飯豊山は、古くから信仰の対象として、崇められていました。何度も飯豊に登るたびにその歴史等
を知りたいと思い、資料集等から抜粋しました。
※ 福島歴史散歩より(新聞地域ニュース)・・・県立博物館 主任学芸員 長島雄一氏より
昨年夏、私は県立博物館の山好きと飯豊連峰に登り、雄大な山岳展望を満喫してきました。この山行
で私達は標高2100mの飯豊本山山頂から山岳信仰にかかわる古銭を採集しました。1984年、地蔵岳
付近の登山道(標高1500m付近)で縄文早期(今から約8千年前)と推定される「鍬形鏃(クワガタゾク)」
と呼ばれる石鏃(矢じり)が一点採集されています。この石鏃が現在、東北地方で最も高い標高地点から
発見された縄文時代の遺物のようです。さて現在、日本最高所の縄文時代の遺物は、深田久弥氏の
「日本百名山」にも数えられる山梨県甲斐駒ヶ岳山頂(標高2966m)で発見された縄文後期の無文土器
です。栃木県男体山八合目瀧尾神社近傍(2250m)、長野県八ヶ岳編笠山(2400m付近)同蓼科山頂
(2350m)からも石鏃が採集されています。登山道もない2000mを軽く越す高山山頂や山腹での縄文
時代遺物の発見は、我々の想像をはるかに越える縄文人の驚異的な行動力を示すものです。飯豊山の
一本の石鏃は、採集地周辺が狩猟場であって、弓矢による狩猟が行われていたことを物語っていると言
えるでしょう。マタギとは直接結びつきませんが、約八千年前のこの石鏃の主を「縄文マタギ」とでも名付
けたいくらいです。福島県でも縄文の遺跡は数多く発見されていますが非常に山奥の遺跡もあります。
飯豊山例のほかにも例えば檜枝村のずっと奥、尾瀬にも近い只見源流域の小沢平遺跡では土器や石鏃
が採集されています。キャンプしながら狩りをした跡でしょうか。それとも「山棲み」の集落でしょうか。
山の歴史といえば修験などの山岳信仰が思い起こされますが、それが始まる以前の山と人との関係は
まだ未解明で、考古学的追求もほとんどなされていないのが現状です。大半を山が占める日本では、
人々は山の恵みに依存し、常に山を意識して生活してきました。特に狩猟・採集を中心としていた
縄文人と山は密接不離の関係だったはずです。そこから山への切実な信仰も生まれていったのでしょう。
新地町三貫地貝塚と鹿狼山、山梨県金生遺跡と八ヶ岳の関係のように、仰ぎ見る秀麗な山容は特に
信仰の対象になったのでしょう。黒曜石・天然アスファルト・翡翠などを中心に平面的な移動や交流は
論じられてきましたが、今後は高度の点にもさらに注目していきたいと思います。
※ 飯豊連峰について......「飯豊山信仰」福島県山都町史資料集 第9集より
飯豊山も以前は会津地方を中心に成人儀礼として、また五穀豊穣を祈願するための白装束姿登拝者
で賑わいをみせた山岳信仰の山でありました。藩政時代 には歴代藩主の厚い保護を受けており、
明治維新以降は神仏分離の波を被りながらも講社組織を拡充し、導者宿、山小屋の経営につとめた
等々の歴史は、先人が我々に残してくれた貴重な財産でもあるわけです。 .....飯豊山は、大勢の人
が登る割には自然が保たれた豊かな山である。その自然の豊かさにおいて、高さと峻厳さと神秘さに
おいて、そして信仰において東北でも名だたる山である。この飯豊山に最も近く、かつ古くから主たる
登山口にあたる山都にとって、飯豊山はいわば町のシンボル的存在にある。........
※ 「飯豊道」五十嵐篤雄氏著書より
飯豊信仰による登拝路は旧会津藩の山都口が表参道で、歴史的には一番古い。飯豊神社の由来に
よると白雉3年(652)すでに知動和尚と役ノ小角との二師が絶頂に達したとあり、後に行基(668〜749)
空海(774〜835)等、 高徳の諸師こもごも登山して護摩を修し、あるいは庵を結んだとある。1200年
以上も前に高僧たちは飯豊山に登っていたことになる。.....
※ 飯豊山講と飯豊登拝 {新発田市史資料第五巻 民族(上)}より
「山容豊かに飯を盛った形に似てあれば飯豊となづけた」という作神としての飯豊山信仰は新発田市
付近は範囲の狭いものであった。講としては上赤谷と豊浦村乗廻にあった。建碑は上赤谷陣場公園内
一、そのほか付近では、乗廻に一基と櫛形山脈568m三角点から稜線沿い北へ約15分のところに
「飯豊山」の石碑が見られるだけのようである。上赤谷の碑は現在二つに折れているが、台石の文字
には、「建立明治26年7月日、世話人内竹村遠藤佐五平 大月村神田二平、古寺村菊池熊太郎
五十公野口藤八之左衛門、長谷川藤太 西塚目村片山重太郎 梶万台村日下部次五六 赤谷村講中」
とあり、さらに「明治15年滝谷村温泉場ヨリ参詣道開、世話人小柴一郎、滝谷村星半三郎、
同山先星半之助」と刻まれている。この碑はもと、不動橋脇のしもの法印のところにあり、飯豊山の
遙拝所となっていた。碑に氏名のある小柴治右衛門は熱心な行者で、洗濯沢から上の道を拓き、72才
までも山を歩いた人である。講は明治33年の上赤谷大火後、いつとはなしになくなっているので、現在、
講の行事については知ることはできないが、登拝が主であったと思われる。飯豊連峰西側登山道は
昭和25年まで北蒲原郡、岩船郡を通じ、わずかにこの赤谷道1本がほそぼそと通っているだけであった。
この赤谷道の発祥は不明である。
湯の平温泉は文久年間(1861〜1863)に羽前の猟師によって発見されたといわれているが、赤谷郷
の人たちが古くからハルギキリに洗濯沢まで入っているところを見ると、或いは赤谷道は近世の頃から
あったのかも知れない。ただ利用者が少ないので、栄枯盛衰がつねに激しかったようである。明治以降
では同15年に参詣道が開かれ、同17年には新潟県衛生課の温泉分析が行われて、このあたりの
信者登拝の最盛期をもたらしたものではないかと思われる。大正3年磐越西線開通により、わずかの
登拝者も鉄道で会津へ廻った。以来昭和2年7月新潟の人平野忠太郎が湯の平温泉を開湯し、再び
登山道を再興するまでは道は荒廃に帰していたのである。昭和2年平野氏の開道、昭和9年以降の
下越山岳会、赤谷村有志の開道、洗濯沢小屋の建設により赤谷道は行者よりも一般登山者の道として
利用されるようになって行った。
○ 大正9年頃の赤谷口登拝 (服装)白装束、草鞋、桐油紙、ゴザ、袖無し、メリヤスシャツ。(食物)
チマキ、(行程)第1夜湯の平泊まり、第二夜はオムロ(本山)泊まり。登山の時期は、毎年二百十日
から登山ということになっていたが、お盆過ぎにでかけたものといわれている。
○ 上赤谷 飯豊山へ白衣を着て参詣に行く途中、風雨に遭ったとき、米を撒くとカラリと晴れる。
飯豊山は米のお山だからボサツ(米のこと)をまいてもさしつかえないといわれている。お田
(水田に似た山上の池塘)には米が撒かれていつのがときどき見られる。また、山中で米粒が
箸についているものを捨てると、行者が引率を拒む。
飯豊山には天狗がいて、ヒの悪い人が行くと霧がおりて前へでられぬとか、いろいろいわれていた。
登山のまえにはもとはギョウヤに籠もり、ベッタク食べて登ったものである。ベッタクは別な家で別鍋
を食べることで、精進をさす。
※ 赤谷村誌抄「赤谷村誌」
飯豊山ハ(高さ六千二百五十尺余)村ノ東方リ 其南西ニ亘ルモノハ大日ヶ岳、烏帽子ヶ岳、蒜場ヶ岳、
ニシテ 東北ニ分ルルモノハ三国ヶ岳、矢掛峰、三笠山、東台山等トス 亦村ノ彼方ニ 西ハ五頭山、
北ハ二王子岳屹立セリ 飯豊ノ山頂ハ四季雪ヲ耐ユルコトナク 此高山ニシテ水池及水田ノ形アリ
村人之ヲ称シテ天狗ノ田ト云フ