新発田藩の「塩津潟干拓」に想う
 


伊藤 國夫

溝口家入封400年祭や新発田市の市制施行50周年記念を契機に、新発田藩が実施した塩津潟や福島潟の干拓の史実を、見直す必要があると思う。特に、塩津潟の干拓の様子については事実が正確に記述されておらず、市民に正しく確認されていないのが現状である。

「越後絵図」(新発田市立図書館所蔵)が、新潟県の有形文化財に指定(平成8年3月)されたことは、新発田藩の歴史を見直すよい機会であると考えている。

この絵図には、紫雲寺潟ではなく塩津潟と明記してあることを見逃してはならない。塩津潟の干拓は、竹前兄弟たちが干拓を始める前から、新発田藩の藩政の一つとして取り組んできたことは、まぎれもない事実である。また、新発田の商人たちの財政援助や熱意によるところが大きかったことも、ゆるぎのない事実である。

歴史的に見て非常に貴重な「越後絵図」は、300部の限定印刷である。現在は、誰が所有しているのか確認されているのが少ないのが実状である。三扶誠五郎氏が模写した「越後絵図」が、早急に復刻されることを願っているのは、私一人ではないのである。

塩津潟を知っている人は、今までにそう多くなかった。しかし、最近は新潟県の内外をとわず、相当多数の人々に認知されてきている。本当に嬉しいことである。

塩津潟は、1735年頃から紫雲寺潟と言われだしたようである。が、学問上は、塩津潟が正しい潟名であることは疑う余地のないところである。今後は、新潟県史や各市町村史の記述もすべて紫雲寺潟ではなく正式な潟名である塩津潟と記述されるものと考えている。

その根拠は、塩津潟が正しい潟名であることを立証できる古文書や古絵図を沢山見出したり、入手することができたからである。調べた主な機関は、国立国会図書館、内閣文庫、国立歴史民俗博物館、各県立図書館、各大学の研究室及び図書館、その他各種博物館等々である。本当に貴重な資料が、それぞれのところに沢山現存していることを知り驚いている。

塩津潟に結び付く「しうつ」「シホツ」「塩津潟」「塩津」と明記してある古絵図や古文書には、次のようなものがある。康平の絵図(1060年)、高井道円時茂譲状案(1645年)、元禄十三年越後国蒲原郡岩船郡絵図(1700年)、日本輿地図(1756年)、新刻日本輿地路程全図(1791年)、諸街折絵図(1821年)、越後国絵図下(1822年)、国郡全図(1837年)、日本全図(1853年)、大日本海陸全図(1863年)等々があげられる。

先人が絵図に託した情熱は、驚嘆に値するものがある。これらの古絵図が、その時代に生きた人々に役立った大きな大きな業績を、実感として感じ取っている。

ちなみに、紫雲寺潟と記載してあるものは、寛治の絵図(1089年)、享保の絵図(1721年)の2編だけである。

前述の古絵図等の調査結果を考察してみると、次のことが言えるのである。塩津潟と明記してある絵図が多いこと。徳川幕府の命令によって製作された2編の絵図が塩津潟であること。国立公文書館所蔵の絵図は攝揚坂府高津宇木堂や近藤出版社等、出版社名が明記されていること。明治大学所蔵の絵図は、長久保赤水の絵図が多く作者名がはっきりしていること。紫雲寺潟と記載してあるのが2編だけであること。この2編は、学問上どう考察しても不正確であるとしかいいようのないこと。紫雲寺潟を地名大辞典等で調べると、「塩津潟の転」と記述してあるものが多いこと。この他にも塩津潟が正しい潟名であることを立証する内容が数項目あるが、紙面の都合で省略する。

新発田藩領絵図(1859年)を見ると、非常に興味深いことがある。それは、塩津・弥彦岡・城塚等の九村落が、新発田藩の飛び地になっていることである。

塩津潟の由来になっている塩津附近が、いかに重要な土地及び地域であったかがうかがわれるのである。

新発田藩主は、新発田城から塩津潟や福島潟を眺望しながら、新田開発のための干拓を決意していたのではないだろうか。

私は、新発田城近くの外ヶ輪小学校の屋上から、ことあるごとに塩津潟方面を眺めたものである。紫雲寺潟ではなく、塩津潟と正しい潟名で呼ばれる日が一日も早くることを願ったことを回想している。

最近は、「塩津潟の復活」が近いことをひしひしと肌で感じている。その理由は、いくつかある。第一に塩津潟を新潟大学や各大学が研究を開始してきたこと。第二に、新潟県史の編纂室及び各市町村史の編纂室が取り上げ始めてきたこと。第三に、民間団体の活動が活発になってきたこと。例えば、中条地区高齢者大学の「水ばしょう」第21号や「にいがた社会教育」1997年5月NO281の内容によれば、『中条町・加治川村・黒川村・紫雲寺町・豊浦町等から、塩津潟を考証する運動が始まっている。』という。本当に、たのもしい限りである。また、中条町の塩津附近の住民は、塩津潟の復元と塩津潟記念公園(仮称)の造成を計画中であると聞く。いよいよ塩津潟の復活である。
 

新発田市も、塩津潟に関するイベントを「越後絵図」にちなみ、そろそろ始めるとよいと思っている。 


(1) 先人の足跡「塩津潟」      ・・・新潟日報[NIE]に掲載

(2) 新発田藩による「塩津潟」の干拓 ・・・広報しばた 11月4日号

(3) 新分野として文化想像にも    ・・・新潟日報紙上フォーラム