渋谷金王丸の伝説

新発田市には他の市町村と比較すると渋谷性がたくさん
あり,
それは渋谷金王丸の流れを継ぐのではないかと考えられます。

   
新発田市の渋谷姓と東京の渋谷について考える。   



新発田市下石川にある金王丸の供養塔

新発田と周辺の遺石探訪(1992年 新発田郷土史から)
小野田十九(旧中条町石碑、歴史研究家 )

新発田市下石川の共同墓地に「鬼の墓」と呼ばれている石碑がある。前面に1基「渋谷金王丸」と刻んだ石碑、その背後に3基の古碑がみな無壇で東面して立っている。郷土資料ではこの4基を金王丸の供養塔.........鬼の墓としているが、背後の3基は実は仏・菩薩の梵字のみを刻んだ「板碑」であり右から「胎蔵界と金剛界の大日二尊・金剛薩捶」、中央が「阿弥陀仏」、左は上部剥落で不明、下部は不動明王の種子が認められる。 時代相は南北朝までは遡れても、七〜八百年前の金王丸の時代とは大分ずれている。  前面の「金王丸」の碑は、正面中央に「渋谷金王丸」と花押を、左右に「武蔵国住人」と「后号土佐坊」を振り分けて彫り左の側面には「文政十一子年七月」「松田与右ェ門立之」(金王丸の家来の子孫)「祥齋書」の造立銘が達筆でていねいに彫られている。      文政十一年(西暦1828年)に建てられた供養塔である。 

新発田市「川東郷土資料」より

大平 王子~社(王子権現由来記)
源義朝の臣澁谷金王丸は主人義朝が尾張の長田忠致に殺されてから京都に潜入して平の清盛を狙って居たが常磐御前に逢って義朝の関東武士に宛てた手紙と義朝の護持佛とを委託されて山伏姿で関東に下り、一旦郷地に立寄り松田、椎野、天城、などの郎等と共に護念上人と前後して石川に落ち付き義朝の護持佛を二王子山中の大平山に勸請して王子権現と號したのが今の王子~社である。

よく渋谷姓の人は昔から二王子様が澁谷金王丸の勸請して建て申したもので。 二王子様は其の義理合があるので渋谷巻の者が二王子へお詣りすると二王子様がわざわざお迎ひなさるので~様にご心配おかけすると勿体ないから御遠慮するなど云う人もある。けれど如何に民主主義の~様でもそうした御気配りはなさるまい、そして二王子様と大平の王子様とは全く別のものである。

金王丸は王子権現を勸請した後家来の勸奨で妻帯したとあり、其末孫が下石川の傳右衛門であり、石川,三光、虎丸の澁谷姓は其の枝葉と云われる。金王丸は下石川に舞台を構へて里人に能舞を見せて自らも家来の人達と共に平安に居った時代を偲び楽しんだとか、今に舞台の地名が傳右衛門どんの附近に残って居る。

金王丸は膂力絶大打物執っての技亦竝ぶものなく馬術にも長じたが、其墓を鬼の墓と云え御影石に刻んだ墓石の字は磨滅して読めないが其脇へ後年に至って建てた石に澁谷金王丸武藏國之住人後土佐坊と號すと彫ってあるけれど、當時の土佐坊昌俊は別人で奈良の眞言僧であり、堀川舘で義経を襲ふたとあるが眞の金王丸は義経に手向えはせぬ筈である。 



渋谷金王丸のことについて  渋谷与志夫  2007.1.5

金王丸一行がなぜここにきたか
平安時代、あるいは律令制がなぜ崩壊したのか。それは、鉄器の安価普及により開墾田、私田が増えて地主、つまり武装農民が実力を持つに至って反乱を繰り返したことにある。歴史本では荘園の出現として表現している。 
この地方も例外ではなく、鍬、犂を手にした農民が上へ上へ、あるいは横へ横へと広がっていった。 一方で稲作水田は、清浄な水、つまり流れる水を必要とする。 このことは、当時の耕作適地は緩傾斜のある山の手であるということを示しているここに農民が生息地を構えた。

下石川に立つと、緩い傾斜が加治山に向かって下りその向こうはるか下に新発田市街が見渡せる。上記の条件に当てはまっているのである。 このことから1200年頃には、既に水田農地が切開かれて、散村集落とはいえ人々が定住していた。それは今とほとんど代わらない光景だった。水は流れ下る。新発田市街は半島か島のような存在で、加治川、坂井川が区切り、福島潟、紫雲寺潟が沼水を貯えて草原が連綿していたことであろう。稲作には向かない溜まり水の排水をする溝が成され、干田化して今に見る蒲原大平野になったのは、1800年頃の新発田藩による干拓以来のことであり、完成したのは戦後の排水機場の完備稼働があってからである。わずかに40〜50年前のことに過ぎないのである。これは、日本の米は石油が支えていると言ってよいのである。

1200年当時は、山の手こそが富をもたらす池であり。人々が定住していた。金王丸一行は、ここに押し込んだのである。何らかの手引き、手段で無防備同然の農民の支配者となって君臨することになった。舞台にも有力な農民がいて屋敷を構えていたが、ここを接収しただろう。一から作り上げることはなかったに違いない。 北陸各地に残る金王丸伝説は、この侵略が鎌倉幕府の追討か、農民の抵抗によってていちゃくできず、いわば座った椅子から追い立てられるようにして流れてきたものだろう。 



「悲劇の武将義経と私の先祖金王丸」(新発田市虎丸 渋谷善雄氏)平成18年2月

 歴史探究の私は大河ドラマ「義経」を最初からみています。私の先祖渋谷金王丸は義経の父源義朝の侍臣で東京渋谷金王八幡の池の生まれである。平治の乱で平家に敗れ都落ちした源氏の総大将義朝は尾張の国渥美郡長田荘司の平家方に寝返った長田忠致に殺された。家来の金王丸は主君の仇討ち後主の妻常磐に事の仔細を報せた後渋谷に逃げ帰り出家して土佐坊正俊と名乗り主君の菩提を弔っていた。その後頼朝が旗揚げ後頼朝の御家人となり頼朝と義経の仲違い後頼朝の命で京の堀川館へ討ちに行った。歴史上は義経に討たれて一生を終わっているが、真実は坊主仲間の弁慶に事情を話し裏日本側へ出て越中国をえて越後の蒲原郡加地荘に文治元年不動尊を開創した慈応上人(義朝の弟)を頼って二王子山麓にきて土着した。その子孫が私等で、平成16年金王丸の八百年供養祭をした。 又テレビドラマでも頼朝の娘大姫が又従兄の木曾の義高を父頼朝に殺され鬱病になったのを慈応は加侍祈祷に、鎌倉へ行っている。又金王丸が菅谷へ来た文治五年に奥州平泉へ逃げた義経も衣川館にて頼朝の命で藤原泰平に殺されている何れにしても源氏は肉親相克の系統で、鎌倉の二代将軍実朝も伊豆へ流された兄頼家の子公暁に刺され、それで源氏の血すぢは耐え北条氏の時代となりました。 それに比べ渋谷金王丸の血すじが八百年も続くのは有り難いことです。源頼朝の従兄弟木曾冠者義仲の家来今井兼平は越後奥山荘乙の富岡の生まれで妹は主君義仲の妻巴御前で、鎌倉時代三大御前の常磐、静、と並ぶ人物である。



「渋谷金王丸推考」 (新発田市虎丸 渋谷善雄氏 ) 平成11年

一昨年「文芸新発田第4号」に渋谷金王丸の事が載っていた。渋谷金王丸は私達渋谷氏の先祖で有ることを年寄りから聞かされていたので、投稿した渋谷トヨ氏と懇意になり、いかなる理由で書かれたかをお聞きした。四、五年前中央の新聞社で全国の埋もれた史蹟のルポを募集したとき、新発田市内に同姓の昔の武人の墓が有ることを知り、東京渋谷区の金王八幡とのかかわりを写真に添えて投稿したところ入選した。その関係でその後、東京渋谷の区史研究家が訪ねて来られたがその経過を書かれたとの事だった。早速氏所持の渋谷一族の解説書と渋谷区の歴史を書いた本を借用し、私の祖母や古老から聞いた事を参考に、渋谷金王丸が市内菅谷の地に土着し一生を終えたで有ろう大字下石川と、川東地区大字下上三光、上楠川と大字虎丸に住む渋谷一族の現在に至る経過を併せ、考察したことをまとめた。昭和55年8月に上京した時、かねがね渋谷区の地名が、われわれ渋谷氏の発祥の地であり、金王八幡宮の界隈が金王町と云われていた事から、新発田市内下石川の金王丸(通称鬼)の墓と何かしら関連があると推測していたので、初めて東京のど真ん中に先祖発祥の地の金王八幡宮を参拝した時は感無量だった。当日は午後遅くだったので翌日改めて渋谷区の歴史研究家、横川氏と、金王八幡の隣の金王丸の祖父の河崎基家の建立したと伝えられる渋谷東福寺を訪れ、由来や金王八幡との因縁を聞いた。私達の祖先である金王丸は、源義朝の家臣であるから渋谷氏は源氏の系譜であると思っていた処、平氏の流れであると知った。昔は同族骨肉相はみ、又源氏が平氏に追従したり、又その逆もあったのである。
 
  渋谷の系譜を順を追って述べてみる。
垣武天皇の子葛原親王孫高見王會孫高望に至り、初めて平氏を名乗った。高望子五人のうち長子国香の系統は壇ノ浦に亡んだ伊勢平氏と中条町の鳥坂山に住んだ城氏に分流した。第二子の良持の系統は関東に王国を作り親王を名乗り、朝廷に背いたとして同族に殺された天慶の乱の平将門の流れである。第三子は村岡五郎武蔵守良文を名乗り、今の東京都埼玉県一円を支配した。その會孫武基の代に、源義家東国征伐の後三年の役に功労ありとして、武蔵野国高座郡渋谷の庄(現在の東京都山手方面)を賜り、現在の渋谷区の丘陵に館を築き子重家を常駐させたらしい。その後相模国高座渋谷の庄(現在の綾瀬市渋谷)に居を構えたのが渋谷氏の始まりである。重家の長子金王丸は武蔵国谷盛の館に住み渋谷金王丸を名乗った。弟重国は相模国高座郡に住んだ。渋谷トヨ氏の流れは重国の孫の九州薩摩藩国へ移住した系統の一族で平八郎元帥を出した東郷氏は文系である。五十公野方面の渋谷氏は、何かの因縁で近江源氏より来て加治庄の地頭になった佐々木氏(加治氏)より分かれ、五十公野山に居を構えた新発田市の家来となったが新発田氏滅亡後、麓の新保古寺部落に土着し百姓をしたのが始まりといわれている。金王丸の名前の由来は父重家が金剛夜叉明王に祈念し授かった子なので、上下の字を取って金王丸と名付けたと云い、一枚助の豪勇夢双の士であったと云う。長じて源義朝の家来となり、義朝の長子悪源太義平と共に保元の乱にも活躍したのが、平治の乱には平家には敗れて都落ちし尾張国の長田荘司忠致の館に滞留した際、平家方に寝返った長田の家来に義朝が入浴中刺殺され、侍臣の金王丸が主君の仇を討って武蔵の国渋谷の居城に逃げ帰り、その後出家して土佐の坊昌俊(順)と称し主君義朝の菩提を弔っていた。その後義朝の子頼朝が鎌倉に旗上げ、弟の義経、範頼が壇ノ浦に平家を滅亡させ義経が天皇に取り立てられ仕官すると嫉妬した頼朝が、頼朝の御家人となった土佐坊に命じ京都の義経を討ちにやった。そこで歴史上は土佐坊は義経に討たれて一生を終わった事になっているが、実際は土佐坊は主君の子供同士の争いに嫌気がさし、嫌々ながら義経に兄頼朝の命で討ちに来たと名乗り出たので義経は土佐坊の苦しい心中を察し討たずに見逃してやったらしい。それで土佐坊は頼朝の手前関東の渋谷へは帰らず、そのまま姿をくらまし関西から裏日本を転々として滞在し、女を作り子を残し偽装の墓を作っては移り住み、最終的には主君頼朝の異母弟の護念上人が土着創建した越後加治ノ荘菅谷不動尊に身を寄せ、近くの下石川に土着して一生を終わったのでなかろうか。その証拠に下石川の土着地名が「舞台」であり、舞台を作り村人と共に能舞を楽しんで余生を過ごしたと考えられる。又舞台と虎丸の渋谷氏の守本尊が仁王寺中腹の一王子権現であり、上、下三光、上楠川三ヵ村の支流渋谷氏四十戸の守本尊は二王子岳麓(二王子スキー場のある)沢奥にある王子権現であり今も東京都北区にある王子権現の分霊を越後に流れて来たときに山に祀ったと考えられる。また、虎丸渋谷氏の中心にある祠コンマラ(金王丸)様と云い、其処に生えている松を虎王丸の舟繋ぎ松と云う。郷土歴史研究家(大沼儉爾、宮村堅弥氏)によれば、舟の名前でなく金王丸の子の虎王丸が土着したのが字名になり虎丸という様になったとの事である。私の家は菩提寺と共に三回位焼けて三百五十年以前は古い先祖の戒名も分からず、建物も古い物ではないが、鎌倉時代の刀と明治四十年代頃伐り倒した杉の古株が八百年の伝統を物語っている。下石川の金王丸の墓石も家来の松田氏が後年建てた物で、世を忍ぶ為か立派な五輪塔出ではなく供養塔で鬼の墓と云われる位豪傑であった事が、東京の金王八幡の金王丸の御座像と共に偲ばれ、墓前に佇むと先祖の姿が髣髴としてうかんでくる。そのうちに余裕が出来たら県内及び全国の渋谷氏のルーツ、史跡を行脚してみたいのが私の夢である。

中世越後加地荘の澁谷氏と源氏の関係

金王丸の子澁谷虎王丸より四十代  澁谷義雄 記

元  号 西暦        記         事
永治元年 1141 澁谷金王丸、関東平氏系の村岡五郎良文の住んだ武蔵国の子孫澁谷重国の子として、今の東京都渋谷区1丁目(旧金王町)の金王八幡宮の地で生まれ、父重家尊崇する金剛夜叉明王に祈願して授かったので上下の字を取って、金王丸と命名したと云う。平氏の系統ながら長じて源氏の総領義朝の侍臣となる。兄の澁谷重国は相模の国高座郡澁谷荘(今の綾瀬市)に住む。全国の澁谷姓の発祥地となる。
保元元年7月
保元の乱
1156 澁谷金王丸17才の時、崇徳上皇と後白川上皇の承継争いの時、崇徳上皇側に公卿の藤原頼長と武士は源為義(義朝の父)と6人の義朝の弟たちと、平家の平忠正がついた。後白河天皇側は公卿の藤原信西と、武士では源義朝と弟義康長子の義平、叔父の頼政と、平家の平清盛、信兼がつき、金王丸は義朝の侍臣として活躍した。結果は崇徳上皇側が敗れ、後白河天皇は義朝に父為義と5人の弟たちを斬らせた。唯1人弓の名手鎮西八郎為朝だけは伊豆大島へ流罪となった。平家も天皇は清盛に叔父忠正とその子5人を斬らせた。崇徳上皇は讃岐へ流され8年後亡くなられた。
平治元年
 平治の乱
1159 3年後公卿の藤原信西と信頼が対立、武士では平氏と源氏の対立争いとなった。源氏の方は敗れ都落ちして東国へ行く途中、渥美の長田荘司忠致の館に逗留の節、湯浴みの際長田の家来に刺され一生を終わった。主君の着替えをとりに行った隙に義朝を殺された侍臣の金王丸は主君の仇討ち後京へ行き、平清盛の妾となった常磐御前(義朝の妻)に事の仔細を報告の後、生国の渋谷へ行き剃髪出家して土佐防と名乗り主君の菩提を弔っていた。常磐御前は3人の遺児(今若丸、乙若丸、牛若丸)の助命を乞うため清盛の妾となった。平治の乱後近江元治の佐々木氏も東国へ、比叡山で修行中の慈応(義朝の弟)も比叡山を出て東国の流浪の旅に出た。
治承4年  1180 伊豆に流された義朝の三男頼朝は、関東武士の応援で平家追討の旗上げ、澁谷金王丸も頼朝の御家人となり従軍し、頼朝の弟の範頼と平家追討へ、義経(牛若丸)も奥州の平泉(藤原秀衝の庇護を受けた)より駆けつけ追討に参加。
寿永元年 1182 平家一門81代の安徳天皇と共に西海に滅亡(伊勢平氏の正統)
平家討伐の功労により佐々木盛綱は備前の国児島荘(今の倉敷市)と越後国蒲原郡加治荘を頼朝より賜り加治荘に住む。源義経も平家追討の功により天皇に取立てられ検非違使に任命さる。兄頼朝は兄に断りなく天皇に仕官したのに嫉妬して、御家人の澁谷土佐防(金王丸)に命じて京の堀川館へ討ちに行かせた。歴史書上は金王丸は義経に討たれて一生を終わっているが、真実は金王丸は親の義朝の最後を看とった忠臣なので見逃してやったらしい。義朝の兄弟は出家した仙覚、慈応を含め26人の弟と3人の妹があった。義朝の子は男10人娘1人があった。それで金王丸は頼朝の手前もあり、生国の武蔵国へ戻らず姿を眩ます。そして義経同様裏日本へ出て、越中国射水郡小杉邑の翁徳寺へ主君義朝の妻常磐御前(当時仇の平清盛の妾になっていた)より預った義朝の護持佛を委托して一時滞在の後越後国蒲原郡加治荘へ。
文治元年 1185 東国へ流浪して来て加治荘の菅谷へ持参してきた不動明王の御首を安置した。
(菅谷不動尊の開創)
文治4年
金王丸(48才) 
1189 澁谷金王丸(出家して土佐防昌順)も加治荘へ来て主君義朝の弟慈応(後の護念上人)の開創した菅谷不動尊の近くの石川邑(下石川)に土着終生を過ごしたらしい。その証拠に二王子山麓の菅谷、三光、虎丸にその子孫百余戸存在する。(新発田市全体で澁谷姓280余戸)源義経は京都より脱出、金王丸と同様裏日本の安宅ヶ関、鼠ヶ関(山北町と山形県の境)を通って奥州平泉に行くも藤原秀衝(義経庇護の)亡き後孫の泰衝に頼朝は命じ衣川館に義経を襲い討った。義経享年31才木曾義仲(頼朝の従弟)の子義隆も人質として鎌倉に送られ、恋仲の大姫(頼朝の娘)の懇願もむなしく父頼朝に殺される。
建久元年   1190 源頼朝征夷大将軍となり鎌倉幕府創設
虎王丸誕生、10年後虎丸へ移住、虎丸澁谷氏の元祖となる。虎丸澁谷氏と石川澁谷氏の守り本尊は二王子岳中腹の一王子権現であり三光三ヶ邑と蔵光の澁谷氏の守り本尊は三光大平沢頭の王子権現である。慈応上人加治川(坂井川)産の鮭楚引(塩漬け)土産に持参鎌倉にて甥の頼朝に初めて会う。恋仲の義高を殺され鬱病になった大姫の病気平癒祈願の加持祈祷を依頼される。
正治二年  1199 源頼朝死去52才
頼朝の後を継いだ二大将軍頼家廃嫡し二男の実朝を三代将軍にするも、頼家の子公暁に実朝は刺殺され源氏の正統絶える。源氏の系統は肉親相克の家系で、為義、義朝親子、範頼兄弟、頼朝の従弟の木曾義仲も頼朝の命令で義経、範頼軍に襲われ、京都脱出後滋賀粟生津で殺される。三代将軍実朝も兄依頼家の子、公暁に刺されて源氏正統絶えた。北条執権の鎌倉幕府時代となる。
越後での源平の戦い
櫛形山脈(日本一短い)の南端加治山に近江源氏の佐々木氏が據り北端の鳥坂山には平氏系の城氏が據ったが鎌倉の命令で佐々木盛綱に、城小太郎資盛は攻められ城氏は亡んだ。勇婦板額は、資盛の叔母であり、祖父資国の弟宮禅師は乙の乙宝寺の中興の祖である。乙の富岡生まれの今井兼平は木曾義仲の侍臣であり、兼平の妹の巴御前は木曾義仲の妻であり、板額御前と共に下越生まれの勇婦であった。城氏滅亡後捕らえられ鎌倉へ送られ頼朝の部下の妻となった板額御前と、同じく鎌倉へ送られた静御前(義経の妻)と共に鎌倉時代の三大御前として有名である。




日本各地に金王丸伝説があります

東京渋谷区渋谷3丁目に金王八幡神社があります。そこは渋谷金王丸の館跡でした。

 「金王八幡宮略記より」   (私が金王八幡神社を参拝したときに頂きました)
後由緒: 当社は第73代堀河天皇の貫治6年正月15日(紀元1752年・西暦1092年)渋谷氏の祖河崎土佐守基家の創始と言う。高望王の後裔秩父別當武基は源頼信の平忠常追討に大功を立て軍用の八旒を賜り、内日月二旒を秩父妙見山に八幡宮として鎮祭す。武基の子武綱は嫡子重家と共に義家の軍に従い奥州金沢の柵を攻略せる功により、名を河崎土佐守基家と賜り武藏谷盛の庄を与えられた。これ即ち月旗の加護なりと、義家、基家と共に親しくこの地に来り月旗を奉じて八幡宮を勤誠すと。重家の時始めて渋谷の姓を賜る。渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城とし代々氏族の鎮守と崇めた。當社は元渋谷八幡宮と稱したが、金王丸の名声に因み、後に金王八幡宮と稱しせらるに至った。これが渋谷の地名の起こりとも言われ,渋谷城の当時の砦の石も現存しております。渋谷氏は所謂谷盛七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)を領有しておりましたので、八幡通(旧鎌倉街道)青山通り、宮益、道玄坂道、(旧厚木、大山街道)を中心とする、渋谷、青山の總鎮守として崇められてきました。金王丸:金王丸常光は、渋谷平三重家の子で、永治元年八月十五日に生まれました。はじめ、重家に子がなく、夫婦揃って八幡宮に祈願を續ける中、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿るとの靈夢をみて立派な子が生まれたので、明王の上下の二字を戴いて金王丸と名付けたと言う。金王丸17才の時源義朝に従って保元のの乱に参加して大功を建て、麿稱号を賜りました。平治の乱に敗れた義朝は、東國に下る途中尾張國野間の長田忠宗の館に立ち寄ったところ長田の謀反によって敢えなき最後を遂げられました。金王丸は京に上り常磐御前に事の由を報じた後、渋谷に歸って出家し土佐坊昌俊と名乗って義朝の靈を弔っておりました。(平治物語には、金王丸は出家して諸國を行脚義朝の靈を弔ったとあります。)源頼朝との交わりも深く、頼朝挙兵の折り密に渋谷八幡宮に参籠して平家追討を祈願されたということです。頼朝は、鎌倉に幕府を開いた後義経に謀叛の疑をかけ、之を討つよう母常磐御前形見の薬師佛を昌俊に與へて強く頼まれたので、昌俊も遂に固辞し得ず、文治元年十月百騎ばかりを率いて京都に上り同月二十三日夜義経の館に討ち入ったが、初めから義経を討つ考えは更になく、捕らえられて勇将らしい立派な最後を遂げたと言う。金王丸の名は平治物語、近松戯曲などに、又土佐坊昌俊としては源平盛衰記、東鑑、平家物語などに見え、その武勇の程が偲ばれます。毒蛇長刀は長田の館の奮戦に、「鉾先に向かいその刃風に觸るるもの生きて歸る者なし、鰐口は遁るとも毒蛇の口は遁れ難し」と言うより出ずと。渋谷氏の後裔各地と續くが中に、明治の元勲東郷平八郎元帥も渋谷氏の子孫の一人と言うことです。


金王八幡神社


渋谷城の砦の石




その他 渋谷金王丸伝説が有る所です。

●古見堂地蔵
●塩田平の金主(こんのう)の石造五輪塔
●青井谷の金王丸
●長森切通略史
●引佐町の渋川 
 
渋谷金王丸は日本各地を回りその足跡を残していますが複数人存在していたのではとも考えられます。
又新発田から山形へ行って子孫を残したとも言われています。 
今となっては正確な資料もなく本当の事は解りません。



下石川の、傳右衛門(屋号)は金王丸の末えいで傳之丞(我が家)はそこの初めての分家と聞いております。
 新発田市虎丸の渋谷氏は金王丸の子で虎王丸と言われております。
 金王丸と繋がりがある事は光栄に思っています
 当時の事を考えると歴史ロマンを与えてくれますね。

ここまで読んでいただき有難うございました。