湯ノ平山荘裏、飯豊川に向かって一基の墓碑がある。表に「京小柳美能生女溺死之墓」裏に「明治九年八月二十九日施主阿部宗益会金次郎」と刻まれている。美能は新潟の芸者が湯壺に旦那からもらった大切な金の指輪(かんざしという話もある)を忘れたのを湯小屋に帰ってから気づき、大急ぎで取りに行ったが、帰りに激流に流され溺死したという話である。

「みの」は死亡当時23才。嘉永五年(1852年)葛塚他門、小柳七平衛の娘として生まれた。家は当時材木商で有数の金満家で使用人も乳母も居た。年頃になり町では絶世の美女と噂された。墓石の裏面に記された二人は湯の平温泉の開拓者であり所有者であった。何故「みの」が湯ノ平温泉へ行ったのか判らない。

阿部宗益は新発田市出身、新潟で眼科医院を開業していた。会金次郎は会津出身、新潟古町に会会楼と称する料亭を営んでいた。当時の大きな料亭は芸妓、娼妓をたくさん抱えており会会楼は最も大きな店であった。自家の芸妓、娼妓の保養の為に湯の平温泉を保有したと言うがはたしてそのためだったのか真偽は判らない。

みの女と金次郎の関係も判らない。地方の金満家の美貌噂高い娘と、新潟屈指の大料亭の主人とかかわるとなれば、興味津々である。  「飯豊道 五十嵐篤雄 著より]

  当時は交通の便も悪く、湯ノ平温泉へ行くにも大変だったのではないだろうか。 

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