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2004/12/28

[365] 新発田市の民間観光大使
『美術画報』43と45に、「新発田市の自然観光」や「歴史観光」の事例が掲載され、全国に紹介されました。平成16年12月28日に、『中越地震』の被災から66日ぶりに「上越新幹線」が、復旧しました。新年は、「新発田市」に多くの観光客が来訪してくれることを願っています。
これは、「秋吉和夫氏との特別対談」を、今年の8月4日に新発田市で実施したことが、全国に紹介されたものです。 
2004/12/28

[364] 『塩津潟』が全国版に掲載
「塩津潟」と「都岐沙羅柵」が、全国版に相次いで掲載されました。例えば、『美術画報』『各新聞社の7社』『週刊誌』『塩津潟は塩の道』等々です。
人々は、「伊藤先生は、新潟県の人から日本の人になりましたね」とか、「五尺玉の大きな花火を上げましたね」という声が、聞かれるようになってきました。大変、嬉しいことです。
2004/12/25

[363] 越後は辺境か
上記シンポジウムが、新潟県立歴史博物館で10月30日に行われています。縄文時代から、日本海側は大陸の諸国と交流のある表日本だったわけです。その歴史的事実を、現代人特に新潟人は絶対に忘れてはいけません。この内容を、教育の現場に活用する必要があります。
2004/12/18

[362] 新潟大学産学連携セミナー
『経営感覚の導くものは』のセミナーに、12月17日参加してきました。この討論でも、「米特区」の話題を提供してきました。先人が苦労して新田開発した史実と米生産にかける農業の大切さを力説してきました。キーワードは、「減反政策」と「地産地消」です。日本国民を安心させる『自給率』の向上が、非常に重要です。
2004/12/17

[361] 大山助役に説明
片山新発田市長に面会を求めたら、都合がつかないので大山助役に説明してほしいとのことで、「塩津潟」や「都岐沙羅柵」について説明してきました。『美術画報』45を資料にして郷土史の、学会等の最近の様子について説明してきました。
新発田市としての、歴史認識の方針を明確にするものと思っています。この面談を機会に、『美術画報』を寄贈してきました。この画報は、全国版なので新発田市民も目にすることが多くなることでしょう。新発田藩の歴史が、後世の人々に正確に伝承されることを、強く望んでいます。
2004/12/11

[360] 『にっぽう新聞塾』
新潟国際情報大学の開講講座に、参加してきました。本日のテーマは、『選挙報道の醍醐味』でした。選挙の裏話や構図の話から、新潟県政を分かり易く講話しました。その資料の中に、『にいがた地名考』ありました。地名の由来のことが、記述してありました。また、『新潟日報新発田フェア』のことや『産学連携セミナー第2期講座』のことも、記述してありました。
2004/12/11

[359] 「北陸地域の活性化」の中間報告会
北陸建設弘済会主催の『第10回「北陸地域活性化」に関する研究助成事業中間報告会』が、12月10日新潟市で開催されました。13主題の発表がありました。その内、大学関係が8主題ありました。私は、全体会でも発言してきました。また、第一分科会では、新潟平野の河川舟運やその後の新田開発について、説明してきました。当然のごとく『塩津潟』は、その両方に関係している内容なので詳しく説明してきました。参会者の中には、私の著書「”塩津潟は塩の道”を読みました。」という人もいました。とても嬉しかったです。
2004/12/11

[358] 新潟医療福祉大学の『新潟考』
同大学の生涯学習センターの教養講座『新潟考』が、12月10日に終了しました。10回の講座でしたが、この講座の中でも、新潟市の河川舟運の歴史と、塩津潟等の新田開発の話をしてきました。現在豊栄市の「福島潟」は、平成17年3月21日には新潟市に合併するので、新潟市の福島潟は、加治川によって塩津潟と連携していたことになり、「塩の道」が一層連結し易くなりました。篠田新潟市長は、「塩の道」については既に認識している内容なので、阿賀北地方の「塩の道」は、地域の活性化に役立つと思います。
2004/12/11

[357] 『新潟力』に「塩津潟
新潟市長篠田昭氏の著書『新潟力』に、「塩津潟(紫雲寺潟)」という記述があります。篠田氏は、私の著書『塩津潟は塩の道』を既に読んでおられるようです。
新潟市は、「水の都」をキャッチフレーズにしているだけあって、「新潟湊」の歴史をふまえた政令指定都市をビジョン化しているようです。「河川舟運」の重要性を、後世に正確に伝承していきたいものです。
2004/12/06

[356] 美術画報45に塩津潟が掲載
『美術画報』に、秋吉和夫氏との「特別対談」が掲載されました。新発田市の歴史・塩津潟・伊藤の芸術論等が、10ページに写真入で紹介されています。
これは、『美術画報』43の掲載に続くものです。「塩津潟」の新田開発の歴史的事実が、全国版で紹介されています。新潟県の歴史の見直しが、急速に進展すると思います。郷土の歴史が、正確に伝承される近況が整備してきました。
2004/12/02

[355] 新潟大学農学部の擬似湿地を創出
新潟大学農学部の教授は、今後『塩津潟』を文章に記述し、呼称してくれるものと思います。新潟県の歴史は、湿地帯の「新田開発」の連続でありました。『塩津潟』の新田開発は、新発田藩の歴史でもありました。新潟県における「農業」は、重要な産業です。
だからこそ、篠田新潟市長は、『田園型政令指定都市』を合併の二大柱にしているのだと思います。
2004/12/02

[354] 新発田城の3展示会
『新発田城の復元』に関する展示会が、3会場で開催されました。
「ピース・ウォール&ヌーボーラベル展→東京のお台場11/18〜20
「新発田城写真展」→新発田市地域交流センター11/20〜30
「新発田城を描こう」新発田市生涯学習センター11/20〜30
私は、この3展示会に作品を出品しました。そのご褒美に、ボージョレ・ヌーボーの「新発田城ラベル」を味わうことができました。
27歳と30歳に、フランスで飲んだワインの味を思い出していただきました。
2004/12/01

[353] 新潟日報「ミニック」
「ミニック」12月1日号に、『塩津潟(紫雲寺潟)』と記述した記事が掲載されました。同新聞の『大峰山界隈学びの遊歩』の、説明文中です。このタイトルは、加治川村の歴史に関する説明文です。
『塩津潟』か『塩津潟(紫雲寺潟)』が、新潟県下に日増しに確実に定着してきています。私の夢が叶い、本当に喜んでいます。
2004/11/29

[352] 「産官学連携」が盛ん
国立大学が、特殊法人化されてから一層「産官学連携」が活発になりました。敬和学園大学・新潟国際情報大学・新潟医療福祉大学・新潟大学等の公開教養講座が、本当に盛んになりました。若いときに、玉川大学に御世話になっている頃のことを想起させます。
行政側も大学側も、社会の生活向上に誠心誠意工夫と努力をしてくださいます。ありがたいことです。
2004/11/28

[351] 第10回農学部フォーラム
新潟大学農学部は、『水鳥飛び交う田園型政令指定都市をめざして』を平成16年11月28日新潟市民芸術文化会館で開催しました。このフォーラムで、『水辺の文化』の伝承として「新潟は古代から河川舟運の歴史があるので、児童生徒の副読本に歴史の事実として副読本に編集して活用しべきである。」という私の提言がパネルデスカッションの時に紹介されました。新潟は、大小の河川と鳥屋野潟や福島潟や塩津潟等と多くの河川によって物流の重要な交通手段だったわけです。人間の生活に潤いを与えるのは、『水辺』です。現代人は、このことを忘れてはいけません。
2004/11/27

[350] 『塩津潟は塩の道』の紹介
鈴木明夫前教育長の出版記念祝賀会の席上に、私の著書『塩津潟は塩の道』が紹介されました。大勢の参会者に、新潟県の「塩津の道」が再認識され、大変喜んでいます。『塩津潟』が、一層多くの人々に深く理解されてきました。新発田市史の改訂も、近いものと考えています。
2004/11/26

[349] 新発田城がヌーボーのレッテルに
『ピース・ウォール』と同時に、ボージョレ・ヌーボーのレッテルに貼られたものが届きました。今年は、新発田市にとって「新発田城の三階櫓や辰巳櫓」と「諏訪神社」が復元した記念すべき年になりました。
2004/11/24

[348] ピース・ウォール展
『平和の壁(ピース・ウォール)』が、東京のお台場で開催されました。期間は、平成16年11月18日〜20日まで世界のアーティストが作品を展示しました。私は、その展示会に『新発田城』の三階櫓を出品しました。これは、新発田市の平和のシンボルと考えているからです。
2004/11/19

[347] にいがた社会教育370
新潟県社会教育協会主催の『新潟県人よ、教育で元気を出そう』のシンポジウムを実施しました。平成16年5月26日に、新潟市の「ウェルシティ新潟」を会場にして多くの参会者を集めて開催されました。その時のシンポジウムの記録が、『にいがた社会教育』370に掲載されました。パネラーとしての私の提言は、『新潟県人は、教育で元気を出すぞ』でした。内容は、近日中に、全文を『塩津潟は塩の道』のHPに掲載します。是非、読んでください。『塩津潟』と『都岐沙羅柵』の復活について、最新の様子を提言したものです。
2004/11/19

[346] ハプスブルク芸術友好協会会員
「ハプスブルク芸術友好協会」の会員盾が、私に届きました。とても嬉しく思います。長年の研究生活とそれに基づく『塩津潟は塩の道』の出版(初版及び第二版)とホームページ『塩津潟の由来』の開設と、長年の写真を撮り続けた勲章と考えて言います。アートに対する考え方が、一層深まるような気がします。ルーブル美術館に、27歳と30歳の時に鑑賞に旅行したことが、大きな原動力になっているように思います。本当に立派な、「会員盾」が「塩津潟教育研究所」の事務所を明るくしています。
2004/11/17

[345] 「地域の力」再発見
上記主題で、東北・新潟8新聞社共同企画で7県14人のメッセージが掲載された。2人ずつ7回の連載でか。総集編が11月14日付に、読者の意見・感想として私の感想が掲載されました。『人生選択に自信』という内容です。原文は、私のホームページ『塩津潟の由来』の新潟日報の欄に取り入れます。26〜39歳の若者の「若い選択未来を照らす」大きなエネルギーに感心しました。『ここが好き、だからここに住む』という「夢」を追い、開拓者として輝いている若人にスポットを当てた好企画でした。
2004/11/17

[344] 市長への手紙
広報しばたの11月15日号(1145)に、「市長への手紙」の内容を「広報しばた」や市ホームページに掲載していくとの記事がありました。大変に良いことだと思います。私は、「秘書・広報課」に何度か行ってお願いしたことが、やっと実現します。
『塩津潟の由来』や『都岐沙羅柵の由来』等については、早い段階で広報に掲載されるものと期待しています。【市民に開かれた市政】は、民主主義政治の根本理念です。早急な対策を、願っています。
2004/11/17

[343] 作家の醍醐味
新潟日報は、同事業社から発行されている著書を一頁を使い紹介している。11月13日や17日付である。その他に、土・日曜日ごとに多くの出版物を掲載し紹介している。私の著書『塩津潟は塩の道』も、その中に含まれている。私が著書の中で提唱している「塩津潟の復活」と「都岐沙羅柵の復活」は、確実に新潟県民をはじめ全国に浸透してきている。この喜びを、作家の醍醐味と言う風に感じ取っています。
2004/11/11

[342] 新市名は『塩津市』
中条町と黒川村の合併が、一年以内です。新市名も、決めなければなりません。私は、中条町と黒川村に大昔から共通する『塩』に関わる名称が良いと考えています。『塩津市』が、最適な新市名と考え、公募の段階でも応募しています。関係各位の、一考をお願いいたします。
2004/11/07

[341] 青田遺跡の発見・発掘とその意義
にいがた連携公開講座2004が、11月7日紫雲寺町中央公民館で行われました。資料には、旧紫雲寺潟(別名塩津潟)でした。紫雲寺潟の出現は、9世紀とあったので質問しました。
塩津潟は、9世紀より早いと思います。その根拠は、大和朝廷が新潟県に城柵を三つ装置しています。その造営に当たっては、どうしても内水面交通が必要である。また、新発田市議会は、昨年の3月議会で竹前さんたちの干拓前は、「塩津潟」で呼称・表記することを確認しています。念ため、紹介しておきます。
2004/11/07

[340] 郷土出版図書の紹介
新発田市立図書館は、「郷土出版図書の紹介」を、図書館一回のフロアで展示・紹介してくれました。その展示に、初版(平15年8月20日)と第二版(平成16年8月9日)が、紹介されました。
2004/11/07

[339] 「塩津潟の探求と実践の継続」
上記の主題は、機関紙『土壌』に掲載されたテーマです。『塩津潟教育研究所』の活動の一端として、掲載されたものです。
インターネットの『塩津潟の由来』は、10717回のアクセス数に達しています。ホームページからも、「塩津潟」の発信が継続されています。
2004/11/07

[338] 「塩津潟の伝道師」
「伊藤先生は、塩津潟の伝道師」と紹介してくれたのは、敬和学園大学の初代学長の北垣宗治博士です。当大学の講義に次いで、新発田ロータリークラブの講演会での講師紹介の言葉でした。
とても、光栄に思いました。「塩津潟」と「都岐沙羅柵」についての講演を、30回以上行ってきました。本年は、8回の講演会を実施しました。順調に、「塩津潟」の伝道を続けています。
2004/11/03

[337] 西川内北遺跡の現地説明会
この遺跡は、塩津地内の「大塚山古墳(ひとかご山)」と弥彦岡の「伊夜日子神社」の近くの『塩津潟』の北辺にあります。
本日の担当者の説明を聞いて、古墳時代の大和朝廷の城柵の一つである『都岐沙羅柵』との関連を、一層強く持ちました。その理由は、「大塚山古墳」の周辺に古墳時代の遺跡が、大塚遺跡等12遺跡が最近発掘されているからです。とても興味深い、遺跡群です。
2004/11/02

[336] しばた市議会だより
第73号が、平成16年10月29日に発行されました。「市民の声」欄に、私の感想が掲載されました。『合併後の新市政はどこへ』です。これは、9月定例会を傍聴したレポートです。初日を除き、全部(本会議・各委員会を含む)傍聴しました。『越後国絵図』を活用する活動は、新市長と新議員と市職員によるところが大きいのです。郷土の歴史を、郷土の発展のために活用してほしいことを提言したものです。
2004/11/02

[335] 広報しばたH16.11.1日号
『正保越後国絵図』が、新発田市の文化財として紹介されました。この国絵図は、徳川家光が命じて作成されたものです。1645年のことです。新発田藩の当時の様子が、正確に読み取ることが出来る非常に正確なものです。
この絵図には、『塩津潟』が明確に記述してあります。河川舟運の様子が、よく理解できる絵図でもあります。現代の新発田市民は、この貴重な絵図を大切にすると共に、現代の地域の活性化に役立てるべきだと思います。
近日中に、この絵図の縮小版が販売されます。大いに活用してほしいと、考えています。
2004/11/02

[334] ご無沙汰しております・・・
『越後不思議紀行』の海月です。少し潟東村の宣伝をさせてください。
平成16年12月5日(日曜日)に潟東村において、
『かもんかもねぎ祭り』が開催されます。
カモ猟などの実演や潟東太鼓の演奏などが行われます。
メインの”カモ汁”は前売り券での販売になっています。
詳細は下記のURL(潟東村のホームページ内)をご覧下さい!
http://www.vill.katahigashi.niigata.jp/kamonegi/KAMONEGI.HTM
※震災にあわれた方も少し元気が出たら、ぜひお越し下さい。
アツアツのカモ汁で心も体も暖まります・・・
http://www.nightmare.jp/
2004/11/01
[333] 片山市長の回答(2)
9月3日(再メール9月10日)の回答が、10月7日に届きました。回答が具体的でなかったので、再度10月8日に再質問しました。その回答が、10月29日に届きました。その回答を、私のホームページ『塩津潟の由来』に掲載しますので、よく読んでください。いかに学問的な回答に、なっていないかが分かると思います。
しかし、いくつかの点で、今までよりは少し進展した内容が読み取れます。まだ、不明確な内容については、今後も質問と意見の提言を続けていきたいと思います。
2004/10/21

[332] 新発田ライオンズクラブの講演
上記講演『塩津潟が再認識される』を、10月20日行ってきました。新発田城の復元と、新発田藩主の新田開発とが復活してきます。新発田市の知識人、『塩津潟の復活』を再認識したものと思います。
2004/10/19

[331] 埋文にいがた48
新潟県埋蔵文化財調査事業団は、『埋文にいがた』(H16年9月30日)で中条町の発掘調査結果を掲載しています。「昼塚遺跡」「六斗蒔遺跡」「道端遺跡」(荒川町)です。これらの遺跡は、塩津潟の北部に位置する重要な遺跡です。この発掘によって、塩津潟を中心とした河川舟運の古代の様子が、明確になってなってきました。塩津潟周辺は、新潟県の古代を探求するには重要な遺跡の宝庫です。「塩津潟」周辺の大和朝廷の城柵の研究に、大きな成果を発揮すると考えています。『都岐沙羅柵』が、明確になることは近いと思います。
2004/10/14

[330] 越後佐渡の古代ロマン
新潟県立歴史博物館は、上記の企画展を16日から開幕します。新潟日報は、10月11日と10月14日付の朝刊に掲載しています。新潟県の古代に、スポットが当たることにワクワクしています。 しかし、残念なことがあります。それは、『都岐沙羅柵』について触れていないことです。県内に城柵は、渟足柵(647年)・磐舟柵(648年)・都岐沙羅柵(658年)と、日本書記に記述されています。今回の企画展には、『都岐沙羅柵』について説明していないようです。本当に残念なことです。日本書記に記述されていることは、説明をするべきだと考えています。なぜならば、今回のキーワードは、「大遠征」・「蝦夷」・「城柵」だからです。担当者の再考をお願いします。
2004/10/13

[329] 片山市長への質問
「市民の声」として、市長に質問をしました。『塩津潟と紫雲寺潟の私の研究結果について』です。10月8日付けです。具体的な五項目について、明快な回答が近日中に届くと思います。
2004/10/07

[328] 片山市長の返事
片山新発田市長に、9月3日に出しました。その返事が、10月7日に届きました。その詳細については、全文を掲載しますので読んでください。
2004/10/06

[327] 中条町まちだより〔9月1日号〕
広報「まちだより」9月1日号に、『船戸川崎遺跡』と『船戸桜田遺跡』の報告が掲載されています。「渟足柵」と「磐舟柵」の頃の木簡が出土したことが記述してあります。中条町の古代の様子が、報告されています。そうすると、『都岐沙羅柵』とも密接に関連してきます。いよいよ『大塚山古墳(ひとかご山)』と、大和朝廷の新潟県内における城柵が急浮上してきました。『都岐沙羅柵』が、中条町に復活する日が近づいてきました。何か、ワクワクしてきますね。
2004/10/05

[326] 地方分権とこれからの地域経営
北川正恭早稲田大学大学院教授の講演を、10月4日朱鷺メッセで聞いてきました。地方分権の時代になった今日、知事を含め各市町村長の地域経営の感性が問われています。新潟県内の『塩の道』を、地域の活性化に導入しようと市町村長と話し合っています。市町村長のタイプに、二つあります。一つ目は、自分たちの市町村のことは自分で決断し、結果においては責任を取るタイプです。二つ目は、重要事項は決定せず、他市町村の行政の模倣するタイプです。このリーダーは、結果責任も取りません。しかし、明るい傾向としては、前者のタイプの市町村長が増加していることです。昨日の講演は、前者の市町村長の出現に大きな影響を与えと思います。
2004/10/03

[325] 著書が、各大学の図書館に整備
私の著書『塩津潟は塩の道』が、各大学の図書館に整備されています。「塩津道」や「塩津潟」や「塩の津」等の検索で、『塩津潟の由来』が分かるようになっています。また、『都岐沙羅柵』の検索でも、『塩津潟は塩の道』へアクセス出来ます。各大学の学生が、『塩津潟の由来』について、調べ始めました。多くの後継者が、育ってきていることを、実感しています。
2004/10/01

[324] 「道端遺跡」現地説明会
中条町乙付近の「道端遺跡」の現地説明会が、平成16年9月25日に行われました。この遺跡は、上層は古墳前期、下層は、縄文後期の遺構です。荒川を北に望む胎内川の扇状地北東部扇端に営まれた古墳時代前期(4世紀)を中心とする集落跡です。この発掘によって、『塩津潟』周辺の古墳時代と関連する集落跡です。大和朝廷の「蝦夷対策」と、関連が深くなりました。越後国の三つの「城柵」との関連が一層強くなりました。
2004/09/30

[323] 日本テレビの対応に感激
9月28日に放映された直後に、紫雲寺潟より塩津潟が正しいと連絡しました。『塩津潟の由来』の資料を、直送しました。その回答が、9月30日にありました。この素早い対応に、感激しました。
2〜3日後に、『おもいっきりテレビ』の「きょうは何の日」のホームページに訂正内容を、掲載するとのことです。
2004/09/30

[322] 新田開墾令が発布された日
徳川吉宗が、幕府の財政を立て直そうと『享保の改革を』を行いました。そのための「新田開墾令」が発布された日が、1722年9月28日です。竹前小八郎が、塩津潟(紫雲寺潟)を干拓しようとして、江戸幕府に工事の願い書を提出したのが、11726年です。それまでは、『塩津潟』で通ってきたのです。その願い書に「紫雲寺潟」と書いて出しのが、紫雲寺潟と呼ばれるようになった大きな原因です。この干拓は、1734年に完成しています。完成させたのは、新発田藩なのです。だからその後の潟の呼び名は、元来の潟名である『塩津潟』に戻せば、今日のような混乱は起きなかったのです。原因が明確なので、現代人は古来からの呼び名である『塩津潟』と呼ぶことが、先人の生活の営みに対する礼儀であると考えています。
2004/09/30

[321] 日本テレビからの回答
平成16年9月27日放送の「きょうは何の日」の塩津潟(紫雲寺潟)の潟名について、長澤様から回答がありました。新潟県の事情は、よく分かりました。対応としては、日本テレビのホームページに、伊藤様からのご指摘の内容については、掲載するとのことです。
次に、新潟県の歴史の変遷(塩津潟の由来)については、今後検討するとのことです。
2004/09/29

[320] サンデー毎日
『サンデー毎日』の「ときめき通信」の中に、『塩津潟は塩の道』の第二版の紹介がされています。「塩津潟の復活」と「都岐沙羅柵の復活」が、掲載されています。この冊子は、全国版なのです。私の著書が、全国に紹介されたのは、平成16年9月26日号です。
2004/09/29

[319] 徳川吉宗時代の新田開発
『おもいっきりテレビ』の「きょうは何の日」の中で、「新田開発令」の事例として、「見沼代用水」と「紫雲寺潟」を取り上げました。後者の「紫雲寺潟」については、「塩津潟」という歴史的背景をスタッフは理解していなかったようです。「紫雲寺潟」を現在では、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)と呼称したり、記述することをご存知なかったようです。
そのことを日本テレビとテレビ新潟の放送局に、即連絡しました。また、『塩津潟』に関する著書と各種資料を送付して、新潟県の正確な歴史を理解してもらうよう、お願いをしました。同テレビ局から、何らかの回答がくるものと思います。
2004/09/24

[318] 『塩津潟の由来』の充実
私のホームページ『塩津潟の由来』が、9月になってからもとても充実しました。「新聞等の掲載」を含めて、内容が多面的になってきました。24日現在は、10247回のアクセスがありました。新聞だけでなく、週刊誌や専門誌にも、全国版で発信されています。『塩津潟』は、全国規模で認識されてきました。ホームページと新聞等の活字によって、新潟県外の方々にも理解されてきました。本当に、嬉しいことです。
2004/09/24

[317] 新発田市出身者の著書紹介
新発田市立図書館では、新発田市出身者の著書を紹介しています。その中に、私の著書『塩津潟は塩の道』の初版と第二版が紹介されています。新発田市の歴史に関する著書が、新発田市民に紹介されているのは、大変嬉しいことです。
2004/09/22

[316] 議会運営員会
新発田市議会「議会運営委員会」に、私が提言してきた『市民の声』が、プリントされて議員に配布された。平成16年9月22日のことである。明日の新発田市政に、何点かは活用されることでしょう。楽しみにしながら、市政を見守っていきたい。その中には、『塩津潟の復活』が、明確に提言してあります。具体的に、活動されると思います。
2004/09/17

[315] 新発田市片山市長に公開質問状
『塩津潟』の存在に対する片山市長に、「公開質問状」を出している。平成16年9月3日です。Eメールを送信したのですが、届いていないと言うことで、9月10日に文書で再度出しました。『塩津潟』に対する新発田市の基本的な態度が、2週間以内に明確になります。
紫雲寺町の福沢教育次長と井浦議会議長と、9月7日に会って話し合いをしてきました。その結果、紫雲寺町は、『塩津潟(紫雲寺町)』でも良いとのことでした。鬼島町長は、6月議会で丸山議員の一般質問に『塩津潟』の存在を認めた答弁をしています。
2004/09/16

[314] ふるさと大百科
決定版「阿賀北・岩船」が、平成16年3月18日に郷土出版社から、販売されました。この本の中には、『塩津潟』が呼称されています。漸く、紫雲寺潟から塩津潟に蘇りました。大変、画期的なことです。今後、新発田市の公文書は、「塩津潟」で表記され、呼称されると思います。
2004/09/11

[313] 「私の逸品集」が完成
「深い思い入れ 感じてほしい」は、新潟日報の下越版(H16年9月11日付)に掲載されました。新発田市の『地域おこし』の活動が、一つ定着してきました。「城下町しばた」の歴史や文化が、市民に啓発されました。
2004/09/08

[312] 「塩の道」の提言
新潟日報社の『一日編集局』が、新発田市で平成16年9月4日に開催されました。その時に提言した『塩の道』のことが、9月8日付の朝刊に掲載されました。この記事によって、新潟県の『夢事業』の「街道物語」の中に“金の道”や“絹の道”などと共に“塩の道”も全県を挙げて取り組む気運が高まることを期待しています。掲載された記事は、「塩の道を研究している。全県的な取り組みができないか。」ですが、『知事と語るむらおこし・まちづくり』の事例や、長岡市・三条市・新発田市・村上市等の『地域振興局』の取り組みの事例を挙げて、『塩の道』の提言をしたものです。
2004/09/08

[311] 「都岐沙羅柵」の復活
中条町のHPに「都岐沙羅柵」についてのことが、掲載されました。中条町民は、「板額御前」や「塩津潟」のように、「都岐沙羅柵」の復活を力強く推進ていくと思っています。
2004/09/07

[310] 『塩津潟の由来』が一万回のアクセス
私のホームページが、10周年で10000回に達しました。最初の5年間位は、あまりアクセスがありませんでした。近年では、爆発的にアクセス数が急増しています。郷土史に関心が高まってきていることに、とても喜んでいます。私の著書『塩津潟は塩の道』の第二版と相まって、『塩津潟』と『都岐沙羅柵』が順調に認識されてきています。
2004/09/07

[309] 中条まつりの花火大会
同まつりの花火大会が、9月5日に行われました。『打ち上げ祝砲』の中に、塩津潟教育研究所が二発上げました。「塩津潟が美術画報で全国に紹介されました。」「塩津潟は塩の道は、二版です。都岐沙羅柵が蘇ります。おめでとう。」です。中条の空に、大きく花開いたことでしょう。本当におめでとう。
2004/09/04

[308] 第一回『心のふるさと』
『心のふるさと』の「私の逸品」が、平成16年2月19日〜3月31日まで新発田市市島酒造で開催されました。その時の逸品を収録した小冊子がこのたび発行されました。
私が出品した『越後絵図と塩の道』が、掲載されています。その説明文は、『私が「塩の道の探求を始めたのは、かれこれ遡ること50年、小学校5年生の時でした。「正保二年越後絵図を昔の新発田立図書館で見て、その絵図に「紫雲寺潟」でなく「塩津潟」と明記してあるのに非常に強い衝撃を受けました。以後研究に研究を重ね、塩津潟の由来を少しでも多くの方々に知っていただくために、活動を続けてまいりました。新潟県は、古来から隣接県に「塩」を供給してきました。その歴史的事実を忘れないためにも今回皆さんに見ていただきたいと思いました。』です。新発田市民はもとより、他市町村の方々からも見ていただき、本当に有意義な『心のふるさと展』だったと思います。
2004/09/03

[307] 市町村議会の郷土史見直し
中条町・新発田市・紫雲寺町の各市町村が、『塩津潟』の存在について一般質問し、教育長及び市町村長が答弁をしています。どの市町村も、『塩津潟』の存在を明確に認めました。この内容は、非常に画期的な出来事です。今までは、紫雲寺潟だけで通してきました。今後は、『塩津潟(紫雲寺潟)』か、『塩津潟』だけで表示したり、呼称されると思います。これは、中条町の富樫議員・紫雲寺町の丸山議員・新発田市の長谷川議員の功績が、非常に大きいものがあります。
次の段階は、市町村の職員の認識を高めることと、各市町村民への啓発活動が重要になってきます。広報で知らせたり、ホームページに掲載したり、講演会を開催する等の手立てが大切になってきます。市町村長の、リーダーシップに期待しています。
2004/09/03

[306] 新潟海洋国際会議
上記会議が、朱鷺メッセで9月1日〜9月2日に開催されました。新潟県は、海岸線が長いので関係の深い会議でした。特に、県内は直江津港・新潟港・岩船港等の港があるので密接な内容でした。新潟県は、古代から大和朝廷の渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵と深い関わりがあり、海だけではなく川や潟等の『河川舟運』の活発な土地でした。これらの内陸水上交通も、忘れてはならない歴史上の事実と考えました。
2004/09/02

[305] 紫雲寺町議会の鬼嶋町長の答弁
紫雲寺町議会の丸山議員の質問に対して、鬼嶋町長は『塩津潟』の存在を認めた答弁をしています。このことは、とても大きな進展です。紫雲寺町の町民は、歴史の真実に気が付いてきているようです。『塩津潟』については、中条町・新発田市に次いで紫雲寺町も議会で討論を行いました。地域住民の歴史は、地域住民で決定していくと言う傾向が顕著になってきました。これでこそ民主主義です。地方の文化の時代です。人間はやはり《真実》を求めるものですね。漸く、江戸幕府が命じて作成した古絵図【正保二年絵図(1645年)・元禄13年国絵図(1700年)】に記載されている『塩津潟』が、みごとに蘇ってきました。『塩津潟』と呼称することによって、新発田市や新潟県の文化財に指定してある価値が発揮されると言うものです。
2004/09/02

[304] 新発田市秘書・広報課との話し合い
広報しばた9月1日号の「紫雲寺町」の紹介は、紫雲寺町のホームページからダウンロードしたものをそのまま掲載したとのことでした。片山市長の名前で配布される広報としては、いささか不思議な内容の広報だと思いました。『塩津潟』に関する新発田市の態度は、昨年新発田市議会で臼井教育長が答弁したように、『塩津潟』の存在を認めているとのことでした。新発田藩主が所有していた『正保二年越後絵図』に記述してある『塩津潟』を、新発田藩による新田開発については、後日「広報しばた」で新発田市民に知らせるとのことでした。その大きな理由は、新潟県から発信される公文書や新潟県立歴史博物館の展示録には、『塩津潟(紫雲寺潟)』と記述されるようになってきているからです。新発田市民は、『塩津潟』を、一日も早く正しく認識されることを願っています。
2004/09/02

[303] 中条まつり(9/3〜9/6)
「中条まつり」の紹介を、新潟日報(H16.9.2日付)は掲載しています。このページの中で、西屋さんは『都岐沙羅柵・月さらと塩の津』を掲載しています。商標登録出願中とのことです。西屋さんは、「塩津潟」は平成6年・「都岐沙羅柵(月さら)」は平成7年・「塩の津」は平成15年に製造販売している郷土菓子です。地域住民には、どれも親しみのある郷土菓子として定着しています。
2004/09/02

[302] 広報しばたH16.9.1日
同広報は、「来年5月1日に仲間入り 紫雲寺町・加治川村をもっと知ろう」の記事の中で「紫雲寺潟干拓史劇」を掲載しています。新発田市の広報に紫雲寺町の紹介とはいえ、「紫雲寺潟」だけを記述するはどういう感覚でしょうか?「塩津潟」のことも同時に解説することが、大切な配慮だったと思います。新発田市議会(H15.3)の「塩津潟」に関する臼井教育長の答弁は、一体どうなるのでしょうか?本当に支離滅裂な新発田市の対応だと思います。この不思議な話を、新発田市はいつ、どのような対応をするのか、早急な回答を待っています。私は、「塩津潟」で統一する時期にきていると考えています。
2004/08/26

[301] 知事と語るむらおこし・まちづくり
三条市で平成16年8月25日に、上記の会が開催されました。この機会に、新潟県三条地域振興事務所の方々と『県の夢事業』の「街道物語」について話し合うことが出来ました。内容は、街道物語の中に、鉄の道・馬の道・塩の道等を、取り上げることが重要であるあることを理解して頂きました。「80里超の塩の道」が、三条市でも認識されたことは大きな成果でした。
2004/08/23

[300] 建御柱祭
新発田市内の諏訪神社境内で、『建御柱祭』が平成16年8月22日に行われました。諏訪神社の竣工と相まって、新発田まつりに間に合いました。当神社は、新発田の歴史との関わりが深いので、皆で喜びたいと思います。
2004/08/21

[299] 新潟大学セミナーで「塩の道」提唱
『産学連携セミナー』で、「塩の道」の歴史街道を大切にするよう提唱してきました。今後、いろいろな手立てで「塩の道」を使用した地域おこしが、実践されていくものと思います。大学生やNPOの活動が活発になると考えています。
2004/08/15

[298] 第二回同期同窓会
新発田市立第一中学校昭和55年卒業生が、ベルナールで開催されました。約80人が集いました。この同窓会の席上では、著書の『塩津潟は塩の道』の話題が゛、多く聞かれました。大変に嬉しく思いました。その後、5人の教師と郷土の歴史について話し合うことが出来て、本当に有意義でした。今後は、教育の現場で実践されるものと考えています。各市町村の行政と教育者の良識に期待しています。
2004/08/15

[297] 著書『塩津潟は塩の道』の紹介
新潟日報は、昨日に続き『塩津潟は塩の道』の紹介をしました。『都岐沙羅柵』と中条町との関係を、〔第二刷出来〕と含めて掲載しました。歴史に関係する人々だけでなく、新潟県民に広く読んでいただきたい。新潟県の古代の歴史的事実に興味と関心を、持ってほしいと思います。
2004/08/15

[296] 「都岐沙羅柵」の中条説
『大塚山古墳』(一籠山=城の塚)周辺の多くの遺跡の発掘は、「塩津潟」の古くからの存在と、「都岐沙羅柵」の中条説を強力に立証する発掘結果になってきています。遺跡の遺物は、「塩津潟」周辺の古代の様子を、少しずつ裏付けてきています。中条町民はじめ新潟県民は、この事実を真摯に受け止めるべきであると思っています。「塩津潟」と「都岐沙羅柵」の解明に、非常に大きな結果を近日中に物語ってくれることを確信しています。
2004/08/15

[295] 大塚山古墳の周辺の遺跡の発掘
「大塚山古墳(一籠山)の周辺の遺跡を、多く発掘しています。平成16年度のことです。遺跡は、大塚遺跡や中倉遺跡や船戸川崎遺跡や船戸桜田遺跡の他に、七遺跡が平成16年度追加されています。例えば、西川内南遺跡・西川内北遺跡・6斗蒔遺跡・一杯田遺跡・沢田遺跡・昼塚遺跡・江添遺跡等は、いずれも中条町に存在します。それも、みんな塩津潟の北辺に位置しています。古墳時代には、塩津潟が非常に重要に場所であったことが立証されてきました。私の講演内容と一致しているので、ワクワクしてきます。『塩津潟』の歴史の古さが、少しずつ判明してきました。
2004/08/15

[294] 沢田遺跡
埋文にいがた47で、中条町大字赤川字沢田の同遺跡の発掘結果を報告しています。特筆すべきは、土師器・須恵器等の中に「製塩土器」が存在することです。検出された炉が、製塩炉
2004/08/15

[293] 西川内北遺跡
新潟県埋蔵文化財調査事業団は、『西川内北遺跡』を掲載しています。この遺跡は、塩津潟の北辺にあり、とても重要な遺跡の発掘です。この遺跡は、県内では例の少ない約1300年前の奈良時代の集落跡であることが分かりました。大和朝廷の城柵が造られた6世紀頃のものです。私が講演会で説明していたことが、『都岐沙羅柵』についての存在が遺跡の遺物等で立証できるようになってきました。とても嬉しいことです。この遺跡は、中条町大字西川内字家の浦にあります。
2004/08/15

[292] 新潟日報は、第二版を掲載
『塩津潟は塩の道』の第二版を、平成16年8月13日に掲載しました。説明文は、『塩津潟の復活が現実味を帯びてきた今、第二刷で「塩津潟と都岐沙羅柵の進展」を加筆し、「都岐沙羅柵」と中条町の関係を説く。』です。新潟県の歴史の見直しは、今後一層加速するものと思います。各方面に、大きな影響を与えることでしょう。
2004/08/15

[291] 塩津潟は塩の道の二刷が出来た
著書『塩津潟は塩の道』の第二版が、平成16年8月9日に出来ました。内容は、「都岐沙羅柵」等を24ページを加筆しました。また、新発田城の三階櫓・辰巳櫓の写真等を入れ替えました。初版から一年以内に、二版が出来たことに喜んでいます。「塩津潟」と「都岐沙羅柵」が、益々日本国民に認識されることを願っています。
2004/08/12

[290] 新潟県内の学会
県内の関係する各学会は、「塩津潟」と「都岐沙羅柵」については、正式に取り上げ真剣に研究する段階に入ってきました。近日中に、「塩津潟」と「都岐沙羅柵」については、統一した認識と見解を発表するものと考えています。『縄文学』は、今までの学説を訂正して科学的な立証方法と検証によって、新しい事実が毎日のように発表されています。学問においては、この真摯な姿勢が重要であると考えています。慣習や惰性に流されることは、学問の停滞につながります。学者と行政人の、賢明な判断と決断に大きな期待を寄せています。
2004/08/12

[289] 「都岐沙羅柵」の新聞掲載
「塩津潟」と「都岐沙羅柵」について、九社の新聞社が平成16年7月1日から一斉に取り上げました。新潟日報は150万部です。取り上げた新聞社は、朝日新聞・読売新聞・毎日新聞・ディリースポーツ新聞・スポーツ報知新聞・サンケイビジネスアイ・日刊スポーツ等々です。合わせて430万部が、発信されました。新潟日報と合計すると、580万部が7月1日から8月の約一ヶ月間に、掲載されました。各社の取り上げ方は、塩津潟の50年間に及ぶ探求や塩津潟の干拓と諫早湾の干拓との比較や北陸の蝦夷と九州の隼人に視点を当てたもの等、それぞれ興味のある紹介でした。
2004/08/11

[288] 塩津潟と都岐沙羅柵は浸透
『塩津潟』と『都岐沙羅柵』は、全国の学者や関係者に強烈に印象付けられたと思います。それは、「地盤工学学会(7月8日)」の学会と『地下に眠る古代の越後(8月7日)』歴史ゼミナールによって、広く認識されたことは事実です。このたびの新潟日報の平成16年8月11日付の掲載は、新潟県民に「塩津潟」と「都岐沙羅柵」を、明確に意識づけたものと思います。
2004/08/11

[287] 都岐沙羅柵の記事
新潟日報は、『都岐沙羅柵』についても掲載しています。私の質問と意見に対して、当新聞は次のように「県内にもう一つあったと言われる都岐沙羅柵についても触れてほしい」という指摘には、小林昌二さんが「位置が特定できないので言いづらいが、日本書紀に出てくるので取り上げた方がよかった」と答えた。私は、大和朝廷の県内における城柵を論ずるときは、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵を同時に取り上げていくべき内容であると考えています。近日中に、『都岐沙羅柵』の木簡が出土するものと思っています。
2004/08/11

[286] 塩津潟の正当性
『地下に眠る古代の越後』の歴史ゼミナールの報告が、新潟日報の平成16年8月11日付に掲載されました。この記事を読んで、高浜信行氏のコメントの中に紫雲寺潟と旧紫雲寺潟という潟名が二度出てきます。これは当日会場でも私の意見と質問をした通り、「塩津潟」か「旧塩津潟」の記述が正しいと思います。その理由は、『康平絵図』には「塩津潟」と明確に書いてあるからです。また、7月8日に朱鷺メッセで開催された「地盤工学学会」の研究発表では、「塩津潟」になっていました。私は「紫雲寺潟」と言わない理由を尋ねると、K氏は、「塩津潟が出てくる一番古い絵図が、塩津潟だったので、塩津潟を使用している」との回答でした。私は、この考え方が正しいと思います。この絵図が、康平絵図なのです。
2004/08/08

[285] 地下に眠る古代の越後
上記の「ふるさと発見歴史ゼミナール」が、新潟市民プラザで平成16年8月7日に行われました。主催は、新潟日報社・新潟市・新潟市歴史博物館でした。共催は、新潟大学人文学部です。このゼミナールでは、大和朝廷の城柵の一つ『都岐沙羅柵』について、話題が提供されました。また、『塩津潟』についても、議論が行われました。中条町の『蔵の坪遺跡』についても、高橋保(新潟県埋蔵の説明がありました。『大塚山古墳(一籠山)』一帯は、古代から『津』=港であったことが分かり易く説明しました。ここまで遺跡の遺物で『津』が立証された今日、『津』の付いた『塩津潟』が正しい潟名であることが理解出来ます。新潟県の歴史関係に携わっている学者は、古絵図や古文書や遺物等でこんなに明白に立証されている『塩津潟』を、素直に認める時機にきている事を強く感じました。
2004/08/08

[284] 紫雲寺町巡り
テレビ新潟(TeNY)は、『夏の紫雲寺町巡り』を平成16年8月5日に放映していました。「町名の由来の寺発見」に、興味がありました。寺の名前が、紫雲寺町の由来とのことでした。と言うことは、紫雲寺という町名は、非常に新しいと言うことが分かりました。紫雲寺潟の干拓にも触れていましたが、紫雲寺潟という潟名もとても新しい呼称であることが、この放送で分かりました。しかし、『塩津潟』は、1060年の『康平の絵図』に見られます。また、1277年の『高井道円時茂譲状案』は、『しうつ(塩津)』が存在しています。この書状は、中条町の文化財です。このような歴史的事実から「紫雲寺潟」ではなく、「塩津潟」であることが明確になりました。
2004/07/28

[283] 新発田城の復元完成
新発田城の三階櫓と辰巳櫓が、このたび完成し7月25日に登城式等のイベントが行われました。新発田藩の藩主の新田開発等の、素晴らしい藩政を振り返るとても良い機会になりました。郷土の歴史を、大切に伝承していくという気運が一段と高まってきました。新発田市民にとっては、大変に喜ばしい記念の年になりました。
2004/07/21

[282] 『渟足柵探求4カ年』の効力絶大
新潟県内の「大和朝廷城柵」の研究は、『渟足柵探求4ヵ年』の効力がとても大きいものがあります。この研究結果の冊子が発刊され、シンポジウムが開催されたのは、平成16年2月29日です。「都岐沙羅柵」が、公文書に記述されたのはこの冊子が最初と言っても過言ではないでしょう。「都岐沙羅柵」についての木簡が、出土するのはそう遠くないものと思っています。8月7日に開催される「ふるさと発見歴史ゼミナール」の『地価に眠る古代の越後』が、楽しみです。
2004/07/20

[281] 『都岐沙羅柵』の推定地
この問題は、今後全国的な規模で大々的に議論されるものと考えています。それは、中条町郷土研究会誌『おくやまのしょう』等の歴史専門書に、掲載されことが非常に多くなってきたからです。第一線の研究者が、それぞれに研究結果を発表してきたからです。いろいろな大学の研究者が、この興味ある課題の『都岐沙羅柵』に、着目しているからです。近日中に、「シンポジウム」か「フォーラム」が開催されることが多くなるでしょう。
2004/07/20

[280] 『都岐沙羅柵』がいよいよ登場
新潟県の公文書には、「都岐沙羅柵」のことが記述されることは大変少なかった。漸く「渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵」と、三つの城柵が並列に記述されるようなりました。本当に嬉しいことです。私は、県の里創プランの名称も、歴史的事実に基づいた名称にすべきであると考えています。村上・岩船地区のNPOの名称は、「都岐沙羅パートナーズ」ではなく、「村上パートナーズ」か「岩船パートナーズ」が最も相応しいと思っています。その理由は、『磐舟柵』の歴史的事実が、だんだんと忘れられていくからです。二つ目の理由は、中条町が大正時代から芳賀矢一博士の論を受けて、旧築地村の村歌に「都岐沙羅=月さら」を歌い続けてきた歴史的経緯があるからです。NPOの名称変更は、県庁の担当部署で確かめると簡単な手続きで完了するとのことです。村上・岩船地区の住民の皆さんの賢明な判断と決断に期待しています。
2004/07/20

[279] 6〜9世紀の越後と佐渡年表
この年表の中には、658年に「都岐沙羅柵」のことが記述されていません。日本書紀には、「都岐沙羅柵」のことが記述されています。新潟日報のこの年表を見て、残念に思いました。日本書紀には、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三つの城柵のことが記載されています。
2004/07/20

[278] 渟足柵 場所はどこ
新潟日報は、『地価に眠る古代の越後』を掲載(平成16年7月20日付)していました。「6〜9世紀の東北アジア」の図は、主な城柵の推定地と関連遺跡」を説明していました。「都岐沙羅柵」は、磐舟柵の北に記述してありましたが、おかしいと思いました。その理由は、『倭名類聚抄』には「渟足柵と磐舟柵の二柵の間にある」という記述があるからです。「都岐沙羅柵」は、中条町にあるという説を提唱している学者が多いわけです。越後の古代研究は、漸くスタートラインに着いたばかりです。今後の研究で、城柵の推定地が確定していくものと期待しています。
2004/07/19

[277] 歴史の陽だまり散歩
新発田城の三階櫓と辰巳櫓の復元に伴い、『歴史の陽だまり』を、寺町・清水谷地区まちづくり協議会が編集しました。平成16年6月に、『甦る新発田城』の冊子と同時に販売されました。この冊子の中には、「紫雲寺潟干拓」と記述してありますが、「塩津潟干拓」の方が良いと考えています。その理由は、新発田藩が竹前氏の新田開発よりも以前に干拓事業を実施しているからです。竹前さん幕府に新田開発を願い出た文書は、1726年頃です。それ以前の新発田藩の新田開発の事業のことですから、「塩津潟干拓」の方が、より史実に基づいた歴史的事実と考えます。(19ページの六代藩主溝口直治侯の時代)
また、29ページの『諏訪神社』の説明の中では、「渟足柵」と「磐舟柵」に加えて、「都岐沙羅柵」も加えた方が良かったと思います。その理由は、文部科学省の研究助成を受けた『渟足柵探求4カ年』の研究結果が、平成16年2月29日に新潟市でシンポジウムの形で発表されているからです。この研究結果には、新潟県に「渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵」の三つの城柵があった事を、結論付けているからです。この内容は、最新情報だからです。
2004/07/19

[276] 甦る新発田城
新発田城の三階櫓と辰巳櫓が、平成16年7月18日に復元しました。新発田藩主は、代々「新田開発」に重点を置いた藩政を実践してきました。藩民の生活の向上と、食糧増産に努力を継続してきました。藩内の湿地を、新田にする工夫と努力の連続でした。「塩津潟」の新田開発は、1716年頃から着手しています。竹前さんたちより、11年も前から塩津潟を干拓しています。『新発田城』が、このたび三階櫓と辰巳櫓が復元されたことは、誠におめでたいことです。新発田城公園と相まって、新発田市民の心の憩いの場所となることでしょう。
2004/07/19

[275] 伊藤孝二郎氏顕彰記念像建立
黒川村名誉村民伊藤孝二郎氏「顕彰記念像建立式典」が、平成16年7月10日にロイヤル胎内パークホテルで行われました。伊藤孝二郎前黒川村長は、胎内川沿岸土地改良区理事長を長年歴任した方です。過疎化した日本の農業を観光化したり、地産地消を奨励したり、農産物に価値を付加したりして、日本の農業振興に努力された方です。『農は国の基なり』と言われます。伊藤前村長の「先憂後楽」の強い信念の基づいて、村政を実践した功績は大きいものがありました。
2004/07/14

[274] 知事と語るむらおこし・まちづくり
阿賀野市で、平成16年7月13日に上記の会が開催されました。その時に、「阿賀野川の河川舟運による塩の道」について、提案してきました。下越地方の「塩の道」は、新潟県の夢事業の『街道物語』の中に、位置付けられていくと思います。地域の活性化に、歴史街道が再認識されてきました。『塩』送り県としては、上越・中越・下越地方の県全体の活動まで発展することを、強く願っています。
2004/07/09

[273] 北陸の蝦夷と九州の隼人
大和朝廷は、全国統一を果たすために『防人』をそれぞれの地方に派遣している。新潟県には、大和朝廷の城柵が三つあります。渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵です。九州地方の「隼人」対策は、どのようなものだったのでしょう。両方の共通点や相違点を、比較してみるのも面白いと思っています。
2004/07/09

[272] 地盤工学研究発表会
2004NIIGATA第39回「地盤工学研究発表会」が、7月8日朱鷺メッセで行われました。私は、第一会場の「液状化現象」に参加しました。意見交換の折に、『塩津潟』について述べました。発表者によって、「塩津潟」と言った方と、「紫雲寺潟」と言った方がいました。そこで、学校現場では、正保二年越後絵図と元禄13年の越後国絵図の記述から、「塩津潟」を採用していることを紹介しました。既に副読本は、3冊を数えています。それらの記述は、「塩津潟」か、「塩津潟(紫雲寺潟)」となっている事例を話しました。また、新潟県立歴史博物館の『展示録』や『新潟県地質図』は、「塩津潟(紫雲寺潟)となっている。現在教育の現場では混乱しているで是非紫雲潟だけで記述したり、説明するのはやめてほしい。今日のような会には、新潟県の公文書で使用している「塩津潟」で統一してほしいことを訴えました。発表した安井さんに、「紫雲寺潟と説明した潟は、塩津潟のことですか?」と尋ねたら、「塩津潟のことです」と、全員の前で答えました。会場に参加していた多くの参会者は、『塩津潟』を認識したものと思います。新潟県立歴史博物館の小林達雄館長も、この発言は聞いていたものと思います。
2004/07/06

[271] 「マイースキップ」7月号
『八十里越の塩の道』は、3月号より5回シリーズで掲載してきました。7月1日に、発行されました。内容の小見出しは、(1)越後の河川舟運による塩の道。(2)知事と語るむらおこし・まちづくり。(3)塩の道の最近の展開です。中越地方の「塩の道」は、長岡市が中心になって地域の活性化に早く取組むことを、期待しています。そのための具体例や実践例を、5回にわたって紹介しました。
2004/07/05

[270] NPOの名称変更は簡単
新潟県庁の新潟県県民生活・環境部県民生活課は、NPOの名称変更の手続きの仕方を説明してくれました。名称変更は、案外簡単であることが分かりました。学問的に、明確な名称にしたいものです。NPOの名称は、慎重であってほしいものです。
2004/07/05

[269] 郷土を研究して半世紀
朝日新聞に上記の見出しで、平成16年7月1日付で掲載されました。北陸地方の「蝦夷統一」は、大和朝廷の城柵と関連している内容である。九州地方の「隼人統一」政策との関連や相違点を、今後明確になることを期待しています。新潟県においても、古代の研究は明確でない内容が多いのです。大和朝廷の全国統一を、全国的規模で解明されることを願っています。『塩津潟は塩の道』は、全国的になってきました。
2004/07/02

[268] 玉川学園50周年記念誌
玉川学園同窓会50周年記念誌が、先般届きました。昭和42年に玉川大学を去ってからは、40年になろうとしているが「玉川の丘」も随分発展しました。玉川学園を訪れるたびに、強く感じます。今回の、記念を読んでいるとつくづくそう思います。小原國芳総長の新教育論を、今また回想しています。
2004/07/01

[267] 塩津潟と都岐沙羅柵の復活を提唱
新潟日報7月1日付に、上記のことが掲載されました。内容は、「塩津潟の復活と塩の道を説く」と、「新潟県内の大和朝廷城柵の一つ“都岐沙羅柵“は中条町にあると力説」です。隣に、『古代の蝦夷と城柵』吉川弘文館が掲載されています。城柵の知識が、一層高まるものと思います。
2004/06/30

[266] 『美術画報』への掲載
「加治川」と「塩津潟」は、とても深い関係があるのですが、このたぴの美術画報に掲載されたことにより、「加治川桜」の想いでのお便りを沢山頂きました。日本一の加治川桜の観桜記憶が、それぞれの方の懐かしい思い出になっていることを、改めて認識しました。新発田市展に、昨年「加治川桜の復活」を出品して本当に良かったです。
2004/06/30

[265] 敬和学園大学の公開講座
同大学のオープンカレッジが、昨日終了しました。『知っているようで知らない世界のお話』でした。ガりバー旅行記、アルプスの少女ハイジ、赤ずきんちゃん、桃太郎・瓜子姫・一寸法師、アラビアンナイト、不思議の国のアリスの5回シリーズでした。とても面白かったです。
2004/06/29

[264] 新潟大学産学連携セミナー
上記のテーマで、シンポジウムが開催されました。「新潟大学の法人化で何が変わるか」の、デスカッシンでした。国立時代とは、かなり変わってきた印象を受けました。(平成16年6月28日・新潟駅南キャンパスで)新潟県の各産業は、相当活気づくでしょう。
2004/06/29

[263] わが家の防災(上)
新潟日報の6月のテーマは、「わが家の防災」です。この中に、『割高でも耐震構造住宅が安心』という実践例が、掲載されました。
2004/06/29

[262] 命と地域を守る住まいづくり
新潟地震40年安全・安心「耐震住まいシンポジウム」に参加してきました。平成16年6月27日朱鷺メッセで行われました。我が家は、大雪及び耐震構造の住宅であるが、まだ全県的には普及していない感じがしました。
2004/06/23

[261] 塩津潟と都岐沙羅柵の歴史的価値
上記の演題で、JA北越後金塚支店OB会で昨日講演をしてきました。新田開発による食糧増産の郷土歴史を、お話してきました。
2004/06/23

[260] 「都岐沙羅柵」の検索で資料が確認
「都岐沙羅柵」は、検索で資料名が容易に分かるようになってきました。以前は、「幻の都岐沙羅柵」と言われていましたが、ようやく大和朝廷が新潟県に設置した城柵であると言うことが、認識されてきました。渟足柵と磐舟柵と都岐沙羅柵の三城柵が、新潟県民に、認知されてきました。新潟県の古代の様子が、少しずつ判明してきました。
2004/06/16

[259] Re[258]: ご質問
> 「合併による教育」を検索しましたら見つかりません。
> 私のページに送っていただけないでしょうか。
> お願い致します。
千田直人様
「合併による教育」のご質問の意図が良く分かりません。もう少し、具体的にお願いいたします。伊藤國夫
2004/06/16

[258] ご質問
「合併による教育」を検索しましたら見つかりません。
私のページに送っていただけないでしょうか。
お願い致します。
2004/06/14

[257] アメリカにあった伊能大図
新潟日報は、「アメリカにあった伊能大図とフランスの伊能中図」として、平成16年6月6日付で掲載している。今昔を問わず、地図の重要性が理解できる。いずれにしても、アメリカとフランスで発見されたことは、喜ぶべき内容である。
2004/06/09

[256] 都岐沙羅柵の関心が高まる
「都岐沙羅柵」は、新発田市・加治川村・中条町等で、地域住民の関心が日増しに高まっています。特に、中条町では都岐沙羅柵との関係は深く、大正時代から地域おこしに意を注いできました。例えば、旧築地村の村歌に「史に名高き月さらの」と歌い、親しんできました。それ以来の、深い関わりです。最近では、四校統合校による新築地小学校の校歌に、その意義が引き継がれています。
2004/06/06

[255] 私の経歴
私は、私立校(玉川学園)に4年間、公立学校(新潟県)に36年間勤務しました。その間に、欧米旅行を二回行って来ました。27歳と30歳の時です。一回目は、冬季に北極経由でした。二回目は、夏季に赤道経由でした。それは、地球の自然しいては”季節感“を体感するためでした。二回行った国は、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・スイスです。その他に、四カ国を旅行してきました。「ルーブル美術館は、二回とも鑑賞してきました。この時に経験した「感性」が、私のセンスに大きく影響しています。私が若い時の経験で、1ドル300円の為替ルートでした。
2004/06/06

[254] 「塩津潟は塩の道」の解説
『塩銃潟は塩の道』の解説は、「文字通りライフワークというべき著作です。”塩津潟“という江戸時代の古い絵図にあった地名が、近世以降“紫雲寺潟”と呼ばれてきたことの疑問について半世紀を費やして得た答えなのである。小学生時代に抱いた疑問を、教職という恵まれた立場にあったとはいえ、古絵図や古地図やさまざまの文献を渉猟して結論に至る過程は知的なスリルに溢れている。」(略)「さらに、7世紀に存在した“都岐沙羅柵”の研究から大和朝廷と越国の関係にも及び、新潟県の歴史の見直しを迫る。」(略)是非、本書を読んでほしいと思っています。
2004/06/06

[253] 現代作家「美」の競演
『加治川桜の復活』の紹介文の一部です。『独自の視点で郷土を探求』が、見出しです。「生地の新潟県で長らく教員として教育実践の傍ら、植物と人間のかかわりや郷土史に独自の視点から研究成果を上げ、昨年には塩津潟教育研究所を設立して、講演活動なども行っている作家の写真作品と著作である。」
作品についての解説は、「加治川桜の復活は、川の堤防沿いに続く満開の桜の遥かな連なりである。桜並木の下草や川原の植物はまさに萌え出るような緑で桜の花と穏やか澄み渡る青空が、心弾むような春の雰囲気を色彩のハーモニーとして奏でている。」(略)
私の想っている自然観が、良く表現されていると思いました。
2004/06/06

[252] 私の写真歴
写真を始めたのは、40年位前からです。初任給24000円の時に、48000円もするカメラを購入してからです。その間に、新発田市展や教職員美術展覧会や学校の展覧会等に、数多く出品してきました。今回の『美術画報』に掲載された「加治川桜の復活」は、昨年の新発田市展に出品していた作品がび、東京の方の目にとまったものです。全国版の『美術画報』に掲載され、全国に紹介されたので、とても喜んでいます。
また、この写真の技術が、著書『塩津潟は塩の道』の写真に、多く活用されています。
2004/06/05

[251] 加治川桜の復活
『美術画報』平成16年5月発行に、「加治川桜の復活」と著書「塩津潟は塩の道」が、掲載されました。新潟県の「桜の名称」と「塩津潟」のことが、全国に紹介されました。とても嬉しいことです。「都岐沙羅柵」についても、紹介されているので、新潟県の歴史の見直しは一段と早まるものと思います。
2004/06/05

[250] 知事と語るむらおこし・まちづくり
上記の会が、長岡市中央図書館で平成16年6月4日に開催されました。この会で、新潟県の「塩の道」を地域づくりに活用することを提言しました。上・中・下越地方の塩の道は、糸魚川市・長岡市・新潟市をそれぞれ中心にして取り組むことが大切です。県の夢事業として、「街道物語」に塩の道を取り入れるのです。是非、実現することを願っています。平山新潟県知事さんは、「塩の道」について良く存じていました。各市町村の取組にも、大きな期待をしています。
2004/06/05

[249] 「都岐沙羅柵」の議論を
中条町郷土研究会誌第29号が、平成16年5月に発刊されました。その中に、「都岐沙羅柵の議論を」な寄稿しました。都岐沙羅柵のシンポジウムの開催を、再度提言したものです。新潟県庁の各関係部署が、それぞれに再検討を開始しました。各市町村、地域おこしに活用しようと行動計画を実施しています。
2004/06/03

[248] 都岐沙羅柵と磐舟柵
村上・岩船地区の合併問題について、磐舟柵が歴史的に見て古いことが学問的に裏付けられているようです。都岐沙羅柵と磐舟柵は、別な城柵であることは明白なことです。都岐沙羅柵が、磐舟柵の別名で存在したのではないことを、村上・岩船地区の方々も理解してきているようです。
2004/06/02

[247] アフリカ開催ぜひ実現して
新潟日報『窓』欄に、テーマ特集「オリンピック」が取り上げられました。その中に、上記の主題で掲載(平成16.5.31日付)されました。東京オリンピックが、日本人に与えたあの喜びと自信を、アフリカ諸国の人々にも味わってもらいたいと考えています。アフリカ大陸でのオリンピック開催を、世界の先進国が協力して開催できる日が、一日も早く来ることを願っています。国連やIOCの前向きの対策に、大きな期待をしています。
2004/06/02

[246] 八十里越の塩の道C
マイスキップの6月号が、発行されました。上記のテーマで、掲載されました。小項目は、「大和朝廷軍への米と塩の提供」と、「塩の道の展示による県民への啓発」です。長岡市民が、『米百表』と同様に『塩の道』も地域おこしや児童生徒用の教材化に、早く取組むことを期待しています。
2004/05/31

[245] 新潟県社会教育協会のシンポジウムの反響
5月26日ウエルシティ新潟(新潟市)で開催されたシンポジウムが、大きな反響を起こしています。特に、『都岐沙羅柵』と『塩津潟』については、各市町村の「地域おこし」に大きな影響を与えてきました。「教育面から、新潟県の元気付ける」ことが、少しずつ成果を発揮してきています。大変喜ばしいことです。
2004/05/31

[244] 城の山(大塚山)周辺の遺跡
中条町大字塩津付近に存在する『城の山(大塚山)』古墳の周囲には、沢山の遺跡が点在しています。例えば、天野遺跡・大塚遺跡・屋敷遺跡・野付遺跡・福田遺跡・船戸川崎遺跡・船戸桜田遺跡・蔵ノ坪遺跡・四ツ持遺跡・兵衛遺跡・青田遺跡・築地原遺跡・中曽根遺跡・反貫目遺跡・西川内北遺跡・西川内南遺跡・下原遺跡・宮崎遺跡・宮川遺跡等々が多数存在しています。これらは、『塩津潟』の周囲に点在する貴重な先人の生活を裏付ける遺跡群です。中条町や新潟県にとっては、本当に貴重な遺跡の一つ一つであります。それらの発掘結果が、少しずつ明らかにされてきています。
2004/05/27

[243] 「新潟県人は、教育で元気を出すぞ!」
新潟県社会教育協会主催のシンポジウム『新潟県人よ、教育で元気を出そう』が、平成16年5月26日ウェルシティ新潟(新潟厚生年金会館)で開催されました。”私の提案“として、上記の演題で提案してきました。提案の趣旨は、二つです。一つは、「塩津潟を蘇らせること」です。二つ目目は、「都岐沙羅柵を蘇らせること」です。シンポジウムに参加された多くの方々は、新潟県の歴史の見直しの成果に、共感を得ていたようです。今後、「塩津潟の復活」と「都岐沙羅柵の存在」は、益々明確になるものと思います。
2004/05/27

[242] 塩津潟と都岐沙羅柵の歴史的価値
北蒲原郡町村監査委員会で、上記の演題で講演(平成16年5月26日)をしてきました。五町村の関係者が、塩津潟の由来と都岐沙羅柵の歴史的な価値について、認識を深めたものと思います。行政に関わっている方々だったので、早速「地域づくり」に活用されるものと考えています。
2004/05/25

[241] 塩津潟と都岐沙羅柵の講演二回
明日、上記の演題で二回講演会を行います。分かり易い講演になるように、資料等準備中です。
2004/05/23

[240] 市町村合併をともに考える
全国リレーシンポジウム2004『市町村合併をともに考える』に、参加してきました。(平成16.5.22・新潟テルサ)講演は、「これからの地方自治のあり方」を、麻生太郎総務大臣が行いました。「塩津潟」や「都岐沙羅柵」は、今後の合併と大きく関わりがあります。先人が地名に託した深い想いや願いが、大切にされなければならないと思います。
しかし、合併による「教育」に及ぼす甚大な影響についての話題が出なかったことが非常に残念でした。
2004/05/19

[239] 「都岐沙羅柵」が中条町に定着
新潟県の「古代」の研究が、盛んになってきました。最新の研究結果が、『渟足柵探求4カ年』の文部科学省の指定研究です。古墳時代の城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)のことが、各市町村の「地域おこし」に積極的に取り入れられてきています。大変に、結構なことです。
2004/05/16

[238] 「塩津市」という新市名
中条町と黒川村の合併に伴う新市名は、『塩津市』が適していると考えます。その理由は、1277年の高井道円譲状案(中条町文化財)に、『しうつ(塩津)』という集落が存在していたことです。また、それより更に約470年ほど遡って《7〜8世紀頃》、大字船戸の「蔵の坪遺跡」から最近『津』という墨書土器が出土しているからです。よくよく「塩の津」と関連が深いということが立証されたからです。
2004/05/16

[237] 「塩津館」の存在は重要
「韋駄天山遺跡」の報告書が、中条町教育委員会から平成16年3月31日に発行されました。この報告書の中の『中世遺跡分布図』に、「塩津館」が掲載されています。場所は、日東道の中条IC付近です。中条町大字塩津付近です。中条町民は、「塩津潟の由来」ともなったこの「塩津」という地名を、後世に正しく伝承することが大切と考えます。
2004/05/14

[236] 三楽大学で講演
加治川村教育委員会主催の「三楽大学」で講演をしてきましした。演題は、『塩津潟と都岐沙羅柵が加治川村に与えた価値』です。入学式が午前で、講演会は午後の日程でした。加治川村の古代からの歴史について、演題にそって理解していただけたものと思います。
2004/05/13

[235] 長野県立歴史館
当館の「古代」のコーナーに、越国の城柵との関連記事が説明されてありました。とても興味深い内容でした。
2004/05/11

[234] 「塩津」という地名の重要性
中条町と黒川村の合併による新市名は、『塩津市(しおつし)』が最適と考えます。その理由は、4つあります。@「塩津潟」が、276年ぶりに蘇ってきたこと。A『塩』は、黒川村と中条町に深い関連を持っていること。それは、塩谷・塩澤という地名の集落が存在し、塩を作っていたこと。「塩津」という古代港の地名が存在し、塩を送り出していたこと。B中条町船戸の”蔵の坪遺跡”から、『津』という墨書土器が出土していること。C中条町に「塩の湯」があること。D大和朝廷に、「塩」と「米」を提供していること。等々を考え合わせると、古代・中世から歴史的な価値のある『塩津』であるからです。なお、『塩津市』という市名は、まだどこの県にもない市名だからです。新鮮な名称です。
2004/05/10

[233] 奴奈川姫伝説と大和朝廷の関係
新潟県と大和朝廷との関係を、奴奈川姫との関連で新潟日報で掲載(平成16年5月10日付)していました。大和朝廷との関係を、県内の三つの城柵との解明も進展しています。新潟県の古代史が、少しずつ県民に理解されてきています。
2004/05/10

[232] 「心のふるさと展」の反省会
同展の反省会を、5月9日に出品者等が参加して行われました。城下町新発田の歴史を、かいま見る作品が多く、大成功だったという意見が多かったです。市島邸の見事な庭園を、鑑賞しながらの昼食会でした。来年度も、「心のふるさと展」の開催が待たれます。
2004/05/10

[231] 研修旅行
新潟県立歴史博物館友の会の研修旅行に、5月8日長野県立歴史館等の見学に行ってきました。当館には、『塩の道』の展示コーナーがあります。糸魚川から松本まで等の「塩の道」が、電光掲示板で理解出来るようになっています。このような展示コーナーを、新潟県立歴史博物館内に設置してほしいと考えています。
2004/05/10

[230] 八十里越・六十里越
「山椒大夫の足取りの謎を追って」と、新潟日報は安寿と厨子王一家の足取り想定ルートを掲載(平成16年5月4日付)しています。その中に、八十里越・六十里越・会津〜阿賀野川等のルートを紹介しています。特筆すべきは、「塩の道」と一致することが重要な点です。
2004/05/07

[229] 中条町史に塩津潟が初登場
『中条町史』の通史篇に、「塩津潟」が町史に初登場しました。三 願文山の戦いの項目の中に“図1 正保絵図にみえる塩津潟周辺(220ページ)に記述されています。このことは、非常に大きな進歩です。中条町の郷土史としては、喜ばしい歴史的な町史の編纂となりました。
2004/05/06

[228] Re[225]: ご無沙汰してます・・・
〇 ご無沙汰してます。年度末には、講演が3会場も続き大忙しでした。
> 『塩津潟は塩の道』読ませていただきました。 自分にとっては難しい部分もありましたが、先生の”塩津潟”にかける情熱とこれまでの ご苦労が、ひしひしと伝わってきました。
〇ありがとうございます。現在は、『塩津潟』に続き『都岐沙柵』について取り組んでいます。村上地区のNPO「都岐沙羅 パートナーズ」名称を返還してもらう活動を中条町と共に実施しています。
> 私の住んでいる西蒲原の方では今ひとつ、塩津潟/紫雲寺潟や福島潟でさえピンと来ませんが、
〇「塩津潟」は、新潟県民に認識されていませんでしたが、最近はかなり多くの人々に理解されてきました。嬉しいことです。
> 手元にあった書籍に載っている古い時代の新潟県の様子を見るとその大きさに驚かされます。 ”塩津潟”と言う潟名も初耳でした。
〇歴史的事実が、正しく伝承されていなので、とても残念です。
> たしかに中条町塩津周辺は日東道の整備などで周辺へのアクセスなども格段に良くなっている ようでしたが、ほ場整備なども進められているようで、昔のモノがだんだんと忘れられていくのかなと 少しさみしい感もありました。
〇本当ですね。だからこそ、あらゆる手立てを講じているわけす。
「都岐沙羅柵」についても、検索してみてください。
2004/05/06

[227] 山椒大夫の足取りの謎を追って
新潟日報(平成16年5月4日付)で、「名作を読む」で『安寿と厨子王一家の足取り想定ルート』を掲載しています。福島県いわきから新潟県直江津までのルートを想定しています。阿賀野川ライン・荒川ライン・八十里越・六十里越等を想定してます。これらはいずれも、『塩の道』と合致しています。この記事によって、新潟県の『塩の道』に光が当たることを期待しています。
2004/05/06

[226] 心残るふるさとの歌
TeNYテレビ新潟で平成16年5月4日に「心残るふるさとの歌紫雲寺編」で、“紫雲寺潟の干拓“という説明をしていました。現在は、塩津潟か塩津潟(紫雲寺潟)という記述や呼称していることを、是非ご理解願いたいものです。テレビ新潟様、ご配慮をお願いします。
2004/05/04

[225] ご無沙汰してます・・・
ご無沙汰してます・・・
年度末で忙しいと思っていたのですが、新年度に入っても何かとバタバタしています。

『塩津潟は塩の道』読ませていただきました。潟東村の図書館に問い合わせたところ、
「無いけどリクエストがあれば、購入する」とのことで・・・
ようやく先日届きました。
自分で買うよりは図書館の方で入れてもらえば、より多くの人の目にも触れるのでは
ないかと思いまして。

自分にとっては難しい部分もありましたが、先生の”塩津潟”にかける情熱とこれまでの
ご苦労が、ひしひしと伝わってきました。

私の住んでいる西蒲原の方では今ひとつ、塩津潟/紫雲寺潟や福島潟でさえピンと来ませんが、
手元にあった書籍に載っている古い時代の新潟県の様子を見るとその大きさに驚かされます。
”塩津潟”と言う潟名も初耳でした。

たしかに中条町塩津周辺は日東道の整備などで周辺へのアクセスなども格段に良くなっている
ようでしたが、ほ場整備なども進められているようで、昔のモノがだんだんと忘れられていくのかなと
少しさみしい感もありました。
それではまたおじゃまします・・・
http://www.nightmare.jp
2004/05/02

[224] 鬼道の系譜・闇の呪術4
「庶民を救った修験者」という見出しで、新潟日報(平成16年5月2日付)で紹介しています。「溜池を作ったり水田開発を手伝った修験者の話も残っている」と、水田開発を助けた記事が記述されていました。9世紀頃から水田開発のことが、残っていることは素晴らしい記録です。
2004/05/02

[223] マイスキップ5月号が゛届く
『八十里越の塩の道』5月号が、届きました。小項目は、塩の道と三坂峠、八十里越と六十里越の塩の道の連携、翡翠の道です。写真は、翡翠玉と新発田郷土史会の講演の様子です。
長岡市を中心とした中越地方の「塩の道」について、地域おこしや児童生徒用の副読本の編集まで、発展することを期待しています。
2004/04/25

[222] 最古級の丸木舟出土
新潟日報は、滋賀県米原町の入江内湖遺跡で縄文時代前期前半(約5500年前)の国内最古級とみられる丸木舟が、ほぼ完全な形で発掘されたことを掲載(平成16年4月25日付)しています。私は、この記事を読み新潟県の塩津潟内の「青田遺跡」の丸木舟の発掘を思い起こしていました。縄文時代の「河川舟運」の技術の高さを知ることが出来ます。「塩津潟」も、丸木舟を使用した交易が行われたいたことが類推できます。とても貴重な、遺物の発見でした。
2004/04/24

[221] 都岐沙羅柵の項目が増加
「都岐沙羅柵」(月さら)の項目が、10項目になりました。随分前から、「都岐沙羅柵」について記述をしてきたが、漸く注目を集めてきました。新潟県内の三つの城柵は、「都岐沙羅柵」を加えて論ずるようになってきました。その動機を与えてくれたのが、『渟足柵探求4カ年』の文部科学省の研究指定でした。
2004/04/24

[220] 町章 紫雲寺町
(財)二市北蒲原郡総合健康開発センター健康情報誌第45号(平成16年4月1日)に、紫雲寺潟の由来のことが掲載されています。しかし、この説明では、「塩津潟の由来」と歴史的事実と相反する内容が、多すぎます。多くの問題点を、この文を記述した方は、どう説明するのでしょうか?同センターの編集担当者は、新潟県から発信される文章に「塩津潟」又は「塩津潟(紫雲寺潟)」と記述されていることを、知らなかったと言っていました。今後、これに対して善処するとのことでした。教育現場の児童生徒の学習に、大きな支障を引き起こしています。関係各位の、早急な対処を切望しています。
2004/04/21

[219] 胎内川流域のわが郷土
新潟日報に片野徳蔵氏の『胎内川流域のわが郷土』という著書が、「胎内川潤した歴史今に」としう見出しで掲載されました。この著書の中にも、「塩津潟」や「都岐沙羅柵」についても紹介されています。分かり易い本ですので、是非読んで見てください。郷土の歴史が、よく分かると思います。
2004/04/19

[218] 270年後に蘇った塩津潟
『塩津潟』は、1730年頃に「紫雲寺潟」に変えられてから約270年後に、見事に蘇ってきました。『都岐沙羅柵』も、里創プランの名称として使用されてからまだ5年くらいしか経過していません。中条町に、早く蘇ってくることを期待しています。関係各位には、良識ある判断を希望します。村上・岩船地区の住民の中には、「村上」よりも「岩船」の地名が、歴史的には古いので「岩船」の方が、由緒ある地名であるという意見も、多くなってきているとのお話が耳に入ってくるようになりました。とても懸命な意見だと思います。村上・岩船地区は、「岩船」が最適の名称と考えます。
2004/04/18

[217] 新・新潟価値づくり事業
新潟日報(平成16年4月18日付)の日刊社説で、『地域の宝』が掲載されました。大分県の「一村一品運動」を、平山征夫新潟県知事は「一村一価値運動」に平成11年から取り組んでいます。地域の個性や文化や伝統、住民同士の一体感が問われている。『都岐沙羅柵』の里創プランの名称も、その一例です。新潟県の文化と教育面が、大きく問われています。新潟県全体の「地域づくり」を、新潟県庁内の担当部署は、考慮する時期にきていると考えています。再検討を、関係各位に、切望するものです。
2004/04/17

[216] 渟足柵の遺構探索ロマン追う
新潟日報は、「古代新潟」の謎解きに挑戦という副題で小林昌二教授を紹介(平成16年3月17日付)していました。新潟県の大和朝廷の城柵を、新潟大学や秋田大学や大阪外国語大学や国立歴史民俗博物館等の教授で、4カ年にわたる研究をしたものです。その報告会が、2月29日新潟市で行われました。新潟県内の渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三つの城柵のことについても言及しています。特に、『都岐沙羅柵』については、新潟県内の公式文書に登場したのは、最初のものだと思います。非常に画期的な研究結果が、『第4回シンポジウム 地域と地域史研究の未来を語る 渟足柵探求4カ年』の資料集に記述してあります、是非ご覧になってください。漸く『都岐沙羅柵』にも、光が当たってきました。本当に喜ばしいことです。この研究結果は、県内に渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三城柵説を採っています。
2004/04/16

[215] 新潟県の里創プランの名称
新潟県の新行政推進室や地域振興局等では、「里創プラン」の名称を慎重に検討するようになってきました。歴史的な事実や、時代考証に基づいた名称になるよう努力をしています。それは、新潟県内の各市町村の地域おこしや地域づくりに、支障をきたしてきているからです。また、郷土の歴史を取り入れた副読本や教育用資料に基いて学習している児童生徒に、大きな混乱を引き起こしているからです。関係者の早急な対策を、望んでいる一人です。
2004/04/16

[214] 新発田市教育委員会に説明
新発田市役所の教育委員会等に、「塩津潟」及び「都岐沙羅柵」について説明をしてきました。今までも何回となく説明に行っているので、行政側の理解も広まり、少しずつ深まってきました。昨年の新発田市議会の臼井教育長答弁で、「塩津潟」の存在を公式に認めました。ことことによって、新発田市から発信される公文書には「塩津潟」か「塩津潟」(紫雲寺潟)として記述されるものと思います。また、児童生徒用の副読本や教育用資料には、「塩津潟」が記述されるものと確信しています。関係各位の、努力に期待します。なぜなら、新発田藩主が【塩津潟の新田開発】を、1716年頃から取り組んできた歴史的事実があるからです。これらの事実を、後世に正しく伝承していく現代人の責務があるからです。
2004/04/15

[213] 「都岐沙羅柵」の記述
片野様の「胎内川流域のわが郷土」は、「都岐沙羅柵」についての記述があります。中条町の「都岐沙羅柵」という概念が、一層強力に論述されています。また、「塩津潟」についても、分かり易い説明と絵図で編集されています。黒川村民と中条町民にとって、とても良い資料が刊行されました。
2004/04/15

[212] 「胎内川流域のわが郷土」の出版
黒川村の片野徳蔵様が、この度「胎内川流域のわが郷土」という教育用図書を出版しました。片野様は、「金峰神社」「伊藤語録」「蔵王権現とわがふるさと」「黒川村発展のあゆみ」「ふるさとの再発見」等の著書が多く、いずれも教育用図書として学校関係者に寄贈され、児童生徒や社会人に活用されています。
2004/04/14

[211] 三坂峠と塩の道
山脈で囲まれた新潟県には、「三坂峠」(御坂峠)がいくつかあります。この三坂峠と塩の道は、密接な関連を持っています。長野県・群馬県・福島県等への物資の交流には、この峠が活躍していました。
2004/04/13

[210] 反貫目遺跡の報告
反貫目(たんがんめ)遺跡の報告が、「埋文にいがた」46(H16.3.29)に掲載されました。この内容は、中条町の歴史の解明には非常に大きな事実を、私たちに教えてくれました。近くの「大塚山」の古墳と、深い関連を持っていることが理解できます。
2004/04/07

[209] 私の逸品
「心のふるさと」の展示が、3月31日で盛会裏のうちに終了しました。市町村長さんはじめ、多くの方々の出品で多数の見学者の目を楽しませたようです。出品された人々の、想いが託されたものばかりでした。やはり、城下町新発田ですね。歴史に纏わるものが、多かったようです。
2004/04/06

[208] 八十里越の塩の道
「マイスキップ」4月号に、掲載されました。小項目は、火焔土器の道、長岡市の塩分の濃い井戸(塩井)、与板町の塩之入、栃尾市の塩谷、敬和学園大学での講義、知事とふるさとを考える集いです。長岡市民の方々に、「塩の道」の関心を持っていただくとありがたいです。
2004/04/05

[207] 県内の「塩の道」の展示
新潟県立歴史博物館に、一日も早く「県内の塩の道」の展示が完成することを待っています。県内の「塩の道」は、大きくまとめると6つのルートがあります。それらのすべての展示を希望しています。なにしろ『塩』は、動物の生命を維持するのにとても大切な物質だからです。また、『塩』の生産や運搬等に関わっ人々が、沢山いるからです。
2004/04/01

[206] みなとぴあの見学
新潟市歴史博物館を、見学してきました。「新田をひらく」コーナーでは、『正保二年越後絵図』が展示してありました。「塩津潟」が、読み取ることが出来ました。全体的に、加治川周辺の様子が少ないと感じました。新発田藩の新田開発が、よく分かりませんでした。その絵図の前には、「松ヶ崎の掘割」の映像の説明に“紫雲寺潟”という潟名でした。何か不自然な感じを受けました。新潟県立博物館と、「塩津潟」については整合性がほしいです。
2004/04/01

[205] 渟足柵探求結果を喜ぶ
『渟足柵探求四カ年』のシンポジウムが、開催されました。「学術研究の四年間」と、新潟日報は報じていました。私は、『都岐沙羅柵』が公式文書に明文化されたのを見るのは初めてです。県内の三城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)が、公的に発表されたことは新潟県民にとって、非常に大きな研究結果です。
2004/04/01

[204] 日曜議会の効力
日曜議会は、「有権者と政治」を密接にする効力があります。中条町の「日曜議会」は、身近な問題について傍聴することができました。熊倉町長さんの町政方針で、郷土の歴史を大切にした「まちづくり」をするとのことでした。板額御前や都岐沙羅柵について、一般質問で明確な答弁がありました。
2004/03/27

[203] 都岐沙羅柵で検索
「都岐沙羅柵」で、検索してみてください。新潟県立図書館でも、『塩津潟は塩の道』」の第七章の「よみがえれ!都岐沙羅柵」にヒットします。
2004/03/26

[202] 都岐沙羅柵の記述
『塩津潟は塩の道』のなかに、「都岐沙羅柵」について四箇所記述してあります。口絵の築地村の村歌と芳賀矢一博士、新発田市の古四王神社、平山県知事さんからの手紙、四番目に第七章のよみがえれ!都岐沙羅柵です。今後益々、「都岐沙羅柵」注目されると思います。
2004/03/25

[201] 行政側が「都岐沙羅柵」の調査を開始
新潟県及び各市町村の行政側が、「都岐沙羅柵」について調査と検討に入りました。新潟県内の各市町村の『地域おこし』や『地域づくり』に、非常に大きな原動力になります。県内の合併が進行中です。合併問題と合わせて、早急に結論を出してほしい考えています。関係する部署及び担当者の努力に期待します。
2004/03/24

[200] 倭名類聚抄の都岐沙羅柵の記述
「倭名類聚抄」が、急激に注目されてきました。新潟県内の三城柵の確認に、大きく影響を与えます。そのことが、今回の『渟足柵探求4カ年』の研究結果が、非常に大きな支援になっています。
2004/03/24

[199] 都岐沙羅柵を中条町が発信
中条町議会の「都岐沙羅柵」についての質疑・応答を受けて、3月23日中条町で講演をしてきました。旧築地村の村歌は、大正時代から『史に名高き月さらの』と歌い継がれてきた村歌です。そのことに、触れた講演内容になりました。都岐沙羅柵と月さらとは、同義語として歌われていました。
2004/03/24

[198] これからの観光=感幸と地域づくり
北陸建設弘済会主催の講演会が、3月22日新潟市で行われました。講師は、政所利子さんでした。「地域づくり」のポイントが、分かり易く講話しました。新潟県や各市町村等の、広域の地域づくりに参考になる点が沢山ありました。
2004/03/24

[197] 都岐沙羅柵(月さら)の追加
「都岐沙羅柵」に関する内容を、追加しました。「地域づくりシンポジュウム」《3月17日》、「中条町立築地小学校校歌」、「渟足柵探求4カ年」です。新潟県内の三つの城柵の「渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵」の比定地の確認が、急がれています。特に、里創プランの名称が見直されるでしょう。
2004/03/24

[196] 新しいメニュー
3月4日と15日に、新メニューを二項目追加しました。「良寛さん」と「長岡あれこれ情報誌」です。ホームページの内容が、豊富になりました。
2004/03/24

[195] 各種講演の様子に追加
3月4日に、各種講演会の様子に5項目追加しました。「第一回心のふるさと」「塩の津郷土菓子」「新津古絵図展」「塩津潟は塩の道を追って」「良寛さんと新発田市のつながり」の、講演等です。
2004/03/21

[194] 都岐沙羅柵
『都岐沙羅柵」の検索が、平成16年3月21日現在1335回のアクセスがあり、興味と関心の強さを感じました。大和朝廷の城柵のロマンが、新潟県民に強く意識されてきたことは、とても嬉しいことです。ずっと以前から「都岐沙羅柵」について、研究と調査を継続してきた結果が、学問的に裏付けられてきました。
2004/03/21

[193] 加治川桜の復活
私たちの生活に大昔から、関わってきた「加治川」が再び蘇って来ました。加治川は、河川舟運・農業用水・生活用水・工業用水等々、密接に関わってきました。私たちの生活は、『水の潤い』によって豊かさを謳歌してきました。その加治川に桜が、蘇ってきつつあることは喜ばしい事です。
2004/03/14

[192] 加治川の恵み
新発田市でも、「胎内川の恵み」のような活動を始めました。胎内川と加治川の両水系が、協力して取り組むと大きな成果を上げることが出来ると思います。今回の参会者、30人位の会合でした。
2004/03/14

[191] 芳賀矢一博士の作詞が光る
旧築地村の村歌は、芳賀矢一博士の作詞である。当博士は、皇室の方々に講義をしてきた人である。その博士の作詞は、非常に重みがある。「価値の高い、築地村の村歌であった」と、私は考えている。その意味で、『都岐沙羅柵(月さら)』は重要な言葉である。
2004/03/13

[190] 中条町の「日曜町議会」
中条町の「日曜町議会」を、3月7日に傍聴してきました。とても大勢の人々が傍聴していました。この議会で、「都岐沙羅柵」についての一般質問が行われたのは、非常に画期的なことでした。本当に良い「日曜町議会」でした。
2004/03/13

[189] 磐舟柵をどうするのか?
村上・岩船地区のNPOは、「都岐沙羅パートナーズ」を里創プランの名称に使用しているが、肝心の「磐舟柵」をどうする気だろうか?不思議でならない。村上・岩船の方々で、「磐舟柵」を抹殺する気だろうか?私は、かの有名な「磐舟柵」を大切にするべであると考えます。新潟市・村上市・中条町が、それぞれの城柵を地域おこしに役立てるべであると思います。即ち、渟足柵は新潟市、磐舟柵は村上市、都岐沙羅柵は中条町と、新潟県全体の地域の活性化を考慮した地域づくりが重要であると考えます。
2004/03/13

[188] 「都岐沙羅柵」は中条町へ
中条町は「都岐沙羅柵」が、中条町に戻ってくることを願っています。そのことは、中条町の諸施策を見ていると良く分かります。例えば、旧築地村の村歌を非常に大切に今でも扱っています。その精神が、新築地小学校の新しい校歌に引き継がれています。また、児童生徒用の、副読本や教育用の資料等に、郷土の歴史のことが盛り込まれています。さらには、郷土の歴史を託した「郷土菓子」をいち早く取り組み、中条町民に親しまれています。それらは、旧築地村の方だけでなく、広く町民に愛されています。このような中条町民の「都岐沙羅柵」にかける熱い想いが、ひしひしと伝わってきます。
2004/03/11

[187] 中条町にNPOが2月に誕生
中条町にNPOが、2月に誕生しました。中条町は、このNPOと協力して「都岐沙羅柵」に関わる各種イベントを企画し、活発な活動をするものと思います。黒川村や新発田市と連携して、郷土の歴史をふまえた諸活動が楽しみです。
2004/03/11

[186] 新潟県総務部新行政推進室の新組織
新潟県庁内に、上記の推進室ができました。この新組織は、各地区の地域振興課が平成16年4月から地域振興局に格上げするのと関連しているそうです。今後、各市町村や各地域の「地域おこし」や「地域づくり」に、大きな力を発揮する役所です。この推進室から、県下の地域づくりに指導・助言をお願いいたします。
2004/03/10

[185] 都岐沙羅柵の参考資料
「都岐沙羅柵」について記述してある資料は、次のようなものがあります。・渟足柵探求の4カ年(H16.2)・塩津潟は塩の(H15.8)・胎内川の恵み(H14.5)・倭名類聚抄(  )・文芸なかじょ(H6.11)伊・旧築地村村歌(S13春)・おくやまのしょう(H12.3)・文芸しばた(H13.10)・塩津潟の由来(H6.9)等々があります。参考にしてください。「都岐沙羅柵」についての研究論文は、非常に少ないですが、きっと参考になると思います。
2004/03/10

[184] 加治川村に防人の伝説
加治川村に「防人の伝説」が、伝わっています。とても興味深い、伝説です。塩津潟の南側に、「防人」の伝説があり、今日まで語り継がれています。「都岐沙羅柵」が、中条町築地にあるという説と、不思議と一致してきます。また、中条町苔実に、「都岐沙羅柵」があったという説を唱えている人もいます。ますます加治川村の「防人の伝説」が、真実味を増してきます。この「防人の伝説」を、今後検証してみる価値は十分にあります。
2004/03/10

[183] 「渟足柵」の研究結果を大歓迎
新潟県内の三つの城柵は、今回の文部科学省の指定研究の研究結果を最新情報として、県民は真摯に受け止めています。渟足柵は、新潟市沼垂付近、磐舟柵は、村上市岩船付近、都岐沙羅柵は、中条町築地付近と、明確にするための第一歩と考えています。大和朝廷が造営した北陸及び東北地方の城柵の探求に、非常に大きな成果をもたらしました。それぞれの城柵に、光明を与えてくれました。
2004/03/10

[182] 都岐沙羅柵の立地条件
「都岐沙羅柵」が、中条町築地に造営されたと言う立地条件が揃っています。1「塩津」という地名が現存しているように、良港があったことです。2塩津潟の東側に「一籠山」という古墳が存在していることです。3一籠山の近くに、「伊夜日子神社」が現存することです。4康平の絵図(1060年)の当時の地形を考慮するに入れることが出来ます。これら諸々の立地条件を、総合的に考察すると中条町築地に、「都岐沙羅柵」は存在したと結論付けているわけです。
2004/03/10

[181] 新潟県名で配布される刊行物
新潟県の名前で印刷されて、新潟県下に配布される刊行物は、学問的に信憑性のある学説等で、拠り所のある語彙や語句を使用したほうが良いと考えています。例えば、「都岐沙羅柵」については、村上市付近と言う説と中条町付近と言う説とが、混乱して使用されています。このために、教育の現場や各市町村の地域おこしや地域づくりに、大きな支障となっています。新潟県庁内の各担当部署は、適切な指導と助言が必要になってきています。早急な対処を、強く要望いたします。
2004/03/10

[180] 旧築地村村歌が築地小学校校歌へ
旧築地村村歌の歌詞「史に名高き月さらの 昔すえたる礎の」が、平成14年4月に開校した中条町立築地小学校の校歌に、引き継がれています。第一に、国学院大学の先生であることです。第二に、「月さら」の歴史的事実が継承されていることです。旧築地村が昭和42年に中条町に合併するまで愛唱歌として歌われていたものです。旧築地村の4校の統合校の校歌に、盛り込まれています。現に築地小学校の児童や学区民が、郷土の歴史を噛み締めながら歌い続けています。本当に素晴らしいことです。また、『胎内川の恵み』という副読本で、都岐沙羅柵(月さら)の学習を、熱心に続けています。
2004/03/09

[179] 文芸誌等で「都岐沙羅柵」を論述
文芸なかじょうや文芸しばた等の文芸誌で、「都岐沙羅柵」について数多くの論文が既に掲載されています。また、郷土史の専門誌『おくやまのしょう』でも、数多くの論文が掲載されています。新潟県民は、「都岐沙羅柵」の比定地は中条町築地説を採るのが、多いと考えています。その理由は、県内の城柵は、三つの城柵があったとする説が有力だからです。
2004/03/09

[178] 都岐沙羅柵の私の主張
私は、「都岐沙羅柵」について主張しているのに二つあります。一つ目は、私の著書『塩津潟は塩の道』の第7章に「よみがえれ!都岐沙羅柵」があります。二つ目は、ホームページ『塩津潟の由来』の都岐沙羅柵(月さら)の項目があります。どちらも丁寧に記述してあるので、是非ご一読ください。
2004/03/09

[177] 倭名類聚抄の都岐沙羅柵の記述
この歴史書に、新潟県の城柵について記述してことは、非常に重要なことです。特に、都岐沙羅柵が、渟足柵と磐舟柵の間に存在するとの記事は、中条町築地にとっては貴重な内容です。今後このことが、中条町の地域づくりに大きな影響を与えてきます。
2004/03/09

[176] 中条町が都岐沙羅柵を発信
中条町の歴史的事実として、「都岐沙羅柵」を発信することができるのも近いと思います。村上・岩舟地区NPOが里創プランの名称として使っている「都岐沙羅パートナーズ」は、近日中に「岩舟パートナーズ」等と、名称を変更するものと思っています。私は、旧築地村の村歌に歌っていた『史に名高き月さらの』は、中条町の地域づくりに使用するのが、一番よいことと考えています。
2004/03/09

[175] 新発田市も都岐沙羅柵に関わる
新発田市五十公野に、「古四王神社」が存在します。この神社は、大和朝廷が派遣した阿倍比羅夫を祀った神社です。そのために、新発田市でも、大和朝廷の三つの城柵(渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵)と関係するので、地域づくりの活性化のために努力するものと思います。
2004/03/08

[174] 「都岐沙羅柵」を提唱している学者
文部科学省の今回の研究結果と同じ内容を既に発表していた学者がいます。斎藤修平元新潟県立図書館長・芳賀矢一元国学院大長・伊藤國夫塩津潟研究家・その他大勢の学者が、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の三つの城柵説を主張していました。新潟県内に、渟足柵と磐舟柵の二つの城柵説を唱えている学者は、非常に少ないです。
私は、著書『塩津潟は塩の道』の中で「第7章”よみがえれ!都岐沙羅柵“」を、平成15年8月8日に出版し、その中に記述しています。私の研究が、今回の文部科学省の指定研究の結果と一致していたことに、大きな喜びを感じています。中条町の歴史の解明に、「塩津潟」の復活と「都岐沙羅柵」の解明と、大きく貢献することができました。特に、中条町日曜町議会(平成16年3月7日)で富樫誠議員が、「都岐沙羅柵」について「都岐沙羅柵は中条町築地である」という提言と、中条町の歴史認識と態度について伺った事は、本当に良い機会でした。中条町の議会記録に、公式記録として「都岐沙羅柵」が初登場したことは、非常に大きな意義があります。中条町民はもとより、新潟県民は渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵にもっと関心を持って接し、郷土の歴史を大切にしていくことが重要です。
2004/03/07

[173] 「都岐沙羅柵」が中条町の公式記録に載る
「都岐沙羅柵(月さら)」が、中条町の「日曜町議会」に登場しました。富樫誠議員が、「都岐沙羅柵は、中条町築地である」という質問に対して、吉田教育長は答弁しました。「都岐沙羅柵(月さら)」は、旧築地村の村歌の歌詞にあります。『史に名高き月さらの 昔すえたる礎を 固め固めて年年に』です。この歌詞は、芳賀矢一国学院大学長が作詞したものです。昭和42年に、中条町に合併するまで村民に愛唱されていたものです。「月さら」は、37年ぶりに蘇ってきました。塩津潟と同様に、都岐沙羅柵も中条町に復活してきました。平成16年3月7日は、記念すべきよき日になりました。
2004/03/03

[172] 越国の城柵研究
沼垂城や磐舟柵や都岐沙羅柵の研究に、新潟大学や秋田大学や大阪外語大学や国立歴史民俗博物館の各先生方が、共同で研究を開始したことは、非常に効果が大きい。その意味で、今回の4年間の研究結果は、内容的にものすごく進展してきている。
この研究結果を、各治自体は「地域の活性化」に、大いに役立てるべきである。
2004/03/03

[171] 河川舟運に注目
文部科学省のこの度の研究指定は、大和朝廷の越後国の城柵く比定地に、加治川・塩津潟・胎内川・阿賀野川等の河川舟運に注目してきたことが、第4回シンポジュウムで明らかになってきました。
いよいよ塩津潟や福島潟の内水面交通が、クローズアップしてきました。
2004/03/02

[170] 「磐舟」という報告書
上記の報告書は、新潟県文化財調査報告書第九として、昭和37年3月に発行されている。この報告書には、「磐舟柵と都岐沙羅柵とは同一」とは記述されていない。
今回の第4回シンポジュウムの報告書と合わせて考察すると『都岐沙羅柵』は、磐舟柵とは別に存在したことになる。やはり、今までの学説の通り、新潟県には三つの城柵が創置されていたことになります。
2004/03/02

[169] 都岐沙羅柵の存在の確認
文部科学省の研究指定を受けた、第4回シンポジュウムが開催された。平成16年2月29日に、新潟市万代市民会館で行われた。新潟大学や奈良女子大学や秋田大学や大阪外語大学や国立歴史民俗博物館等々の先生方の研究チームによるシンポジュウムです。
この研究冊子の中に、『都岐沙羅柵』が石舟柵と並列に記述してある。37頁と39頁です。要するに、越後には、沼垂城と石舟柵と都岐沙羅柵と、三つの城柵が装置されたことを明記してあります。
2004/03/02

[168] 八十里越の塩の道
My-Skipの地域情報誌に「八十里越の塩の道」が、掲載されました。3月号です。中越地方の「塩の道」を、現代人に伝承していきたいと考えています。先人が、大変な苦労と努力によって「塩」を、送り続けてきた『道』です。
糸魚川と松本の「塩の道」に、続くことを願っています。郷土の歴史と文化を、大切にしていきたいものです。
2004/02/26

[167] 伊能忠敬と日本図
伊能忠敬は、「日本地図」の作成に取り掛かったのは、50歳を過ぎた第二の人生の仕事として取組んだものです。まさに生涯学習の大偉業を成し遂げたわけです。新発田市生涯学習協会の講演会では、そのことも力説してきました。少子化時代の今日は、「老人パワー」を大いに発揮する時代であると考えます。
2004/02/26

[166] ライフワークの50年間
私が10歳の時に抱いた疑問『塩津潟の存在』は、見事に蘇りました。その大きな原動力になった言葉は、大倉喜八郎翁の「勇気」でした。『知恵比べ 努力比べの多き世に ほしきは人の勇気なりけり』を、心の支えとしてきました。そのことを、「良寛さんと新発田市のかかわり」の講演の中で講話してきました。現代は、「生涯学習」の重要性を力説してきました。
2004/02/25

[165] 山田佐門校長の学校経営
先般の「良寛さんと新発田市とのかかわり」については、山田佐門校長の教育哲学について、触れた講演をしてきました。良寛さんと山田佐門校長の考え方が、『自然論』を基調とした考え方であることを事例を挙げて、いくつか講話をしました。新発田良寛会の方々も、今までとは一味違った講演会だったと、感想を述べていました。良寛さんの思想が、新発田市の教育現場にも、深く浸透することを期待しています。
2004/02/25

[164] 河川文化フォーラムin越後
信濃川明治の大水害「横田切れを検証する」を、平成16年2月22日付で報告文を掲載している。新潟ベルナールで実施された、フォーラムである。大水害を、科学的に分析したことは大きな成果を発揮したと思っている。
しかし、人間が生存していくためには、「水辺の文化」を今よりもっと身近なものにしていかなければならないと考えています。そのための方策を、どんどん提案していかなければならない。
2004/02/23

[163] 沼垂城のシンポジュウム
新潟県の城柵についてのシンポジュウムが、平成16年2月29日に新潟市で開催されます。磐舟柵と都岐沙羅柵との扱い方が、非常に楽しみです。私は、三城柵説を採用するものと考えています。沼垂城の場所が確定すると、他の二つの都岐沙羅柵と磐舟柵も、おのずと明確になってくると思います。
2004/02/22

[162] 新発田市の古四王神社
大和朝廷が越後に派遣した、阿倍比羅夫を祀った古四王神社が、新発田市五十公野に存在する。越後の城柵である「都岐沙羅柵」との関連がある神社です。新発田市は、この神社をもっともっと大切に扱うことかが、重要であると思います。磐舟柵と都岐沙羅柵とは、明確に区別する必要があると考えています。先人が、研究したた結果も考慮すると、歴史の真実が伝承されていくと思います。
2004/02/22

[161] イザベラ・バードさんの探検旅行
イギリスの旅行家が、阿賀野川を経由して阿賀北地方を旅行し、旅行記を残している。やはり内陸水上交通で舟運している。当時の交通手段やルートが解明でき、貴重な資料である。
2004/02/22

[160] 良寛さんと新発田市のかかわり
新発田良寛会主催の講演会が、新発田市文化会館で行われました。平成16年2月22日です。1 「良寛さんと新発田市」2『塩津潟と新発田市」という柱で講演してきました。新発田市と良寛さんは、とても深い関係が有るのです。
2004/02/22

[159] 塩津潟は塩の道を追って
新発田市生涯学習協会主催の講演会で、『「塩津潟は塩の道」を追って』と題して、講演を行ってきました。平成16年2月21日です。新発田藩主の藩政に触れながら、私の生涯学習としてのライフワークを講話してきました。新発田の郷土史を、相当に理解してくれたものと思います。私の提言した内容を、新発田市の市政に反映するものと確信しています。
2004/02/21

[158] 「塩津潟」三兄弟誕生
中条町の西屋さんから、『塩津潟三兄弟』が誕生しました。郷土菓子の「塩の津」が、平成16年2月に誕生しました。平成8年に誕生した「塩津潟」あります。その後、「月さら」が創作されました。
今回の「塩の津」の誕生で、『塩津潟三兄弟』がそろいました。NHKの「だんご三兄弟」に、あやかりたいものです。郷土の銘菓が、また一つ増えました。可愛がってほしいと思います。
2004/02/21

[157] 磐舟柵と都岐沙羅柵とは同一?
学問的には、磐舟柵と都岐沙羅柵とは、同一とは考えていない。しかし、平成16年2月20日NST放送局の新潟版で、NPOの都岐沙羅柵は同一のように放送していた。本当だろうか?キサラ通貨を使用しているとも伝えていた。新潟県には、沼垂柵と岩船柵と都岐沙羅柵の三城柵があるというのが、通説である。現在、文部科学省の研究指定を受けて、新潟大学が中心になって大和朝廷の城柵について事実解明に努力中である。私の説は、「塩津潟は塩の道」の著書の中に記述してある。是非、読んでください。
2004/02/20

[156] 良寛さんも河川舟運
良寛さんは、かなり行動範囲が広いです。それらへの行程で、おそらく「舟」を多く使ったのではないだろうか。良寛さんは、新発田へも来ています。旅程のある区間は、「舟」を使ったものと思っています。何か、立証できる古文書は発見できないものであろうか。
2004/02/20

[155] 芭蕉も塩津潟を舟運
私は、いろいろな観点から考察して、芭蕉は塩津潟を通っていると考えています。皆さんも、いろいろな視点で研究してみてください。阿賀北地方の「河川舟運」の重要性が、理解できると思います。
2004/02/19

[154] 塩津潟を舟運した人々
京都の高僧が、塩津潟を舟運した記録が発見されている。その研究を、立教大学の藤木教授が発表している。この他に、多くの人々が舟運していることが分かっている。塩津潟の二重構造である。物資の舟運と食糧増産を目指した新田開発である。ここで重要なことは、「塩津潟の由来」である。
2004/02/19

[153] 私の逸品
市島酒造株式会社で、第1回 「心のふるさと」が2月19日から実施されました。私も、「越後絵図と塩の道」を出品しています。それぞれの出品物は、「心のふるさと」を強く感じされるものばかりでした。是非、ご覧になってください。復刻版の『正保二年越後絵図』に、お目にかかれます。
2004/02/19

[152] 良寛さんと新発田市のかかわり
新発田良寛会で、上記のテーマで講演します。平成16年2月22日に、新発田市文化会館で行います。「こころ」の問題に、触れてみたいと思います。
2004/02/19

[151] 日本道徳基礎教育学会
私は、当学会に入会して20年位になります。私の『塩津潟は塩の道』のライフワークには、非常に役立ちました。「こころの教育」が、研究の底流にあります。この会議のために、筑波大学付属小学校へ通いました。この会への入会の動機は。新発田市立住吉小学校で、研究主任を拝命した時からです。校内の「道徳教育」を、研究したときからです。現在の児童生徒は、やはり「こころ」の教育が更に重要視されなければならないようです。
2004/02/19

[150] 県歴史博物館長の回答
新潟日報「窓」欄の『県内塩の道の啓発を考えよう』の私の提言(平成16年1月28日付)について、小林県歴博館長が回答を新潟日報「窓」に寄せています。(平成16年2月18日付)新潟県立の博物館が、『塩の道』について考えていくとのことです。本当に、力強いことです。
2004/02/19

[149] 広報しばたに掲載
新発田市内の学校に寄贈した私の著書「塩津潟は塩の道」のことが、2月15日号に紹介されました。学校現場でも、いよいよ活用され始めました。とても嬉しいことです。新発田市外でも、同様のことが実施されています。
2004/02/19

[148] 加治川村で講演
「塩津潟が加治川村に与える価値」と題して、平成16年2月12日に講演をしてきました。加治川村の歴史についての学習でした。
2004/02/06

[147] Re[146]: 一籠山の看板設置の回答
確認しました・・・
期待してます。
”一籠山”周辺で発掘作業が行われたりしているんですか?
見た感じそんなふうには見えませんでしたが・・・
雪が消えたら、もう一度ゆっくり回ってみようと思います。
http://www.nightmare.jp/
2004/02/06

[146] 一籠山の看板設置の回答
表題については、早速中条町の教育委員会から、回答がありました。中条町のHPを、ご覧ください。中条町では、現在検討中だそうです。歴史の街「中条町」らしい取り組だと思いました。
2004/02/06

[145] 鬼道の系譜
『鬼道の系譜』と題して、新潟日報で連載されています。副題は、「卑弥呼から晴明へ」です。(H16年1月10日付)この記事の中に、新潟県の城柵と深く関わりのある「皇極天皇」及び「斉明天皇」のことが、記述してありました。とても興味深い内容です。是非、読んでみては如何でしょうか。
2004/02/06

[144] 合併に伴う地域史の伝承
全国的に、各市町村の合併が急激に進行しています。新発田圏域でも、同様です。新発田市は、新発田藩主が藩民の食糧増産のために「新田を開発」してきた事実を、学校教育及び生涯学習の教育内容として、取り上げる絶好の機会であると考えます。代々の新発田藩主が、取り組んできた「新田開発事業」を、取り上げるのに今回の合併は、郷土の歴史を伝承するのに本当に良い機会であると考えます。担当部署の検討に、大きな期待を寄せています。
2004/02/04

[143] 八十里越の塩の道
新潟県内の「塩の道」は、『峠』を越えて隣接県へ運ばれています。地元の人々は、「八十里越」や「六十里越」について、どのような認識を持っているのでしょうか。先人の尊い生活実態や業績を、どのように捉え、どのように後世に伝承しているのでしょうか。糸魚川市の地域おこし「塩の道」のように、“地域おこし”や“街おこし”の活性化に役立てることを提言いたします。
2004/02/03

[142] 2月に講演会が3本
生涯学習課関連の講演会が、立て続けに3会場であります。いずれも『塩津潟の由来』に関するものです。新発田市民の皆さんも、「塩津潟」に興味と関心が高まってきたようです。最近は、歴史の真実が協力であることを、強く感じています。
2004/02/02

[141] 生涯学習課の人材バンクに登録
生涯学習指導者派遣事業の人材バンクに、平成16年1月に登録しました。私が体験してきた技能と、調査して得た知識を生涯学習のために役立てたいと考えています。この掲示板でもよし、Eメールでもよし、ご連絡ください。
2004/02/02

[140] 塩津潟の由来アクセスの推移
「塩津潟は塩の道」の出版以来、「塩津潟の由来」のアクセス数が激増しています。
平成 6年 8月     17回 平成14年 1月  2678回
平成10年11月    796回  平成15年11月   6692回
平成11年 5月    1001回  平成16年 2月   7339回
平成12年12月    1335回
平成13年 6月    2313回
このように,HPでも沢山の方々に利用されています。特に、著書を出版した昨年の8月以降も、十数項目追加しています。是非ご覧ください。
2004/02/02

[139] 一籠山の看板設置
一籠山の看板設置のお願いは、中条町のHPの掲示板に1月30日付けに載っています。早く実現することを、願っています。
2004/02/01

[138] 看板の設置
中条町は、郷土の歴史について大切にしているので、設置の方向で努力すると思います。中条町の総務課には連絡しておきました。予算とも関連しますが、きっと検討してくれると思います。
2004/01/31

[137] Re[134]: 一籠山の説明看板の設置
> 海月さんは、すぐ現場へ行って調査することは素晴らしいことですね。上記の件は、早速中条町へ看板設置を連絡しておきます。積極的なご意見を頂戴し、ありがとうございます。
先生はそんなことがすぐ出来るんですか?
驚きです!!
http://www.nightamre.jp/
2004/01/31

[136] 児童会主催の「雪祭り」
「アイデア競う児童作品期待」と題して、新潟日報朝刊「窓」欄に掲載されました。平成16年1月31日のことです。『塩津潟教育研究所』として、教育全般に関する内容に触れたものです。約30年前の子供たちの思考形態と意識について、記述したものです。当時は、6年生だった子供たちは、今年熟年の40歳である。
2004/01/31

[135] 塩津潟が見事に復活した
「塩津潟」が、理由もなく紫雲寺潟に1730年頃変えられてから、平成時代になって見事に復活しました。本当に、越後不思議紀行の一つでした。先人の研究の努力によって、「塩津潟」が蘇ってきました。今後、ますます新潟県民に理解されていくことでしょう。嬉しいことです。
2004/01/30

[134] 一籠山の説明看板の設置
海月さんは、すぐ現場へ行って調査することは素晴らしいことですね。上記の件は、早速中条町へ看板設置を連絡しておきます。積極的なご意見を頂戴し、ありがとうございます。
2004/01/29

[133] そうですか・・
連日の除雪作業で疲れましたが・・・
昨日雨が降ったせいで一気に雪も融けてしまった様です。

そうですか、”かごほろき山”は今は無いと言うことですね。
”ひとかご山”も案内看板や、説明看板の類が全くなく
少し残念に思いました。
http://www.nightmare.jp
2004/01/29

[132] 県内「塩の道」の啓発を
上記の主題で、新潟日報朝刊「窓」欄に掲載されました。H16年1月28日付です。新潟県内の「塩の道」を、新潟県立歴史博物館に展示し、県民に啓発することを記述したものです。何しろ、大きなルートが6ルートもあるわけですからね。早急な完成を、期待しています。 
2004/01/29

[131] 河川文化フォーラムin越後
上記のフォーラムが、H16年1月26日に新潟ベルナールで開催されました。主題は、「横田切れを検証する」でした。信濃川の洪水に関する検証を、各要因から分析したものです。大変有意義な、フォーラムでした。沢山の参会者で、熱気ムンムンでした。
私は、河川舟運や新潟平野に多く点在する「潟」との関連も触れてほしかったです。
2004/01/29

[130] ボッカ運搬用具が国の指定
糸魚川市の「ボッカ運搬用具」が、国の重要有形民俗文化財に指定されました。大変な喜びです。糸魚川市根知の「塩の道資料保存会」の、長年の努力が認められたものと思います。本当に、おめでとうございます。「塩」の供給県である新潟県の「塩の道」が、後世に伝承できる道が開けました。県内の「塩の道」の各ルートが、後世に伝承できる日を待っています。八十里越や阿賀野川ルートも、早くできるように努中です。
2004/01/27

[129] 板額御前のイベント継続
中条町の歴史イベント「板額御前」は、『武士の食事』として800年祭に続いて、小・中学校でこの度実施されました。とても喜ばしいことです。これらの活動を通して、児童生徒に郷土を愛する気持ちが着実に育っていくものと考えています。800年祭実行委員の一人として、大賛成です。これからの継続に、期待が持てました。頑張れ!中条。次なるイベントが楽しみです。
2004/01/26

[128] かごほろ山の位置
「大塚山」(一籠山)は、一目で分かったとのこと何よりでした。古墳であるということは、すぐご理解できたと思います。しかし、「かごほろき山」は、地元の人々でも既に忘れかけています。このように、郷土の歴史がどんどんと忘れられています。本当に、残念なことです。そのことを付記しておけば良かったのですが、大変失礼しました。かごほろき山は、大塚山から東方に50メートル位の所に、記念碑と大きな杉の木が存在したのです。現在は、杉は伐採され、記念碑は当位置に埋められたと言われています。
大塚山とかごほろき山は、ペアの遺跡なのです。
2004/01/25

[127] こんばんは・・・
金曜あたりからの雪で一苦労でした。
夜中に除雪作業に出なければならないので・・・

中条町の塩津辺りを回ってきたのですが「かごほろき山」と言う山が
解りませんでした。
「ひとかご山」はインターネットに写真があり、結構遠くからも
目立ったのですぐ解りましたが・・・
近くの集落内に少し土を盛ったような所があり、ちいさな”祠”の様な
ものがありました。
「ここなのかな〜」と思いましたが、案内看板や説明看板の類が全くなく
結局、解りませんでした・・・
雪が消えたら写真でも撮ってこようと思います。
http://www.nightmare.jp/
2004/01/25

[126] 各方面へのリンク
「塩津潟の由来」は、各市町村のHPと以前からリンクしています。新潟県及び各市町村の『地域おこし』に、大いに役立ててもらっています。この度、さらにリンクの幅が広がりました。温故知新です。地域の歴史を正しく伝承していきたいと考えています。
2004/01/22

[125] Re[124]: 越後不思議紀行へのリンク
有り難うございますm(_ _)m
デジカメを買ったので土日にでも写真を撮って見ようかと
思ったのですが、この雪です・・・

今後もよろしくお願いします。
http://www.nightmare.jp/
2004/01/22

[124] 越後不思議紀行へのリンク
越後不思議紀行のHPは、内容が豊富なHPでした。リンクをしていただき、多くの方々にお役に立てばありがいです。
2004/01/20

[123] お願い・・・
「越後不思議紀行」の【掲示板】のページから、県内の色々な個人掲示板を
まわれるように直接、こちらの掲示板をリンクしました。
http://www.nightmare.jp/keijiban_FL.html
ご迷惑な場合はリンク一覧からはずしますので、ご連絡下さい。
事後報告で申し訳ありせんが、よろしくお願いします・・・m(_ _)m
http://www.nightmare.jp/
2004/01/20

[122] 一籠山は大塚山
ひとかご山は、一籠山とも書きます。また、一籠山を地域の方々は、「大塚山」とも言います。それは、昔「大塚」というかなり大きな集落(昔の村)が存在しました。その村内の中に「大塚山」が、存在したからです。大塚山の周辺の遺跡からは、貴重な異物が出土しています。『津』という墨書土器等も、出土しています。私のホームページ「塩津潟の由来」の中にも、「ひとかご山」のことが記述してあります。大塚山は、円墳の形をしています。是非、ご覧になってください。
2004/01/19

[121] また、来ました・・・
”ひとかご山”検索サイトで調べましたが、あまりありませんでした。
しかし、画像が一つ見つかりました・・・
山と言うからそれなりに大きいのかと思ったら、本当に”塚”みたいな感じなんですね?
雪が消えたら言ってみようと思います。
http://www.nightmare.jp/
2004/01/18

[120] 加藤辰蔵さんの研究
康平3年越後國絵図の研究には、『塩津潟』が記述してありました。にいつ古絵図展でのことでした。この研究は、昭和8年8月の年月日が記入してありました。とても興味がありました。
2004/01/18

[119] ひとかご山は中条町に存在
「ひとかご山」は、中条町大字塩津に存在します。大和朝廷とは、密接に関連しています。是非、訪れてみてください。とても興味深い内容です。
2004/01/17

[118] ひとかご山 投稿者:海月
伝説は伝説として、実際”ひとかご山”と言う山があるのですか?
時間があれば訪れてみたいですね。
歴史はあまり詳しくないので解りませんが、大和朝廷の勢力範囲は
福島県、新潟県あたりが北限だったと聞きます。
そうするとこういった、はずれの方にも古墳に葬られるような権力者が
居たと言うことなのでしょうか?
興味深いですね・・・
http://www.nightmare.jp/
2004/01/16

[117] 大和朝廷の城柵
「ひとかご山」伝説は、大和朝廷時代の古墳であると、私は考えています。ご一考ください。658年の「都岐沙羅柵]と、密接に関連していると思います。
2004/01/14

[116] ありがとうございます
自分の持っている本にも「ひとかご山」ありました。
あとでまた詳しく調べてみます。
http://www.nightmare.jp/
2004/01/14

[115] 「にいつ古絵図展」の見学
上記の古絵図展が、新津市図書館で1月 8日から12日まで開催されました。50点の古絵図が見事に展示されてありました。新津市周辺の歴史が、とても良く分かりました。阿賀野川・信濃川・能代川等の、河川舟運の様子が良く分かりました。新津市も、「塩の道」の地域おこしに取組むものと思います。広域のイベントが実施出来ると考えています。
2004/01/14

[114] 海月さん、「ひとかご山」伝説
「塩津潟は塩の道」へのアクセス、ありがとうございます。
中条町に、「ひとかご山」伝説があります。中条町立図書館へ問い合わせてみてはどうでしょう。下越地方の伝説を、いくつか入手できると思います。
2004/01/12

[113] こんにちは 投稿者:海月
昨年12月ようやく潟東村にもADSLが入りました。
これを機会に、越後に伝わる伝説・伝承・奇談などの市町村別一覧や
県内の不思議なモノ・話などを中心に紹介しています。
といっても内容に関してはまだまだ不十分です。
暇なときにでも冷やかしにいらして下さい。
今後もよろしくお願いします。
http://www.nightmare.jp/
2004/01/09

[112] 「地域学」の台頭
各都道府県及び各市町村は、地域史に関する学問をスタートさせるところが多くなりました。このことは、各大学でも取り上げ始めています。
さて、新発田市は新発田城の復元等、新発田藩の歴史を正しく伝承しようと努力を始めています。とても素晴らしいことです。
2004/01/05

[111] 合併しても河川舟運の推進を
港町新潟市をはじめ「河川舟運」に関する地域おこしは、合併後も協力に推進してほしいと考えています。このことは、安田町を中心とした地域、及び津川町を中心とした地域にも期待したい内容です。信濃川や阿賀野川に関わる市町村の工夫と努力に期待しています。
2004/01/04

[110] 沢山の年賀状から
今年も沢山の年賀状を頂戴しました。その中に、「塩津潟は塩の道を読みました。」という賀状が多かったのに、とても感激しています。本当に嬉しいことです。ありがとうございます。県外から方からのものも多かったので驚いています。
新潟県内の「塩の道」が、各市町村でイベント化される勢いを感じました。糸魚川と松本ラインに、早く追いつくことを期待しています。
2004/01/01

[109] 飯沼先生からの年賀状
今年の年賀状は、「塩津潟は塩の道」の出版に関する記事が多かったです。また、「塩津潟教育研究所」の設立に関する内容も多かったです。それらの中でも、1年生担任の飯沼先生からの励ましの年賀状は、とても嬉しかったです。昨年50年ぶりにお会いしました。先生は、すこぶるお元気でした。低学年当時の私をよく覚えていてくださいました。本当に恩師は、ありがたいものです。
さらなる研究の意欲を、掻き立てられました。
2004/01/01

[108] 大学の特殊法人化へ
平成16年は、国立大学の「特殊法人化」が実施される年です。このことが実現すると、「塩津潟の由来」は各大学の教材として、大きく取り上げられるものと思っています。
地域の歴史が、大学生によってさらに解明されていくもの考えています。本年は、画期的な良き年になることでしょう。
当研究所は、それらのお役に立ちたいものと現在準備をしています。
2004/01/01

[107] 謹賀新年
旧年中は、大変御世話になりありがとうございました。皆様のご多幸とご健康をお祈り申し上げます。
昨年は、『塩津潟教育研究所』を設立し、『塩津潟は塩の道』を出版しました。この著書と『塩津潟の由来』のHP(アクセス数7130回)は、学校教育と生涯学習の教育資料として活用されているようです。
本年もご支援とご指導の程よろしくお願い申し上げます。
平成16年 元旦    伊藤 國夫