※飯豊山信仰に関しての文献を紹介いたします。

掲載文献
梅田 始 (1998) 『新潟県における飯豊山信仰(1)』
       
 「会誌 石仏ふぉーらむ」新潟県石仏の会
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新潟県における飯豊山信仰(一)

山が神々の座するところであるという信仰は世界共通のもののようである。十一月に入ると飯豊連峰の山々は白く雪化粧をする。蒲原平野から、白く輝く雪をいただく飯豊連峰の山々を望見した時、ここは神々の座するところだという気持ちを抱かざるを得ない。 神々の山は侵しがたいほどの荘厳な姿によって風景の核を成すが、その基層では人々の暮らしと深く抜きがたくかかわってきた。人の誕生と死、突然に肉親や隣人に襲い来る病や、村々に猛威をふるう疫病。荒れ狂う風水害や天変地災。あらがう術もないこのような現象に、人々は目に見えぬ人智を超えた偉大な力の存在を意識した。 人々はこの超自然的な力によって大いなる恵みも享受するが、ひとたび猛威を奮えば、畏れひれ伏すばかりであった。本来、わが国では、すべての森羅万象に神が宿るものであり、神籬、磐境に降臨し、巨岩や巨木に依り憑くものとし、山はまさに神そのものと意識されてきた。 飯豊連峰は山形、福島、新潟の三県にまたがり、最高峰の大日岳(2128m)をはじめ飯豊山(2105m)、高山草原の御薦岳(2025m)と北へ連なっている。 今西錦司氏は「飯豊連峰・山と花」の中で、飯豊礼讃として…飯豊はとてつもない大きな山である。日本でいちばん大きな山であるかもしれない。巨象といっても長鯨といっても、形容にならない大きさである。日本アルプスもたしかに長大ではあるが、立山も槍ケ岳も白馬岳も、みなそれぞれに独立した山と見てもよい。しかし飯豊は、払差から大日、三国、地蔵までを引っくるめたものが、飯豊なのである。この総称の飯豊と混同しないために、飯豊山神社が祀られ、一等三角点の設置された、2105メートル峰を呼ぶときには、とくに飯豊本山という慣わしができあがっている……と書いている。

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開山縁起と別当寺

飯豊山信仰は羽黒信仰の一部に属し、それに追従したものとの説があり、信仰形態やその習俗等から見てうなずけるものがある。また、山伏(法印)たちは羽黒山修験と類似したところの多い飯豊山信仰を、その土地に合うように信仰の形態を整えていったのではないだろうか。 飯豊山が信仰の山として開かれだのは、山形県側資料によると、平安時代の後期、永保(1081-1083)の頃、知頴、南海の二憎によってはじめて中津川山道が聞かれたと伝えられているが、福島県側の資料によれば、白雄三(652)年、知道和尚と役小角が飯豊山に登り、山容より飯豊山(伊比天山)と名づけて五王子を祀ったという。 飯豊山神社は白雄三年の草創と言われるが、修験道の元祖と伝承される役小角と関逓づけ、一種の威信をもたせようとしたものであろう。役小角の伝説が弘法大師空海の伝説と同じように各地に広くあることを考えると、そうあるべきものとして伝承されてきたものであろう。 『新編会津風土記(木曽組)』の「年代久遠にして鎮座の初詳ならず……」とあり、開山の年代は不明、「役小角、空海なども登山せしと言う。其後、通塞屡にして山路遂に荒廃せしかば、天正十八(1590)年、蒲生氏郷、蓮華寺(北会津郡北会津村)十三世宥明をして再び路を開かしむ、文禄四(1595)年に至りで其功始めて成と言う。毎年八月別当登山して祭礼を行う」とある。また中新井組の巻に「文禄中(1592−1595)十三世宥明か時、蒲生氏郷の命を受け、飯豊山を中興し、即、此寺を以て別当とせり、慶長六(1601)年氏郷の子秀行、耶麻郡一戸村にて五十万の地を寄付し……」とある。 慶長六年十月に蒲生秀行が五十石の朱印地を与えて保護して以後、加藤氏、松平氏と代々の領主から五十石の社領を寄進されて篤く崇敬されている。会津、置賜が分割された上杉時代に、中津川口岩倉の岩蔵寺が飯豊山神社の別当職として藩の保護を受けるため、種々画策した事件もあったが、いわゆる飯豊信仰の管理に当たった別当寺は、古くは遠方の大沼郡雀林の古刹、法用寺であったが、やがて山麓の一ノ戸、薬師寺に移り、十六世紀以降は領主芦名家の裁定によって大沼郡永井野の蓮華寺がこれに当たり、後一時再び薬師寺に移り、また、上杉時代にも一時的な改変があったものの大体において蓮華寺管下として明治維新を迎えるのであるが、その社領は蒲生期以来終始五十石で変わることがなかった。 このように地元、薬師寺の廃絶後は専任の院坊がなく、別当寺もまた転々と変わり、しかも遠隔の地に在ったことは、この山の修験道的立場を確立、固定する上において非常な痛手であった。なお明治以後の祠祭者も別当寺の場合同様転々としたが、現在の所管は喜多方市、出雲社の宮司、神田氏の兼務となっている。また戦前の社格でいえば明治五年に郷社、同三十一年以降は県社となっている。 新潟県では開山縁起についての伝承はほとんど聞かれない。これは信仰地域が偏在しており、福島県の会津信仰圈と山形県の置賜信仰圈に合まれていたか、その近辺で、登拝路はこの両者の道を登っていたからだと思われる。
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飯豊山への登拝路

山形県側の登拝路は本道といわれる中津川口が下谷地、岩倉を通り大日杉から地蔵岳、切合へと登るものであり、長者原口は小国の長者原から川人、温身平、大ー尾根を通り、宝珠山に登り直接飯豊本山に達する登拝路であった。この二通路が普通の登拝路であったが、小国盆地から才ノ神を通り、上滝、鍋越山、地蔵岳、種蒔山に至る登拝路も江戸時代末期には開通していた。 福島県側の登拝路は会津一ノ木からのもので、川人では行者宿専属の先導(会津では先達を先導と称した)がいて、この先導が部落の行者を集めて毎年決まった宿に案内した。したがって大きな行者宿ほど先導証を貰った先導が多く雇われていた。このほかに、裏参道とも呼ばれた弥平四郎登山口がある。この道は三国岳で川人からの道と合する。弥平四郎からの道は阿賀野川流域と越後の人々に利用された。 新潟県からは日出谷から実川沿いに遡行して、牛首山から大日岳に直接突き上げる実川口があるが行路の難渋さから、かぎられた人々の登拝路であったとおもわれる。いま一つの道は、新発田の東赤谷から湯ノ平温泉を通り、飯豊山へ達する飯豊川(加治川)沿いの登拝路で、湯ノ平温泉からオウインの逆縁、北欧岳、御手洗ノ池、天狗岳と主稜上を飯豊山に達するもので、江戸時代末期に開かれた新しい道である。 いずれの登拝路も最奥の集落を辿り、登拝するもので、白装束姿で講中を組織し団体で参拝するには山奥の集落を拠点にするのが便利であった。そこには行者宿があり、喜捨の橋銭、代垢離の投銭など集落の人々にとっても利益となるものが短期間であるが見込まれていた。現金収入のある荷担ぎ、案内人など婦人、子供まであたったという。

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飯豊参り

山形県から飯豊山への参詣者は道者、行者と呼ばれた。小国長者原からの道者は温身平から大ー尾根に取りつく地点(桧山沢と大又沢の合流点)で水垢離をとって登ったといわれている。 中津川から登る行者は、昔は出発前二十一日間精進をし、その後の七日間は毎日水垢離をとって身を清めた。また、最後の一日だけは火絶と称し、火で煮炊きしたものは食べないというほどのきびしさであった。 登拝は下谷地の羽黒権現に参詣して岩倉の行者宿に泊まる。岩倉には行者宿や坊がいくつかあった。ここで先達を頼んでもよいが多くの山麓の打々では飯豊講をつくっていたので、専属の先達がいて案内したし、遠方の村々からくる場合でも先達がいて万事世話をしてくれた。 岩倉の不動堂に入る前に垢離橋があり、この橋の下で水垢離をとり、岳谷の大杉を過ぎた地点にあった「口留番小屋」で肝煎りより渡された参詣往来の手判を示してから通された。この□留番小屋の設けられるのは旧暦七月から八月だけの期間であった。□留番役は岩倉の伊藤家が藩より一任されていた。伊藤右ェ門の先祖で、慶長五(1600)年、八ツ沼の戦いで討ち死にした伊藤豊後も既に当時会津御口留諸役仰せつけられており、江戸時代中期以降はこの藤右ェ門家と彦左ェ門家とが時々交替してつとめていた。 また武頭沢(葡萄沢)口には、文化年中(1804−1817)に五戸の木地師が住み、ここで飯豊山参詣者に木地物を売り、行者を宿泊させたりしながら生活の糧を得ていたが、この武頭沢には会津に行く道路が通じ、谷地平、赤崩峠を越して会津の五枚沢に下る道と、武頭沢源流付近より峠を越して会津側の小白布沢を下り川人に至る道がある。これらの道は木地屋の通路として、また柳津虚空蔵堂への参詣者の道としても使用するので藩としても厳重に固める必要があったのである。 「八月ニ至而飯豊山参詣之者前々之通、他郷之者ハ不レ及レ申、同村之者たり共先々のことく下書を持参、肝煎藤右ェ門に相渡し大沢ロ通判請取可レ通レ之、本道をおき脇道仕こおいてハ可レ為二曲事事」「飯豊山参詣之者いか様なる用所有レ之といふとも子細不申断、会津領へ通すまじき事、右之通可相守者也。」 これらの山道は単なる飯豊参詣道だけでなく、会津への間道としても重要だったので前記のように厳重に取り締まる必要があった。会津一ノ木部落の大庄屋であった田中新平家には、「当所より米沢領之内岩倉村江越山路何者によらず一切通不間敷候、若かくれ通候者見出候ハバとどめ置可致注進褒美可為取之候、主人有之者欠落候を捕候ハバ其主人より定のごとく札銀可遺者也」 と書かれた元治元(1864)十一月の制札が残っているが、間道としての重要さがしのばれる。武頭沢合流点を過ぎて本流を遡ること四キロメートルで大日杉に達するが、ここには幹の廻り六メートルにも達する老杉が昔はうっそうと繁っており、大日堂があったことからの名称である。ここから懺悔坂の急坂を登ると地蔵菩薩を祀る地蔵岳(1538m)に達する、江戸時代末期に作られた「飯豊山絵図」には地蔵権現と註して二棟の堂が描かれてあるが、現在は堂址が残るのみである。この地蔵岳に登る途中、杉の老木の根元に御田明神が祀られてあるが、ここで参拝の行者が持参した米を播き、万作、取木、漆木の枝をもって田植えの真似事をした。豊作を祈念する神事であって、いたるところの山々に見られる農民の生活と結びついた山岳信仰の一つの現れである。御坪を経て穴堰に下ると、考はこの穴堰の上で、不動滝の下に参拝期間だけ茶屋がかけられたが、昔はここから御沢登りと称して大又沢源流沿いに会津口切合に達した。切合には番小屋だけ現在のような立派な山小屋はなかった。 切合からは会津道と合流してツルノキ権現、姥権現を過ぎると最大の難所である山橋(現在の御秘所)に達するが、ここには昔から鎖があった。やがて前坂を過ぎ、一の王子より四の王子を経て飯豊本山山頂に達するが、ここには石室の米沢御室と会津御室とがあって宿泊できた。山形側、会津側からの参拝者はこの本山をもって終点とし、これより奥の峰々にはあまり行かなかったらしい。西滝、東滝、鍋越山と登って地蔵岳で大日杉からの道と合する登拝路は集落よりの距離が長いために、あまり多くは利用されなかったらしい。 飯豊山神社への登拝路として最も早く開けたと称される会津一ノ戸口は、一ノ木(一ノ戸)に飯豊祠遥拝所がありここで山開きの神事が行われている。 一の鳥居から山頂の本社まで二七ヶ所の祭場(斎場)があり、祠が安置され、神仏を祀る清浄な所と言われて礼拝しながらの登山であった。山頂の飯豊神社から先は「奥」と呼ばれ、篭山、御西岳、大日岳にも祭場が設けられていた。 飯豊山の山開きは、明治時代の後半までは二百十日後とされたが、これは、稲作神としての信仰から稲もおよそ熟するし、秋の収穫期を前にした農閑期でもあったから、この頃、登拝の時期としたものであろう。大正時代に入ると山開きも早くなり、孟蘭盆(陰暦七月十五日)を中心に登拝されるようになって、二百十日頃は登山も終わり山小屋も神社も閉ざされたという。 登拝も多分に慰安的な形になり、農山村の若者にとって孟蘭盆は参詣に好適期となった。 日程と先達が決まると十人前後で組を作り、先達の指示に従って神社や行屋に篭もる。朝夕、水垢離を取って精進し、三日三夜、共に寝起きし、経を誦し、行をして信心を強くした。朝夕の水垢離は近くの川などが利用されたが、その場所には注連を張り清潔にしておいた。罪や災害がおこるのは身体についた穢のためであると考えられ、穢を浄め落とすための水垢離であり、禊ぎの一つであるとされていた。 お篭もりの期間が終わり、出発してからも参詣者が帰宅するまで家族の者と、親類縁者が水垢離を取る慣わしがあり、これを「追垢離」といった。 [代垢離」と呼ばれる習俗もあった。白衣の参話者が一ノ木、川入集落近くを通るのを子供達が見つけると、素早く着物を脱いで川の水を自分の体にかけたり、水の中に入ったりして「御山繁盛、代垢離」と大声でさけぶと、参詣者は紐に銭を通し、一連二連と結びつけておいた一文銭を与えたという。 登拝者の中には代参人といって、登拝に加わることのできなかった村落を代表して参加することもあった。頂上の神社で御札を受けて下山し、各戸に配布した。代参の場合も身内の者が追垢離を取る慣わしとなっていた。 参詣者の服装は白装束が常で、杖、菅笠、雨具として使用するゴザ、脚半に草鞋のいでたちであった。一ノ木登拝口の起点となる御沢は、神霊へ畏敬の念をこめて大白布沢を「御沢」と呼んでいる。杉の大木のある御沢神社は荘厳な雰囲気を持っている。ここで最後の水垢離を取る慣わしがあり、身体を清め、急登の続く長坂へと向かう。長坂四十五里と呼ばれ、下十五里、中十五里、上十五里にそれぞれ祭場(拝所)が設けられ、杉の古木があって周囲のブナ林とは違った感じを与えている。長坂を「木ノ根坂」とも呼び、ブナ、ミズナラなどの太い根が網の目のように登拝路を横切っている。 参詣者が行き交うときの挨拶は決まっていて下山者は常に「御山晴天」で、登る者は「御山繁盛」と言い、雨天のときでも同じであったという。 祭場のある下十五里、中十五里では礼拝をして、持参の米を播くことになっていた。 これを「散米」と言い、邪気を払い清めるための慣わしと信じられていた。笹平を経て横峰を過ぎると地獄となり、久須志神社が鎮座する。地獄山は表参道の重要な宿泊地として利用された。夏季だけの山小屋を設営し、期間以外はたたんでしまうので[掛け小屋」と呼ばれた。 この近くに[血ノ池」と呼ばれる赤褐色の水をたたえた小池がある。参詣者は長坂四十五里で俗界と分かれ、血ノ他の水によって六根(耳根、鼻根、舌根、身根、意根、眠根)は清浄になると考えられていた。 祭場のある所では祝詞をあげる習俗があり一種の抑揚とリズムをつけて歌い上げるのが常であった。最も多く唱えられたものは「綾に、綾に、奇しくたうと、飯豊の山の、神の御前に拝み奉る」と声高に全員で称し、祝詞の前後に二拝三拍の柏手を打つ。また単に「六根清浄」と口々に唱えることも行われていた。祝詞は祭場とは限らず、歩行しながら唱えることもあった。「天つ神、国つ神、祓い給へ浄め給へ」とか「所の鎮守、南無阿弥陀仏」などがあり、祝詞の前か後に「御山繁盛」と声高に唱えたという。 地蔵山と三国岳の間にこの登拝路中、最大の難所、剣ガ峰がある。登山路の両側は岩壁が露出し鉄鎖や鉄梯子があった。現在、鉄梯子はない。空海の護摩壇、天狗ノ橇乗り場などの地名があり威圧的な山容を持っている。 この剣ガ峰は霊気を感じさせるのに十分な岩場であり、このような難場では寛永通宝などの銅貨をまき、散米をして安全を願う慣習があった。三国岳は山形、福島、新潟の境界となっているための命名で、箸ノ王子権現が祀られており箸を奉納する習俗があって、往時は箸が山と積まれていたという。箸を奉納することは魔除けの呪物と考えられ、葬礼の椀飯に箸を立てることや御霊祭に供えるミタマノメに箸を立てるなど、神霊の占めるものとを他と区別するための印としての意味を持つことが多い。本来は「端」の王子の意味であったのだが、箸が神聖なものの標示に使われる習俗と結びついて、このような慣習が行われるようになったと考えられる。 三国岳から飯豊山神社までの信仰形跡を辿ってみると現在は祠も壊滅して往時の面影を偲ぶものは少なくなり、姥地蔵、御秘所などわずかに認められるが、多くは地名のみとなっている。種蒔山には池塘があり、稲荷神社が置かれて往時は注連がしめてあった。この付近からチングルマ、ニッコウキスゲなどの草原が広がり、高山植生となる。ヌマガヤ、カズスゲなどの草原を「オヤマシネ」と呼んだ。シネは稲のことでアラシネ(荒稲)、ニキシネ(和稲)などと使用されるから、オヤマシネは里の稲との対比として呼ばれたものであろう。 草原を「イナゴ・ハラ」と呼び、「蝗原」とする説もあるが、稲子の原であろう。高山草原や湿原を稲や祭祀と関連づけることも多く、苗場山の「苗場」や神の田、天狗の田圃から白山の[御苗代」、八甲田山や尾瀬の「田代平」など各地に見られ、何らかの祭祀との関連で命名されている。種蒔山の山名も文字の通りの意味と思われる。 種蒔山の北で山形県大日杉からの登拝路が合流する。ここを[切合セ」と呼び、掛け小屋があった。現在は二階建ての山小屋となっている。 草履塚は本山を目前とする一峰で、飯豊連峰に中でも景観のすぐれた所である。ここでは参詣者の散米を集めて甘酒を作り、これを振る舞い、杖を貸したという。参詣者はここで新しい草鞋にはき替え、心身を整えて本社に向かうことになっていた。草鞋がうずたかく積まれていたという。参詣者が実際に用いたのはゾウリではなくワラジであったから「わらじ塚」とすべきものを「ぞうり塚」としている。 草履の持つ俗信が多く、俗信を信ずるがために「ぞうり塚」としたものと考えられる。草履は神事、婚礼、葬式などの重要な儀式に要求されることが多い。穢れに対する忌みの観念があり、新しい草履が大地にふれるところに一つの新生力が悪霊を克服する威力を持つと信じられていた。ワラジはワラグツの転訛であり、クツは履物の総称であったことを考えると、ワラジをゾウリと言いかえることに抵抗を感じなかったものであろう。山はここより神聖な境内となる。 草履塚北峰の直下に姥権現があり、姥地蔵が鎮座している。この地蔵は女人禁制のころの山に、羽前の米沢より登拝しか小松のマエと呼ばれる女人が神霊の怒りにふれて、石に化したという伝説がある。 御秘所(オヒソ)は古くから難所中の難所と言い伝えられてきて、参詣者にとっては一大決心のいる岩場となっていた。ここを越す参詣道は上段、下段の二つがあり、岩峰の頂稜を通ることを「上段掛け」と言い、「山橋」と呼ばれる巨岩の上を渡るように登る。「下段掛け」は岩峰の中腹を横切るように通過する 途中に岩が突き出ていて蟹行する必要があるなど危険な岩場とされた。 御秘所を無事通過できる者は品行方正であり、不行跡のある者は神隠しに会うとか、天狗にさらわれるなどの俗信があった。恐ろしくなって通過できない者は一生涯、村八分同然にされるという伝承などもある。秘所は「秘すべき所」の意味で、ヒソカをさし、オヒショと読まず「オヒソ」と言った。死者の霊魂が行くという暗黒の世界をさし、あの世とか冥土を意味し、このような険悪な通路上につけられたものと思われる。ここは先達が若者への人生訓を授ける場でもあった。それは、村落共同体のいっそうの絆を強くするものとなったであろう。  御秘所を後にミサキ(御前)の小屋路を通り、オンマエサカ(御前坂)の急登を続けると一ノ王子、ニノ王子などの高い石垣の祭場の跡を見ながら本社につく。参詣者はこの神社で御札を授かり、絵図などを求めたりする。御西岳や大日岳へ行く者はほとんどなく、奥ノ院大日岳に向かって遥拝するのみで早々と下山を急いだという。  裏参道と呼ばれた弥平四郎登拝口は祓川で最後の水垢離をとり、新長坂から松平峠、大白布沢の岩壁につけられた道を三国岳へと登り、ここで一ノ木からの本道と合流した。 新潟県の東蒲原郡、中蒲原郡、五泉市など会津信仰圈に含まれる地域の参詣者は、福島県の習俗とまったく同じようであった。 昭和二十五年八月に筆者の父が五人の同行者と共に飯豊山に参詣しているが、その記録を読むと登拝路は一の木から川人、御沢、三国岳、種蒔山、飯豊山とあり、下山路は同じ道を三国岳まで下り、ここから裏参道の弥平四郎へと下っている。このような登拝の形態は父たちだけのものか、また、越後の人々の間では普通に行われていたのか父にはきくすべもない。 置賜信仰圈に含まれる岩船郡の人々も信仰習俗は、山形県と同じであったと思われるが私の調査はまだ緒についたばかりである。 江戸時代末期に開発されたという新発田市の赤谷道は、湯ノ平温泉が文久年間(1861―1863)に羽前の猟師によって発見されたといわれているが、赤谷郷の人々が古くから洗濯沢まで「ハハギキリ」に入っているから、もっと以前から開発されていたものかもしれないが、この道の発祥は不明である。この道は利用者が数少ないことから栄枯盛衰が常に激しかったようである。 明治以降では、同十五年に参詣道が開かれ、同十七年には新潟県衛生課の温泉分析が行われて、このあたりの信者登拝の最盛期をもたらしたものではないかと思われる。大正三年の磐越西線の開通により、この道のわずかな登拝者も鉄道で会津へ廻ったと言われる。 大正九年頃の赤谷口からの登拝者は白装束の姿で草鞋、桐油紙、ゴザ、袖無し、メリヤスシャツ、食物にはチマキを持参したという。行程の第一夜は湯ノ平温泉泊まりで、第二夜はオムロ(本山)泊まりであったという。登山の時節は、毎年二百十日から登山ということになっていたが、お盆過ぎにでかけたものといわれている。 飯豊山へ白衣を着て参詣に行く途中、風雨に遭ったとき、米を撒くとカラリと晴れるという。飯豊山は米のお山だからボサツ(米のこと)を撒いてもさしつかえないといわれている。お田(小田に似た山上の池塘)には米が撒かれているのがときどき見られた。また、山中で飯粒がついた箸を捨てると、行者が引率を拒んだという。 飯豊山中には天狗がいて、ヒの悪い人が行くと霧がおりて前へ出られぬとかいろいろいわれていた。登山の前には、昔は行屋に篭もり、ベツタクを食べて登ったものである。ベツタクは別な家で別鍋を食べることで、精進をさした。

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新潟県の飯豊山神社と石碑

 飯豊山信仰は五穀豊穣、家内安全、商売繁昌、身体堅固など現世利益を説くもののほかに、子供達が初山掛けをすることによって成人としての村落共同体の仲間入りをするという「成人儀礼」の意味もあった。しかし、地域的には深く信仰されていても、新潟県には飯豊山神社と称する社は一社もないが、合祀された神社が四社ある。  大山神社、合祀、飯豊山神社、上川村野中 白山神社、合祀、飯豊山神社、上川村小手茂 山神社、合祀、飯豊山神社、上川村牧野 富士神社、合祀、飯豊山神社、上川村屋敷 すべて上川村にある神社であるが、このことは飯豊山信仰が昭和三十年代でもまだ、続いていたことと関連があるのではないだろうか。上川村七名小学校では成人儀礼である飯豊山登山を行う六年生に対しては、学校を体むことを認めていたという。これは、昭和三十七年に同校で教鞭をとっておられた、新潟市在住の二本柳茂氏より聞いた話である。新潟県に限らず福島県、山形県の山麓の村々では登拝してくると一人前の男として認められた。福島県熱塩加納村 には「十六才、お山は掛けるな、御山掛けをしない者は一人前とみるな」という俗信があった。 新潟県東蒲原郡における飯豊山神社という社名については、合祀、合祭がくりかえされて消滅したと思われるので、信仰圏内にある神社の祭神を精査すれば、もっと多くあると思われる。 飯豊山塔の石碑については、岩船郡関川村で四基、北蒲原郡中条町に四基、聖篭町一基、豊浦町一基、新発田市一基、東蒲原郡上川村一基、津川町二基、鹿瀬町八基の二十二基が知られているが、このうちの一基、中条町の櫛形山脈上に建立されているというものについては、調査に登ること三回だがまだ確認が出来ないでいる。おそらく雑木林の薮に倒れてしまっているか、心ない人のいたずらによって山の斜面にでも倒れているのではないだろうか。 北蒲原郡平野郎の中条町、聖篭町、豊浦町に造立されている供養塔はすべての場所が飯豊連峰を遥拝できる場所である。 「山容豊かに飯を盛った形に似てあれば飯豊となづけた」という作神としての飯豊山信仰は、農耕が生産手段の中心となっていた時代においては五穀豊穣をもたらす山として、深く信仰されたものであろう。山は木の源であり、山の神は水田耕作に欠くことのできない木の神ともみられてきた。このことが山業より農耕が主体であった平野郎の村々の信仰と結びついているのである。 同じ山でも時代、場所によって信仰の形は変転している。 例えば、遠く離れた場所から望む「遥拝」から実際に山に登る「登拝」へと空間的変化をたどるのもその一例である。 神仏を信仰することによって現世に利益を求め、現世は不幸であっても来世に幸運をもたらすよう祈念する人々と、山に抱かれて暮らす人々の「神仏」を感じる感覚は別のようである。山は動植物や木、鉱物などの自然の恵みをもたらし、季節と天候によって様相を激しくも雄々しく変える。山はまさに人知の及ばない天界と人の住まう大地とを繋ぐ場であり、「畏敬」と「恩寵」の念を自ずと人に抱かせる場である。そこに生命を得る草木もまた、大地に根を張っては緑葉を天空に仲ばすゆえに、天界との親和感、一体感ともいうべき神秘的で崇高な感覚を授けてくれる生命体ともいえよう。そして、この感覚を抱く時こそ、「神的なもの」さらに「神」を感じる時なのであるのではなかろうか

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神を感じるとき

山頂の朝、雲海が刻々と変化する。スミレ色、セルリアンブルー、コバルト、オレンジ、そのどれでもない色、要するに言葉がない。やがて光がほとばしる。正視に堪えない瞬間だが、これまた無限とも永遠とも、神ともいわれるものを見る一瞬である。光の矢に射し貫かれたようにして突っ立っている。 霧の山頂に薄陽が射している。陽の光が変化する。霧も変化する。そして、眼前に光背を背負った像が現れる。私はたしかに山上で神を視る。手を合わせたりはしないし、祈ったりもしないが、神の存在を感じている。雷鳴のとどろき、稲妻のはしる天候荒ぶる時は、山はその威容を輝かせて迫りくる。身体のあらゆる部分を射抜く両刃の剣のような稲妻のなかに立ちすくむと、たえがたい戦慄を覚えながらも、天と地の間にあって木の葉のごとく打ちふるえる身体が、微力ではあっても大白然の断片として確実に存在することに厳かな至福感さえ味わうのである。 山の信仰では、自然としての風景の背後に「観念としての風景」が隠されている。この「見える自然」と「見えない自然」を重ね合わせた時、山には神が現れる。  さらに、大自然の奇岩や洞窟、滝などに一つひとつ神や仏の名前をつけ、そこに物語を創ってゆく。こうして人間が自然を思想化してゆくことは、人間が大自然の体系のなかに組み込まれることである。それは人間が自己を投影した大自然から、逆に視つめられることになる。神は自然の中にばかりあるのではなく、自分自身の中にもある。人は自分の視野でしかものを視ることができないが、五十一年目の今年の山歩きに飯豊山は含まれているだろう。
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参考文献
「飯豊連峰」『山形県総合学術調査報告書』山形県
「飯豊山の修験道」『東北霊山と修験道』中地茂男 名著出版
「飯豊山信仰」『福島県山都町史資料集』第九集 山都町史編さん委員会
企画展図録『福島の山岳信仰』福島県立博物館
『写真集 飯豊連峰・山と花』藤島玄・小荒井実 誠文堂新光社
「新発田の民俗(上)」『新発田市史資料』第五巻 新発田市史編纂委員会
「山岳信仰資料(三)佐久間淳一 『高志路』 178号
「越後における飯豊山信仰」本望英紀『越後山岳』第9号 日本山岳会越後支部