生方や行政マンや歴史に興味と関心のある人たちが、大勢鑑賞してくれました。明日からは、土・日曜日です。新発田市民の皆さんからは、特に『古絵図』を見てほしいと思います。三日間では、東京からのお客さんが、一番遠い方でした。市外では、新潟市・燕市・阿賀町・中条町・黒川村などの方々でした。これは、新潟日報の「こしじ欄に掲載されたり、エフエムしばたで放送されたからだと思います。ありがとうございます。
2005/06/17

[455]中条町教育委員会に拍手
塩津潟の北辺に位置する大塚山(城の山・ひとかご山)が、古墳であることを確認した発掘に対して、大きな拍手を送りたいと思います。やはり歴史の町「中条」です。新市の胎内市になっても、「塩津潟」や「都岐沙羅柵」の歴史的背景を、後世に正しく伝承していってほしいと願っています。
2005/06/17

[454] 日本海側最北の前期古墳
NHKは、6月16日に「中条・城の山遺跡」の発掘結果の様子を放送しました。また、新潟日報は、翌日の紙上に「有力な豪族 埋葬か」と報じています。中条町大字塩津周辺、古墳時代から重要な地域であったことかが確認されました。「塩津潟」や「都岐沙羅柵」との関連が、急浮上してきました。このことに、私は大変喜んでいます。この機会に、『塩津潟は塩の道』を読み直してほしいと思っています。
2005/06/17

[453]東京の出版社がインタビュー
『伊藤國夫展』を、東京からインタビューに来ました。この内容については、7月下旬に全国版で紹介されます。「塩津潟」や「都岐沙羅柵」や私の芸術作品が、掲載されると思います。私は、発行を楽しみにしています。
2005/06/17

[452] エフエムしばたで放送
『伊藤國夫展』内容について、インタビュー形式で放送されました。内容は、第一室が古絵図、第二室が写真、第三室が書籍などです。期間は、6月15日〜6月21日までです。時間は、午前10時〜午後4時までです。会場は、新発田市市民ギャラリーです。初日は、55人の入場者がありました。昨日は、30人の方が鑑賞してくださいました。皆様のおいでをお待ちしています。
2005/06/10

[451] 塩津潟を市議会が論議
新発田市義会は、6月定例会で「塩津潟(紫雲寺潟)」について、質疑と応答が行うるものと思います。その理由は、新発田市に紫雲寺町と加治川村が、5月1日に合併したからです。
2005/06/09

[450] 「伊藤國夫展」近づく
個展が、近づきました。期日は、6月15日(水)〜6月21日(火)です。会場は、新発田市の『市民ギャラリー』です。皆様の、沢山のご来場をお待ちしています。
2005/06/09

[449] 『塩津潟の由来』の整理完了
ホームページ『塩津潟の由来』の項目が、多くなってきたので整理・統合させて、リニューアルを完了しました。項目ごとにまとめたので、見やすくなったと思います。今後も、沢山の活用をお待ちしています。
2005/06/02

[448]大塚山古墳の発掘
中条町教育委員会は、中条町塩津の『大塚山古墳』の発掘調査を始めている。出土品には、どのようなものがあるのか今から興味津々である。大和朝廷時代の、城柵に関わる遺物が出土してほしい。 現在、中条町塩津では、大きな発見につながる二つの遺跡が発掘されている。これは、期待できそうである。
2005/06/02

[447]中条町塩津の遺跡発掘
「塩津潟」の由来ともなった「塩津」の遺跡発掘を、新潟県教育委員会は行っている。場所は、日本海東北自動車道の中条インターの近くである。「塩津館」があったと言われる近くである。「都岐沙羅柵」に関する木簡が、出土することを願っている。
2005/06/02

[446] 川船再生など収録
「阿賀路」第43集を発行の掲載が、新潟日報(平成17年5月31日付)は報じている。新潟県は、古代から「河川舟運」で栄えてきたのである。「川船の再生」はとても大切な事柄である。 阿賀野川の「塩の道」は、着々と蘇ってきている。その意味では、この『阿賀路』は、貴重な資料となる。
2005/06/02

[445] 防人配備を証明
「佐賀中原遺跡出土の木簡」と新潟日報(平成17年5月31日付)は、報じている。新潟県の三つの城柵のうち、渟足柵(沼垂城)は出土している。磐舟柵と都岐沙羅柵の木簡が、一日も早く出土することを願っている。
2005/05/28

[444] 新発田藩主の新田開発を伝承
新発田藩主は、初代から塩津潟を含む新田開発をしてきた歴史的事実がある。私は、2つの櫓(三界櫓・辰巳櫓)の復元と同時に、溝口家の藩政の歴史的事実を市民に一層啓発すべきであると考えている。そのためには、「広報しばた」に何回も掲載したり、新発田市のホームページに早く掲載する等の具体的な手立てが、是非とも必要である。(H16年9月8日記)
2005/05/28

[443] 郷土の歴史を正しく伝承
私は、新発田市の決算審査特別委員会を傍聴しながら、「新発田の歴史は正しく伝承されているのか?」を考えていた。新発田城の二つの櫓は、復元された。東京から取材に来た人たちは、美しい新発田城に驚いていた。その時の様子は、『美術画報』45で全国に紹介されている。城址公園は整備され、良い教育環境が出来上がった。しかし、歴史に関する内容は、どうであろうか?いささか疑問である。例えば、長谷川晃議員が、「塩津潟か紫雲寺潟なのか」を、平成15年3月の新発田市議会で一版質問した。臼井教育長は、「江戸時代前期は、塩津潟と表記されている。」と答弁した。塩津潟については、新発田市において公式に議論された最初の議会である。新発田市の歴史を正しく伝承するための重要で且つ画期的な内容である。(H16年9月8日記)
2005/05/28

[442] 議会議事録は職員に徹底を
新発田市議会で質疑応答された内容は、市職員に徹底するべきです。私は、新発田市役所内の連絡方法と職員研修に、問題があると思っています。例えば、『正保二年越後絵図』が、溝口家から市に寄贈された文化財であることを知らない。この絵図は、江戸幕府の命令によって製作されたものである。これは、新潟県文化財に平成8年指定された貴重なものである。この絵図に記述してある『塩津潟』を、市職員は知らない。新発田藩が、1710年代に塩津潟を新田開発した歴史的事実を理解していない。いわんや、市民もである。平成13年3月市議会に、長谷川晃議員が一版質問している。この内容を、市職員に徹底することが急務である。職員研修の改善を、強く望むものである。私は、新潟県の夢事業の一つ「街道物語」による地域おこしに努力している。そのために、16市町村の長及び担当者と関わっている。その体験から新発田市の対応をみると、早いとは決して言えない。「塩津潟」の一日も早い復活を願っている。(H16.9.7記)
2005/05/27

[441] 部制条例に思う
新発田市と1町一村の合併が、5ヵ月後に迫ってきた。当条例の改正は、当然である。しかし、担当部課長の説明が、とても理解しにくい。各委員からも、質問や意見が続出していた。総務常任委員会は、委員が部課長を指導・助言する場ではないと思う。9月の定例会でも、よく見られた光景である。部課長の指導・監督は、誰の職責なのだろうか?新発田市の行政が「遅い」とか「停滞している」という原因が、この点にもありそうだ。私は、新潟医療福祉大学の「産官学連携講座」に参加してきた。14日間の講座である。初日は、篠田新潟市長が、「2005年度の新潟市政」である。『合併マニフェスト』による市政ビジョンを説明した。新潟市は、来春3月に大合併を行う。感心したことは、「合併マニフェスト」に基づき、説明は非常に分かり易かったことである。新潟県内にも、「マニフェスト」が定着してきた。(H16.12.10記)
2005/05/27

[440] 臨時パート職員の活用・・・?
青木議員が、9日の一版質問した内容である。片山市長の答弁が、12月11日の新潟日報に掲載された。「臨時職員に正職員の点検役を」が、見出しである。「市議提言 市長も前向き」が、小見出しである。この感性と感覚で本当に良いのだろうか?私は、「地方分権と新発田市の経営」を担当する市長や職員や行政職は、「新発田市マニフェスト」を企画できる能力と行動力が、絶対に不可欠であると考えている。「マニフェスト」を企画できる市長・部課長は、自己決定と自己責任において、自己評価が出来る政治家や職員だと思う。新発田市民は、それが出来る政治家や行政職を強く求めているのだと思っている。「アンケートなどの形で吸い上げ、真心対応や職員研修に生かしたい」と言うが・・・?最も重要なことは、「市政の情報公開による透明性」である。部課長以上は、新発田藩の歴史についても、市職員の一版教養の一つとして研修してほしい。
2005/05/21

[438] 塩津潟は塩の道と副読本の連携
教職員の多くは、拙書『塩津潟は塩の道』を大変良く読み込んでいました。多くの人々とお会いして、実感として分かりました。10歳の少年の疑問を解決とか、理論を裏付ける資料の質と量等々について、話題が一致することが多かったです。しかし、教育活動の内容や、副読本の内容になると連携していないことが分かりました。
今後は、さらに啓発活動に工夫と努力が必要であることを感じました。
2005/05/20

[437] NHKの「地球大好き 環境キャンペーン」リンク
NHK主催の「地球大好き 環境コンテスト」のホームページに紹介されています。HPアドレスは、http://www.nhk.or.jp/kankyoです。塩津潟教育研究所の取り組みが、簡潔に紹介されています。是非、ご覧下さい。
2005/05/20

[436] 「百家芸術褒章」を受章
芸術百家特別企画『名匠の暦程』の「百家芸術褒章」を、アートコミュニケーションより受章しました。立派な褒章を平成17年4月28日に頂戴いたしました。私は、とても嬉しく思っています。
2005/05/19

[435] 新潟市民にも塩津潟が浸透
『塩津潟』が、新潟市民にも浸透してきました。先般の「湖沼フォーラム」に、篠田昭市長が基調講演で「塩津潟」について説明したことが、大きな力になったようです。関連して、私の拙書『塩津潟は塩の道』についても、話し合われています。新潟県内の「河川舟運」の地域おこしか、活発になってきました。「福島潟」は、近いうちに、「ラムサ−ル条約」に指定される日は近いことでしょう。
2005/05/17

[434] 教職員に「塩津潟」が理解される
郷土の歴史を教育している教師からは、『塩津潟の由来』が理解され始めています。認識が、広まってきています。教職員の皆さんから、著書『塩津潟は塩の道』について話されることが大変多くなってきました。私にとっては、大変嬉しいことです。
2005/05/15

[433] 本づくりセミナーの広告
即日『中越地震から半年』の県民フォーラムに行って来ました。その会場では、当日の新潟日報の「本づくりセミナー」の新聞を貼って、セミナーの広告をしていました。また、別刷りのパンフレットで、本づくりの参加者募集をしていました。沢山の方々が、『塩津潟は塩の道』の著書を知ることが出来たと思います。
2005/5/14

[432] 『塩の道』の認識が広まる
先週は、阿賀町・阿賀野市・長岡市・十日町市等の行政関係者とお会いしてきました。県内の各市町村は、『塩の道』の地域おこしに前向きで積極的です。新潟県の『塩の道』は、上越地方に2本、中越地方に2本、下越地方に2本とそれぞれ存在しました。それらの『塩の道』については、各地方の地域振興局の支援を受けて、近日中に軌道にのるものと思います。本日の新潟日報は、「本づくりセミナー」の紹介を掲載しています。このセミナーでは、『“塩津潟は塩の道“を出版して』という主題で講演してきます。「塩津潟の由来」を通して、本づくりの楽しさを力説しようと考えています。
2005/5/12

[431] 芸術文化伝導金賞の受賞
〜芸術による子どもの居場所づくり〜の『Gallery G』の実行委員会での選考会議の結果、『芸術文化伝導金賞』をこのたび受賞いたしました。そのトロフィーを頂戴いたしました。「児童生徒と夢を育んで半世紀」というメッセージが、認められたものと思います。大変に、喜ばしいことです。
2005/5/12

[430] 英訳版が県内に広まる
『Shiotsu-gata is the Salt roag』は、新潟県内に思っていたより早く広まってきています。敬和学園大学やサザンイリノイユニバシティカレッジの先生方等が、英訳して下さいました。この御厚意に感謝しています。本当にありがとうございます。各方面の方々に、ご活用して頂いていることに感激しています。
2005/5/12

[429] 「塩の道」の世界的なサミット開催
「世界の国々にも、「塩の道」はあります。この度は、『塩津潟は塩の道』の英訳版の発行や、オーストリアやフランスやイタリア等に、私の拙書が相次いで紹介されたことによって、「塩の道」が世界的になってきました。今後は、世界的な『塩の道サミット』が開催されることを願っています。
2005/5/11

[428] 新潟県立公文書館で『塩津潟』を確認
新発田市の平成17年度の小学生用の副読本『わたしたちの新発田』は、『塩津潟』を非常に曖昧に扱っています。『塩津潟』は、各市町村によって、対応が違い教育の現場で混乱を起こしています。大変残念なことです。
そのために、新潟県立公文書館に行って『塩津潟』の存在を確認してきました。その結果は、「紫雲寺潟」にこだわる必要は無いと言う意味の回答でした。
同副読本の「紫雲寺潟の干拓」を、新潟県立歴史博物館が『塩津潟(紫雲寺潟)』と記述しているように、一日も早い改訂を切望しています。その理由は、新発田藩の「新田開発の歴史」が、合併後の新発田市民に史実に正確な内容を理解されるからです。関係する担当者は、訂正シールを貼るなり、訂正文を挿入する等の対応をするべきです。
2005/5/11

[427] 新方から新潟へ
新潟日報(平成17.5.8日付)の『日報抄』は、「新方から新潟へ」という意味の内容を掲載しています。新潟県は、『潟』の新田開発の歴史の継続であったことから、とても興味深い内容でした。
2005/5/11

[426] イザベラ・バードの旅
イザベラ・バードは、イギリスの女性探検家です。新潟日報は、『道』に同氏を掲載しています。彼女は、阿賀野川を舟で下っています。また、新潟からは、内水面を河川舟運で北上しています。この頃までは、内水面交通が行われていることが彼女の旅程記録から立証されています。1878(明治11)年のことです。
2005/5/6

[425] 各新聞社が掲載
新潟日報社はじめ朝日新聞社等11社が、『塩津潟は塩の道』に関する内容を掲載しました。現在は、全国に1750万部が配信されています。『塩津潟』は、全国に紹介されています。著作者としては、大変嬉しいことです。
2005/5/5

[424] 塩津潟と記述してある書籍
塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)と記述してある主な書籍には、次のような書籍があります。紫雲寺潟にこだわる人たちは、是非参考にしてほしい。(順不同)
『郷土史概論』1921年大木金平氏・『越後古代史の研究』1927年頃池田雨工氏・『新潟県立歴史博物館の常設展示録』2000年新潟県立歴史博物館・『新潟県地質図説明書』2000年新潟県商工労働部・『新潟であるために』1997年農林水産省・『にいがた社会教育』2004年新潟県社会教育協会・『奥山荘の歴史と江上館』2003年中条町・『阿賀北・岩船ふるさと大百科』2004年神津良子氏・『ふるさと中条』1998年中条町・『胎内川の恵み』2002年胎内川沿岸土地改良区・『胎内川流域のわが郷土』2004年片野徳蔵氏・『心のふるさと』2004年心のふるさと展・『塩津潟は塩の道』第一版2003年伊藤國夫・第二版2004年伊藤國夫・『Shionotsu-gata is the Salt road』2005年伊藤國夫・『加治川村誌』2005年加治川村・『美術画報』43 2004年アートコミニュケーション・45同・『芸術百家』19、202005年同・『Gallery G』2005年M.Y.Yコミュニケーション・『新世紀宮廷芸術聖典』2005年アートコミュニケーション等々が有ります。この他に加治川村の研究者の研究論文は、殆ど塩津潟で論述してあります。
このように、新潟県や各市町村等から発行されている書籍は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)に、記述及び呼称が統一されています。これらの書籍は、各市町村や日本国内や外国まで既に紹介されています。歴史の真実は、やはり強いです。
2005/5/4

[423] 越後絵図を尊重する
「塩津潟」が明記してある『越後絵図』を尊重することが、歴史学習にはとても重要です。この越後絵図は、徳川家光の幕命により製作された正確な絵図です。そのことが高く評価され、新発田市及び新潟県の文化財に指定されています。新発田市は、この越後絵図を基本に据えて、副読本を編集することが重要であると考えています。現在は、この越後絵図が、幻になっています。この正確な越後絵図を、もっともっと活用するべきです。関係者の再認識と再確認を、是非お願いしたいと思います。
2005/5/4

[422] 本会議で塩津潟を報告
社会文教常任委員会(4月22日)の「塩津潟」については、本会議(4月28日)で同委員会委員長から報告された。次回の本会議で、一般質問として片山市長に答弁を要求することが、一番早い問題解決法であると思っています。
『わたしたちの新発田』の副読本は、新発田市小学校長会編・紫雲寺町小学校校長会編・加治川小学校長会編として編集されている。新発田市小学校長会で、責任を持って早急に解決するものと思っています。
2005/5/4

[421] 社会文教常任委員会を傍聴
平成17年4月の新発田市臨時議会の『市民の声』の傍聴感想です。4月22日に、議会事務局に提出した文です。標題は、『塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)の統一見解が是非必要だ!』です。
社会文教常任委員会で小島生涯学習課長が、紫雲寺潟について発言した。それに対して、長谷川晃議員が塩津潟か紫雲寺潟かについて、今後の対応に興味と関心があることに触れました。私は、社会文教常任委員会が、塩津潟の歴史的事実について議論されたことは、非常に大きな進歩であると思っている。その理由は、平成15年3月定例議会で長谷川晃議員が、臼井教育長に答弁を求めたのに続く議題であるからである。
現在は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)と表記し呼称することことが大半を占めてきた。例えば、新潟県(県立歴史博物館を含む)や他市町村の場合である。しかし、新発田市と紫雲寺町は、紫雲寺潟か紫雲寺潟(塩津潟)と記述し呼称している。この認識のズレは、合併後の新・新発田市の教育に、大きな混乱を起こすことは明白である。今までの経過を見ると、教育委員会の結論では無理である。次回の新発田市議会では、片山市長の答弁で統一見解が出されなければならない時期にきていると考えている。
2005/5/4

[420] 都岐沙羅柵は中条町へ
「都岐沙羅柵」は、旧築地村の村歌に都岐沙羅柵=月さらが歌い込まれています。「塩津潟」との関連で、中条町に存在していたと言う説を、『芸術百家』の204〜207頁に掲載されています。この書籍は、全国版なので「都岐沙羅柵」の比定地について、全国的な範囲で取上げられるものと思っています。現に、中条町では「都岐沙羅柵」を地域おこしに活用しています。
2005/5/4

[419] 芸術百家に「塩津潟」が掲載
「塩津潟の歴史的経緯」と「塩津潟と紫雲寺潟の記述及び呼称の主な経緯」が、『芸術百家』の204〜207頁に掲載されました。年表形式にして、分かり易くまとめてあります。是非、参考にしてほしいと思います。「塩津潟」が、古来からいかに重要な『塩の道』の「塩津潟」であったかが、理解できる思います。その歴史的史実を、後世の人々に正確に伝承するべきと考えます。特に、次代を担う児童生徒の教育に、教育活動として、取り上げるへきと考えます。『わたしたちの新発田』の編集を担当した関係者に、一日も早い対策と対応を切望します。
2005/5/4

[418] 塩津潟は塩の道の英訳版が好評
『塩津潟は塩の道』の英訳版が、二つの大学の先生方や、高等学校の先生等の7人の協力者によって、英訳版『Shionotsu-gata is the Salt road』が、発行されています。この英訳版のことが、「分かり易い」とか、「外国人の私たちにも読める」等の意見が、私の耳に入ってくるようになりました。本当に、嬉しいことです。
今後も、各方面の人々に広く活用されることを願っています。
2005/5/4

[417] 加治川村誌の記述
加治川村では、新発田市と合併することを記念して『加治川村誌』を発刊しました。この村誌の中に、「塩津潟(紫雲寺潟)」という記述があります。これは、加治川村の「塩津潟」に対する統一見解です。このことが、新・新発田市の小学生用の『私たちの新発田』の副読本に、大きな影響を与えはじめています。
平成17年度から使用する『わたしたちの新発田』には、「紫雲寺潟の干拓」という表記をしています。私は、『塩津潟(紫雲寺潟)』と、新潟県や他市町村の発行している教育用資料と同様にすべきであると考えています。このことに対する責任は、誰が、いつ、どのようにとるのでしょうか?この認識のズレを、早急に取るべきです。例えば、『私たちの新発田を』全部回収する。訂正シールを貼って修正する。早急に、訂正版を発行する等のことが、考えられます。
合併後の教育の現場で、「混乱が起きないようにしてほしい。」と片山吉忠新発田市長に文書でお願いしたり、新発田市教育委員会等の関係する教育委員会に、『塩津潟』に関する資料を提供し続けてきたのに、やはり起きてしまいました。本当に、残念なことです。
平成17年4月1日から、新発田市・旧紫雲寺町・旧加治川村の小学校で、学習が開始しています。一日も早い改善対策を、関係者及び新発田市に要望します。
2005/5/2

[416] 文部科学省のキャンペーン
『子供達の居場所づくり』は、文部科学省のキャンペーンです。『Gallery G』でも、このキャンペーンを取り上げています。私の体験談が、161頁に「児童生徒と夢を育んで半世紀」と「未来の大人たちへ」が掲載されています。内容は、『塩津潟は塩の道』と『越後絵図』と「新発田城の復元」のことが、解説されています。この本は、全国版ですので新発田市の歴史が紹介されています。
2005/4/30

[415] 紫雲寺町の町名由来は?
「塩津潟」が、「紫雲寺潟」に改名させられた歴史的経緯が重要になってきた。平成17年5月1日に新発田市と合併する紫雲寺町の町名の由来は、「紫雲寺潟」からの由来ではないと言う。しからば、どんな由来がガあるのだろうか?「紫雲寺」というお寺の名称からだとも聞いている。しかし、「紫雲寺」というお寺は、伝説上の寺だと言う。竹前権兵衛が、紫雲寺というお寺を建立した由来は、開発途中で死亡した小八郎をはじめ多くの人々や生霊を弔うため、伝説上の寺「紫雲寺」を名のる寺院の建立を思い立った。当時は、新寺の建立が許されなかったので、向中条の「浄玄寺」を引地することになった。寛保2年(1742)に寺号を紫雲寺と改称した。権兵衛が伝説上の寺「紫雲寺」と同じ考えが小八郎にもあって、塩津潟の干拓の請願書に「紫雲寺潟」と書いて提出したものだという。
新・新発田市がこれらの事実をふまえたら、一日も早く「紫雲寺潟」ではなく、「塩津潟」という従前の潟名に改訂すべきものと考えています。新発田市の教育委員会及び片山吉忠市長に、確認したいと考えています。「紫雲寺潟」に固執する新発田市の態度には、不思議さと不快を感じます。史実に基づいた、歴史認識を確立してほしいのは、新発田市民の強い願いでもあります。
2005/4/29

[414] 新・新発田市の副読本
新発田市・紫雲寺町・加治川村の合併による新・新発田市の小学校用の副読本を、昨日見てきました。この副読本には、『紫雲寺潟』の名称で編集されていました。『塩津潟』については、「紫雲寺潟は、塩津潟とも言われていました。」という一行だけでした。これでは、「新発田藩の歴史を正確に学習することは出来ない。」と思いました。誠に残念です。次回の編集時に、『塩津潟』か『塩津潟(紫雲寺潟)』と、新潟県や他市町村のようにしてほしいと考えています。今回の副読本では、新発田市・旧紫雲寺町・旧加治川村の学校現場では、混乱が必ず起こると思います。早急な改善を、切望します。
2005/4/29

[413] 本会議で塩津潟が報告された
新発田市議会臨時会の本会議(4月28日)に、社会文教常任委員会長によって、『塩津潟』と『紫雲寺潟』のことについて、長谷川晃議員の質問について報告されました。本会議で『塩津潟』が取り上げられたのは、平成15年3月に次いで2回目のことです。
この潟名『塩津潟』についての議論は、今後も続くものと思っています。その理由は、合併後に使用される『副読本』には、従前どおりの『紫雲寺潟』として記述してあるからです。
2005/04/29

[412] 『塩津潟』が全国に紹介
『塩津潟の由来』については、全国に紹介されています。海外に発信されている書籍の他に、全国版が発行されています。『美術画報』で3回。『芸術百家』で2回。『Gallery G』等です。この他に、著書『塩津潟は塩の道』は全国デブューしています。
これらの書籍が、公立の図書館や大学等々に配本され活用されていることに、作家として醍醐味を感じています。
2005/4/29

[411] 日仏芸術友好のメダルを受ける
『UNIVERS DES ARTS』(ユニベール デ ザール)に、新発田藩の「新発田城」と「塩津潟」のことが掲載されました。このことを記念して、日仏友好の記念メダルを昨日頂戴しました。
『塩津潟塩の道』の英訳版やオーストリア・イタリア・フランス等、海外に紹介されています。新発田市の歴史が、諸外国に紹介されたことに作者として、嬉しく思っています。
2005/04/27

[410] 『Gallery  G』に掲載
『Gallery G』には、「日本の芸術家達が捧げる“子供達の居場所づくり“」主題です。この本の中に、私の二作品が掲載されています。一つは、『塩津潟は塩の道』の著書です。もう一つは、新発田城の復元写真です。小見出しは、「児童生徒と夢を育んで半世紀」と「未来の大人たちへ」です。
本書は、文部科学省の推薦している『子ども居場所づくり』を通して発刊された『Gallery G』です。
2005/4/24

[409] 本づくりセミナーで講演
新潟日報事業社主催の「本づくりセミナー」で、『”塩津潟は塩の道”を出版して』と題して講演をします。平成17年6月18日(土)に、万代シルバーホテルで行います。
新潟日報の4月24日付の紹介では、「”塩の道”としての”塩津潟”の探求を、ライフワークとして教員時代より進め、関係論文の発表、また講演会などを多数行う。一昨年の「新潟日報事業社本づくりセミナー」参加を通して『塩津潟は塩の道』を上梓。多方面から話題を呼んでいる。」でした。
『塩津潟』が、新潟県内や日本全国に発信されたり、最近では、海外にまで紹介されている様子を、体験談としてお話する予定です。
2005/4/22

[408] 新発田市議会の社会文教常任委員会
社会文教常任委員会(平成17年4月22日)は、紫雲寺町と加治川村の合併に伴い、塩津潟(紫雲寺潟)のことについて説明がありました。そのことについては、長谷川委員が質問し再度確認しています。当委員会の委員と各部課長は、平成15年3月定例会での一般質問に次いで、塩津潟を再認識したものと思います。
最近では、「塩津潟」が多く取り上げれています。新発田中央ロータリークラブの卓話や産経新聞(平成17年4月13日付)の掲載等があります。また、国際的なものでは、『UNIVERS DES ARTS』や『新世紀宮廷芸術聖典』等に、「塩津潟」がそれぞれに紹介されています。
合併後(平成17年5月1日)の教育現場に、混乱をきたさぬように期待しています。
2005/4/22

[407] 新世紀宮廷芸術聖典の解説
私の作品『新発田城の復元』の解説は、次のように記述してあります。「The first reconstruction on the Shibata Castie in August 2004,the first in about 130years.It is a base station castle from which the Shibata feudal domain developed new sice fields in Kanbara,including in the Shiotsu-gata lagoon.The castle is the symbol of peace in Shibata City.」です。
この解説の中では、『塩津潟』を「Shiotsu-gata lagoon」と紹介されていることです。新発田藩の歴史の一部が、紹介されたことに喜んでいます。
2005/4/20

[406] 新世紀宮廷芸術聖典
ハプスブルク芸術友好協会制作の『新世紀宮廷芸術聖典』が、発行されました。この聖典の中に、「新発田城の三階櫓・が辰巳櫓」が掲載されています。この宮廷芸術聖典は、エリサザベート成婚150周年記念として出版されたものです。その聖典の中に、私が撮影した新発田城の三階櫓と辰巳櫓が掲載されたことに、とても喜んでいます。平成16年に復元された「新発田の歴史」が、西洋に紹介されたことは、本当に嬉しいことです。
2005/4/14

[405] HPアセクス数が急増
『美術画報』・『芸術百家』や全国版の新聞に掲載され、ホームページ『塩津潟の由来』のアクセスが急増しています。新潟県内の「塩津潟の由来」と「都岐沙羅柵」の歴史的経緯が、全国的に理解されてきていることに感激しています。
2005/4/14

[404] 『塩の博物誌』
著者は、Pierre Laszlo(ピェール・ラズロ)です。役者は、神田順子氏です。本書は、塩をめぐる政治と歴史のエピソード、塩田、塩の道、塩の神話と伝説、塩に関する世界の諺ほか、博覧強記の化学者が総合的な「知の塩」を提唱しています。「塩の道」は、世界的だと思いました。是非、読んでみてください。(東京書籍)
2005/4/14

[403] 芸術と平和の祈り世界へとどけ
上記主題で、産経新聞平成17年4月13日付に掲載されました.私の作品は、写真『福島潟の歴史と文化』と著書『塩津潟は塩の道』です。解説内容は、「江戸期に存在した“塩津潟”の名称が近世以降消失したことに疑問を抱いた氏が、50年にも亘る塩津潟研究を記録したものであり、日本文化や自然を知る上で貴重な資料と言えよう。他にも教育実践や講演等で塩津潟を熱く語り、人々の理解を深めながら、地域に大きく貢献し、水辺の文化について説き続けている。」でした。「塩津潟」と「福島潟」の関連を、メッセージしたものです。
2005/04/04

[402] 城下町の景観シンポ
城下町新発田の景観について考える「新発田まちなみシンポジウム」が、4月2日に行われました。新発田城の復元が、大きなきっかけとなっています。私の『美術画報』や『ユニベール・デ・ザール』等での「新発田城」の掲載が、新発田市の「地域おこし」に役立っていると思っています。
2005/4/3

[401] 本書の英訳版が普及
『塩津潟は塩の道』の英訳版が、普及し始めました。新発田市内でも、話題が聞かれるようになりました。大変に、嬉しいことです。
2005/4/1

[400] Shiotsu-gata in the Salt Roadの反響
本書の副題は、「The origin of Shiotsu-gata and Tsukisara-no-ki」です。『塩津潟』と『都岐沙羅柵』が、多くの人々に読まれ、理解されることでしょう。郷土の歴史を基に、地域の活性化が出来ることを願っています。
2005/4/1

[399] フランス語版に紹介
「加治川桜の復活」と「新発田城の復元」が、フランス語版で紹介されます。新発田市の文化の啓発と観光の振興に、役立つことを願っています。『塩津潟は塩の道』の英訳版と共に、国際的に理解されるものと思います。
2005/4/1

[398] 平成の大合併スタート
4月1日は、長岡市・阿賀町・十日町市・妙高市が誕生しました。新発田市も、一か月後に紫雲寺町・加治川村と合併します。この合併は、教育界に大きな変容をもたらすことでしょう。例えば、教育内容や人事異動等の面で、新風を吹き込むことでしょう。小・中学校の統廃合も、急速に進展することでしょう。県内の学力は、急激な向上を図ることでしょう。市民として、大きな期待を寄せています。
2005/3/21

[397] 加治川村誌
加治川村は、新発田市との合併を前に『加治川村誌』(平成17年2月)を発行しました。この記念誌には、『塩津潟(紫雲寺潟)』と統一した見解で編集されています。新発田市は、加治川村や中条町や新潟県等の『塩津潟(紫雲寺潟)』という認識を、どのように受け止めるのだろうか?新発田藩の「塩津潟」の新田開発について、新発田市民にどのように説明するのであろうか?新発田市の歴史認識を、早急に改訂する必要があると、私は考えています。
2005/3/18

[396] 塩津潟を復元する計画
塩津潟は、全部新田開発したので原型のハート型をした復元する計画が推進されています。塩津潟は、加治川によって福島潟と連結した兄弟潟です。新潟市の「湖沼フォーラム」が推進している「水辺の文化」を、新潟市と新発田市や中条町や黒川村等で推進されています。
2005/3/17

[395] shiotsu-gata in the salt roadの発行
『塩津潟は塩の道』の英文版が、3月15日発行しました。各方面の教材として、今後活用されるものと思います。写真等は、最新のものを追加したりして分かり易くしました。どうぞ、ご利用ください。
2005/3/12

[394] 「その時歴史が動いた」の講演会
新発田市文化講演会が、松平定知氏を招いて平成17年3月10日に新発田市文化会館で開催されました。
その演題にあやかる様に、「新発田藩の新田開発の歴史」が、市民に認識され始めました。「塩津潟」と「塩の道」の認識が、『塩津潟は塩の道』の出版やホームページ『塩津潟の由来』の開設や講演会等によって、「その時歴史が動き」始めました。
その大きなエネルギー源になったのは、「ハプスブルク芸術友好協会」(オーストリア)から認定された『日本文化伝導士』です。
2005/3/12

[393] 「塩津潟」の認識の相違
「塩津潟」に関する各市町村の認識に、相違がはっきりしてきました。新潟県や各市町村は、「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と明記するようになってきました。新発田市は、今年の5月1日に紫雲寺町と加治川村との合併が、50日以内に迫ってきました。学校教育の現場では、郷土の学習を開始します。さて、どうするのでしょうか?
平成15年3月の新発田市議会で、長谷川晃議員が新発田市の認識と対応の仕方について、一般質問している。当時の臼井教育長は、「塩津潟か紫雲寺潟についての歴史の事実は、また、どういうふうに教えるかについて検討してみたい。」と答弁している。いまだに、明快な回答が出ていないのが現状です。
市長は、市職員が、この歴史事実を共通理解し、新発田市民に明確に知らせる義務があると思います。その啓発があれば、校長会は『副読本』に自信を持って掲載できると思います。
2005/03/12

[392] にいがた湖沼フォーラムの成果
『潟と文化を語る』の内容が、新発田市民にも理解されてきました。新潟万代市民会館で開催されたフォーラムには、中条町の方々が十数名参加していました。その時の『塩津潟をしのび、その文化の継承と復元を試みる』が、広がって来ました。
2005/3/12

[391] 新発田中央ロータリクラブの卓話
『新発田市における塩津潟の認識』という演題で、平成17年3月8日ベルナールで卓話してしてきました。新発田市民に、新発田藩の「塩津潟の新田開発」の歴史が、認識した人が多くなりました。「塩津潟」を立証する古絵図や、他市町村の認識の様子等を卓話しました。
2005/3/6

[390] 食の宝庫・日本海
「北東アジア交流プロジェクト・総括シンポジウムin新潟」に、参加してきました。このシンポジウムの無いように、縄文時代から北東アジアとの交流や内水面交通の舟運による文化の伝達・交流について、説明されていました。詳細については、新潟日報の朝刊(3月6日付)で掲載されていました。やはり、新潟県の歴史は、「舟運」による文化の交流を忘れてはならないのです。
2005/3/6

[389] にいがた昔ものがたり
三田村邦彦氏が、進行役で新潟の昔の様子をTeny(テレビ新潟)で放映しました。3月5日(10:30〜11:25)に、新潟の歴史を舟運【日本海と内水面交通】についても説明していました。『潟と文化を語る』と、共通する内容が多かったのでとても有意義でした。
2005/3/5

[388] 『塩津潟は塩の道』の英文版
私の著書『塩津潟は塩の道』の英文版が、近日中に発行されます。翻訳は、大学の先生等数人の人たちが担当してくださいました。
A5版の60頁くらいのダイジェスト版です。高校生や大学生は、郷土の歴史を英語を通して学習してくれるものと思っています。また、大学の外国人の先生方にも「郷土の歴史」を、理解してもらう教材として利用してくれることを期待しています。
2005/3/5

[387] 「潟と文化を語る」の大反響
新潟市万代市民会館で、「潟と文化を語る」が開催されて一週間が過ぎました。発表者全員の提言は、それぞれの分野に大きな影響を与えました。私の提言「塩津潟の文化の継承と復元」も、新発田市をはじめ近隣市町村に大きな話題になっていることが分かりました。加治川で結ばれた塩津潟と福島潟の兄弟潟が、古来からの「河川舟運」による物流の文化が、後世に正確に伝承されていくものと思います。その意味からも、このたびの第3回「にいがた湖沼フォーラム」は、大成功だったと考えています。今回の発表者の中に、県外からの参加者がいたことは、今後大きな影響力を発揮するものと思います。豊栄市が昨年全国に発信した『水のサミット』が、新潟市の「福島潟」として、更に力強く発信されるものと確信しました。『塩津潟記念公園』の造成と『塩津潟』の復元は、「人間の生活」と「水辺の文化」の融合を、更に推進するものと考えます。
2005/3/5

[386] 新発田市民教養講座
新発田市は、紫雲寺町と加治川村との合併を控えて、市民教養講座を開催しました。2月24日と3月4日の内容の中に、「塩津潟」の存在について話題が出ていました。参会者は、塩津潟と紫雲寺潟の呼称についての各市町村の認識と対応の違いが、明確に理解できたものと思います。「塩津潟」か「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述したり、呼称するのは新潟県及び各市町村の取り組みの大きな方向です。
2005/3/5

[385] 塩津潟の復活は議会で答弁
「塩津潟」の存在については、各市町村の議会で一般質問されたことが非常に大きい。今までに、中条町が2回、新発田市が1回、紫雲寺町で1回と、計4回議員の一般質問に答弁しています。それぞれ教育長か市町村長が、歴史事実に沿った答弁をしました。各市町村は、合併を目前にしたとてもよい機会に、「塩津潟」を公式の場で明言しました。このことは、以前には無かった画期的な進歩です。新発田市も、遅まきながら「塩津潟」を明文化した公文書が、今後多くなっていくものと思っています。
2005/3/1

[384] にいがた湖沼フォーラムの報告
『潟と文化を語る』の第3回フォーラム報告を、新発田市役所の三つの部署(片山市長を含む)に報告してきました。「塩津潟」についての新潟県内の認識が、急速に広がっています。新発田市は、紫雲寺町や加治川村と5月1日に合併します。それを機会にして、「塩津潟」と正式に認識し、市民に知らせるものと思っています。
2005/2/28

[383] 塩津潟と都岐沙羅柵を発表
「潟と文化を語る」のフォーラムで、「塩津潟」と「都岐沙羅柵」について発表してきました。大変多くの方々に拝聴していただきました。福島潟と塩津潟の連携についても、具体的に説明してきました。
基調講演をした篠田新潟市長は、「塩津潟」の存在について10回以上説明しました。新潟市と新発田市の『潟の文化』の連携が、合併後も強化されていくものと思います。昨日は、とても有意義なフォーラムでした。
2005/2/22

[382] 「潟と文化を語る」が近づく
このフォーラムは、政令指定都市を目指す新生新潟市にとっては、示唆にとんだ画期的なフォーラムになると思う。新潟県民の多くの人々が参加することを、期待している。その理由は、歴史問題・環境問題・政治問題・経済問題・文化問題・教育問題等と、多岐にわたっているからです。今回は特に、「平成の大合併」と強く関連しているからです。
2005/2/20

[381] 片山新発田市長からの礼状
片山市長さんから2月18日に、礼状が届きました。「謹啓 春寒去りがたき折柄、ますますご清祥のことと拝察申し上げます。
このたびは、ご丁重に貴重な「芸術百家」をご恵贈いただき誠にありがとうございました。また、先にも貴重な書籍を頂戴するなど重ねて御礼申し上げます。
さらに、このたびは、ハプスブルク芸術友好協会より「日本文化伝導士」に認定されたとのお知らせいただき、伊藤様のこれまでの制作活動が高く評価されたものと、敬意を表すとともに、心よりお祝いを申し上げるしだいであります。
伊藤様に置かれましては、今後ともご健勝でご活躍されますよう祈念申し上げ、取り急ぎ書中を以ってお礼申し上げます。 謹白」
新発田市の地域おこしの役に立ったことを、嬉しく思っています。
2005/2/20

[380] 新発田城の復元を祝う
芝田『市民新聞』第40号に、「新発田城の復元を祝う」という小生の記事が掲載されています。昨年は、新発田市にとって歴史建造物の復元が相次ぎ、城下町としての風情がますます高まってきています。
2005/2/20

[379] 「紫雲寺、その歴史と人物」
紫雲寺町社会教育協会主催の講演会に、参加してきました。講師は、新発田市郷土研究会副会長の荻野正博氏でした。この講演の中て、荻野氏は「塩津潟から紫雲寺潟になったもの」という説明を、4回も繰り返し説明した。紫雲寺町に於ける講演会でも、「塩津潟」が確実に定着していることを感じました。
2005/02/19

[378] 日本文化伝道士の認定
オートリアの「ハプスブルク芸術友好協会」から認定された『日本文化伝道士』の認定は、とても大きな意義があります。「塩津潟」の復元と「都岐沙羅柵」の解明に、甚大な影響力を持ってきました。今後も、『郷土の歴史を正しく学習』する活動に、努力を継続していきます。
2005/02/15

[377] なんだかんだ一直線
BSNラジオの番組名です。本日、大倉修吾アナウンサー兼歌手とスタジオで対談してきました。内容は、主に『塩津潟は塩の道』のことでした。新発田の歴史や観光についても、説明してきました。
2005/02/03

[376] 紫雲寺町埋蔵文化財調査報告書 第3集
 この報告には、『紫雲寺潟(塩津潟)と記述されています。以後紫雲寺潟と記述します。』となっています。
 新潟県立歴史博物館の記述とは、明らかに違っています。同博物館は、『塩津潟(紫雲寺潟)』となっています。紫雲寺町の「発掘調査報告書」は、同博物館の潟名の表記が違います。
 紫雲寺町は、新発田市と加治川村と一緒に合併します。平成17年5月1日のことです。新発田市立小・中学校の学習に、大きな混乱をもたらすことは確実です。『塩津潟』が、各市町村によっていろいろな表記で学習しています。新発田市の教育委員会が中心になって、早めに統一見解を提示する必要があると考えます。担当者各位の、早急な対策を望みます。郷土の歴史を、正しく学習できる環境作りに期待します。
2005/2/3

[375] 大峰山界隈B
 『ミニック』2月号の「大峰山界隈学びの歩みBには、次のように記述されています。「竹前兄弟・宮川四郎兵衛等の長年努力が実って享保18年(1733)開田に成功した旧塩津潟(旧紫雲寺潟)の干拓地です。(抜粋)
 注目すべきは、旧塩津潟(紫雲寺潟)と記述していることです。
2005/01/31

[374] 「美術画報45」のお礼
美術画報に、新発田市の歴史的財産が全国に紹介されました。例えば、新発田城の三階櫓・や辰巳櫓の復元や諏訪神社の復元、清水園、古四王神社、五十公野地区の歴史ゾーン、大倉喜八郎翁等々の紹介でした。そのことに対するお礼や感謝の言葉が、新発田市民や市職員の方々から頂いています。観光面の民間大使の役割を、果たすことが出来て喜んでいます。
2005/01/31

[373] にいがた湖沼フォーラム
 上記のフォーラム『潟と文化を語る』が、平成17年2月27日(日)に開催されます。会場は、新潟市万代市民会館です。時間は、10:00〜16:10です。
 私は、『塩津潟をしのびその文化の継承と復元を試みる』という主題で発表してきます。是非、聞いてください。
2005/01/31

[372] 塩津潟(紫雲寺潟)の定着
 佐藤悌吉氏の叙勲を祝う会が、昨日中条で約200人の参列者で盛大に行われました。本当に、おめでとうございます。佐藤家は、「都岐沙羅柵」と深く関わってきた関係から、今後一層の好影響をもたらすものと思っています。
 その席上では、「塩津潟」の話題が多く聞かれました。また、「都岐沙羅柵」についても、中条町に存在したという声が沢山聞かれました。いよいよ「塩津潟」と「都岐沙羅柵」を、中条町の地域おこしに活用する段階になってきたことを実感しました。
2005/01/24

[371] 「遺跡発掘調査報告会」
第12回の同報告会が、新潟県埋蔵文化財調査事業団の主催で、平成17年3月6日三条市で開催されます。この会の報告に、『古墳時代の発掘』が、三点あります。その中に、中条町の「西川内南遺跡」が含まれています。この遺跡は、『大塚山古墳(ひとかご山)』や『伊夜日子神社』とすぐ近くにあります。大和朝廷の城柵の一つ「都岐沙羅柵」と深い関連があるものと考えています。当日の報告会が、今から楽しみです。渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵は、近いうちに明確になるものと思っています。
2005/01/24

[370] 市民教養講座
同講座に、「紫雲寺町の歴史」が平成17年2月に行われます。副題は、〜紫雲寺潟の干拓を中心に〜です。新発田市議会が、平成14年3月の定例議会で『塩津潟の存在』を新発田市が公式に認定しているのに、「紫雲寺潟の干拓」を説明することは、一体どうなっているのだろうか?平成17年5月1日に紫雲寺町と加治川村が、新発田市に合併する。新発田市の歴史認識が余りにも不明解です。教育現場での混乱を、多くの市民が心配しています。
2005/01/24

[369] 『日本文化伝道士』に認定
 私は、ハプスブルク芸術友好協会より「日本文化伝道士」に認定されたことの連絡を、平成17年1月に受け取りました。立派な「認定トロフィー」が、同時に贈られました。同封の文書には、『これまでの制作活動、国内外でのご実績が高く評価されました。また、日本現代芸術の未来を担うべく、期待を込めて「日本文化伝道士」に認定されました。』とありました。
 私の長年による研究と、それに基づくホームページ『塩津潟の由来』の開設や、著書『塩津潟は塩の道』の出版や、数多くの講演会や教育現場での実践が、認められたものと喜んでいます。
2005/01/05

[368] 『回想のヴィノグラドフ』
この著書は、「ポール・ヴィノグラドフ先生に捧ぐ」という没後30周年記念記録集である。126頁に、西新発田高等学校講堂で開催された演奏会のことが掲載されている。昭和25年(1950)10月29日の、開催である。ピアノは、ポール・ヴィノグラドフさん、ソプラノは、アクリヴィシーマ福沢さんである。
主催は、新発田市。後援は、新潟日報社。企画は、新発田市音楽同好会である。戦後の混乱期に、よくこれだけの芸術活動を開催したものだと感心する。
私に、この著書が届いたのは大和朝廷の新潟県内の「城柵の設置」を調べていることから、東京大学や国学院大学の関係者からの資料提供である。そのきっかけになったのは、『美術画報』45の新発田市の歴史を紹介したことによる。なんと不思議な因縁が、あるものである。発行は、平成16年12月2日である。『美術画報』は、平成16年12月20日で、殆ど時を同じくしている。なお、福沢さんは、福沢諭吉さんと姻戚関係にある人だそうである。
2005/01/05

[367] 伊夜日子神社
中条町大字弥彦岡の『伊夜日子神社』は、昨年の暮れに改装されとても立派になっていました。この神社の周辺から発掘された遺跡は、古墳時代のものが多いのです。歴史的に、古い歴史を持っている伊夜日子神社なのです。
2005/01/01

[366] 謹賀新年
新年明けましておめでとうございます。
新春を迎え皆々様のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。
昨年は、大変御世話になりありがとうございました。私のライフワークである『塩津潟は塩の道』は、少しずつ広がりと深まりを増してきました。
『塩津潟は塩の道』の第二刷を、8月に出版しました。副題は、「塩津潟の由来と都岐沙羅柵」です。この研究に関する講演を、30回以上行いました。昨年だけでも、8会場で行ってきました。
ホームページ『塩津潟の由来』は、平成6年に開設して以来11500回以上のアクセス数です。著書とホームページで理解を高め、講演で沢山の方々に郷土の歴史を聞いていただき、とても感謝しています。
芸術の分野では、新発田市展に出品した「加治川桜の復活」が、『美術画報』43に3頁掲載されました。45では、「秋吉和夫氏との特別対談」が10頁掲載され、全国に紹介されました。全国に、新聞や冊子等で1500万部発信されました。
本年も、ご支援とご指導の程よろしくお願い申し上げます。
平成17年 元旦 伊藤國夫