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中村久子女史


 もう亡くなられた方ですが、ヘレンケラー女史が訪日された折りに、手作りの和風人形をプレゼントした方です。そのとき三越デパートからガラスケースに入った日本人形が送られ、彼女の人形のあまりにみすぼらしさに恥ずかしくなり、持ち帰りたいと懇願したのですが、主催側の係員が、せっかくの機会なのだから是非一緒にプレゼントしましょうと、半ば強引にプレゼントに入れられたのです。

 ヘレンケラーはご存じの通りの三重苦です。物の本質を、指先で触れて触れて触れて感覚で掴むのです。その認識力は健常者の何倍もあるそうです。ガラスケースから出された人形に触れると、表側の美しい十二単の下には何もありません。見えるところだけ重ねられているのです。

 ところが中村さんの人形は、とても丹念に一枚一枚完璧に作られ、重ねて着せられています。帯もひもも本物通りに作られ着せられているのです。もちろん腰に巻く布もつけられていました。糸の縫い目もしっかりとしています。

 ヘレンケラーさんの指先が人形の足下に行ったとき、その足に足袋がはかされていませんでした。それは、単純なミスでした。中村さんは足がないのです。足袋は履けないのですね。普段必要がないからつい人形に足袋をはかせることに気がつかなかったのです。ヘレンケラーさんは、この人形の作者に会いたいと言われ、その繊細な指先で中村さんの頭のてっぺんから、触れていきます。

 実は、中村さんは幼くして脱疽に冒され、両手は肘から先、両足は膝から下を喪いました。その日、足には粗末なアルミニウムの義足をつけていました。その冷たい足に触れたヘレンケラーさんは、中村さんの足下にそのまま崩れ落ち、彼女を抱きしめると、「私を世界の人たちは奇跡の人と言うけれど、あなたこそ、真の奇跡の人です」とおっしゃったそうです。母親のしつけのあまりの厳しさに、恨みこそすれ感謝の気持ちなど抱いたこともなかった彼女が、このとき初めて泣いたそうです。

 それはヘレンケラー女史からほめられて嬉しかった性ではありませんでした。気が付くのが遅すぎたことへの悔し涙でした。感謝の気持ちを伝えられないままに、すでに母が先立っていたからであり、恩返しも出来ないことへの情けなさであったといいます。

 中村さんは京都西陣でも十指に入る仕立て職人として名を知られ、書家としてもその名を高くしておられたのです。両手両足のない幼い少女に、その自立してあまりある技術を身につけさせたのは、健常者以上に厳しく育てた母親だったのでしょう。(s)