新発田郷土史講演資料 平成11年12月16日
会場 新発田市文化会館 塩津潟研究家  伊藤 國夫
『塩津潟』と新発田藩
  講演の録音
1.はじめに  ―正保二年越後絵図と私の出会い
  研究者としての立場からの報告と確認
  実践者としての立場からの連絡
  提言者としての立場からの相談
2.新発田藩の新田開発の歴史を正しく伝承する
  新潟県や各市町村指定の文化財の活用
3.古絵図における「塩津潟」の立証は確実である  
  (1) 正保 2年  「越後絵図」         西暦1645年【江戸幕府の命令】
  (2) 元禄13年  「越後國蒲原郡岩船郡絵図」  西暦1700年【江戸幕府の命令】
  (3) 宝暦 6年  「越後輿地図」        西暦1756年
  (4) この他多数現存する  
4.「塩津潟」が紫雲寺潟といわれている理由がはっきりしている
  (1) 「しうつ」と「しおんづ(塩津)」と「しうんじ(紫雲寺)」が、一致すること。 →【言語学的に】
  (2) 「塩津」の行政区が目まぐるしく変ったこと。 
  (3) 塩津潟と紫雲寺潟が同じだということに気付いていないこと。
  (4) 塩津潟を紫雲寺潟とも言う住民のいい加減な意識があること。
  (5) 塩津潟と紫雲寺潟の2つの潟名に不自由さを感じていないこと。
  (6) 紫雲寺潟は、古絵図に存在しないことを知らないこと。
  (7) 「紫雲寺潟は、『塩津潟の転』だ」という事実に気が付いていないこと。
  (8) 「塩津」をよい意味の「紫雲寺」に変えたという説があること。
  (9) 「紫雲寺町」の町名由来を調べれば、紫雲寺という寺名であること。
  (10) 中条町の住民が、『塩津潟』を諦めていること。  等々
5.「塩津潟」が正式名で呼ばれなかった理由を再認識し訂正する
  (1) 『塩津潟』の研究が、学者の関心で終わっていること。→学者の努力不足
  (2) 学者と行政の連携が無かったこと。
  (3) 『塩津潟』の研究者が、各大学関係者と連携が無かったこと。
  (4) 各市町村の横の連携がとれていないこと。
  (5) 各市町村の議会が条令で定めなかったこと。
  (6) 各市町村長が『塩津潟』を正式潟名であると明確な態度をとらなかったこと。
  (7) 関係する地域住民がしっかり諦めていたこと。
  (8) 福島潟の「お副伝説」が悪用されたこと。
  (9) 竹前氏たちが、幕府への干拓願いを新発田藩を抜きに進めたこと。
  (10) 『塩津潟』を「紫雲寺潟」と呼んでいる不自然さに気付いていないこと。
  (11) 『塩津潟』の正式潟名に訂正する手順・手続きが分からなかったこと。
  (12) 『塩津潟』を正式潟名に訂正しようとする意識が行政側に無かったこと。
  (13) 新聞やテレビ等のマスコミが取り上げてくれなかったこと。  等々
6.「塩津潟」を学習した実践事例が多くなってきた
  新発田市立住吉小学校
  新発田市立外ケ輪小学校
  中条町立竹島小学校
7.社会科副読本の編集が続出している
  中条町郷土読本  「ふるさと中条」等
8.中条町の歴史の三つの幻が蘇ってきた
  (1) 都岐沙羅柵  ・・・・・・・・・・ 都岐沙羅柵のその後の発展の様子
  (2) 塩津潟  
  (3) 塩の津   「芳賀矢一博士(東京大学教授・国学院大学学長)」
9.「塩津潟」が新潟県下に定着してきた
  各大学が着手している
  各市町村が積極的に取り組んでいる―各市町村の連携が強化されてきた
  報道機関が正確な潟名で呼称している
10.川舟と河川舟運の様子〔旅人から立証〕が確認された
  文芸しばた 第25号                  
11.船着場を地名から検証する
  塩津           
  船戸
  河渡
12.越国の塩の道と各市町村の地域おこしが盛んになってきた
13.水辺の文化の重要性が認識されてきた
  ビュー福島潟           
  鳥屋野潟
  升潟
  瓢湖 等
14.郷土史を伝承していくための今後の課題
  各市町村の郷土史会の果たし役割が重大になってきた
15.おわりに
  新発田市所蔵の『正保二年越後絵図』が国宝になることを期待している