加治川村中央公民館 『三楽大学』   講演資料 平成11年3月10日
塩津潟研究家 伊藤 國夫 
塩の津・塩津潟の復活 

1.はじめに



        



2.塩津潟の由来
     (塩津)

 (1) 「しうつ」という名称・・・・[中条町の文化財指定]   『高井道円譲状案』  ※西暦1277年

 (2) 「コノ処土塩アリ」・・・・・・[黒川村の文化財指定]   『越後輿地全図』

 (3) 「塩津潟」・・・・・・・・・・・・・・[新発田市の文化財指定] 『越後絵図』         江戸幕府の命令

                 [新潟県の文化財指定]   『越後絵図』

 (4) 塩津潟の研究者・・・・・・・・・◎大木金平先生      ◎池田雨工先生

                 ◎新潟県史        ◎各市町村史

3.古絵図における塩津潟

   ◎正保 2年「越後絵図」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西暦1645年

   ◎元禄13年「越後國蒲原郡岩船郡絵図」・・・・・・西暦1700年

   ◎宝暦 6年「越後輿地図」・・・・・・・・・・・・・・・・・西暦1756年

   
   
4.黒川に「塩」が産出した立証





5.新発田藩や幕府による塩津潟の干拓





6.縄文時代の塩津潟周辺の様子





7.大和朝廷3つの城柵の創置 (1) 渟足柵         (647年)

                   (2) 磐舟柵        (648年)

                           (3) 都岐沙羅柵     (658年)→塩津潟と関連





8.胎内川・荒川・阿賀野川の内陸水上交通  [塩津潟と福島潟との連携]





9.阿賀北地方の中世の研究の状況





10.「塩津潟」が紫雲寺潟といわれている理由

  

  (1)「しうつ」と「しょおんづ(塩津)」と「しうんじ(紫雲寺)」が、一致すること。【言語学的に】

  (2)「塩津」の行政区が目まぐるしく変わったこと。

  (3) 塩津潟と紫雲寺潟が同じだということに気付いていないこと

  (4) 塩津潟を紫雲寺潟とも言う住民のいい加減な意識があること。

  (5)  塩津潟と紫雲寺潟の2つの潟名に不自然さを感じていないこと。

  (6) 紫雲寺潟は、古絵図に存在しないことを知らないこと。

   (7)「紫雲寺潟は、『塩津潟の転』だ」という事実に気が付いていないこと。

  (8)「塩津」をよい意味の「紫雲寺」に変えたという説が強力にあること。

  (9)「紫雲寺町」の町名由来を調べれば,紫雲寺という寺名であること。 

  (10)中条町の住民が、『塩津潟』を諦めていること。
11.塩津潟が正式名で呼ばれなかった理由

  (1)『塩津潟』の研究が,学者の関心で終わっていること。→学者の努力不足

  (2) 学者と行政との連携が無かったこと。

  (3)『塩津潟』の研究者が、各大学関係者と連携が無かったこと。

  (4) 各市町村の横の連携がとれていないこと。

  (5) 各市町村長が、『塩津潟』を正式潟名であると明言しなかったこと。

  (6) 関係する地域住民が,しっかり諦めていたこと。

  (7) 福島潟の「お副伝説」が悪用されたこと。

  (8) 竹前氏たちが、幕府への干拓願いを新発田藩を抜きに進めたこと。

  (9) 『塩津潟』を「紫雲寺潟」と呼んでいる不自然さに気付いていないこと。

  (10)『塩津潟』の正式潟名に訂正する手順・手続きが分からなかったこと。

  (11)『塩津潟』を正式潟名に訂正しようとする意識が行政側に無かったこと。

  (12) 新聞やテレビ等のマスコミが取り上げてくれなかったこと。     等々

  



12.越後の塩の道



13.「塩の道」の伝承



14.専売公社制度による規制緩和 (塩)



15.塩津潟を囲む各市町村の地域おこし



        



16.おわりに

  ◎研究者として

  ◎実践者として

  ◎提言者として
【インターネット】





ホームページアカント【塩津潟の由来】

[http://www.inet-shibata.or.jp./^shionotsu]

                 ≪塩の津≫





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